ゆめ未来     

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いつも雨が降っていた/時計仕掛けの歪んだ罠

2021年02月08日 | もう一冊読んでみた
時計仕掛けの歪んだ罠/アルネ・ダール    2021.2.8    

スウェーデンの人気作家アルネ・ダールの 『時計仕掛けの歪んだ罠』 を読みました。

巻末の「解説」では、絶賛されていました。読み終わってみると、ぼくは意外に地味なミステリだったと感じました。
しかし、実に緻密な筋の運びです。
読み始めた当初は、文章がゴツゴツとした感じでリズムに乗れませんでした。これには、少し苦労しました。
それが解消する頃、今度は謎が追えなくなってきました。
そもそも、謎、それが何を意味しているのかがつかめません。
誘拐犯の幼なじみは、あっけなく亡くなってしまいます。その友人との思い出は青春そのもの。
たった一人の幼い日の親友。時計の全てを教えてくれた友。
ある時計の小さな六個の歯車。その歯車が、謎を解く道しるべになっています。
約550ページの大部な物語なのですが、最後まで不思議な魅力に捉えられて、本書を手放すことが出来ませんでした。
ますます大きな謎を残して、物語は次に続きます。

 2021年版 このミステリーがすごい! 海外編 8位


 「地下室がある」
 「どうしてわかるの?」とディアは尋ねた。「地下室のドアなんてどこにもないのに」
 「ドアじゃない。ハッチだ。手袋をはめるんだ」
 全員がラテックスの手袋をはめ、四方に散ってロールスクリーンを巻き上げた。
 最後にキッチンからディアのくぐもった声が聞こえてきた。
 「来て!」ベリエルが行くと、彼女は冷蔵庫の横の木の床を指差した。
 冷蔵庫とオーヴンのあいだの床板に長方形の切り込みがあった。取っ手はなかった。
 ベリエルは長方形を見つめた。このハッチが始まりだった。このハッチこそすべてを変え、ベリエルを闇の底へと引きずり込むとば口だった。


 大げさなまでに間延びした口調でアランは言った。「そもそも殺人犯などいないんだよ、サム。犯人がいたとしてもせいぜい誘拐犯だ。毎年スウェーデンじゃ八百人が行方不明になっていて、その大半が自分の意思で行方をくらましている。毎日ふたり以上の計算だ。そういう自発的な失踪者からたまたまふたりを選んで、自分以外には誰にも見えない連続殺人犯に殺されたなんぞと主張することには、どうしたって無理がある。そもそもこの国には連続殺人犯など存在しない。そんなものは腐敗した検察官や野心に燃える警察官の頭の中にしか存在しない。ついでに言っておくと、野心家の警察官というのは腐敗した検察官より性質が悪い」
 「殺人犯などいない?」とベリエルは刺々しく言った。
 「ああ、そもそも被害者がいないんだから」
 「あなたはあの地下室にはいらなかった。だからそんなことが言えるんです。アラン、断言してもいい。被害者はいる。それも複数」


 「彼女はまだ十五歳です」とベリエルは努めて感情を抑えて言った。「十五歳の少女があの地下室に三週間近く閉じ込められていたんです。暗くて臭い地下室に。そこにあったのは大便をするためのバケツだけです。
そんなところに頭のおかしな男が時々訪ねてくるんです。彼女が出血したのはまちがいない。なのに、悪魔が存在すると思ってるのはほんとうにおれだけなんですか? しかもこの悪魔はうぶな初心者なんかじゃない。経験者だ。おそらくかなりの」
 「今問題にしているのはそんなことじゃない、サム。今問題にしてるのはれっきとした証拠だ」
 「証拠なんてものは突然頭の中に浮かんで現われるものじゃない」とベリエルは反論した。
「証拠とはどんな手がかりも無視せずに集めることでやっと得られるものです。証拠かどうかもわからなくても、どんな手がかりも軽んずることなく追及してやっと得られるものです。
あてはなくてもそういうことを続けるには自分の直感を信じるしかない。経験を信じるしかない。そうすれば、最後には手がかりが証拠に変わる。アラン、頼みます。このまま坐って証拠が出てくるのを待てと言うんですか? それがあなたにとっての警察の仕事のやり方なんですか?


 これはやつからの招待状だった」とベリエルはひとりごとを言うようにつぶやいた。
 「今度はなんだ、何が言いたいんだ?」アランはまた大きなため息を洩らした。
 「考えてもみてください。今になって目撃者が現れたんですよ。三週間も経ってやっと。
森に隣接したマーシュタの近郊で、何者なのか誰も知らないひとり暮らしの男の家で、少女の姿が一瞬だけ目撃された。警察は迅速に対応しなければならなかった。しかし、日曜日ということから選択肢はあまり多くはなかった。たとえば、マーシュタの町役場には建物の図面を見つけることができなかった----こっちはしつこくせっついたのに。その結果、現場に駆けつけたらあんな仕掛けに出くわした----そう、ブービートラップに----それも想像を超えるなんとも巧妙な仕掛けだった。それはわかりますよね、アラン?」


 エクマンはベリエルの記憶に残ることばをひとつ発していた。やりとりの一番最後に----ベリエルはそのときにはもう椅子から立ちかけていたのだが。
 その明るい緑の目でベリエルを見すえ、エクマンは囁くように言った。“犯人は邪悪そのものです。絶対に捕まえてください。”
 決まり文句だ。しかし、真情があふれていた。決まり文句は案外そんなふうに口にされる。


 気づくと、ベリエルはまた雨の中にいた。土砂降りの中、あの廃屋同然の家の裏に立っていた。背中にあたる板壁の木は腐っていて軟らかかった。警察官がひとり、またひとりと雨の中に姿を消し、曇ったスープの中に呑み込まれていった。彼自身もすすり泣きのように聞こえるディアの息づかいを背後に感じながら雨の中に出た。地獄の家は闇にまぎれてすぐには見えなかった。
 同じような地獄がこの不愛想なドアの向こう側で待っている可能性もなくはない。
 地獄に対しては備えが要る。精神的にも肉体的にも警察官としても。そこでやっと自ら招いた状況が理解できた----おれはあまりに性急に行動している。
 ピッキング道具を持っている自分の手を見た。その手はただ道具を持っているだけではなかった。すでに動いていた。自分の手とは思えないようなその手が震えていた----小さなネズミか、生まれたてのウサギのようにピンク色をして、餌食になることを恐れるかのように。
 右手の関節の傷がいつのまにかまた開いていた。まるで生身がさらされているような気がした。
 ほとんど真っ暗な窓に雨が叩きつけていた。


 「小学校にはいったときからあいつには頼れる相手がいなかった」とベリエルは言った。
「いじめから逃げるのに、母親とふたりでストックホルムの郊外を転々としていた。子供のいないきみにはわからないかもしれないが、親にとって自分の子供かいじめられるというのは想像を絶するほど辛いことだ。子供の世界というのは残酷なものだよ。それはどこに行っても変わらない。それでも一個所にとどまってはいられない。だからあちこち逃げまわるしかない。どこへ行こうと同じ地獄が繰り返されるのに」
 「彼の母親について何か覚えてる?」とブロームは訊いた。
 「ほとんど何も」とベリエルは答えた。「ただ、いつもぴりぴりしてる人だった」
 「ぴりぴり?」
 「神経質な人で、いつも何かしていた。じっとしてられないようだった。それになんか変なにおいがした」
 「変な?」
 「きみはおれの精神分析医か?」
 「集中して。変なってどんなにおい? 嫌なにおい?」
 「いや、全然。どちらかと言うといいにおいだ。甘いにおいと言ってもいいな」
 「アルコール?」
 ベリエルは少し間を置いてからゆっくりとうなずいた。


 「あの雪玉」とブロームは言った。「わたしは投げてないんだけど」
「でも、きみもいたんだろ?」とベリエルは言った。「あのとききみもあの集団の中にいた。
あいつは時計が大好きだった。それを壊されるというのはこの世で一番大切なものを攻撃されるのと変わらない。あいつが好きだったのは腕時計、懐中時計、壁掛け時計だった。でも、あの頃には一番むずかしい時計を組み立てはじめていた----塔時計だ。とはいえ塔などなかった。あったのはボートハウスだけだ。だからボートハウスに合うように時計の構造を修正して、復讐のために使おうとした。結果的にきみがその犠牲になったのは、モリー、たぶん偶然だよ」
 「でも、今はちがう。今はもう偶然とは言えない」
 「今はまったく別次元の問題になった。ただ、おれに時計を見せてくれたときにはあいつは称賛されたかったんだよ。顔ではなく、才能で評価されたかったのさ。あのときには何かを共有したかったんだろう。あいつが経験した苦しみは……そう、その苦しみを乗り越えれば強くなれる。強くなれれば生き延びられる。人殺しなんかになってしまってはもう死んだも同然なのに」
 彼がやってることは自殺と変わらないということ?」
 「ああ。やつには正しい埋め合わせのやり方かわからなかった」
 「正しい埋め合わせ?」
 「赦しとか。おれにもよくはわからないが」とベリエルは言った。「“赦し”はおれの専門分野じゃないんでね」
 「赦しが唯一の解決方法だった。そう言いたいわけ?」
 「たぶん。まあ、内なる“悪”にも外なる“悪”にも立ち向かうために。“悪”を理解し、“悪”から学ぶ。そういうことかな。もっとも、おれにはそういうことかできたためしがなんだが」
 「わたしも赦すことはできなかった」とブロームは言った。「そもそもそんなこと、人にできるの?」
 「少なくともきみはまえに進んだ」
 「人生の中で演技することでね」
 「多かれ少なかれ、みんなそうしているじゃないのか?」ベリエルは鼻を鳴らして言った。
 「おれは息子だったときは息子を演じてた。父親になったら父親の役を演じた。そのうち老人の役も演じるようになって、最後は死人の役というわけだ」
 「警察官は演じてない?」
 「そう言われてみると、警察官を演じたことはない気がする。きみは?」
 「わたしが演技しない唯一の役ね」とブロームは言った。



    『 時計仕掛けの歪んだ罠/アルネ・ダール/田口俊樹訳/小学館文庫 』

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