かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (3)

2024年05月10日 | 脱原発


20121111

 欠かさず参加している仙台での脱原発金曜デモは2300人の規模が普通で、17万人を集めるような東京の抗議集会がどのようなものか、想像するのはなかなか難しい。
 「1111反原発1000000人大占拠」と名付けたデモ・集会を東京で行うというので、出かけてみることにした。しかし、集合場所としての日比谷公園の使用許可が下りず、さらに東京地裁、高裁も不許可を追認したため、デモの部分は急遽取りやめになり、舗道上での抗議集会のみということになった。
 ネットをさまよっていると、「7月以降の集会が次第に勢いを失っていて、そのために権力が公園使用不許可などの攻勢に出て来たのだ」という主催する首都圏反原発連合への批判含みの論調が見られる。
 権力が弱り始めた抵抗運動を叩き始めるという「えげつなさ」を有しているという説明は確かにもっともらしい。世田谷公園を管理する東京都の責任ある人(たち)の顔を思い浮かべれば、その「えげつなさ」はなおさらもっともらしい。
 反原発デモをマスコミが取りあげることは少ないので、首都圏での運動が退潮傾向にあるかどうか、私には判断できない。しかし、そのような批判的な言動にもかかわらず、twitter上での反原発の意見表明の盛んな様子は相変わらずだし、仙台では金曜デモが退潮気味だということはまったくない。
 だから、私としては、デモを妨害しようとする行政の機制はまったく反対なのではないかと思うのだ。本当に運動が弱り始めているなら、わざわざ手を汚してつぶしにかかるよりは、むしろ、ほっといてその消滅を待つ、というストーリーもそれなりにもっともらしい。つまり、私は、いつまでたってもあきらめない運動にうろたえ始めて攻勢に出て来たのではないかと思っているのだ。「8月に東京都からやるなと言われた」とか「いろいろ圧力がある」と都の担当者が話していたという[1]。その最終責任は首長にあるとしても、「過剰な忖度」[2](つまりは、上位者へのおべんちゃら)として、うろたえやすい中、下級役人が突っ走っている可能性もありうる。
 いずれにしても、この「公園使用不許可」は反原発運動が明確な効果を生みだしている証左である、と私は考えている。原発推進派はあわて始めているのである。

[1] 1111反原発1000000人大占拠」プログラム&マップ。
[2] 森達也「A3」(集英社インターナショナル、2010年) p. 471



2013年2月15日

おおくを知ることはないのだ
ただひとつのことを
くりかえしくりかえし知るだけで
人生は不思議に微妙に変身して
かぞえきれない星のむれを胸にみたす
あるいは一箇の弾丸のように胸にのこる

   嶋岡晨「地方帰住者の思想」部分 [1]

 金曜デモにいったいどれだけ参加したのか、途中の3回を休んだことははっきりしているが、回数を数えるのが難しくなってきた(などと考えていたら「第27回目のデモに出発しま~す」というアナウンスがあった)。
 先週のデモと今週のデモとの間に格別な差異があるわけではない。自民党の馬鹿勝ちで終わった12月の総選挙の後、原発政策の大後退が危惧されているが、まだ事態は大きく動きだしていないように思う。おそらく、自民党政府はまだ私たち国民の反原発の動きを窺っているということもあるだろう。
 私たちにしても(正確には、私には、ということだが)、今は力を思い切り発揮することにではなく、意思表示を確実に繋げていくということに力点が置かれているように感じられる。3月に大きなイベントが用意されているように、春とともに力強く動き出す準備の期間のようだ。
「くりかえしくりかえし」のデモで私たちは「かぞえきれない星」を胸に抱き、いずれそれは「一箇の弾丸」のように強く飛んでいくのだ、きっと。
 これは冬ごもりする私(たち)のファンタジーではないのだ、と思う。
 「くりかえしくりかえし」のデモに出ていると、体も心もデモというちょっとした「非日常」に馴染んでくるようだ。デモも終盤にさしかかって青葉通りを歩いているとき、シュプレッヒコールで大口を開けていたらそのまま欠伸に移ってしまった。3,4回続けて欠伸が出たのだ。じつは、寒風吹きすさび、横殴りの雪の中の先週のデモの途中でも何回か欠伸が出ていたのである。
「だらしがない、緊張感がない」と一瞬は思ったのだが、そんなことはないのではないかと思い直した。年をとっても人見知りで、趣味が多くてもすべて一人遊び、そのような私が一人でデモに参加し始めたときは、それなりの心理的な障壁を乗り越える手続きは必要だった。それが今では、デモの最中に欠伸が出るほど、すっかり慣れてしまったのである。
 要するに、「くりかえしくりかえし」で、私にとってデモは〈普通〉になったのだ、と思う。つまり、デモはもう日常である。「おはよう」と挨拶するようにデモをする。「お休み」という前にデモをする。思いっきり大げさに、かつキザに表現すれば、「反原発の肉体化」である(「血肉化」の方がいいかな)。肉体化した反原発は、そのまんまで反原発である。もうデモを歩かなくても反原発なのである。
 ここまで書いてきて気付いたのだが、これはデモをサボる口実に使えそうな結論にもなっている。いや、サボるつもりは全くないのだが、これが文字通り「両刃の剣」ということか。
 いずれにせよ、反原発は私の心の最大の(一つめの)問題という位置取りから心全体にまんべんなく広がっている環境のようなものになった。そんな気がする。

こころの問題の
二つめあたりを歌うこと
冬のそよ風のため

   荒川洋治「冬のそよ風」部分 [2]

[1] 嶋岡晨「詩集 永久運動」(思潮社 1964年)p.21
[2]
荒川洋治「詩集 一時間の犬」『荒川洋治全詩集1971-2000』(思潮社 2001年)p.413



 

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