伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

もういくつ寝ると・・

2020年12月29日 | 四季
 我が家特性の門松づくりといっても、何も特別な仕様があるわけではない。よく市中で見る、先をとがらした竹を松の葉で囲み、縁起物を飾って足元を稲わらで囲った門松と違い、簡易的に松の枝等を杭にくくり付け、玄関前に飾る門松を飾ることがある。

 以前、ネットで見つけたミニチュア門松を作ったことがあるが、昨今はこれをやめて、杭に松の枝だけでは寂しいので、手近に手に入る材料で飾って門松の代わりにする。

 門松の他に、縁起物のサカキもとってこなければならない。

 まず、門松の材料は、松、竹、庭先に勝手に増えているナンテン。普通、ナンテンは使わないのだろうが、赤い実と時折混じる赤い葉っぱがアクセントになるし、神様は先端が尖ったところに降りるのだというから、葉っぱ細くとがっているナンテンは神様の好みだろうと勝手に解釈して、ナンテンも使う。

 ナンテンをとろうとすると、何の手入れもしていないため、いろいろなツタ植物が絡みついていて、頭を押さえつけるように繁茂している。つた植物の葉っぱは落ちてはいるが、このままでナンテンが可哀そう。採取の前に、まずはツタの除去から始める。

 これがなかなか大変。剪定ばさみでジョキジョキとツタを裁断しながら、少しづつナンテンからはがしていく。作業を繰り返しツタの根本にたどり着くと、太く育った根が、四方八方に根を伸ばし、ツタも這わせている。できるだけその根を引っこ抜くが、完全に除去することは難しそう。今後のナンテンのメンテンナンスが大切ということだろう。

 ついでにナンテン林の中に生えている笹も刈り取る。以前から、このナンテン林(大袈裟だけど)がもっさりと繁茂して藪のように見え気になっていた。その原因が、1つはツタ、もう1つがこの笹だ。きれいに刈り取ると、ずいぶんナンテン林も明るく、風通しが良くなった感がある。この状態をキープしたいものだ。

 さて、ナンテンを採取するが、今年はほとんど実がなっていない。わずかに1つだけ実がついた1枝、4つの実が残った1枝、実のある枝は2枝確保したが寂しい。裏年で実がつかなかったのか、うっそうとした息苦しい藪になったため実が付かなかったのか、鳥がついばんでいったのか。いずれにしても実がないので仕方がない。

 刈り取った笹・・これは竹の代わりに使ってしまおう。尖った葉っぱに加え笹の幹を尖らせておけば、神様も降りてきやすいだろう。ただ、笹の幹は細いので、神様が見つけてくれるのか心配は残るが・・。

 問題は松とサカキだ。庭に赤松があるが、この若枝は、松の姿を整えるためにすでに剪定済み。枝を切るわけにはいかない。サカキは畑に自生するが、メスの木らしく、黒っぽい実がたくさんついている。小鳥は喜んで餌にしているようだが、自宅の神棚にこれを飾ると、落ちた実がつぶれて、その場所を紫色に汚してしまい、好ましくない。

 山に入るしかないようだ。
 松とサカキを探して山に入る。サカキはそこここにあるが、松はなかなか見つからない。松枯れでほとんどの木が枯れ倒木が散乱している。山林を歩き回った。

 松はなかなかないが、ユニークな情景が心を和ませてくれた。

 この木は何というのだろう。すべすべの灰色の肌だが、結構苦労して育ったようだ。深いしわを刻んで、しかも二股に分裂まで。



 そのすべすべの肌はキャンバスとしてもすぐれている。サンゴのような絵が描いてある。



 ツタ植物でも育った跡だろうか。

 御用だ。



 御用取りに縄をかけられた木もあった。この木はドングリがなる木なので、ナラ類、しかも大木だ。

 縄の正体はツタ植物。高い木を這い上り、見事に横にグルグルと縄を巻いて大木を召し捕った。その努力には感服する。

 そして、見事な造形を見つけた。

 

 見た瞬間に「バベルの塔」とひらめいた。誰かが書いた有名な油絵があるが、この木の根・・おそらく松の根・・がその絵を連想させたのだ。

 これらの造詣に癒されながら松を探し、やっと見つけて葉っぱのついた枝をいただく。松の葉も先が尖っている・・というより針その物。神様が好む造詣だ。

 こうして材料はそろい、適当にあしらって縄で縛り上げ、我が家の門松が完成した。

 葉っぱがとがったナンテンに笹、そして松、笹の幹も先端を尖らせて添えておいた。尖ったものだらけのなので、さぞやたくさんの神様が降りてくれるのではないだろうか。

 神様はどうして尖ったところが好きなのだろう。そこで思い出すのが雷だ。雷は先が尖った高い所に落ちやすい。避雷針はその性質を利用して、雷から建造物等を守ろうとするものだ。針の字が付くように、その先端は細く、雷が落ちやすい構造となっている。

 雷が落ちやすい尖りを持つ植物、そして門松に使われるわら。この二つから連想されるのは、豊穣への祈りだ。雷が落ちるということは、雨が降るということだろう。乾いた大地を潤し、作物の生育を助けてくれる。神様は雷に乗ってくると、どこかで読んだ記憶があるのだが、雷に乗った神様が雨をもたらし、人々を助けてくれる。その神様への感謝が稲わらに込められているのだろう・・そんなふうに思う。

 そう考えると、適当に作った門松とは言えない。

 尖ったものを一生懸命探して作りましたので、神様どうか新年の幸をお恵み下さい。心を込めてお願いしておこう。

 門松を作った今日、3日連続のハロ(日暈)の出現だ。午前10時頃に気が付いた。



 巻層雲が空を覆い、ハロが見えやすい空だったようだ。午後1時頃、まだ見えていた。

 日輪は太陽のことを言う。初日の出は縁起物だが、太陽は恵みをもたらすので基本的に縁起が良いものだと思う。その太陽にかかる暈(ハロ)・・見ようによっては後光じゃないか。後光と言えば、神様とか仏様。これも縁起が良い。

 後光が射した太陽が現れた日に作った門松。これはよっぽど良いことが起きそうだ・・。

 勝手に話を膨らませて、出来上がった門松を喜びたい。



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