ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

今年の一月中に行った四国八十八ケ寺のブログをまとめました。

2021-03-05 | お出かけ

1/3に行ったブログはアップしたのですが、その後 1/16に行った66番雲辺寺と

1/18の今治市の57番永福寺から59番国分寺の3カ寺と

1/26の西条市の61番香園寺から64番番前神寺の4ケ寺の分です。

     

 左の画像は60番横峰寺までの道は

 2月28日まで通航止めとの案内です。

 遠い山道を苦労して入り口めで行って

 帰って来ました。

 この掲示は市内の61番香園寺で見つけました。

 

① 1/16に行った66番雲辺寺のブログです。

  66番雲辺寺は遠いので香川県でまだ行っていませんでした。
  ロープウェイで登ってのお参りですが、少し前に降った雪がたくさん残っていました。

    

      

   雲辺寺の歴史・由来 
   四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、
  「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。
   現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。
   住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。

   
霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる
   僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。

                       

    

       

② 今治市にある57番永福寺から59番国分寺の3カ寺のブログです。

  1/18には家内が岡山の病院に行った帰りに、西条市の西にある伊予小松から北に行くと
  今治市に着きました。市内にある57番永福寺から59番国分寺の3カ寺を回って来ました。

   

  57番 栄福寺  
  
栄福寺の歴史・由来

  瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。
  栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、
  海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。

  縁起によると、嵯峨天皇の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。  
  内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。
  その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。
  この阿弥陀如来の尊像を本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。

    

        

      58番 仙遊寺 
  仙遊寺の歴史・由来
  境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、
  今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。
  その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した
  「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。

  創建は天智天皇の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、
  本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、
  海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。
  さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、
  七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという
  伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。

 

  59番 国分寺
  国分寺の歴史・由来
  伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。
  往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。
  東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。
  礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、
  豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、
  その面影をいまに残している。

  国分寺は天平13年、聖武天皇の勅願により
  行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。

   

                          

          

③ 西条市にある61番香園寺から64番番前神寺の4ケ寺の分です。

         1/26には西条市内の60番横峰寺から64番番前神寺を回る予定でしたが 60番横峰寺が
  通行止めで行くことが出来ず、4ケ寺を回って来ました。

                           

      

              61番 香園寺 
    香園寺の歴史・由来香園寺は聖徳太子の開基という四国霊場屈指の古刹であり、
    一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。
    
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。
    このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、
    本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。
    のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。

    弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。
    ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。
    婦人は元気な男子を無事に出産した。
    これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、
    再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る
   「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。

                 

         

   62番 宝寿寺 
    宝寿寺の歴史・由来
    往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが
    宝寿寺の沿革である。

    縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
    その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、
    大和の僧・道慈律師が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
    このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、
    現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。

    弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間で、寺に久しく留まり
    聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。
    これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。

       

   

   63番 吉祥寺

    吉祥寺の歴史・由来
     四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。

     弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、
     その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。
     大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像
     を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
     寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。
     高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。
     土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、
     元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、
     徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。    

   

      

   64番 前神寺

    前神寺の歴史・由来  
     山岳信仰の山として崇拝される日本七霊山の一つである石鎚山の麓の霊場で、
     真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。
     開創は、天武天皇時代に修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んだ後、
     衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって
     現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する。
     その後、桓武天皇が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、
     勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された。
     以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。
     後に空海も2度石鎚山を巡鍚し虚空蔵求聞持法や護摩修行、
     断食修行などを行ったことが知られている。