歴史推理小説 荒神山考
はじめに
この文書は全て小説です。現実とは関係がありません。宜しく御理解下さいませ。

國學院大學で神道を専攻し卒業した歴史探偵、後藤湖南は『延喜式神名帳』の近江国犬上郡の日向神社に強い関心を長年持っていた。
彼は日向と書いて「ヒムカエ」と『延喜式神名帳』に記されている事に長年こだわって固執していた。江戸時代初期に成立した地誌
の『淡海温故禄』の日夏氏の記載についても長年留意し続けた。彼は当然現代の日向神社や中世に活躍した日向神社の神職大岡氏の事
も承知していたが、彼は「ヒムカエ」の語意に強くこだわりつづけて遂に荒神山に登山する事にした。ここは犬上郡に登る太陽の日の出
を観察するには絶好の場所である。つまり古代の太陽暦や文字が無かった時代には日本の各地で太陽を観察して最適な水稲栽培の季節や
次期つまりは稲蒔の時期や刈入の時期を民衆に指示し信頼や信仰を得たのは古代の地方王「地方の君」であろうと考えた。また彼は中世
城郭遺跡に精通しおり日夏山城の縄張図や日夏氏の事も既に昔日から知っていた。ある時後藤湖南は知人の葛籠重蔵と旧近江町「滋賀県
米原市」の延喜式内社の日撫神社や古墳を見学する事にした。日撫「ひなで」なる延喜式神社名は湖南にとり大変魅力的な名称でもあった。
知人の葛籠重蔵は顔戸山から遥か眼下に犬上郡部を見下ろしながら磯山や荒神山を見渡して磯山の倭健「ヤマトタケル」伝承や稲依分王や
犬上氏の伝承を語ってくれた。『新撰姓氏錄』に左京皇別 犬上朝臣 - 出自は謚景行皇の子の日本武尊。右京皇別 建部公 犬上朝臣同祖。
日本武尊の後。和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。和泉国皇別 聟本 -
倭建尊三世孫の大荒田命の後。とある。

さて顔戸山は別名「朝妻山」とも呼ばれていて古歌に見える場所であり琵琶湖上を行く船舶にとり坂田郡の朝妻から天の川を目指す古代の
船の目印や灯台の役目をしていたと湖南は考えていた。日撫「ヒナデ」や山津照「ヤマツテル」は日祭りや火祭りを連想させる言葉である。

ここには阿弥陀火遺跡なる大きな窪地もあり興味をそそる地名でもある近辺には山津照神社なる式内社もあり古代の息長宿祢王の陵墓
とも伝えられる魅力的な古墳も存在する場所である。さて目を伊吹山に転じると倭健「ヤマトタケル」が伊吹の神の災難に遭遇した場所

が見えてなんとも幻想的であった。犬にまつわる話が昔から犬上郡に語られている事は承知していた。湖南は葛籠とともに犬上神社や元来
多賀大社に存在した徳川家光寄進の元多賀大社社殿を犬上郡、八丁方面の白山神社に尋ねた。しかし湖南は宇曽川に気を取られながら肥田
方面に車を走らせた。倭健「ヤマトタケル」東征伝説は臼や稲が登場する穀稲伝説とも言われている。推古天皇22年6月13日(614年7月24日)
最終となる遣隋使として犬上君御田鍬「いぬかみのきみみたすき」は矢田部造(名不明)と共に隋に渡った。翌推古天皇23年(615年)9月
に百済使を伴って帰国した伝えられるが犬上の御田鋤がいずれの場所に当時居住していたかは別として彼の名前が稲作に関する神饌を作る
御田鋤である事に湖南は興味を強くそそった。


またある年滋賀県下第二の規模を誇る荒神山の巨大な大和型の前方後円墳を見学して彼は山上に構築されたその古墳の巨大さに圧倒された。
またかって荒神山東麓にも巨大な前方後円墳が存在した事も気になった。しかし彼は稲の国や日夏の地名の謎を長年考察する機会が無かった。
『淡海温故禄』では日夏氏が関白豊臣秀次に仕官して秀次とともに滅亡したと記されていた。彼はそれよりも滋賀県西浅井の塩津にある
丸山古墳「前方後円墳」や同所の祝山の地名や「日計山」の地名に強く惹かれていた。また長浜市津里の若宮古墳「前方後円墳」や水没
伝説の阿曽津近くにある「前方後円墳」の大谷古墳や西野古墳、小保利古墳群の見学を楽しんだ。また蒲生郡の観音寺山城の東麓にある
滋賀県下第一の規模を誇る瓢箪山古墳も見学したが彼は当地の宮津と言う地名も看過せずに留意した。近江八幡の南津田の八王子古墳など
も熱心に見学していた。大津市の前方後円墳も見学している。湖南は日向神社を重蔵と対話して荒神山に存在したと推定し日夏とは古代
倭国の一つの、地方の鄙「ひな」の地であり日夏は鄙津「ひなつ」つまり地方国家の港湾地名「津」だと仮説を出したが余にも荒唐無稽な
発想でもあると反省自粛していた。しかし宇曽川流域には稲里、稲部、稲枝、などの犬上郡愛知郡を含む地名が残っている。『新撰姓氏錄』
を検索するとと犬上氏の諸氏の先祖は倭健ヤマトタケルの長男の稲依分王を先祖としている。また全国でも注目される遺跡 稲部遺跡の所在地,
は滋賀県彦根市稲部町字イカリから発見されていて湖南は仰天してしまう。冷静な湖南はこの遺跡を邪馬台国に関する国とは考えては
いないが、少なくとも二世紀に百国以上存在したと『魏志倭人伝』に記された倭の百国の一つの可能性を再思考を始めた。しかし日夏に
行っても日向神社の痕跡は全く存在しない。仕方なく日夏の唐崎神社を訪れてみる事にした。神社由緒看板には「本殿は淡海国四ケ所祓所
の一所なり、近江の国犬上郡の日向神社の所在するところなりと伝う。聖武天皇の御宇、天平十三年三月二十日、僧行基、日向山領
所在の荒神山に奥山寺を創立するに當り、社殿を唐崎の地に遷し奉りしを初とす。御小松院の御宇明徳元年六月六日正一位唐崎大明神
の宜下あり、爾来、皇室御崇敬の神として又日夏荘鎮座の神として敬仰す。」と読め、またも驚いた。國學院で学んだ式内社は無境内神社
等の社殿の無い例もあり水運や交通や民俗学も加味しながら延喜式内神社を研究考察する事を湖南は母校國學院大學でで学んでいた。
長い歴史を経る事により元来の神社地も無くなり信仰集団も変遷を遂げると湖南は考えた。ちなみに美濃第一の荘厳な南宮大社さえも
『延喜式神名帳』に平安時代中期の『延喜式神名帳』「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載された名神大社であるが本来の神社名は
南宮大社ではないのだ。神社とは祭祀する奉斎する信仰する人々の流動により歴史の時の流れの中で変化するものと湖南は考えている。
湖南は再び『魏志倭人伝』の一文を読み返した。「至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離」 「対海国に至る。その大官は卑狗「ヒコ」
と曰い、副は卑奴母離「ヒナモリ」と曰う。また次の一文も再読した。魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
「魏略にいわく、その習俗は正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。つまり
当時り倭人は暦を正月を知らなかった事になる。
はじめに
この文書は全て小説です。現実とは関係がありません。宜しく御理解下さいませ。

國學院大學で神道を専攻し卒業した歴史探偵、後藤湖南は『延喜式神名帳』の近江国犬上郡の日向神社に強い関心を長年持っていた。
彼は日向と書いて「ヒムカエ」と『延喜式神名帳』に記されている事に長年こだわって固執していた。江戸時代初期に成立した地誌
の『淡海温故禄』の日夏氏の記載についても長年留意し続けた。彼は当然現代の日向神社や中世に活躍した日向神社の神職大岡氏の事
も承知していたが、彼は「ヒムカエ」の語意に強くこだわりつづけて遂に荒神山に登山する事にした。ここは犬上郡に登る太陽の日の出
を観察するには絶好の場所である。つまり古代の太陽暦や文字が無かった時代には日本の各地で太陽を観察して最適な水稲栽培の季節や
次期つまりは稲蒔の時期や刈入の時期を民衆に指示し信頼や信仰を得たのは古代の地方王「地方の君」であろうと考えた。また彼は中世
城郭遺跡に精通しおり日夏山城の縄張図や日夏氏の事も既に昔日から知っていた。ある時後藤湖南は知人の葛籠重蔵と旧近江町「滋賀県
米原市」の延喜式内社の日撫神社や古墳を見学する事にした。日撫「ひなで」なる延喜式神社名は湖南にとり大変魅力的な名称でもあった。
知人の葛籠重蔵は顔戸山から遥か眼下に犬上郡部を見下ろしながら磯山や荒神山を見渡して磯山の倭健「ヤマトタケル」伝承や稲依分王や
犬上氏の伝承を語ってくれた。『新撰姓氏錄』に左京皇別 犬上朝臣 - 出自は謚景行皇の子の日本武尊。右京皇別 建部公 犬上朝臣同祖。
日本武尊の後。和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。和泉国皇別 聟本 -
倭建尊三世孫の大荒田命の後。とある。

さて顔戸山は別名「朝妻山」とも呼ばれていて古歌に見える場所であり琵琶湖上を行く船舶にとり坂田郡の朝妻から天の川を目指す古代の
船の目印や灯台の役目をしていたと湖南は考えていた。日撫「ヒナデ」や山津照「ヤマツテル」は日祭りや火祭りを連想させる言葉である。

ここには阿弥陀火遺跡なる大きな窪地もあり興味をそそる地名でもある近辺には山津照神社なる式内社もあり古代の息長宿祢王の陵墓
とも伝えられる魅力的な古墳も存在する場所である。さて目を伊吹山に転じると倭健「ヤマトタケル」が伊吹の神の災難に遭遇した場所

が見えてなんとも幻想的であった。犬にまつわる話が昔から犬上郡に語られている事は承知していた。湖南は葛籠とともに犬上神社や元来
多賀大社に存在した徳川家光寄進の元多賀大社社殿を犬上郡、八丁方面の白山神社に尋ねた。しかし湖南は宇曽川に気を取られながら肥田
方面に車を走らせた。倭健「ヤマトタケル」東征伝説は臼や稲が登場する穀稲伝説とも言われている。推古天皇22年6月13日(614年7月24日)
最終となる遣隋使として犬上君御田鍬「いぬかみのきみみたすき」は矢田部造(名不明)と共に隋に渡った。翌推古天皇23年(615年)9月
に百済使を伴って帰国した伝えられるが犬上の御田鋤がいずれの場所に当時居住していたかは別として彼の名前が稲作に関する神饌を作る
御田鋤である事に湖南は興味を強くそそった。


またある年滋賀県下第二の規模を誇る荒神山の巨大な大和型の前方後円墳を見学して彼は山上に構築されたその古墳の巨大さに圧倒された。
またかって荒神山東麓にも巨大な前方後円墳が存在した事も気になった。しかし彼は稲の国や日夏の地名の謎を長年考察する機会が無かった。
『淡海温故禄』では日夏氏が関白豊臣秀次に仕官して秀次とともに滅亡したと記されていた。彼はそれよりも滋賀県西浅井の塩津にある
丸山古墳「前方後円墳」や同所の祝山の地名や「日計山」の地名に強く惹かれていた。また長浜市津里の若宮古墳「前方後円墳」や水没
伝説の阿曽津近くにある「前方後円墳」の大谷古墳や西野古墳、小保利古墳群の見学を楽しんだ。また蒲生郡の観音寺山城の東麓にある
滋賀県下第一の規模を誇る瓢箪山古墳も見学したが彼は当地の宮津と言う地名も看過せずに留意した。近江八幡の南津田の八王子古墳など
も熱心に見学していた。大津市の前方後円墳も見学している。湖南は日向神社を重蔵と対話して荒神山に存在したと推定し日夏とは古代
倭国の一つの、地方の鄙「ひな」の地であり日夏は鄙津「ひなつ」つまり地方国家の港湾地名「津」だと仮説を出したが余にも荒唐無稽な
発想でもあると反省自粛していた。しかし宇曽川流域には稲里、稲部、稲枝、などの犬上郡愛知郡を含む地名が残っている。『新撰姓氏錄』
を検索するとと犬上氏の諸氏の先祖は倭健ヤマトタケルの長男の稲依分王を先祖としている。また全国でも注目される遺跡 稲部遺跡の所在地,
は滋賀県彦根市稲部町字イカリから発見されていて湖南は仰天してしまう。冷静な湖南はこの遺跡を邪馬台国に関する国とは考えては
いないが、少なくとも二世紀に百国以上存在したと『魏志倭人伝』に記された倭の百国の一つの可能性を再思考を始めた。しかし日夏に
行っても日向神社の痕跡は全く存在しない。仕方なく日夏の唐崎神社を訪れてみる事にした。神社由緒看板には「本殿は淡海国四ケ所祓所
の一所なり、近江の国犬上郡の日向神社の所在するところなりと伝う。聖武天皇の御宇、天平十三年三月二十日、僧行基、日向山領
所在の荒神山に奥山寺を創立するに當り、社殿を唐崎の地に遷し奉りしを初とす。御小松院の御宇明徳元年六月六日正一位唐崎大明神
の宜下あり、爾来、皇室御崇敬の神として又日夏荘鎮座の神として敬仰す。」と読め、またも驚いた。國學院で学んだ式内社は無境内神社
等の社殿の無い例もあり水運や交通や民俗学も加味しながら延喜式内神社を研究考察する事を湖南は母校國學院大學でで学んでいた。
長い歴史を経る事により元来の神社地も無くなり信仰集団も変遷を遂げると湖南は考えた。ちなみに美濃第一の荘厳な南宮大社さえも
『延喜式神名帳』に平安時代中期の『延喜式神名帳』「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載された名神大社であるが本来の神社名は
南宮大社ではないのだ。神社とは祭祀する奉斎する信仰する人々の流動により歴史の時の流れの中で変化するものと湖南は考えている。
湖南は再び『魏志倭人伝』の一文を読み返した。「至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離」 「対海国に至る。その大官は卑狗「ヒコ」
と曰い、副は卑奴母離「ヒナモリ」と曰う。また次の一文も再読した。魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
「魏略にいわく、その習俗は正月(陰暦)や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。つまり
当時り倭人は暦を正月を知らなかった事になる。