日本国蒼然!城郭ビイスタ論
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆備前国 宇喜多家
天正年間、羽柴秀吉は備前の宇喜多直家①に
主君たる織田信長への稟議や承諾を経ずして和
睦提携を結んだ秀吉は事後報告すべく信長の居
城安土城へ参上信長の叱責を受ける事件が『信
長公記』に②記録されている。中国方面での対
毛利策戦で秀吉の与力、協力者として備前宇喜
多氏が信長傘下に加わる事の意義は当時の羽柴
秀吉の中国方面対毛利戦進捗に備えた戦略とし
して備前宇喜多氏の存在は不可欠な問題であっ
た事。その後宇喜多直家は病死③し遺児の若
き子息宇喜多秀家④を後継者とした、八郎秀家
の母⑤を秀吉の側室として人質として収監した
たされるが史実かは不確実で宇喜多氏と秀吉
との同盟提唱関係は縁戚的な政策だけに限らず
羽柴秀吉が城郭普請や築城面で宇喜多氏の当時
の拠点備前岡山城の築城技術指導や築城技能集
団の派遣の可能性支援を実施した可能性を秀吉
の天正大坂城図⑥と両城縄張比較研究考察を試
みてみたいと思う。
◆本論で述べる縄張の定義と意味
本論では従来の城郭縄張では定石として語られ
てきた城郭の導入路や虎口や横矢や曲輪の配置に
構造に拘束されない城郭形状の設計デサインの
基本構成を縄張として捉えて行く試論を展開して
新しい城の分析手法の地平線としての考察を加え
て行きたい。現代の設計用語で言うならば、放射
状基準線、放射状グリッドと呼ばれるものに相当
する集結測量起点や放射状測量方法に主眼を照射
したい。これは現代平板測量でも通常に使われる。
◆天正安土城 放射線状重複縄張技巧の一例
本論に入る前に、天正4年期に築城された織田
信長の居城に存在する上記縄張手法⑦を紹介し
著者の提唱する縄張技巧の天正織豊政権の築城
縄張の概念を本論の予備知識として是非とも紹介
しておきたい。下図は安土城の伝菅家邸跡(俗称)
八角平及び一ノ坪と呼ばれる腰郭に相当する実測
図であるが中心点Aから内郭1と外郭2、内郭3と
外郭4、内郭5と外郭6、内郭7と外郭8の石垣線縄
張は放射A点を起点として内郭点と外郭点の石垣
線を意図的に放射状に設計して城郭を構築してい
る現実を読み取る事が可能で、天正4年以降築造
され続けた安土城織田政権の城郭縄張の一技巧た
るべき多角形放射線状測量工法を読み取とれる。
◆天正大坂城図面⑥の放射状縄張を分析
上図は城大工中居家に伝わる大坂城本丸を中心とした
当該絵図にある如く、地下から石垣が検出されて図面
の正確さには定評があると言われている。秀吉築く所
の天正大坂城図は本丸の周囲に三重の石垣が巡らされ
ており中井家図には上の段、中の段、下の段の文字が
見える。各部の横矢や櫓台糖の縄張りは城郭中心部か
ら城郭の形状を形成する石垣の要所要所を放射状に
経由している事が判明する。これは城郭中央部から
かって放射状に測量し石垣縄張を設定した証左であ
ろう。
◆秀吉の天正10年天王山城(山崎山城のビイスタ工法)
秀吉が山崎合戦で明智光秀を破り織田信長の覇業を
継承すべく築城した城として山崎山城が知られてい
る。新聞報道⑦による赤色測量図を観察著者の述べ
るところの放射線測量縄張ビイスタ工法が複数箇所
で観察する事が可能である。掛線挿入長谷川博美。
◆備前岡山城中心部の石垣縄張の考察
先ずどの部位が天正期の石垣縄張かは限定できない
が本丸を中心とする部位に放射状縄張が存在するの
か下記岡山城図⑧を検討してみる事にしたいが原図
段階では天正期の岡山城の城郭測量の中心点は識別
は不可能である。
しかし城郭中芯部を求める事は天正安土城や天正大坂城
の図面の如くその放射線測量縄張の存在を分析推定する
事は不可能ではないだろう。
◆安土城天主の放射状縄張「長谷川博美掛線挿入」
城郭とは自然地形に束縛されながらも自然地形
を何か一定の法則を用いて設計設定されている
事案を従来の城郭研究経緯からは戦前戦後とも
放射線状測量による縄張論を述べる研究家学者
皆無である。つまり自然地形と言う文字の呪縛
拘束に捉われる事により研究家学者は現代に於
ける平板測量と同じ理論による城郭縄張構造が
存在する事を指摘しなかった事にある。著者は
安土城には放射状縄張測量が存在する事を常時
唱え続けたが安土城の放射状縄張ビイスタ工法
が存在する事を誰一人として気づかない現象も
実際に発生している。これは城郭縄張とはその
形状設計の相違工夫こそが城郭の縄張の本質と
捉えられてきた傾向が大きく影響している事だ。
▼安土城ビイスタ工法図⑨なおビイスタ工法に
ついての動画は以下の動画収録を参考に願う。
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◆長谷川
私が突拍子もない奇説を唱える研究や夢想や幻想
を語る研究家ではなく現実の城郭遺構の観察を基
に解説する現実的現場主義的遺跡解説者という事
で滋賀県外から訪れる人々や滋賀県内でも城自体
を「おまつり/フエスティバル/祭礼/町興」等には
関係しない城郭遺跡本体に強い興味を示す知性派
の人から城址見学学習への参加と言う意義で支持
を得ている様に思える。先ず現代人は城郭の測量
を平板測量を日常的に用いながらも測量技師達は
遺跡を計測した形状に能動的に機械的に作業して
計測された遺跡の形状を学際的分析しようとする
意志は極めて希薄と言える。先ず江戸時代に於い
ても城外から城郭を複数測量起点を用いて放射線
状に測量していた根本や城郭測量の系譜を先ずは
認知認識しておく事が肝要であろう。その様な意
味で享保18年の『量地測量指南』は城郭測量系譜
を知る上で貴重な資料と言える資料であ。
◆七番線には局地的に放射状線が交わる様子も表現
されているが安土城においても局部に放射状縄張を
見い出す事ができる。享保18年の城の測量方法と
は古来より城職人や築城者に伝承された城縄張技術
の伝承や系譜や伝統文化の流れを汲むものであろうる
◆安土城の墨書の注意注目点!
享保18年の『量地測量指南』には九番目の測量線が
認められる。建築では先ず最初に立てる柱の事をイ
の一番と言う記号を用いる。さて安土城に九番目の
測量地点を示す痕跡が過去に実際に発見されている
本論城郭測量線の九番の線を意味するものであろう。
その墨書とは「惟住内九」の墨書文字で
ある。安土城が平板測量を用いて放射状
に惟住は安土城普請奉行の丹羽長秀の意
で内は「内衆」つまり丹羽氏の築城従事
者の味で九番線とは本論の根幹であるも
城郭放射状測量「ビイスタ工法」の存在
が認識される。
▲註13
さて岡山城の放射線測量の痕跡を著者が
模索すると複数の放射線測量の痕跡の痕
を読み取る事も可能である。内郭から外
郭へと関連づけて城郭を縄張している事
が理解可能である。
◆岡山城の局部的放射設計の考察
岡山城では本丸不明門内側の石段が並行線
を用いて設計されていない。石段の右が広く
左が狭く一見不合理に構築されている。この
事案をアバウトに山城の自然地形に従ったと
結果の普請工事と解釈される場合が多かった
がAの測量起点からBの不明門Cの多聞とその
平面設計は放射状設定が潜在する事を洞察し
看破したい。
◆放射状縄張設計の存在や潜在と洞察
それは安土城の櫓台石垣のA、Bが、手前が狭く、奥が
広く設定している事を常に念頭に入れて城郭遺跡測量
図を一般城址見学者もが図面を観察する必要があろう。
また安土城には多数の放射線測量の痕跡を見いだせる。
◆天下平定を標榜して関白秀吉として小田原石垣山城図⑩
◆天下人太閤秀吉の城 肥前名護屋城のビイスタ工法⑪
文禄慶長の役における秀吉の本営城郭=肥前名護屋城
項註
- 宇喜多 直家(うきた なおいえ)は戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる、円融院。
- 『信長公記』天正七年(1579年)9月
- 天正9年(1581年)2月14日直家は岡山城で病死
- 元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称八郎を称す。 天正9年(1581年)、父・直家が病死、家督を継ぐ天正10年(1582年)宇喜多氏が当時従属していた織田信長により、本領を安堵された。
- 円融院 (えんゆういん、 天文 18年( 1549年 ) -
没年不詳)は、 日本 の 戦国時代 の女性。 三浦桃寿丸
・ 宇喜多秀家 ・ 容光院 ( 吉川広家 室)らの母。
三浦貞勝 、 宇喜多直家 に嫁ぎ、一説に 豊臣秀吉 の
側室的な存在だったともいうが、定かではない。 - 城郭大工中井家伝承の豊臣氏大坂城絵図
- 京都新聞掲載 大山崎町教育委員会作成 赤色測量図
- 滋賀県教育委員会安土城測量図に長谷川加筆図掛線挿入
- 岡山城本丸のつくり より引用 長谷川掛線挿入
- 安土城主要部要図「滋賀県教育委員会作図」著者掛線挿入
- 長谷川博美 小田原石垣山城略測図 豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。
- 佐賀県教育委員会肥前名護屋城測量図に長谷川が掛線挿入
- 昭和53年小学館『探訪日本の城/別巻/築城の歴史』朽木史朗氏