日光東照宮のビイスタ考
◆対談者
徳川家康は自ら薬草を
調合する人間だったと
されますが?
◆長谷川
徳川家康は東照大権現
として日光東照宮へと
祀られますが家康自身
を薬師如来の化身とし
て神格化した山王一実
神道を採用して本地仏
として薬師如来日光に
は祀られております。
◆質問者
徳川家康の廟所として
日光東照宮は有名です
近江出身の藤堂高虎が
造営に関わった以上は
その社殿配置は規矩術
つまり宮殿の見栄えを
考慮したビイスタ工法
が採用されているかと
私は考えていますが?
甲良宗広は徳川家康の
作事の重要なる工匠で
あり当代一流の建築家
と言えますが、よもや
東照宮は なみの建築
配置でないと思います。
◆長谷川
藤堂高虎は地縄張つまり
築城土木名手で甲良大工
は当代随一の名工と言え
る事でしょう。大工棟梁
はただ様式的社殿や仏殿
を立てるだけでなく現代
で言うアーテイステック
芸術家的センスの要求が
求められます如何に現地
適合した徳川幕府の威信
を誇示する殿舎を豪壮か
つ流麗な見栄え考慮した
安土桃山様式の建築群を
配列するかにその技量が
問われる仕事だと思う。
◆長谷川
1
は徳川家康を祀る
廟所宝塔の正中腺
2
は祭祀を執行する
本殿拝殿の正中腺
3
は徳川家康宝塔を
表参道から遥拝を
する為の遥拝視腺
4
は枡形と奥社参道
位置を設定の縄張
5
も枡形と奥社参道
位置を設定の縄張
12345を統合した
ビイスタ工法です。
参道の屈曲は
赤線と青腺を
組見合わせた
重複型ビイスタ
工法と言えます。
◆長谷川
参道も含めた道の曲折等
もビイスタ工法を応用し
たものと私は推測します
寺社仏殿伽藍配置などは
極めてその見栄えを熟慮
した構造になっています。
拝殿と本殿を連結させた
建築様式を権現造りと言
いますが日光東照宮の元
は日吉東照宮つまり近江
坂本にある事は良く知ら
れています。日枝山王の
様式を日光にも採用した。
▼日光東照宮社殿配置ビイスタ
▼日光東照宮ウイッキペデイア引用
葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見
たが、翌・元和3年(1617年)に二代将軍
れることとなった[4]。日光では同年4月(4月)
追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔
に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日
に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道
と山王神道のどちらで祀るかで論争となり
祀られることになった。
甲良 宗広(こうら むねひろ、天正2年
(1574年) - 正保3年3月17日(1646年5月2日)
略歴[編集]甲良豊後守
天正2年(1574年)近江犬上郡甲良庄法養寺村
小左衛門尉氏広、祖父は丹羽長秀配下
の名工甲良左衛門尉光広、甲良家は建仁寺流
していた[1]。なお、築城の名手と言われ
た藤堂高虎は法養寺村隣の藤堂村出身で
慶長元年(1596年)には慶長大地震で荒廃した
開府の翌年慶長9年(1604年)に江戸に下り
作事奉行創設に伴い作事方大棟梁となった
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