城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

美濃 野古墳群見学記 4

2019-05-12 16:56:13 | 旅行
美濃 野古墳群見学記 4
南屋敷西古墳見学
南屋敷西古墳平面図 前方部がより広く開いている。後期大和型前方後円墳の特徴か?

後円部には一部欠損の痕が見られるも、美しい墳丘を観察する事が可能である。

後円部には周壕の痕跡を観察する事が出来る。壕の外には周堤らしき遺構も確認できる。

南屋敷西古墳前方部写真。非常に墳丘が美しい。墳丘のクビレ部分も細く低い。










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美濃国 野古墳群 見学記3

2019-05-12 16:11:11 | 小説
美濃国 野古墳群 見学記3
登越古墳の平面図。真に美しい平面形状を持っている。

登越古墳の前方部写真。前方部は美しく端正に広がっている。

登越古墳の後円部写真。美しく端正な墳丘形状である。右には不動塚古墳の墳丘が見える。

登越古墳の側面写真。田園の穏かな環境の中に古墳が存在する。




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美濃国 野古墳群 見学記2

2019-05-12 09:00:34 | 旅行
美濃国 野古墳群 見学記2
以下は美濃大野町の野古墳群の現地案内版の見取り図である。
織田河内守屋敷跡の案内にも注目頂きたい。所謂平地居館であろう。

 さて下図は不動塚古墳の現地解説版である。前方部が現況では低く短く改変されているが残念である。

しかし見事な迫力のある古墳である。さてさて織田河内守屋敷跡の土塁も累々と残っており、驚くばかりだ。
下の写真の左側は城郭遺跡の土塁である。右の墳丘が第8号墳であ。奥に高く見えるのが先程の不動塚古墳。
ついでに土塁も見学する。古墳と平地居館の双方が楽しめて2倍の楽しさがある。

以下は現地の案内版である。参考にして頂きたい。素晴らしい金メッキの銅鏡が出土している。

以下の写真は大野町役場で頂いたパンフレットである参考にした頂きたい。

以下の写真は私が撮影した7号墳である。



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美濃国 野古墳群 見学記1

2019-05-11 17:08:27 | 旅行
美濃国 野古墳群 見学記1

美濃国の木簡は、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。
青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの
「野」に由来するという説がある。 8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の
藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる。『古事記』には三野と美濃国の両様の表記
がある。 さて古墳好きの、私は美濃の野古墳群とは如何なるは物か?私の心は期待で高揚した。

                                    ↑別名 城山 とよばれる古墳
南北朝期の砦として利用されたか?墳丘の段築は明瞭に思えた。しかし城郭特有の縄張りは現状では見られない。

 2019/5/12 孤独に美濃の野古墳群の見学に出掛けた。先ず大野町の教育委員会を訪ねて
野古墳群のパンフレットを私は頂いた。現地に到着すると美しい前方後円墳がまるで夢の
中に居る様な感覚で連立して出現し、私は驚いた。連立する古墳群の配置はランダムの様に
見えたが各古墳は大和型の驚くべき築造技術や測量技術を用い巧妙に作られていると直感した。
現地を歩くとその古墳がより立体的に壮観と言わざるを得ない様に工夫されて配置されたと
私は感じた。
 そこで私は現地の前方後円墳 登越古墳 南屋敷西古墳 南出口古墳の 古墳の中軸選を
観察して現地案内版に仮想中軸線を書き込んでみる試論を試みた。大和型の古墳とは私達が
考えているような野放図にフリーハンドで配置されたものでなく緻密な光背効果や見栄えを
考慮して充分に考えた上で設計されていると私は思う。
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美濃国 粉糠山古墳見学記

2019-05-08 21:07:31 | 小説
美濃国 小糠山古墳見学記
粉糠山古墳 こぬかやま古墳
 元来幼少期より古墳好きの私にとり美濃国の小糠山古墳は憧れの的である。
前方後方墳と言う墳丘形状は前方後円墳と明らかに異なる墳丘の古墳である。
既に弥生の周溝墓の段階で前方後円型と前方後方型の萌芽が認められ両者は
似て非なる葬祭様式の違いを見せていた事になろうか?

 さて全長100mもの前方後方墳を見学する事は元来古墳好きの私にとり魅惑
の現地見学と言う事になり胸が熱くなるほど感激するものである。

 さて古代の狗奴「くなこく」や「くぬこく」の所在地は健在でも不明である。
中国の史書・魏志倭人伝に記されている国。男子を王とし、狗古智卑狗(くこちひこ)という官がいた
。卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)は対立し、常に交戦状態にあったという。2009年、
名古屋大と愛知県埋蔵文化財センターの研究グループが濃尾平野の遺跡群の土器の年代を測定。女王
・卑弥呼が没したとされる西暦250年前後と重なったとする調査結果を発表した。とあるのだが、、、
(2013-04-18 朝日新聞 朝刊 岐阜全県 1地方)
さて
「美濃粉糠山」の古墳名は、青墓宿の遊女が化粧に使用した粉糠を捨てて積もったことに由来するという。
古代の狗奴「くなこく」や「くぬこく」に興味のある人は
粉糠山 を 無理矢理に 狗奴ケ山 くのがやま と楽しく幻想的に解釈する人もあるかもしれない?
しかし美濃小糠山古墳は築造時期は古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃と推定され、魏志倭人伝の
時代3世紀とは関係ないものだろう。しかし美濃の国には古い古い延喜式神名帳の美濃國厚見郡
に比奈森神社がありこれは「ひなもり」と読むのだが、魏志倭人伝では邪馬台国の地方の副官を
意味しヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、3世紀から4世紀頃の日本の
邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。とされて面白い。

所在地 岐阜県大垣市青墓町1
形状  前方後方墳
規模  墳丘長100m 高さ6m(後方部)
埋葬施設 不明
出土品  乳文鏡片・埴輪片
築造時期 4世紀末-5世紀初頭
史跡 大垣市指定史跡「粉糠山古墳」


粉糠山古墳(こぬかやまこふん)は、岐阜県大垣市青墓町にある古墳。
形状は前方後方墳。不破古墳群を構成する古墳の1つ。大垣市指定史跡に指定。
不破古墳群の盟主的首長墓系譜
造墓基盤
墳形は前方後方形で、前方部を西方に向ける。墳丘は2段築成[。墳丘長は100メートルを測り、
前方後方墳としては東海地方で最大規模になる。墳丘表面では葺石・埴輪が認められているほか、
墳丘周囲には周濠が巡らされている[。主体部の埋葬施設は、削平のため詳らかでない。副葬品は
明治年間出土の乳文鏡片のみが知られる。築造時期は古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃と推定。

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