日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

中矢伸一氏著 正釈 日月神示 「日本人は五種類に分けられる」

2009-01-04 14:28:17 | 日月神示の研究
 中矢伸一氏は著書である「正釈 日月神示」の中で、このように言われています。

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 だが、人によって手応えがまったく違うのには時々驚かされる。宗教などとはそれまで全然無縁であった人でも、日月神示に出会ったら何の抵抗もなくスーッと「神の道」に入れたという人もいる。また、何をいくら言っても、サッパリ埒があかない人もある。いやむしろ、そうした人の方が世の大半を占めていると言ってよいだろう。
 問題意識も何も持たず、スポーツに浮かれ、レジャーやグルメに時間を費やすことに忙しい人たちというのはたいてい、日月神示は勿論のこと、拙著も理解出来ない。
 面白いものである。何故ならわれわれは、スポーツにもレジャーにもグルメにも、まったく興味がないのだから。
 同じ日本人であっても、どうしてこう価値観が違うのだろうか---と思う時がよくある。おそらく、相手にとってもこちらは単なる"変わりもの"と映ることであろう。
 一連の著書においてユダヤ、フリーメーソン謀略説を展開し、日本人に警鐘を打ち鳴らしておられる「ヤコブ・モルガン」氏は、現在の日本人を思想的に五種類に類別している。同氏の論点は明確に「反ユダヤ」であり、ここのところには補足的説明を要するが、これが非常に興味深い(図参照)。

 同氏によれば、「現在の日本人には五種類の種族が存在する。大きく分けて、日本人を愛し、日本精神と日本国家の繁栄を願う『民族派』と、国際ユダヤの軍門に下り、ユダヤの膝下で生きのびることだけを考える『国際派』、そして大多数の『無関心派』である。図はこうした日本人の思想的判別図である。この図で見る限り、日本の国家中枢は『国際派』で占有されている。90パーセントを占める『無関心派』は、精神的にすでに家畜化されている」(『最後の強敵日本を撃て』35ぺージ)
とのことである。

「ユダヤ」という表現はともかく、こうした分類の仕方には私も同意するところが大きい。同氏は「無関心派」が九割を占めていると述べているが、その数字は、日本国内に住んでいる者として、ほぼ的を射ていると思う。
 ということは、「国際派」「民族派」は合わせて一割ほどしかいないわけである。さらに、今は「国際派」の時勢であるから、「民族派」は極めて少数となってしまう。この図で言えば、われわれは「民族派」の中の「改革派」にあたる。「原理派」は、完全に右翼である。

「ヤコブ・モルガン」氏が、日本を立て直す最後の望みとして大いに期待をかけているのが、われわれ「改革派」なのである。


『日本国民の大別』(ヤコブ・モルガン氏の分類)

(1)民族派
●原理派:  選民意識、日本精神美化、天皇崇拝、(反米、反ユダヤ、反西洋、反アジア)
●改革派:  現状憂慮、民衆啓発、日本精神復活、親アジア、真の国際化

(2)国際派
●協調派:  国際協調、アメリカ礼賛、西洋崇拝、日本精神軽視、新世界秩序、アジア軽視
●従属派:  ユダヤ代理人、フリーメーソン社員、日本従属化推進、敗北主義

(3)無関心派(90%を占める)
●大衆:    政治的無関心、拝金主義、享楽主義、視野狭窄、無知・従順、無気力  

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ひふみ祝詞

2008-12-17 22:32:18 | 日月神示の研究
 船井幸雄.com7月号にひふみ祝詞についての記載があります。

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「ひふみのりと」について
 先月6月28日に東京で行われたヒューマンカレッジで、朝10時~12時まで2時間「いま大事なこと」という話しをしました。
 その時、具体策として「ひふみのりと」を、一日3回くらい唱えるとよいと思います。日本人的な発想ができるようになるし、それが大事な時代です…と、ちょっと詳しく「ひふみのりと」について話しました。
 そのことが、大きな話題になっているようです。主催者の船井メディアにも問い合せが多く来ているとのことなので、このHPで、少しふれたいと思います。
 これについては、月刊『たまゆら』の7月号に中矢伸一さんが、たまたま『「ひふみ祝詞」を現代に復活させる意義』と題して9ページもの文章を書いていますので、これを読まれるとよく分ります。
 そのポイントだけ、中矢さんの文章から引用します。                           


 神道の淵源とされるこの原初的な祭祀形態は、「神籬磐境(ひもろぎいわさか)」と呼ばれる。
 日月神示は、こうした祭祀を現代に復活させることを願っているようであり、その祀り方についても、ある程度詳しく書かれてある。
 また、捧げる祝詞は「ひふみ(一二三)祝詞」である。日本語の四十七音(濁音、半濁音を除く)を祝詞にしたもので、「ひふみ神言」とも呼ばれる。
 日月神示には、『水の巻』第二帖に、

「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ 
そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ。
一ニ三(ヒフミ)祝詞であるぞ」

 と記されてある。
 この「ひふみ祝詞」こそが日月神示の核心的部分であり、極端に言えば、これだけ肚(はら)に入れればあとは要らないというくらい、大宇宙のすべての真理が含まれている究極の言霊と私は思っている。
 いつ、誰によって「ひふみ祝詞」は作られたのか。弘法大師(空海)の作という説もあるが、それは違うようだ。詳細に調べていくと、超古代から連綿と伝承されてきている、秘伝的な霊威を持つ神言らしいことがわかってくる。
 文献上では、物部(もののべ)氏の史書として知られる『旧事紀(くじき)(先代旧事本紀)』に、「ひふみ」十音の記述が見られる。
 それは「天神本紀」に出て来るもので、ニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト))がオシホミミ(正哉吾勝々速日天押穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)の 勅命(ちょくめい)を受けて天孫降臨するくだりで、ニギハヤヒに「十種(とくさ)の神宝」を授け、
 「もし痛むところあらば、この十宝(とくさのたから)をして、一(ひと)-二(ふた)-三(み)-四(よ)-五(いつ)-六(む)-七(なな)-八(や)-九(ここの)-十(たり)と言いて布瑠部(ふるへ)。ゆらゆらと布瑠部。かく為(な)せば、死(まか)れる人は返りて生きなむ」
 と詔したことが記されてある。
 このため、『旧事紀』を取り入れた神道家や神道流派では「ひふみ祝詞」をも重視したと考えられるが、江戸初期に、幕府の御用学者として絶大な権威のあった林羅山(はやしらざん)らにより偽書の恪印を押されて退けられて以来、『旧事紀』は神道の主流から外されてしまった。やがて明治維新が成り、急きょ「国民」としての意識を一つにまとめるため『古事記』『日本書紀』の二大官選史書をもとに国家神道の整備が始まると、「ひふみ祝詞」は完全に忘れられた。
 その国家神道の流れを汲む現在の神社神道でも、「ひふみ祝詞」を教えない。だから、今の神主たちも、個人的に勉強している方を除いて、「ひふみ祝詞」の存在さえ知らないというのが実情である。

太古から伝わる「ヒフミ四十七文字」

 「ひふみ祝詞」が、“超古代から連綿と伝承されてきている秘伝的な霊威を持つ神言”であることは、様々な面から裏付けられる。
 『竹内文書』にも、「ひふみ祝詞」は出てくる。拙著『日本はなぜ神道なのか』(KKベストセラーズ)にも書いたことなので重複するが、「上古第二十代天皇」にあたる「惶根王身光天津日嗣天日天皇(カシコネオウミヒカルアマツヒツキアメノスメラミコト)」の項に、「即位五十億年、イヤヨ月円五日、詔(みことのり)して四十七音文字言歌を作らせ給う。ヒフミ伝の始めなり」とあり、「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネ……」と解読できる神代文字による「ヒフミ神言」が記載されている(転載ここまで)。

 ところで私は七沢賢治さんのコトダマの研究などから母音、父音、子音の日本語の特性を知り、日本古来の吉田神道や白川神道(神祇伯)が「ひふみのりと」を重視していたことも知りました。
 日本人の特性は、つぎの10項目ぐらいにあると思いますが、これは日本語に原因があり、その集約をしたものとして「ひふみのりと」があると思えてならないのです。
 それ故、ヒューマンカレッジで「ひふみのりと」の話しをしたのです。
読者の皆さんも、各自で少し研究してください。
 では私の考えている「日本人の特性 10項目」を述べます。

1.争いがきらい。下手。和が好き。
2.残虐なことができない。思いやりがある。
3.いやなことは忘れるのがうまい。恨みを持たない。プラス発想型
4.策略は好きでない、下手。
5.「恥」の文化。「清」を大事にする。
6.「自然」と一体化するのが好き。自然を理解できる。
7.「直感力」は非常にするどい。
8.大衆は「我執」と「金銭欲」に無縁なのが多い。
9.よく学び、よく働く
10.他に干渉をしたがらない。包みこみできる。

 いかがでしょうか?
                                           =以上=

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日月神示は裏の裏までよく読め-裏の裏は表

2008-11-24 10:47:45 | 日月神示の研究
 昨日の中矢伸一氏の著書の続きです。

『神に対して素直になり、謙虚な気持ちになることは勿論大切である。信仰というのは、まず神に任せきるところから始まる。
 しかし、それはあくまで自分自身の足で歩き、努力を重ねた上でのことである。
 自分では何の努力もせず、何も考えず、すべて他人まかせで、他者に判断と責任を押しつけているようでは、いつまでたってもけっして神の御意に添うことはなく、また自分のためにもならないのである。
 一つの宗教に囚われ、無我夢中になることは神意ではなく、かと言って宗教を頭から否定し、「神がいるならさっさと救ったらいいではないか」と主張することもまた神意ではない。
 われわれ一人一人が確立すべき生き方とは、自分の頭で真剣に考え、判断を下し、それに基づいた行動を起こし、しかる後に反省し、その行動に対して自ら責任を取る、というプロセスの繰り返しである。その中で、神仏に対する敬虔な思いを片時も忘れず、すべてにおいて任せきるという真の信仰を持つことが必要となってくるのである。
 このバランス感覚は難しく思えるかも知れないが、この姿勢こそ神がわれわれに期待される生き方であり、これ以外に「神人一体」に至る道はない。そしてそのコツは、自分自身が、体験を通じて会得するしかないのである。
 こう考えると、日月神示に、

 「自分で判断できることを何故に聞くのぢゃ。神に聞けば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いクセぞ。出直せよ」(「月光の巻」第十四帖)

 「一足飛びには行かん。一歩一歩と申してあろう。一度に神様を知りたいと申してもそうはいかん。一年生からぢゃ。出直し出直し。子供に大学のことは判らん。十貫の荷物は担げん道理。進むには、それ相当の苦労と努力いるぞ。金もいるぞ。汗もいるぞ。血もいるぞ。涙もいるぞ。良いものほど値が高い」(「春の巻」第五十八帖)

 「信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違い。迷信ぞ。時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取り違い多いのう」(「夏の巻」第九帖)

 などと示されている意味がよく納得出来るのではあるまいか。
 細かく、具体的にああしろ、こうしろと明示しないのはそのためなのである。

 「細かく知らしてやりたいなれど、それでは臣民の手柄なくなるから、臣民は子ざから、子に手柄さして神から御礼申すぞ」(「上つ巻」第二十七帖)

 「何でも判るように神示で知らしておくぞ。(中略)この神示も身魂によりどんなにでも取れるように書いておくから、取り違いせんようにしてくれ」(上つ巻」第二十七帖)

 「知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん」(「春の巻」第四十三帖)

 神示に示された”親心”を汲み取って、天地に働くのは、われら臣民の務めであると言えよう。そのように努力を重ねる過程で、失敗もあり、成功もあり、損をすることもあり、上手くいくこともあり、凶が吉に転ずることもある。
 かくして、神示が血肉となり、揺ぎない信仰が確立され、どんな時にも常に「嬉
し嬉し」の気持ちで動ずることのない、はらに神のしっくりと鎮まった「神人」へと昇華(しょうげ)が許されるのである。(・・・続く)

 この内容は、日月神示を実践するにおいて、最も重要なポイントだと思います。
つまり、
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<神に対する敬虔な思いを忘れず、全て神に任せきるという真の信仰の基盤で>

 自分で考える→ 自分で判断を下す→ 判断に基づいた行動をする
     ↑                 ↓
    自分で責任を取る  ←   その行動を反省する
           〔この繰り返し〕
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 これは一朝一夕には会得できませんが、1年、10年、30年かけて体得していきたいと思います。そして、あの世に行ってからもやり続けたいと思います。
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日月神示 「外在の神」から「内在の神」へ

2008-11-23 16:44:43 | 日月神示の研究
 中矢伸一氏は著書の中で、このように言われています。

『日月神示の特異性について論じる時、見逃してならないのは、そこに一貫して流れるアンビバレント(両面価値的)な姿勢である。
 ある時は「金も人も要らぬ」といい、ある時は「金も人も要る」という。
 また、「集団(まどい)作ってはならぬ」とあるが、「集団作れ」ともある。
 「急いではならんぞ、急がねばならんぞ」(「地つ巻」第十八帖)という言葉もある。
 原文を読む人の中には、こうした神示の”二重基準(ダブルスタンダード)”を思わせる表現に、戸惑う向きもあるかも知れない。人によっては、その一節のみを抽出し、勝手な解釈をして、あらぬ方向へ走る人もあるようだ。つまり、「金も人も要る」とも示されているからといって、寄付金やら信者集めのような、宗教的行為を始めるようなケースである。
 日月神示に記された言葉は、ある部分、極めて具体的であるが、抽象性もまた高い。解釈の仕様によっては、いかようにでも取れるようになっている。
 「この神示、八通りに読めるのざぞ」と数ヶ所示されているのは、そうした意味もあるのだろう。
 何故、「こうしなさい」「こうしてはならない」と具体的に、いっさい疑問や独善的解釈の入る余地のないように明確に述べされていないのか。
 実は、ここのところにこそ、既成宗教の教典や教義には見られない、極めて重要な特徴が表れているのだ。
 それはすなわち、神はわれわれ一人一人に、自分の霊性に基づく正しい「判断力」を発揮することを求めている、ということに他ならない。
 普通、宗教には教典や教義があって、日常の行動様式がハッキリとしている。どういう生き方をすれば良いか、すべての規範はその教典や戒律、あるいは教祖・宗祖の指し示すところに委ねられる。
 この場合、判断の基準というのは、絶対的にその教典なり教祖なり、他者の側にある。
 自分にあるのではない。自分はむしろ判断してはいけないことになっている。あくまで従順に、私心を差し挟むことなく、その教えるところに従うことが要求される。
 これが、宗教が持つ根本的な弊害なのである。
 霊性進化の途上において、人によっては、ある程度までこうしたやり方が必要な場合もあろう。しかしこの段階は、私がたびたび自著の中で述べているように、神が自分の外にある状態なのである。いわゆる「外在の神」である。
 「外在の神」のレヴェルにある時は、ああしろ、こうしろと、いちいち指示を受けなくてはならない。自分の考えや判断の基準というのはそこにはない。教義や戒律の内容、あるいは教祖の方針に変更があれば、何の疑問も持たずにそれになびいていく。
 Θで言えば、ゝ(神)と○(身体)とが分離している。いわば、ゝが○の外にある状態なのである。
 神の分霊たる人(霊止)の、本来の姿とは、Θである。神が自分の中にしっくりと納まっている状態であり、こうなると、教義や戒律といった手カセ足カセは必要なくなる。すなわち、宗教というものに属する必要もなくなるのである。
 このΘの状態を称して「内在の神」という。つまり、「神」と「人」とが一体となった「神人(かみひと)」である。
 われわれ人類は、一人一人がこの「神人」を目指さなくてはならない。すべての判断を教団や教祖、あるいは霊能者に委ねているうちは、霊性の発展段階としてはまだまだ未熟なのである。
 日月神示は、そのことを踏まえた上で、縁ある身魂に様々な示唆を与えようとしている。他を頼るのではなく、自分自身の足で、真理の大道を歩ませようとしているのだ。

 「道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさしてくれるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ」(「下つ巻」第十一帖)

 「道は自分で歩まねばならん。自分の口で食物噛まねばならん。噛みしめよ」(黒鉄の巻」第四帖)

 「他人におんぶされたり、車に乗せられていた人民たちよ、もうその時は過ぎているのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地を踏みしめよ、大地の気が身内に甦るぞ」(「扶桑之巻」第十五帖)

 「気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かせてくれるのではないぞ」(「月光の巻」第四十七帖)

などと示されているのは、そうした意味からである。』(中矢伸一氏著「正釈 日月神示」より)

 この著書を読むと、人にとって、初歩の段階では一般的な宗教のように、教義や戒律に従って信仰して行くことも必要かも知れないが、最終的には戒律や教祖の言いなりになるのではなく、自分自身で判断を下して進むことが大事だと言われています。これこそ、神が自分の中におられる状態という意味になります。
 このことからしても、日月神示は脱宗教と言えると思います。より正確には、脱宗教団体と言った方がよいかも知れません。教祖の言うことだけを、100%実行するのではなく、自分で考え、自分で判断して決めなさいということです。上級の信仰とも言えると思います。キリスト教や仏教にもあるように、人を殺してはいけない、盗んではいけないなどの人間としての基本もできてない人は、戒律に縛られるべきなのは当然ですが。
 自分なりにまとめると、
 初級:戒律必要(=単なる人間、外在の神)
   ↓
 上級:戒律・教祖・宗教団体は不要(=神人、内在の神)

 教祖も宗教団体も不要などと説いている神は、聞いたことがありません。神の言葉(日月神示)に沿って、自分で判断して自分で決めろという道なのだと思います。自己責任の道ですから、結果は自分で責任を取るのが当たり前になります。厳しいですが、そのほうがやり甲斐があって、自分には合ってると感じました。

 *外字登録をしていませんので、恐縮ですがΘとゝを便宜上使っています。

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中矢伸一氏の日本一の霊峰・富士山について(その2)

2008-11-22 15:35:37 | 日月神示の研究
 船井ビジョンクリエイツさんのサイトに、中矢伸一氏が大変興味深いコラムを書かれています。

 ●中矢伸一氏コラム
  http://www.funaivisioncreates.com/De_Column.cfm?ID102=3&ID=5

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大谷司完氏の見た天国界とは

2008-11-16 21:00:54 | 日月神示の研究
 歴史人さんからブログにコメントをいただきましたので、改めて大谷司完氏について調べてみましたが、詳細の情報は集められませんでした。中矢伸一氏が書かれた「日月神示 この世と霊界の最高機密」で、大谷司完氏が天国界を探訪してきた内容がまとめてありますので、一部をご紹介します。ちなみに、天国界まで探訪を許された方というのは、とても珍しいとのことです。普通は行けないところだそうです。


比較項目 天国的なもの・天国と通じるもの  地獄的なもの・地獄と通じるもの
------------------------------------
光度       光輝燦然             一切の闇
波調       繊細               粗い
音楽       単調、諧音、清音         轟音、不協和音、無音
社会       協調的              孤立的
神人との交流   あり               なし
香り       芳香               臭気
動物       草食動物             肉食動物
植物の種類    豊富               少ない
信仰       あり               なし
戒律       なし               あり
行        なし               あり
感謝・反省の念  あり               なし
向上心      あり               なし
尊ばれるもの   調和               力の強さ
生活信条     与える              奪う
感情の起伏    緩やか              烈しい
味の好み     淡いもの             濃いもの
食べ物      菜食               肉食
衣服の色     白、淡いもの           濃い、毒々しい
----------------------------------
 『大谷氏は、例によって、霊魂が肉体から遊離する方法で霊界に赴き、上層の天国界をも見聞している。
 氏の霊眼に映った天国の上層部とは、どのようなものだったか。その大要を、次に紹介しよう。

 大空は、まばゆいまでに輝きわたり、一点の雲とてない。
 高く澄みきったその様は、神の御威徳に満ちている現われのようだ。この天地には、微塵の汚れもなければ、何の障りもない。あたかも神々の大御心をそのまま写し出しているようで、実にすがすがしく、また尊く麗しく、表現のしようのないほどである。
 自然のままの姿に置かれた万物は、それぞれが生成発展を遂げつつ、大きく呼吸をしているようである。野や道端に咲き誇る一輪の花を眺めても、他に犯されたり、踏みにじられるような恐れもなく、いかにものびのびと育っている。地上界とは比較にもならない豊かさである。
 とりわけ大きく咲き誇っている花に近寄ってみた。するとこの花は、見事な花弁を微妙に振動させ、いかにも誇らしげであり、あたかも幼児の仕草を思わせた。それは、地上界では想像もつかないような風情であった。
 このような麗しい世界では、すべてにおいて物事の複雑さは少しも見当たらない。どれをとっても単純化されている。
 また静かに耳を傾けてみれば、鳥獣や虫の鳴き声に至るまで、その声音の中には彼らに相応した希望を歓喜の歌声を聞く感があり、すべてのものに一種の満足感が溢れていた。(「天使の声」)』

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谷口雅春氏 「副守護神」について

2008-11-13 07:56:51 | 日月神示の研究
 生長の家の創立者の谷口雅春氏は、このように言われています。
 『副守護神が改心し、先天的憑依なる正しき守護神が吾々の肉体を守護するようになると肉体の精神状態がすっかり浄化され、嗜好も一層人間らしくなります。鎮魂の主要目的は副次の憑霊を改心せしめて、正位の守護神の主権を恢復(かいふく)することであって、その目的さえ達すれば、一切の病癖は随伴的に回復します。従って病癖に対する対症的暗示若しくは説得は不要であります。鎮魂帰神の施法中審神者(さにわ)は決して酒を飲むな、淫欲を貪るな、四足獣(よつあし)の肉を食うななどと、憑霊に対して命令はしませぬ。しかし霊が帰順すれば何の暗示も与えずに大酒が飲めなくなり、淫欲は恬淡(てんたん)となり、四足獣の肉などは全然食べられなくなります。単に大本の名称を聞いただけで霊が帰順してそれ以後肉を食べれば忽ち(たちまち)三日位下痢を続けて消化器を洗濯される人などもあります。それ故霊が帰順すれば霊そのものが神界の規則に従って生活して行くから、何の暗示も説得もなくして獣肉類が食べられなくなるのです。吾々の現在意識は憑霊の意識との複合せるものでありますから、憑霊が肉を食べたいと思えば自分が肉を食べたくなり、憑霊が手淫をしたくなるならば自分が手淫をしたくなるのであります。自分が肉を食べたいのであるか、狐が肉を食べたいのであるか、自分は人であるのか、人が狐であるのか-大抵の人はそうした倒錯した生活を送っています」(『神霊界』第八十九号)

 これに対して、中矢伸一氏はこのように言われています。

「谷口雅春氏ほどの人物であっても、初期の頃は狐霊などの低級霊に憑依され、想念を狂わされていたのである。
 現代の人間は、とくに副守護神の活動が旺盛で、外流の影響を強く受けており
(ほとんど外流の渦中に生きているといってよい)、同一波調を持つ低級な霊界(粗雑で、歪んだ波調を持つ世界)との感応を起こしやすい状態にある。
 現代人では、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言いすぎではないだろう。
 副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。
 このため、副守護神が活発に働いている人が多い社会は、物質的な生産活動や経済活動が促進される。そういう社会的傾向が主流になると、文明は著しい発達を見ることになる。
 しかしその反面、霊的(精神的)な向上への道は閉ざされ、高級なる霊界からの直接的な流れである正流が受けられないため、いつまでたっても正守護神に復帰できず、ましてや本守護神にまで位が上がることなどは不可能となる。
 副守護神により生み出された文明は、短期的には目覚しい発展を見せるが、やがて行き詰まり、悲惨な末路を辿ることになる。(中矢伸一氏著 「日本はなぜ神道なのか」)

 谷口雅春氏が師と仰ぐ大本の出口王仁三郎聖師が言われるには、「正守護神とはその人の霊魂が、高度な霊界からの直流的な正しき流れを受けるときは善なる霊、すなわち正守護神となり、本来神より天国の御用に奉仕する目的で与えられた肉体の正しき主となる。一方、低級な霊界からの歪んだ外部的流れを受けるとき、その人の精霊は悪霊、すなわち副守護神となる。」とのことです。

 出口王仁三郎聖師や、谷口雅春氏が言われるように、現代人は、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言いすぎではないとのことです。ということは、自分の感情だと自分で思っていても、背後では低級霊が発している感情ということになるのでしょうか。例えば過食の人の食欲は、低級霊の食欲が大きく影響しているということにもなるかと思います。
 また、「副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。」ということであれば、自分の感情といっても、低級霊に操られているということになるのでしょうか。
 以前はハムやメンチカツなどは好きだったのですが、その食欲は低級霊のものだったということになるのでしょうか。
 肉食を止めてから100日が過ぎましたが、今は全く肉を食べたいとは思いません。ということは、肉が好きな低級霊たちが、私から去ってくれたということなのでしょうか。目に見えない世界のことですので、何も科学的に証明はできませんが、出口王仁三郎聖師や谷口雅春氏が言われるのであれば、真理である可能性はかなり高いと思います。自分の感情が実は、自分の感情だけではなかったというのであれば、とても気持ち悪い状態です。なるべく早く低級霊には出て行ってもらいたいものです。こういった低級霊を祓うということも、身魂磨きになるのではないかと思います。



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合気道と宗教  

2008-11-09 11:18:56 | 日月神示の研究
 白光真宏会のAKIKOさんから合気道開祖 植芝盛平翁先生と白光真宏会創立者の五井 昌久氏との親交をご紹介いただきましたので、こちらでもご紹介したいと思います。大変興味深い内容です。



 『合気道と宗教』


    五井 昌久



 「神はからいによる植芝翁との対面」


先日合気道の創始者、植芝盛平翁が、東京神田の講演会場に、私を尋ねておいでになった。植芝先生には、私も以前から一度お目に掛りたいと思っていたのですが、先日光和堂から出ている合気道という本を見て、この方には是非お会いしたいと、改めて思ったのです。
ところがこの想いが、数日をいでずして直ちに実現して、神田での対談になったのであります。この対談までの経過は偶然のようでいて、実に微妙なる神はからいによって進められていったのです。
それは、私が合気道の本を読んだ明くる日、出版の方の人に、私の著書を植芝盛平先生に御送りしておいて下さい、植芝先生は神の化身のような立派な人だから、と申しておいたのです。そうしますと、出版の方で早速送本するつもりで宛名を書いているところへ、林さんという婦人が見えられて、ふとその宛名を見て、"あら植芝先生なら、私の主人が大変ご懇意にしております"といわれたので、そこにいた会の理事の人が、"うちの先生は植芝先生に一度お目にかかりたい、と申されているのですよ"と軽い気持でいったのだそうです。
すると林夫人は、 "そうですか、五井先生と植芝先生がお会い出来たら、私共も大変嬉しいし、きっと双方に善い事になります。私帰って主人から植芝先生にそう申し伝えましょう" と勇んで帰ってゆかれたのですが、その翌日道場に電話を掛けてよこされ、 "主人が早速植芝先生に五井先生の御心をお伝え致したところ、一ケ月も前から、自分の会いたい人から迎えがくる筈だが、いったい誰れが使いしてくるのか、と思っていたところだったが、その使いはあなたでしたか、すぐにでも市川へ伺いましょう、と申されている" という事でした。そこで私は、わざわざ市川へお出向き下さるのも大変だから、神田の会の日にお出掛け下さるように、とお答えしておいたのであります。そして対談という事になったのです。
この経過は偶然にしては、あまりにも、すべて調子がよくゆきすぎております。たまたま見える人が、その封筒の宛名を書いているときに行き合わせる等というのは、偶然としてはあまりにも偶然過ぎますし、私の存在を知らされた植芝先生が、一ケ月も前から私との対面が判っていた、というのも、偶然とはいいがたい事であります。
こうした神はかりによって、植芝先生と私が対面したのでありますが、 "やあ、いらっしゃいませ" "やあ、今日は" といわぬ先きから、二つの心は一つに結ばれて、私は植芝先生という人格、否、神格がすっかり判ってしまったし、植芝先生も、私のすべてがお判りになったようでありました。
あまりお話はなさらないという先生が、心から嬉しそうに打ちとけて、私の講演が始まる六時までの二時間を、その時間を超えてもまだお帰りになる気持にはなられなかったろうと思われる程に親しまれて、"またちょいちょい伺います"といわれて帰ってゆかれたのであります。



 「合気とは我即宇宙たらしめる道である」


この日の植芝先生のお話や、合気道についての本から得た私の感じでは、合気道という武道の一種と見られる道は、空を行ずる事が根幹であり、そこから生まれる自由無礙(むげ)の動きであり、大調和、愛気の動きである、と思ったのです。空を行ずるという言葉をいいかえれば、自我の想念を無くするということであります。
植芝盛平翁は、この真理を、身をもって悟り、身をもって実際に行じておられるのですから、私が偉大な人と思い、お会いしたい、という気になったのです。
植芝翁の言葉をそのままお伝えすると、
…… 合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(註: 神道の真理の言葉)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。 ……
といわれるのであります。これが神の言葉でなくて何んでありましょう。この言葉は全く、宗教の道そのものの言葉であります。こうした言葉が理論的な頭や、言葉だけの言葉になって説教されたら、その言葉に生命がないのでありますし、折角の真理の言葉も、人の心を打たずに済んでしまうのですが、植芝翁の場合は、この言葉の通りに実行されているのであり、何者にも敗れたことの無い実績を残しておられるのですから、感動させられるのです。
私はこの言葉を書きながらも、非常な感動で胸が熱くなってくるのです。



 『神の化身 ~ 植芝翁』


植芝翁は確に神の化身であります。その神の化身は非常に謙遜であって、肉体身としては、自分の子供に等しい(翁は明治十六年十一生、私は大正五年十一月生)無名の宗教者のところへ、ご自分の方からお出掛け下さって、"これからは先生の働き時、私はお手伝いになりましょう。"
といわれるのですから、益々そのお心が輝やくのです。
こうした心はなかなか得難いものであります。いたずらに尊大ぶり、唯我独尊を誤り思って他を弱小視したり、常に他教団との勢力争いをしたりしている宗教者は、慚愧(ざんき)すべきでありましょう。
宗教者は、まず愛の心が深くなければなりません。調和精神が深くなければなりません。勢力を争う想いや、建物の立派さ、信徒数の強大さを誇る想いが、少しでもあるようならばその宗教主管者は、本物ではありません。
この世は神の世界であって、業想念の世界でも、自我欲望の世界でもありません。すべて神のみ心の如く成っている世界なのであります。神の大経綸は、着々として行われているのであります。
自己が自我欲望の中に住みながら、神の使徒である、と思おうとするのは、泥田の中にいて体を洗っているのと等しいのです。自我欲望とは、愛の心を乱し、大調和の心を乱す一切の想念行為であります。これはいくら声に出ずる言葉でいっても駄目なのです。実際に心に想い、行為を行じなければ駄目なのであります。
植芝翁と私の対談中、ある霊能の開けた人が、傍にいたのですが、その人の心には、二人の姿が、すっかり透明に見えたそうですが、それは、翁にも私にも自己の我というものが全くないから、想念の波をその霊能者に感じさせずに透明に見えるのです。
翁の姿を私が観ていますと、植芝翁という肉体人間の姿はなく、神道に記されてある、ある有名な神の姿がそのまま口をきいておられるのです。これは翁に自己の我の想念が全くないという事で、神の化身として働いておられる証拠であります。
翁の合気は、一度に何人の相手でも投げ飛ばす事も出来るし、何百貫の重量の物でも、平気で持ち上げる事が出来るという事であります。
こうした時には、翁の空(くう)になった肉体身をこれも神道に記されているある武の神が働かせて為させるのであります。
お目に掛からぬ前から私はそれを知っていましたが、お会いしてみて、その原理を改めてはっきり知ったのです。(後略)



高橋英雄 編著『武産合気』より



本会と(財)合気会の関係


参考文献
合気道と宗教
神の化身
~植芝盛平翁を称う~
植芝盛平翁の昇天


参考図書
『武産合気』
(高橋英雄 編著)
白光出版ホームへ


●合気道と宗教 五井昌久氏
  http://www.byakko.or.jp/2_goi/goiphoto/goi_ueshiba_aiki.html

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日本一の霊峰・富士山について

2008-11-08 22:29:39 | 日月神示の研究
 中矢伸一氏が船井ビジョンクリエイツ社のサイトで、コラムを書かれています。

  http://www.funaivisioncreates.com/De_Column.cfm?ID102=3&ID=1
  

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生長の家創立者 谷口雅春氏

2008-11-03 08:53:30 | 日月神示の研究
 200万人の信者を抱える生長の家の創立者であります、谷口雅春氏も出口王仁三郎聖師と同じく肉食を禁止しています。

 『 ■肉食に蝕まれつつある日本人
近頃、日本人の気性が闘争的になりつつあることは否定できません。それは学生騒動を見ても、賃上げ闘争にしても、自分の利益のため、または主張を通すためには、周囲の人々や国民全体に、どんな迷惑をかけてもかまわない、自分の利益を達成し、主張を通しさえすればそれでよいのだという、その戦闘的行為とその内面的精神とは、日本人の食生活が変わり、肉食度が増加した結果、動物食には、動物が殺される時の恐怖や怨恨や憤怒(ふんぬ)の感情が動物の腺組織を刺戟して発生した毒性のホルモンが、動物の屍骸の肉体の中には含まれているので、その屍肉(しにく)を食する人間には、殺害されつつある動物の、殺害者に対する闘争の感情を掻き立てる毒素が、食肉者に経口的移入されるのです。これらの毒素は肝臓(肝)によって処理して無毒化されるしくみになっているのだけれども、あまりその毒素の量が多くなると肝臓はその処理にくたびれて、処理不能となり、その結果その人間は、肉食動物のごとく短気になり、少しのことでも興奮して、相手を殺傷しても平気であるような気質が養成せられるのであります。(「平和論と殺生食について」)

 「動物が殺される時の恐怖や怨恨や憤怒(ふんぬ)の感情が動物の腺組織を刺戟して発生した毒性のホルモンが、動物の屍骸の肉体の中には含まれている」ということは、現段階では科学では証明されてはいないかもしれないですが、想念自体がエネルギーであることは科学者も言っています。この谷口氏の言われる毒性ホルモンについては、いずれは科学的に立証される日が来るかと思います。

 ●生長の家
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6

 ●生長の家と大本
  http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/seichou.html

 ●谷口雅春氏
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5

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