城郭 長谷川博美 基本記録

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あゆち の万葉 あゆち の城郭  秀吉秀長

2024-11-09 09:35:41 | 民俗学

あゆち の万葉 あゆち の城郭 秀吉と秀長

 

◆事業所様

長谷川先生来季も米原で城

講座をお願いしたいと思い

ます。講座テーマの決定を!

 

◆長谷川

『秀吉秀長豊臣の城 近江の城etc』

にでもしようかなと思っています。

 

◆愛知様

長谷川先生は文献『信長公記』の

解説解題講師としてNHkの名古屋

文化センターで長期活役した先生

米原市内での信長公記も大好評!

◆熱仁様

私の学術の故郷はやはり国立滋賀

大なので滋賀の城講座に行きたい

ですが木曜が仕事で重なり残念!

 

◆和歌山県出身者様

長谷川先生は國學院大學出身です。

愛知県で有名な万葉歌となにかな?

 

◆長谷川

年魚市と書いて あゆち と読む

万葉人にはこの地こそが あゆち

滋賀近江の愛智はえち発音するが

愛知県名古屋の起源地名があゆち

 

 

0271: 桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る

1163: 年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ

 

▼米原市内の中世城郭「新発見」長谷川

▼米原市内の中世城郭「新発見」長谷川

◆質問者

藤吉郎「秀吉」

小一郎「秀長」の兄弟 あゆち

尾張出身と言う事超有名な事!

鳴海と言うまるで潮騒聞こえる

ような城址が愛知に存在した事。

 

◆熱仁様

日本国の城郭は放射腺測量用いて

築城されている事を長谷川先生は

城郭ビイスタ論で既に論述されて

います。この理論は画期的理論!

◆長谷川

享保年間まで日本国の城は

この様に測量されていた事

これを私は城郭ビイスタと

呼称させて頂いております。

あゆち 尾張 名古屋から

飛び出し西遷した織田信長

は安土城を城郭ビイスタで

築城をしております▼安土

◆質問者

脱線した質問を

してすみません。

尾張鳴海城の城郭ビイスタ

を是非もう一度分析下さい。

◆長谷川

A点とB点からビイスタ縄張

をしています。測量術存在。

 

◆長谷川

先ず尾張にはこの様なビイスタ

工法の城が清須城や鳴海城など

に存在した事を前説として必要

▼尾張鳴海城ビイスタ

 

▼尾張清須城ビイスタ

◆長谷川

尾張中村出身の秀吉の城を

考えてみましょう。

◆長谷川
たしかに秀吉の石垣山一夜城
は重複ビイスタ工法の城です。
 
 
◆長谷川
太閤秀吉の文禄慶長の役の
時の秀吉の本陣肥前名護屋
城も重複型ビイスタ工法と
言えます。織豊城郭ですね。

 

◆長谷川

天正豊臣秀吉大坂城も典型的

あゆち出身の人の城の縄張

していると言う事が 城郭

ビイスタ論で理解可能です。

 

◆長谷川

羽柴秀吉は小谷城城主

になるものの天正2年

に内湖「潟」のある

横浜、今浜を長浜へと

地名変更して長浜城を

築城いたしますがこれ

も「あゆち」出身武将

藤吉郎秀吉の長浜築城

あゆち」への回帰の

精神が存在したと思う。

▼長浜城ビイスタ試論

◆長谷川

信長の自筆書簡が秀吉妻の

お寧宛てに残されてますが

信長は自筆で自分を「のふ」

と表現しています。つまり

堅苦しい武家形式書簡でな

い場合は信長でさえ「のふ」

と表現していると言う事で

織田信長も「あゆち」尾張

への憧憬は深層心理として

存在していた事かと思います。

さて「あゆち」「あづち」と

平仮名文字に書いてみると彼

織田信長が「あづち」「安土」

に執心した心理側面が解ると

思います。ウイッキペデイア

によりますと安土城縄張奉行は

羽柴筑前秀吉とされてますが

彼等尾張出身武将は居城をば

大河や湖沼などの交通の流路

に置きたがる傾向にあります。

柴田勝家の北庄城や信長小牧

城や秀吉の大坂、伏見、長浜

などは河川や湖沼に面してる

▼安土城ビイスタ工法

◆長谷川

あゆち とは魚介類が豊かにとれる

豊穣の要地 万葉集では

年魚市と書いて あゆち と読む

万葉人にはこの地こそが あゆち

 

 

ウイッキペデイアより引用

 

年魚市潟(あゆちがた)とは、かつて現在の愛知県名古屋市熱田区から南区にかけての地域に存在した伊勢湾干潟の名称である[1][2]。『万葉集』にも詠まれている歌枕であり[2]、現在の「愛知県」の県名の由来になったとされている[3]

概要

[編集]

古代尾張国南東部(現在の愛知県名古屋市熱田区から南区にかけての地域)は「年魚市(あゆち)」と呼ばれていたとされ、この付近の海岸部が「年魚市潟」であった。「年魚市(あゆち)」の名は、律令制下で愛知郡として用いられ、さらに郡名が県名に継承されて現在の「愛知県」にも引き継がれている。熱田神宮は海と陸の境目に鎮座していた。年魚市潟は広範囲に渡るため、鳴海潟など地域ごとに呼び名がある。

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