雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

サッカーと私

2014年05月02日 | ポエム

 サッカーと私


 自ら身体を動かしてスポーツをすることは個人競技でもチーム競技でも私はほとんど経験がない。それでも高校までは体育の授業でいろんな競技を経験したが、卒業後にスポーツを楽しんだのは、アイススケートとテニス、そしてゴルフくらいだ。スケートは数回すべっただけ。テニスも結婚後に家人との付き合いで始めたが長男が生まれ歩き始めた頃にやめた。ゴルフにいたっては、さんざん打ちっぱなしで練習を積みながら、たった一度18コースをラウンドしただけで何か満足してぷっつりしなくなった。
 だから私のスポーツの楽しみと言ったら専ら観戦すること。若い頃はプロ野球のテレビ中継を毎日のように視聴していた。大相撲も枡席で九州場所を数回見た位好きでテレビ中継も見続けた。ところがプロ野球は贔屓のジャイアンツのフロントのやり方に嫌気が差して応援をしなくなったらテレビ中継も見なくなってしまった。大相撲も若貴以後はどうも好きな相撲取りが出てこず中継を見なくなったら興味も薄れてしまった。
 今現在の私がわくわくして観戦するのは、まず第1に母校が出場する試合の高校野球。第2は男女を問わずサッカーの日本チームの試合。第3はオリンピックを頂点とする国際試合での日本選手がプレーする各種の個人や団体競技だ。
 第1位の母校の高校野球と第3位のオリンピックにつては、ブログで数度書いたことがあるので、今回はブラジルW杯も近づいたことだし、私とサッカーについて書いてみたいと思う。
 と言ってもはじめに書いたように、私はサッカーボールを蹴って遊んだこともほとんど無く(ちなみに私は小さい頃野球をして遊んだ記憶もほとんど無い)、唯一高校の授業でシュートを1本放った思い出があるだけだ。であるから「サッカーと私」とは、サッカー観戦のことである。
 まず私がサッカーを認識するのは1968年のメキシコオリンピックでの日本チームの銅メダルだ。そしてその時に活躍した日本のエース、釜本選手が熊本で試合をするというので、実業団チーム同士の日本リーグの試合だったと思うが叔父さんと一緒に熊本市内の水前寺競技場まで観戦に行った。次の記憶は1972年。高校3年生の冬、母校のチームが全国高校サッカー選手権の熊本県予選の決勝まで勝ち進み、決勝戦の応援にやはり水前寺競技場に行った思い出がある。そして我が母校は確かPK戦で相手を破り全国大会に出場した。全国大会では1回戦で敗退したがラジオで出場している級友を応援した。
 その後のサッカーとの関わりは、1990年代になって長男が地元のYMCAのサッカークラブに入り、サッカーを始めてからになる。サッカーと言っても小学校低学年の頃までは、「ボール蹴り遊び」みたいな感じだった。長男は高学年になって小学校のチームに入りキーパーをするようになった。小学生レベルの試合だが応援しているとそれなりに面白かった。ほぼ同時期に、前述のようにプロ野球に興味が薄れ、反作用のようにサッカーに対する興味が募ってきた。そして1993年のJリーグ開幕。私と長男は熊本を準フランチィズとした横浜フリューゲルスの応援に夢中になる。と、前後してサッカーの日本チームの国際試合の度に力を込めて応援をするようになった。
 長男は中学生になると、その頃まだめずらしかったサッカーのクラブチームに入り、週2回は夕方から練習。日曜は遠征しての練習試合という生活を3年間続けた。私か家人が車で送迎をし、日曜は丸1日長男のサッカーで時間が流れた。毎週熊本県内あちこちの学校や地域のグランドを巡り、県代表となって佐世保で開催された九州大会に行ったこともある。選手の父兄の中には、サッカーに詳しい人がいて、練習試合を見ながら何も知らない私に戦術や試合の流れなど、サッカーのいろんなことを解説してくれた。
 高校の授業での私の生涯唯一のシュートは、味方の選手がびっくりして蹴り出してしまった。その選手は味方から非難されていたから蹴らなければ得点した可能性が高かった。結局私のサッカー人生は生涯無得点である。
(2014.5.2)

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