「写真俳句」という言葉に触発されて、ほぼ1年の月日が過ぎた。
自分勝手流の俳句なので、噴飯ものに違いない。しかし、私自身は楽しんでやっている。
その後、病気もした。自分の生命について、深く考えるようになった。
もっと生きたい。それは強い思いだ。さればとて、どうにもならないこともある。その覚悟めいたものはできた。その実感はある。
決して投げやりとか自棄っぱちではない。天命を感じたとでも言おうか。
偉そうなことを言ってしまった。その場に臨んで、じたばたしないと断言はできない。
つまり、中途半端な「覚悟」だ。
麻生太郎さんが自民党総裁に選ばれたとき、「天命」という言葉を用いた。あれは少し妙だ。総裁の椅子を望んだのは自分だ。私は病気を望んではいなかった。
世界の動きは目まぐるしい。早さには追いつかない。眼をしばたたかせているだけだ。情けないこと夥しい。
どうせ追いつかないなら、じっとしていようか。でも、それでは邪魔者になるだけ。動きが鈍いなりに、せめて眼だけでも追わなければなるまい。
もっとも、なまじ動けば、足手まといになることもある。
そこが難しいところだ。
死ぬ病待つわけでなし露の玉 鵯 一平
「露」は秋の季語。
古来から、 「はかない生命」にたとえられたり、「涙」にたとえられたりしている。
私は「涙」を思っていない。定めがたい行く末を感じてはいる。
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