ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

四国八十八ケ寺の11番から17番の札所に行って来ました。(2021-1-3)

2021-01-23 | お出かけ

今年になってから体調が良くなくて 今日(2021-1-23)は久しぶりにブログで
今年の1月の3日に行った四国八十八ケ寺のお寺参りをまとめました。

四国八十八ケ所お遍路の旅」の最初は2017-4-18にお出かけの12名のメンバーで阪急トラピックスの
バスツアーで1番カ寺から6番カ寺に行ったのが最初でした。
4月のわくわくお出かけは「四国八十八ケ所のバスツアー」に行きました。)

さぬき市に引っ越しをしてから香川県の88カ寺は殆ど回ったので、
コロナで出かけることができなくなった
2020-4-17に7番カ寺から10番カ寺に行って来ました。
四国八十八ケ寺の7番から10番の札所に行って来ました。(2020-4-20))

今年は子供たちが帰ってこないので、静かな正月で1日には近くの神社と高松の田村神社にお参りして、
2日には恒例の香川県工芸展を見て 3日には久しぶりには徳島の88ケ所参りをしてきました。

 左の参拝案内図こ今回購入したのを
 スキャナーで取り込んで加工しました。
 今回の行程は17番井戸寺から
 11番藤井寺の順で、12番焼山寺はパス
 しました。

 11番藤井寺
 13番大日寺
 14番常楽寺
 15番国分寺
 16番観音寺
 17番井戸寺

 

 


      

      


第11番札所 金剛山 一乗院 藤井寺

藤井寺の歴史・由来

全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。
阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。
三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは
弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って
薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、
金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。
その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。

寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。
だが、天正年間(1573〜92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。
その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、
その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍は
すべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもの。
本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。
藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。
弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。

 

      


第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺

大日寺の歴史・由来

徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、
車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。
開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、
空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、
「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。
大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。
寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、
戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。
その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、
諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、
管理に当たっていた。
ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、
同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、
納経所として参拝されていたようである。
このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。
その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、
もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 
日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。

大日寺の見どころ

ぼけ封じ観音・奥の院・建治寺・しあわせ観音
(樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像。幸せの願いを祈る。)

      

 

 

      


観音寺の歴史・由来

観音寺の見どころ

寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。
巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、
享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。
その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、
観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、
また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、
徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。
この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。
弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、
本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。

その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、
本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。
遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。

観音寺の見どころ

夜泣き地蔵・絵馬・天狗久(人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。

 

      


第17番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺

井戸寺の歴史・由来

世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、
阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。
寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。
本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、
また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。
のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、
檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。
この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、
現在、国の重要文化財に指定されている。
大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、
自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。
そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、
次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。
江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 
七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。

井戸寺の見どころ

面影の井戸・日限大師・仁王門(阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。)

 

      

      


四国八十八ケ寺の67番から71番の札所に行って来ました。(2020-11-25)

2020-12-04 | お出かけ

11/25には家内の友人と一緒に四国八十八ケ寺の67番から70番の札所を回って、その後

財田町の道の駅に寄ってから「環の湯」に入って来ました。

11/28には四国八十八ケ寺の71番の札所にお参りしてから、まんのう町の「塩入温泉」に入り

その後 「まんのう公園のイルミネーション」を見て来ました。

 11/25に 67番札所の大興寺に行き、
 68番札所の神恵院と69番札所の
 観音寺に行き、70番札所の本山寺
 に行って来ました。
 11/28には71番札所の祖谷寺に行って
 来ました。
 68番札所と69番札所は同じ場所に
 ありました。
 70番札所の本山寺には五重塔があり
 とても立派なお寺でした。
 71番札所の祖谷寺は子供のころの
 「七ヶ所まいり」の記憶があります。

      


第67番札所 小松尾山 不動光院 大興寺

 大興寺の歴史・由来

 地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、
 近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。

 縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として
 現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、
 弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。
 しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、
 慶長年間に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。
   

 現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、
 同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。
 そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、
 右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。
 また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。

 香川県の文化財として指定されているのは次の5件である。
 1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。
 鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。
 天台大師の彫像は極めて少ない。
 弘法大師坐像は近年の調査により天台大師坐像と同じ建治2年の作であることが判明し、
 文化財として指定された。四国最古の銘のある弘法大師像である。
 仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、
 像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。
 「大興寺」と記された扁額には文永4年の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。

大興寺の見どころ

  本堂の「七日燈明」 : 本堂で赤い蝋燭を7日間灯し祈祷していただくもの。
             病気平癒、安産、良縁などのご利益があります。

  仁王門 : 風堂々とした金剛力士像は仏師として名高い運慶作と伝えられます。

 

 

            


第68番札所 七宝山 神恵院

 神恵院の歴史・由来

 六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。
 2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。

 開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。
 大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。
 琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。
 このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。
 大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、
 後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場としました。

 その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、
 神恵院は麓の観音寺境内に移転。
 同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に移されました。
 以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。

 神恵院の見どころ

 本堂  : 2002年に新しく建立された本堂は、コンクリート打ちっぱなしで
       白木と組み合わされた近代的な造り。

 宝物館 : 「釈迦涅槃像」や「琴弾八幡本地仏像図」「琴弾宮絵縁起図」など、
       国の重要文化財に指定された寺宝が数多く納められています。

第69番札所 七宝山 観音寺

 観音寺の歴史・由来

 観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、
 前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。
 以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である
 阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。
 そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で
 七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。
 さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、
 地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。

 桓武天皇はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が
 住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。
 だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。
 本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財。朱塗りの柱が色鮮やか。
 境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安〜鎌倉時代)をはじめ、
 絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)
 のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵されている。

 観音寺の見どころ

 琴弾宮絵縁起 : 開基の日証上人が琴弾八幡宮を創建した由来を描いた大和絵で、
          中央の山頂付近に社殿の様子が描かれている。

 最古の落書き : 本堂に「常州下妻庄…貞和三年…」(南北朝時代)などと書かれ、
          貴重な遍路文化の資料とされる。

 

 

 


第70番札所 七宝山 持宝院 本山寺

 本山寺の歴史・由来

 四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。
 天暦3年(950)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。
 また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。
 頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています。

 大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。
 当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したという伝説が残ります。
 およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、
 十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせます。

 天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ脇仏の阿弥陀如来の
 右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため本堂は兵火を免れたといわれます。
 この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれています。その後、「本山寺」と名を改め、今に至ります。

 本山寺の見どころ   

 本堂  : 国宝に指定され、一重寄棟造り、本瓦葺きの風格あふれる建物 
       正安2年(1300)建立の奈良風の造りです。

 五重塔 : 明治43年、住職の頼富実毅が再建。遠くからでも望め本山寺のシンボルとなっています。

 仁王門和様:唐様・天竺様という三つの様式の山門。
       全国でもほかに例のない、どっしりとした構えの八脚門は国指定の重要文化財です。

 鎮守堂  」室町時代末期の様式を残す小さな社。
       桧皮葺き屋根の素朴なたたずまいです。県の指定文化財です。

 

      

 


第71番札所 剣五山 千手院 弥谷寺

 弥谷寺の歴史・由来

 創建について :今からおよそ1300年前。人皇第45代聖武天皇の勅願により、 
            行基菩薩が堂宇を建立し、疾病平癒の為、光明皇后により、
           『大方広仏華厳経』がお祀りされ、寺院を創建したといわれています。
            また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた
            経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、
            大師生誕(774年)の50~100年程前に創建された事が分かっています。

 霊山信仰 :弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、
         日本三大霊場の一つに数えられたとされます。
         古来より、人々は山々に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山(霊峰)と呼び
         信仰の対象としたとされ、この信仰は、お遍路の元となった、辺(遍)路信仰の
         1つともいわれています。
         弥谷山の霊山信仰では、『本堂下にある、水場横の洞窟が神仏のせかいへの
         入口だといわれ、特別強く信仰された。
 

 獅子之岩屋 :『弘法大師が9~12歳の頃、この岩屋にて修学に励まれた』といわれています。  
           また、寺院創建の頃より、この岩屋の右手奥にある洞窟は経蔵として
           使われていたとされ、大師はこの経蔵から経典をとりだし、
           岩屋の窓(明星之窓)からの明かりで、修学に昼夜問わず励まれたと
           いわれています。
           岩屋の形が『獅子が咆哮をあげた形に見える事から獅子之岩屋』と呼ばれ、
           「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」という仏教の信仰から、
           この岩屋の前で信心をおこし参拝する事で、
           『その身につくあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、
           その身を護る』といわれ、信仰されています

 洞地蔵尊 :首から上の病に御利益があるといわれるお地蔵様です。
         獅子之岩屋に向かう途中の大師堂内より参拝でき、
         座って岩壁の10㍍上方を見上げないと姿を見る事ができないお地蔵様です。

 弥谷寺の見どころ :大師堂本堂・獅子の岩屋・弥陀三尊磨崖仏
              (大師堂から本堂へ向かう途中の岩壁にあり、
              大師が刻んだとされています。
             「磨崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれ、
              真言を唱えると極楽往生ができるともいわれます。

 

      

 

      

 


 71番札所 祖谷寺の近くに道の駅
 「ふれあいパークみの」があり
 「いやだに温泉」があって弟と
 来たことがあります。
 近くの「鳥坂まんじゅう」の店で
 名物の酒まんじゅう買って食べました。

 


私達の小学生時代には、春と秋のお彼岸の中日には、「七ヶ所まいり」があり、
弁当をさげて、友達と、おまいりした。
七ヶ所めぐりの寺々は 
 ●第71番 弥谷寺  ●第72番 曼陀羅寺 ●第73番 出釈迦寺
  ●第74番 甲山寺   ●第75番 善通寺     ●第76番 金倉寺 ●第77番 道隆寺 です。

 11/29の夕方に「さいた たからの里
 環の湯」に行ってから「まんのう公園の
 イルミネーション」を見てきました。
 香川県のトップクラスのイルミネーション
 です。
 

財田町にはいままで立ち寄ったことが無かったのですが、香川県の偉人を調べたブログがありました。

 香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞について調べました。 2015-01-29 

 


四国八十八ケ寺の30番から32番の札所に行って来ました。(2020-11-22)

2020-11-29 | お出かけ

11/22には高知の原発反対の集会に参加して、日曜市で買い物をしてから

四国八十八ケ寺の30番から32番の札所を回って来ました。

 30番札所の善楽寺に行き、
 31番札所の竹林寺から
 32番札所の禅師峰寺を回って
 来ました。

 竹林寺に隣接して高知県立牧野植物園が
 ありました。
 高知
県が生んだ植物学者・牧野富太郎博
 の業績を顕彰する施設で、
 入りませんでしたがとても立派でした。
 この付近は五台山で観光でにぎわって
 いました。
 
 禅師峰寺は高台にあって高知の海が見れて

 

        

      


第30番札所 百々山 東明院 善楽寺

善楽寺の歴史・由来

高知城へは約6㎞、JR高知駅まで約4㎞というこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、
土佐では最も古くから栄えた地方である。 
縁起によると、桓武天皇が在位されていたあとの大同年間に
弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、
善楽寺を開創され霊場と定められた。

以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。
とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。
だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、
昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。
その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って
「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。

本堂左隣の大師堂は大正時代の建立。
ここの大師像は「厄除け大師」として知られ、厄年にお参りしたり、
交通安全などを祈願すると霊験があらたかと伝えられる。
また、境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作といわれるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。
難産で苦しんでいる妊婦を、大師が祈祷し安産させたという伝説があり、
安産や子宝祈願にご利益があるといわれる。さらに水子供養の祈願にも参詣する人が多い。

本坊前は開放的な雰囲気が漂う。土佐一ノ宮の別当寺として栄えた古刹である。

善楽寺の見どころ

梅見地蔵 : 安地蔵堂の左。文化13年(1816)の建立。
       首から上の病や悩みにご利益ありとされる珍しいお地蔵さん。
       近年では脳の病気、ノイローゼの快癒から合格祈願をする参詣者も多い。

天邪鬼  : 境内の手水舎の下で石の手水を支えている邪鬼。
       天邪鬼は毘沙門天像についている鬼の顔がその原形。

 

 

      


第31番札所 五台山 金色院 竹林寺

竹林寺の歴史・由来

土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。
鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師が山麓に「吸江庵」を建てて修行、
2年余も後進の育成に努めた。
また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の記念館と
県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。

縁起では、神亀元年ころ、聖武天皇が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。
天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。
行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、
山上に本堂を建てて安置した。
その後、大同年間に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、
荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。

慶長6年に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛した。「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財。
この他、山門左手の宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての
国指定重要文化財の仏像17躰が収蔵されており、まさに県内きっての文化財の宝庫といえる。

眼下に高知の市街が眺められ、瓢箪形に食い込んだ浦戸湾が美しく広がって見える。

竹林寺の見どころ

五台山 : 中国では山西省にある標高3000mの霊山。
      文殊菩薩の霊場として仏教信仰の中心地として栄えた。 
      高知の五台山は標高145m、山全体が高知県立都市公園。

五重塔 : 昭和55年の建立。高さ31.2m、総檜造り、鎌倉時代初期の様式。県内唯一の五重塔。

庭園  : 夢窓国師の作と伝えられ、国の指定名勝。

 

 

 

      


第32番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺

禅師峰寺の歴史・由来

太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、とはいっても標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。
また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、
みなこの寺に寄り航海の無事を祈った。

縁起によると、行基菩薩が聖武天皇から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、
堂宇を建てたのが起源とされている。
のち、大同1年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。
このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、
また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。

以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。
仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。
堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、
境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている。

芭蕉の句碑「木がらしに岩吹き尖る杉間かな」は、本堂前の奇岩の間にある。

禅師峰寺の見どころ

寺宝  : 鎌倉後期・徳治3年(1308)の梵鐘、室町時代・永禄13年(1570)の鰐口。
      ともに県指定文化財。

武市半平太(別名瑞山・土佐勤王党を組織した藩士。寺を下った場所に旧宅と墓がある。)

      

 

      


四国八十八ケ寺の72番から75番の札所に行って来ました。(2020-5-27)

2020-06-09 | お出かけ

コロナ騒動で何処にも行けない毎日が続いていますが、5月の27日に善通寺の従弟の

葬儀に参列して その後 善通寺にある四国八十八ケ寺の72番から75番の札所を回って来ました。

 母の実家は善通寺の有岡という大麻山が
 見える所にあり、よく行っていました。
 従弟は享年73歳で一緒に過ごしたことだ
 思いだされます。
 善通寺のお寺には何度も行っていて、今回
 「カタパン」と亀が懐かしかったです。
 葬儀があったのは生野で 75番→74番
 →72番→73番の順にお参りしました。

 



       

第72番札所 我拝師山 延命院 曼荼羅寺

聖観音立像:笠松と呼ばれていた「不老松」の幹に刻んだ弘法大師座像。
      お遍路さんは笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んでいます。

笠松大師:観音堂に安置されており、158cmの檜一木造りで端麗な佇まい。
     平安後期の作。香川県有形文化財。
     四国88カ所記念切手にこの仏様のお顔が描かれています。

曼荼羅寺の歴史・由来

縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。
讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。
弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。
母玉依御前の仏果菩提を祈るためだったともいわれています。
唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。
本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、
寺名を「曼荼羅寺」に改めました。

また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの
「不老松」の存在も紹介されています。
高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような
印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。
しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています。

曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘がありますが、ここに庵を建てて7年余り
暮らしていたのが西行法師。
この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたようで、
この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。
また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木も。
西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て
「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」
という歌を詠んだそうです。

 

        

第73番札所 我拝師山 求聞持院 出釈迦寺

捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え、祈願すれば同じぐらいの
ご利益があるといわれます。

捨身ヶ嶽遥拝所:寺の境内から50分ほど登った場所にあり、
さらに100m進むと大師捨身のお行場が毎月旧暦15日には護摩祈祷が行われています

出釋迦寺の歴史・由来

出釋迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。

この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。

また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに50mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります。

 

        

第74番札所 医王山 多宝院 甲山寺

本堂:檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な
   「薬師如来像」が祀られています。
毘沙門天の岩窟:大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟。
        大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。

甲山寺の歴史・由来

甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。
平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、
仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。
弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。

その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師。朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事です。
弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。
すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたのです。
朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、
先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の甲冑の形に似ていることから
「甲山寺」と名づけられました。
薬師如来は、心身に災いする一切のものを除くといわれる仏様。
甲山寺を訪れた人々の力強い支えとなっていることは言うまでもありません。

甲山寺の見どころ

本堂・毘沙門天の岩窟・子安地蔵(大師堂へ続く石段の隣に祀られたお地蔵様は子宝に
   ご利益があるとか。 
   子宝を願ってお地蔵様の前掛けを持ち帰り、叶うと新しい前掛けを持ってくる習わし。)

 

        

第75番札所 五岳山 誕生院 善通寺

金堂:善通寺の本堂。創建当時の金堂は、永禄元年(1558)、
   三好実休の兵火により焼失し、現在の建物は、
   元禄12年(1699)に上棟されたものです。
   本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルにも及ぶ
   丈六の巨像で、元禄13年(1700)、
   御室大仏師北川運長によって造像されました。

五重塔:総高43メートルに及ぶ大塔で、善通寺のシンボルとして、
    広く人々に親しまれています。創建以来、大風や火災に
    より、いくたびかの倒壊・焼失を経ましたが、
    そのたびに再建されました。
    現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨に
    より再建が始められ、明治35年(1902)に
    完成したものです。
    初層には五智如来像のうちの4体が安置され、
    毎年ゴールデンウィークに特別公開を行っています。

善通寺の歴史・由来

五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。

鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。

現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。

総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。

善通寺の見どころ

金堂五重塔御影堂(弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自筆と伝わる
           本尊・ 瞬目(ひめき)大師像が秘蔵されています。
現在の建物は天保2年(1831)に再建され、昭和12年に大規模な修築がされました。
また、御影堂地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、
暗闇の中、御宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっています。

 

        

 香川県には歯が折れそうなくらい堅い堅い  堅パン というお菓子があります。
 堅パン は全国にたくさんありますが、
 歯が折れるんじゃないかと不安になる
 くらい堅いのはきっと善通寺の
 「熊岡菓子店」の堅パンだけ!
 善通寺の池の亀
   外来種のカメが爆発的に増加、ペット放棄で、困るNY | ナショナルジオ ...

Googleマップを載せます。


七ヶ所まいり(しちかしょまいり、ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。

概要[編集]

それまで修行者が多く巡礼していたものが、江戸時代ごろから庶民の間で流行するようになった。その1つが四国八十八箇所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小さまざまな巡礼地が作られた。また、近年では四国別格二十霊場新四国曼荼羅霊場なども各地で作られているが、これらは「移し霊場」または「写し霊場」と呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われる。

七ヶ所まいりは、四国八十八箇所巡礼が困難なものが阿波一国参りや讃岐一国参りとして、短期間で巡礼できる遍路としてはじめたことから発祥したとされる。

また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。

いずれにしても、当時の旅籠屋が発行した観光ガイドが金比羅参詣や弘法大師ゆかりの地の三箇所、そして七ヶ所まいり等の参拝方法の紹介役を担ったことが分かる。

七ヶ所まいり参拝順路[編集]

  1. 四国霊場第71番 - 弥谷寺(大黒天)
  2. 四国霊場第72番 - 曼荼羅寺(福禄寿)
  3. 四国霊場第73番 - 出釈迦寺(恵比寿神)
  4. 四国霊場第74番 - 甲山寺(毘沙門天)
  5. 四国霊場第75番 - 善通寺(布袋尊)
  6. 四国霊場第76番 - 金倉寺(弁財天)
  7. 四国霊場第77番 - 道隆寺(寿老人)

四国八十八ケ寺の80番から83番の札所に行って来ました。(2020-5-27)

2020-05-28 | お出かけ

コロナ騒動で何処にも行けない毎日ですが、5月の23日に家内の友人が勧めてくれた

「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵を見に行きました。 それと一緒に

四国八十八ケ寺の80番から83番の札所も回って来ました。

 龍の絵が飾られている神社は
 「川東八幡神社」でそこに行く途中に
 83番札所の一宮寺があり、そこに
 お参りしました。

 その後に「川東八幡神社」に行き
 龍の絵をみてきました。
 手の指先だけで書いたとはとても
 思えない立派な絵でした。

 次に82番札所の根来寺に行き、
 81番札所の白峯寺から
 80番札所の国分寺を回って
 来ました。


        

第80番札所 白牛山 千手院 国分寺

本堂:鎌倉時代、旧講堂跡に再興された国の重要文化財。本尊はケヤキの一本造りの秘仏。
  (ご開帳は60年に1度、次回は2040年を予定)

梵鐘:創建当時から残る四国最古の鐘。興味深い伝説が多いことでも有名。

国分寺の歴史・由来

奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が四国で唯一の国の特別史蹟。
本堂は、前面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。
また境内地の中心部には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、
現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。
また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、
現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。
寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩がの開基した讃岐の国の国分寺です。
その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、
「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代には西大寺の末寺であったとする記録があり、
その頃、現在の本堂が建てられ、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。

また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)大蛇がかぶっていたという伝説とともに
次のような実話があります。
江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町と引き換えに手に入れます。
ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。
しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた
一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へいぬ(帰りたい)」と泣くのです。
そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。
城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、
鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。

国分寺の見どころ

奈良時代の礎石が残る。(金堂跡・七重塔)広い境内には黒松の大木が樹立します。
本堂・梵鐘・礎石(金堂跡、七重塔跡)・大師堂(大師像が直に見える)
弁財天(国分寺には、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」を祀る。)

 

        


第81番札所 綾松山 洞林院 白峯寺

干支守り本尊:高松藩主松平頼重公が造営した勅額門と頓証寺殿は装飾、
       構造共に非常に手が込んでおり、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられ、
       傑出した特色を持つ極めて貴重な建物であり、天皇、神、仏の三者を
       一堂で祀る形式は全国的にも他に類を見ないものである。

勅額門と頓証寺殿:境内のお堂ごとに干支(えと)の守り本尊がそれぞれに祀られており、
         本堂、大師堂をお参りした後に自身の干支の守り本尊が祀られている
         お堂をお参りする参拝者が数多い。

白峯寺の歴史・由来

白峯寺は香川県中程にある霊峰の五色台には青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の五峯の山があり、
その最も西よりの白峯山にあります。参道からは瀬戸内海の雄大な景色が望める静かな古刹で、
弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。
弘仁6年、弘法大師は白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願しました。
後に智証大師は、瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁のご神託を受け、
瀬戸内海に現れた光明に耀き芳香薫ずる霊木で千手観音像を彫造し、
これを本尊として佛堂を創建したと伝えられます。

白峯という、まろやかな響きを持つこのお寺には、有名な物語が二つあります。

保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬまま
寂しくこの地で亡くなられ、御遺詔によって当山稚児嶽上に荼毘し、御陵が営まれました。
しかし都では異変が相次いだため、代々の天皇、公卿、武将も恐れ崇め奉り、
御府荘園を寄せて菩提を弔い、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して慰霊の誠を尽し、
特に第100代の後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺」の勅額を奉納し尊崇の意を表しました。
また仁安元年、上皇と親交のあった西行法師が慰霊の為に御廟に参詣した際に
上皇の霊と歌を詠み交わした話は上田秋成作『雨月物語』の伝説でも有名です。
また、境内には上皇の悲話を伝える玉章木(たまずさのき)もあります。

また白峯山には日本八天狗の一狗である心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられています。
突然の来客があり和尚の命により、小僧さんが豆腐を買いに出かけたところ、
突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。
そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り元の場所に立っていました。
これは、突然の買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと今なお語り継がれています。

住時は塔頭21ヶ坊を数え隆盛を極めていましたが、度々の雷火、兵火の災いに遇い、
現存するものは藩侯生駒家、松平家の再建によるものです。

白峯寺の見どころ

建造物では十三重石塔2基、山門(七棟門)、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂、美術品では「頓証寺」勅額が国の重要文化財で、その他多数の指定文化財を有しています。

境内には四国で唯一の天皇の墓所である白峯陵が隣接し、すべての干支の守り本尊が各お堂に祀られ、日本八天狗の一狗である白峯大権現(相模坊)が祀られています。

香川県の保存木に指定されている樅(モミ)の巨木をはじめ、年中を通して花々が楽しめ、特に春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が有名で多数の参拝者が県内外から訪れます。

参道には県内最大級の落差を誇り、幻の滝ともいわれる稚児の滝や、瀬戸内海を一望できる白峰展望台があります。

また、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸事、学問の神様として信仰されています。

 

        


第82番札所 青峰山 千手院 根香寺

五大尊像:納経所左。弘法大使の開基ゆかりの五大明王。不動明王、降三世夜王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王

牛鬼の像:山門近くの茂み内。伝説に出てくる牛鬼が鬼気迫る面持ちで建っています。

根香寺の歴史・由来

五色台の主峰、青峰山に佇ずむ、かつての巨刹。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峰に「花蔵院」を建立されました。後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置しました。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれます。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました。

寺には次のような伝説があります。昔、青峰山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいました。村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治してもらうことしました。しかし、高清が山へ入れど、なかなか牛鬼が現れません。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけました。すると21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのを発見しました。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。その角は今でも寺に保存されています。また牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれています。

根香寺の見どころ

五大尊像・牛鬼の像・万体観音(本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した約三万三千体の観音像が並んでいます。)

        

 

        

        


第83番札所 神毫山 大宝院 一宮寺

一宮寺の歴史・由来

創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇ります。
開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、
南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出。
和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。
また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの”聖観音” 聖観世音菩薩を彫造し、
伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。

この寺も同じく、天正の兵火により灰燼に帰しましたが、
中興の祖とされる宥勢大徳によって再興されました。
また江戸時代に高松藩主により田村神社の別当を解かれました。
神仏分離の200年も前の出来事です。

この寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があります。
これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがあります。
一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。
昔、近所で暮らす意地の悪いおタネばあさんは、「そんなことはない、試してみよう」
を頭に入れると、扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭は抜けなくなりました。
怖くなったおタネさんは、今までの悪事を謝りました。
すると頭はすっと抜けました。それからおタネさんは心を入れ替え、
親切になり、元気に長生きしたそうです。

一宮寺の見どころ

本堂・一宮御陵・地獄の釜(伝説の釜は、弘法大師が戒めのために作られたと伝えられます。)

        

        

        


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「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵が奉納されている

「川東八幡神社」の画像です。

 

「日本唯一の指画作家 濱田球鳳」さんの龍の絵と奉納時の画像です。

        

濱田球鳳さんの指画を紹介したYouTubeです。

  

 

 左の画像をクリックすると YouTube に
 
 リンクします。

 以前の投稿分はリンクできなlくなりました。

 濱田球鳳さんは亡くなられています。

 

 


四国八十八ケ寺の76番から79番の札所に行って来ました。(2020-5-20)

2020-05-21 | お出かけ

コロナ騒動で何処にも行けない毎日ですが、5月の15日に実家の多度津に行った際に

四国八十八ケ寺の76番から79番の札所を回って来ました。

どのお寺も多度津から高松に戻る途中にあって、多度津→宇多津→坂出→高松で

近かったです・

      

 第76番札所 金倉寺
 金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の
 開祖「智証大師」が誕生した地。
 縁起によると、弘法大師が生まれた
 宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が
 建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、
 仁寿元年(851)11月に官寺となった際に
 開基の名をとって「道善寺」となり、
 その後、唐から帰朝した智証大師が
 唐の青龍寺にならって伽藍を造営、
 薬師如来を刻んで本尊に。
「金倉寺」になったのは928年、
 醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷に
 ちなんだ寺名となったようです。


第77番札所 道隆寺
仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。
縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、
小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。
道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。
この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。
嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。

大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、
弘法大師自ら90センチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。

朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、
寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。
第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、
第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、
次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。
高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や、
康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、
法灯を守り続けている。

 実家の近くに四国八十八カ所の第77番札所
 「道隆寺」
があり、古くから行われている
 鴨市があります。

 植木や野菜の苗などが売られていて、
 何度か行きました。

 その後、鴨市は多少変って来て、農機具なども
 展示される
ようになっているが、
 昔からの鴨市は今でも相当な賑いを

 呈しているそうです。
 この春市は、塩屋市・海岸寺市と続き、最終が
 金倉寺市で終り、それから麦刈りに忙しくなる。 

 亡くなった母がお寺の伽藍でハトにエサをやっている写真があったので、貼りつけてみました。

 私達の小学生時代には、春と秋のお彼岸の中日には、「七ヶ所まいり」があり、弁当をさげて、
 友達と、
おまいりした。七ヶ所めぐりの寺々は 
 ●第71番 弥谷寺  ●第72番 曼陀羅寺 ●第73番 出釈迦寺
  ●第74番 甲山寺   ●第75番 善通寺     ●第76番 金倉寺 ●第77番 道隆寺

第78番札所 郷照寺
境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、
「四国の表玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。
地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。
縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。
行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。
御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。
その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して
厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。

京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは
仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が
霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。
さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者及び中院流の祖である高野山の
道範阿闇梨が配流となったとき、この寺を仮寓にした。
「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に逗留して易行・浄土教の教えを
広めたことから、真言・時宗の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となり、
今日も真言三密の教え・浄土易行の教えが脈々と伝わっている。

第79番札所 天皇寺

天平年間に四国巡錫の為に当地を訪れた行基は、鉱石が多く産出されるこの山が、
カナヤマビメとカナヤマヒコの御座す山であるとし、金山と名付ける。
そしてこの金山中腹に薬師如来を御本尊とした金山摩尼珠院を建立し、
この地が神仏習合の地であることを現した。

後の弘仁年間に空海が訪れ、朽ち果てた金山摩尼珠院を現在の79番札所の場に移動させ、
金華山妙成就寺摩尼珠院として中興する。
空海を中興の思いへと向かわせたのは、御神体金山を鎮護する金山権現との出会い、
そして金山中腹より湧き出る御神水との感応にあった。
ありとあらゆるすべての蘇生が可能であると確信を得た空海は、この耶蘇の地にて
十一面観音菩薩・阿弥陀如来・愛染明王を刻み堂宇に安置する。

後の保元の乱により讃岐へと配流された崇徳天皇と空海御手彫阿弥陀如来の出会いは、
空海中興金華山妙成就寺摩尼珠院を崇徳天皇永代別等職へと至らせることとなる。

崇徳天皇御崩御の後、寺院境内に崇徳天皇社が造営され、後嵯峨天皇による永代別等職の詔を賜り、
崇徳天皇供養の寺、崇徳天皇寺と呼ばれるようになった。

明治時代の廃仏毀釈による廃寺という現象は、筆頭末寺であった奇香山仏乗寺高照院院主らの
尽力による、今日の金華山天皇寺高照院を生み出すこととなった。

天皇寺の見どころは三輪鳥居

天皇寺境内にそびえ立つ朱色の鳥居は、奈良県大神神社と同系の三輪鳥居であり、
両部神道を源とする三輪神道で境内が荘厳されていることを表した鳥居である。

鳥居向かって左側には源頼朝寄進の下乗石、天皇寺境内正面には崇徳天皇社が建立されている。


下の画像は 第76番札所 金倉寺の風景です。

 

        

下の画像は 第77番札所 道隆寺の風景です。

 

        

下の画像は 第78番札所 郷照寺の風景です。

 

        

下の画像は 第79番札所 天皇寺の風景です。

        

 左の画像は八十八名物の「ところてん」
 のお店です。
 多度津から高松に行く途中によく見た
 ところてんの看板が気になっていて
 立ち寄ったら 近くに
 第79番札所 天皇寺 がありました。

 お店は「清水屋」さんで かなり
 古くからの営業で感じの良いお店です。

GoogleMapを埋め込んでみます。      

四国八十八ケ寺の7番から10番の札所に行って来ました。(2020-4-20)

2020-05-13 | お出かけ

コロナ騒動で何処にも行けない毎日ですが、4月の20日に鳴門市の「JF北灘さかな市」に行って

鳴門の天然鯛を買った後 四国八十八ケ寺の7番から10番の札所を回って来ました。

昼食は藍住町でウナギを食べたのですが、徳島のウナギは有名とかで美味しかったです。

1番から6番の札所はわくわくお出かけで回ったので、続いて7番から10番の札所を回る

ことにしました。どのお寺も阿波市にあって4つのお寺が近くにあって短時間で納経所で

御朱印をもらって 近くの「土成IC」近くの道の駅に寄ってから帰って来ました。

 第7番札所 十楽寺は 創建からしばらくは、
 阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を
 誇っていたが、兵火で、すべての堂塔が
 焼失し1635年に現在の地に移り、
 再建された。
 平成6年には立派な木造の本堂を建立。
 「治眼疾目救歳地蔵尊」は、古くから
 眼病、失明した人たちの治療に霊験が
 あるとされ、眼病に悩むお遍路さんの
 参詣が多い。

 第8番札所  熊谷寺は 四国霊場のなかで
 最大級の仁王門を構える。 
 仁王門は、貞享4年(1687)の建立で、
 徳島県の指定文化財である。


和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル。
2層目の天井や柱には極彩色(ごくさいしき)の天女の姿などが描かれている。
大師堂に安置されている弘法大師坐像は室町時代の作で、県指定の文化財である。

第9番札所  法輪寺は むかし、松葉杖なしでは歩けなかった人が参拝にきたとき、
参道の真ん中あたりで足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるように完治したという伝えがあり
本堂にはたくさんの草鞋が奉納されている。
古くは「白蛇山法林寺」と称され、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。
縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。
白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、
本尊として寺を開基したとされている。

第10番札所 切幡寺は 国指定重要文化財である切幡寺大塔があり、山麓から本堂まで333の石段がある。
切幡寺大塔は 初重と二重の間が方形で、日本唯一の構造様式。豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため建立、
明治6年に大阪の堺にある住吉大社神宮寺から移築し、完成に10年を要した。

切幡寺の見どころは山麓から本堂まで・切幡寺大塔(国重要文化財)・はたきり観音
(乙女が即身成仏して観音さんに化身した銅像。右手にハサミ、左手に長い布をもつ。)
333の石段は本堂までの道があり、行った人の後を付いて行って無事にたどり着けました。

      

      


鳴門市の「JF北灘さかな市」で桜鯛が安く買えると聞いて行ったのですが日を間違えていました。

      お昼は藍住町で見つけたお店てウナギを食べれて良かったです。

      


以前のブログで四国八十八ケ寺に行った時のことが書いてあります。

2020年の2月のお出かけで 

四国八十八ケ寺の84番から88番に行って来ました。2020-02-05 

            

 

2017年の4月のお出かけで

4月のわくわくお出かけは「四国八十八ケ所のバスツアー」に行きました。 2017-04-24 

      

 


四国八十八ケ寺の84番から88番に行って来ました。

2020-02-05 | お出かけ

今年(2020年は「うるう年」で四国のお遍路で「逆うちの年」だそうで、お出かけのメンバーが

7名でバスツアーでやって来て 私は家内と車で一緒に行きました。

2月2日には能勢の友達が畑仕事を手伝ってくれて、八栗寺と屋島寺に行きました。

  左の画像は 四国八十八ケ寺
 の84番から88番目の
 お寺の場所をあらわしています。
 84番が屋島寺で、85案が
 八栗寺です。
 2/2の日曜には八栗寺で「だいこん
 祭り」があり 家内と友達で
 車とケーブルで行って来ました。
 いつも見ている五剣山の中腹に
 ある 立派なお寺でした。

 屋島寺は車ですぐに行ける距離で
 ドライブで行って来ました。

 2/5のバスルアーは88番の
 大窪寺から 87番の長尾字に
 行ってから 86番の志度寺から
 大阪に帰りました。

 以前にお出かけで八十八ケ寺に
 来たことがあります。

 4月のわくわくお出かけは「四国八十八ケ所のバスツアー」に行きました。2017-04-24 |

 

 

i以前のブログにも お遍路さんについて書いた記事を見つけました。

  志度の高速バス停で四国88ケ所参りの女性に会いました。 2012-10-18 

   


下の画像は 屋島寺と八栗寺を編集したものです。

下の画像は 志度寺 長尾字 大窪寺の写真を編集した分です。

                     


下の画像は「東讃五大寺まいり」の資料をスキャナ^で取り込んだ分です。

それと八栗寺で開催されていた「だいこん祭り」のチラシです。

                 


わくわくお出かけは 四国88カ所の88番と 87番と 86番でした。

Nさんが撮った写真を送っていただきました分を 以下に載せます。

     

     

     

     


2020年1月のお出かけは「石清水八幡宮」へ行きました。

2020-01-23 | お出かけ

1月のお出かけは1/21の火曜日に 7名のメンバーで「石清水八幡宮」お参りをして来ました。

志度発6時の高速バスで神戸に向い、9時には大阪駅に着きました。帰りは大阪発16時半の高速バスでした。

 吹田駅に集まったメンバーと大阪駅で合流して
 環状線で京橋駅に行き、京阪電車の普通に乗りました。
 私は「石清水八幡宮」に行くのは初めてで国宝に
 指定された社殿もあります。
 石清水八幡宮は、京都府八幡市にある神社。
 二十二社の1つで、伊勢神宮とともに二所宗廟の1つ 
 宇佐神宮・筥崎宮または鶴岡八幡宮とともに
 日本三大八幡宮の1つ。
 

駅の近くから参道ケーブルがあり、楽に行って帰れてよかったです。最初の団体写真を駅前で撮りました。

 

「石清水八幡宮」の境内でいろいろと写真を撮りました。 Nさんが三脚を用意してくれて撮った分と
 後で 合成してくれた団体写真です。

 

 

 

 

京都の町が一望できるという展望台からのパノラマ写真と 団体写真です。

     

     

 食事をする場所には2駅離れたところの
 「KEIHAN モール」が良さそうなので樟葉に
 行きました。樟葉は義兄が文化住宅を建てた
 ところで、工事の現場に行ったことがあります。
 50年以上も前のことで当時は相当な田舎でした。

 京阪くずはモール街 
 1972年4月に京阪本線樟葉駅前に
松坂屋と
 ダイエー、イズミヤの3店舗を核として、

 その他150店舗の専門店街と約1200台が
 収容できる
駐車場 日本では珍しい本格的な
 オープンモールと
開設された。

 KUZUHA MALL(くずはモール)
 2005年4月14日に
オープンした新生くずはモール「KUZUHA MALL」と称されることになった。

下の画像は食事風景を編集した分と、食後に店の前で店員さんに撮ってもらった分です。

ちょうど7名の席があり、ハンバーグとステーキの定食でビールを飲んで3時近くまで歓談しました。

              

 


12月のお出かけは千里中央の「梅の花」での忘年会でした。

2019-12-22 | お出かけ

12月のお出かけは12/17の火曜日に 13名のメンバーが千里中央の「梅の花」で忘年会をしました。

志度発9時の高速バスで大阪に向い、1時には着きました。帰りは17時半の高速バスでした。

 左の画像は二人づつ撮ったのを

 うまく編集できました。

 久しぶりに女性の参加があって

 良かったです。

 皆さんとても楽しそうです。

 



下の画像は2方向から撮った画像を編集しました。

     

下の画像は食事が終わった後に Nさんがうまく全員を写してくれました。

     

最後にお店の前でお店の人に撮ってもらった全体写真です。

     

 テーブル席の個室を予約してくれて楽でし
  た。

 料理も美味しくて皆さん飲んで歓談しまし
 た。
帰りの阪神デパート付近の写真です。

 


 2019年のお出かけのブログを振り返ってみます。

1月のわくわくお出かけは「ニュートーキョー 第一生命ビル店」での新年会でした。 2019-01-27 

  

2月のわくわくお出かけは「白鶴酒造資料館」の見学会でした。  2019-02-22 

 

3月のわくわくお出かけはバスツアーで「奈良公園3名所」を見学してきました。  2019-03-21 

 

4月のお出かけは桜ノ宮公園の桜を見に行って来ました。  2019-04-05 

 

5月のお出かけはうつぼ公園のバラを見に行って来ました。  2019-05-22 

 

6月のお出かけは京都三十三間堂を見に行って来ました。  2019-06-20 

 

7月のお出かけは大阪府警と府庁の見学に行って来ました。  2019-08-05 

 

11月のお出かけはレオマワールドに泊まって志度の畑も見てもらいました。 2019-11-16