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好きな漫画やBL小説の二次小説を書いています。
作者様・出版社様とは一切関係ありません。

凛として咲く花の如く(後編)

2024年09月27日 | 火宵の月 昼ドラパラレル二次創作小説「凛として咲く花の如く」
「火宵の月」二次小説です。

作者様・出版社様とは一切関係ありません。

二次創作・BLが嫌いな方はご注意ください。


その日の夜、雲居の御息所邸で、歌会が開かれた。

「皆様、今宵は来てくださってありがとう。」

そう言って客人達に挨拶した雲居の御息所は、五十路(いそじ)であるのに東宮妃であった頃から変わらぬ美貌を保っており、艶やかな雰囲気を纏っていた。
「あなたが、土御門仁様ね?」
「はい、お初にお目にかかります。実はわたくし、歌を詠むのが苦手でして・・なので、このような場に呼ばれることにいささか驚きを感じております。」
恐縮した様子で仁がそう言って雲居の御息所を見ると、彼女は口元を袙扇(あこめおうぎ)で覆い、クスクスと笑った。
「そんなに緊張なさることはないわ。わたくしだって、初めは歌を詠むのが苦手でしたのよ。人には得手、不得手があるのが当り前ですわ。」
「そう・・ですね・・」
「さてと、ご挨拶もこれまでにして、歌会を始めましょうか?」
雲居の御息所はそう言って後ろに控えていた女房に目配せすると、彼女は衣擦れの音を立てながら寝殿から出て行った。
雲居の御息所にフォローされつつも、仁は苦手な歌を何首か詠んだ。
「いい歌だこと。」
「そうでしょうか、余りにも味気のない歌ではありませんか?」
「そんなことはないわ。歌はその人が心から詠うものですわ。」
「そうですか・・」

歌会が終わり、仁は少しリラックスしたような表情を浮かべながら牛車に乗り込んだ。

「そのご様子だと、上手くいかれたようですね?」
「うん。雲居の御息所様は、お優しい方だったよ。」
「あの方は菩薩の生まれ変わりのようなお方ですからね。お風呂のご用意が出来ましたよ。」

湯船に浸かりながら、雲居の御息所の姫君が歌会に居なかったことを、仁はふと思い出した。

彼女は、何かを隠している―

「姫様、入りますよ?」
「気分が優れないの、入って来ないで!」

歌会が終わった後、雲居の御息所(みやすんどころ)邸にある彼女の娘である菫(すみれ)の君の部屋へと女房が向かうと、彼女は頑なにそう言って彼女を部屋の中に入れようとはしなかった。
「では、薬師(くすし)をお呼びいたしましょうか?」
「いらないわ、少し横になればよくなるんだから、放っておいてよ!」
「わかりました・・」
これ以上菫の君の機嫌を損ねるようなことはしたくないと思った彼女は、衣擦れの音を立てながら主の部屋の前から辞した。
その御簾の奥―御帳台(みちょうだい)の中で、菫の君は激しく咳き込みながら寝返りを打っていた。
こんな咳が出るようになったのは、あの男から文を貰った所為だ。
菫の君は、数日前に自分の元へと訪れた男の顔を思い出そうとしたが、咳と高熱の所為で思い出せないでいた。
一体何故、自分がこんな病に罹ってしまったのか、彼女自身解らずにいた。
「まぁ、姫の気分が優れないですって?薬師は呼んだの?」
「いえ・・少し横になれば良くなるからと、薬師を呼ぶのを拒まれて・・」
「何を言っているの、早く薬師を呼びなさい!」
「は、はい・・」

女房は慌てて御息所に頭を下げると、そそくさと部屋から出て行った。

数日後、菫の君と似たような症状を患っている三条家の姫君が家族に看取られながら、静かに息を引き取った。

「一体、どういうことになっているんだ?立て続けに謎の病で貴族の姫達が亡くなるとは!」
「それが主上(おかみ)、わたくしにも理由が解りませぬ。」
「ええい、そなたそれでも賀茂家の次期当主か!良いか、これは何者かが姫達に呪詛を掛けているに違いない!早うその者を突き止めるのじゃ!」
「は、はぁ・・」
忠光は帝と謁見した後、すぐさま陰陽寮の者を全員集めた。
「皆も謎の病について色々と聞いているであろうが、これは何者かが姫君達に強力な呪詛を掛けたに違いないというのが、主上からのお言葉である。一刻も早く、呪詛をした者を突き止め、被害を最小限に食い止めよ!」
「はい!」
謎の病が姫君達の命を次々と奪ってゆく中で、菫の君の容態は徐々に悪化の一途を辿っていった。
「姫の様子は?」
「快方に向かうどころか、意識が混濁しております。」
「何としたことじゃ、薬師でさえ姫の病を治せぬとは・・」
「御息所様、そうお嘆きにならずに。陰陽寮の者が病の原因を調査しておりますし・・」
「陰陽師か・・一度、姫の病を診て貰えばよいな?」
「ええ。では早速、賀茂家に文を・・」
「いや、賀茂家は信用ならぬ。他の陰陽師を呼んで参れ。」
雲居の御息所は、そう言って口端を歪めて笑った。
その笑みは、ゾッとするほど恐ろしかった。
「仁様、雲居の御息所様から文が届いております。」
「雲居の御息所様から?」
翌朝、出仕しようとしている仁の元に、雲居の御息所の使者が文を届けに来た。
「雲居の御息所様は何と?」
「御息所様の姫君―菫の君様が謎の病に罹られているらしい。わたしに、診て貰いたいと・・」
「まぁ、何だか怪しいですわね。そのような依頼ならば、普通は陰陽頭様に頼むべきであるのに・・」

これは何かの罠かもしれない―仁はそう思うと恐怖に戦慄(わなな)いた。

「御息所様、土御門仁が参りました。」
「そうか、通せ。」
「はい。」
女房が仁の来訪を告げた時、雲居の御息所は先程まで読んでいた経典から顔を上げた。
「よく来てくれましたね、仁様。」
「お久しぶりです、御息所様。」
「まぁ、そう固くならずに楽にして頂戴。あなたを今日ここへ呼び出したのは、わかるわよね?」
「はい・・菫の君様のことですね?」
「ええ。娘はあの病に・・数人の姫達を奪った病に罹っているの。薬師に診せても原因が判らない。だから、あなたのお力を借りようと思ってお招きしたのです。」
「わたしのような未熟者にお任せするよりも、陰陽頭(おんみょうのかみ)様にお頼みした方が宜しいのでは?」
「いいえ、彼は駄目。わたくしは、彼が信用できないのよ。」
そう言った貴婦人の顔からは、忠光への嫌悪感に満ちていた。
一体彼女と忠光とは、どのような関係なのだろうか―仁がそんな疑問を抱き始めていると、御息所付の女房数人が突然、仁に向かって深々と頭を下げた。
「どうかお願い致します、姫様の命を救ってくださいませ!」
「お願い致します!」
「あ、あの・・わたしは・・」
「あなた達、おやめなさい。仁様が困っているではないの。」
「ですが・・」
「わかりました、お引き受け致しましょう。」

この依頼を引き受けるしか、仁にとって残された道はなかった。

「それでは、早速姫様にお会いしたいのですが・・」
「ええ。こちらですわ。」
菫の君付の女房に案内され、彼女の部屋へと向かった仁は、御簾の外から不穏な何者かの空気を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ・・」
「姫様、土御門仁様が来られましたよ。」
「・・入って。」
「失礼致します、菫の君様。」
仁が御簾の奥に潜む姫君へと向かって深々と頭を下げると、部屋の中へと入った。
すると、魚の内臓が腐ったような臭いが部屋中に満ちていることに彼は気づいた。
「姫様、顔をお見せください。」
「嫌よ、今のわたくしの顔を誰にも見られたくないのよ!」
「そう言わずに、お顔を・・」
「嫌だと言ってるの!」
激しく仁と揉み合った所為で、菫の君が羽織っていた袿(うちぎ)の袖が仁の目に当たってしまった。
「ごめんなさい・・大丈夫?」
「いいえ。」
痛みに顔をしかめながら仁が菫の君を見ると、彼女の顔の右半分が、魚の鱗のようなものに覆われていた。
「見ないで・・見ないで!」
「姫様、どうか落ち着いてください。」
「どうして、どうしてわたくしだけがこんな目に遭うの!?一体わたくしが何をしたというのよぉ!」

そう叫んだ菫の君は、嗚咽して顔を両手で覆い隠した。

「わたくしが必ず、姫様の病を治してさしあげます。ですから、わたくしに時間を下さい。」

仁は菫の君が罹っている病の原因を突き止めようと、病で亡くなった姫君達の家を訪れた。

「わたくしに話とは何かな?」
「実は申し上げにくいことなのですが・・姫君様のご遺体をわたくしに調べさせては頂けないでしょうか?」
「その必要が何処にあるというのだ?」
「実は・・雲居の御息所(みやすんどころ)様の姫君様も、同じ病に罹られているのです。その姫君様の顔は、魚の鱗のようなものに覆われておりました。」
「我が娘が同じ病に罹ったのなら、その鱗とやらが顔に残っていると?」
「はい。その確認の為に是非ともお力をお貸しいただきたく思います。」
仁はそう言うと、深々と貴族に向かって頭を下げた。
「娘の遺体を調べることは許したが、わたしはまだそなたを完全に信用はしておらん。」
「わかりました。では一旦、外へと出て頂けないでしょうか?」
仁の言葉に貴族は少しムッとした表情を浮かべたものの、大人しく娘の部屋から出ていった。
彼はそっと御帳台の中に入り祭文を唱えると、姫君に向かって一礼した。
彼女の顔には、菫の君のように魚の鱗のようなものがない。
だが、彼女の両手の爪が割れている事に仁は気づいた。
「大臣(おとど)、ここ数日の間、姫君に何者かが訪れたことはございませんでしたか?」
「ああ、そういえば播磨(はりま)からやって来たという女人が、恋を叶えるという貝殻を姫に売っていたな。」
「それを、見せていただけませんか?」
「これじゃ。」

貴族はそう言うと、金箔に塗られた貝殻を仁に手渡した。
一見何の変哲もない貝殻のように見えたが、今回の病にはこの貝殻が絡んでいるのではないかと、仁はにらんだ。
「暫くこれを預かっても構いませんか?」
「どうせもう使わぬ物ゆえ、好きに持っていくといい。」
そう言った貴族の顔には、仁への嫌悪感が滲み出ていた。
「では、これで失礼致します。」
貴族の邸を辞した仁は、寄り道もせずに帰宅するなり、自室で貝殻を調べた。
「あら、これは確か・・」
「涼香、これを知っているの?」
「ええ。近頃、宮中の女房達の間で恋の運気が上がると話題になっているものですわ。本邸の女房達も、こぞってこれを買い求めておりました。」
「そうか・・実はね、病で死んだ姫君の一人がこの貝殻を持っていたんだよ。もしかすると、病の原因はこの貝殻にあるんじゃないかと・・」
「貝殻に呪詛が掛けられていると?」
「そうかもしれないね。明日、これを忠光様にお見せしようと思うんだ。わたし一人の手では負えないかもしれないから・・」
「その方が宜しいですわ、仁様。それに、鎌倉のお父上様にも文を出された方が宜しいのでは?」
「まずは明日、忠光様に貝殻をお見せしてから、父上に文を出そうと思う。明日はやることが沢山あるから、もう寝るよ。」
「お休みなさいませ。」
「お休み。」

仁は烏帽子を脱いで結っていた髪を下ろすと、夜着に着替えて御帳台の中へと入ってすぐに眠った。

その頃、宇治のとある貴族の別邸で、一人の女が護摩壇の前で何かを唱えていた。
炎に照らされた白皙の美貌は、かつて宮中で権勢を誇っていた頃から全く衰えていなかった。

それどころか、日に日にその美貌が輝いているように見えた。

「お方様、お薬をお持ちいたしました。」
「ありがとう。」

女房が差し出した薬湯を雲居の御息所は受け取ると、一気にそれを飲み干した。

「あの者はどう動いておる?」
「それが、少々厄介なことになりました。」
「厄介なことだと?」
眉間に皺を寄せながら、雲居の御息所は女房を睨んだ。
「実は、あの者が例の貝殻を見つけたようでございます。」
「何だと?そなた、あれを全て処分せよと命じたであろう!」
「申し訳ございませぬ、御息所様!すぐさま処分しようと思いましたが、間に合わず・・」
「まぁ、過ぎたことはどうでもよい。それよりも、姫には早う病を治すよう、あの者に伝えておけ。三条の姫君達は死んだが、何としても姫には生きて貰わねばならぬ・・入内を控えている身なのだからな。」
「・・御意。」
雲居の御息所は再び護摩壇の方へと向き直ると、中宮付の女房の名が書かれた藁人形を炎の中へと放り込んだ。
「慌てふためいた中宮の顔が早う見たいものじゃ・・恐怖に戦(おのの)くあの女の顔は、さぞやみものであろうの。」

雲居の御息所はそう呟くと、口端を上げて笑った。

護摩壇の炎に照らされた彼女の頭には、禍々しい二本の角が生えていた。

「今度は、中宮様付の女房が二人、病で死んだらしいぞ?」
「何ということだ・・御息所の姫君様の容態が芳しからない時に・・一体どういうことになっているんだ・・」

雲居の御息所が今回の病の原因を作った張本人であることを知らぬ者達は、ただひたすら病に怯える日々を送っていた。

そんな中、仁は忠光に例の貝殻を見せた。

「これは?」
「三条の姫君様が、死に間際に握り締めていたものです。何でも、宮中の女房達の間で人気があるものだとか。」
「そうか・・呪い物の類は、呪詛の道具ともなりうることがあるからな。それを見せてみろ。」
「はい・・」
仁がそう言って貝殻を忠光に手渡そうとした時、突然貝殻が震え始めた。
(何だ?)
仁がじっと貝殻を見つめていると、震えだした貝殻の口から瘴気のような紫の煙が出て来た。
「どうした?」
「瘴気のようなものが、貝の口から・・」
「それを吸いこむな!今すぐこの場から出ろ!」
忠光の言葉を従い、仁はただちに部屋から出た。
「一体あれは何なんだ?」
「わたしにもわかりません・・しかし、あれが今回の病を引き起こした原因だとすれば・・」
「三条の姫君達の他に、あの貝殻を持っている姫達の身にも同じことが起きる、ということだな?」
「ええ。」
仁は紫の煙がもうもうと先程まで忠光と居た部屋を包み込む様を黙って見ていた。
一方弘徽殿(こきでん)では、主である中宮が恐怖に顔を引き攣らせながら、病に倒れた女房達が次々と死んでいくさまを見ていた。

「一体、何が起きているのじゃ・・」

彼女は、そっと目立たない下腹部を擦った。

帝との愛の結晶が、そこに宿っていた。

「中宮様が、ご懐妊だと?」
「はい。」

中宮付の女房・宣旨(せんじ)はそう言うと、忠光を見た。

「それは、おめでとうございます。」
「ですが中宮様は、今回の事で心底怯えております。女房達の災難がいつかご自分の身に降りかかるのではないのかと・・」
宣旨は溜息を吐いて忠光を見ると、彼の手を握った。
「どうか、中宮様をお助けくださいませ。」
「わかりました。それよりも宣旨様、その手をお離しくださいませ。何処で誰が見ているのかわかりませぬゆえ。」
「これは、失礼致しました!」
我に返った宣旨は、握っていた手を離した。
「それよりも忠光殿、貴殿の所には大変優秀な学生が居られるとか。」
「土御門仁のことですか?彼は幼少の頃から父親に陰陽道とは何たるかを厳しく叩き込まれたようです。難解な講義もすぐに理解し、試験ではいつも満点を取っておりますよ。」
「そうですか・・もしや、その学生の父君とは、土御門有匡殿とは?」
「ええ、そうですが・・それが何か?」
「いいえ、何でもありませぬ。それよりも忠光様、くれぐれも中宮様のことを頼みましたぞ。」
「承(うけたまわ)りました。」
忠光が弘徽殿から辞した後、宣旨は人気のない場所へと向かうと、そこで待っていた一人の女房に文を渡した。
「これを、あの方へ。」
「わかりました。」
「くれぐれも、人目につかぬように。」
「では、わたくしはこれで失礼致します。」
女房はそう言うと、サラサラと衣擦れの音を立てながらその場から去っていった。
「こんな所にいたのかえ、宣旨?急に居なくなるから心配したではないか?」
「申し訳ありませぬ、中宮様。外の空気が吸いたくなりまして・・」
「そうか。それよりも今度(こたび)の件、忠光殿は承諾してくれたであろうな?」
「はい。それよりも中宮様、そろそろ日が落ちて参りました。冷たい風はお身体に障ります故、どうかお部屋にお戻りくださいませ。」
「わかった。」
部屋へと戻る中宮の背中を、宣旨は何処か冷めた目で見つめていた。
「中宮様、薬湯をお持ちいたしました。」
「ありがとう。」
中宮はそう言うと、薬湯に口をつけたものの、すぐに顔を顰(しか)めてしまった。
「悪阻がお酷いのですか?」
「ああ。この前まで食べられた物が、急に食べられなくなった。だがこの子が生まれるまでの辛抱じゃ。」
「そうでございますとも。さぁ、もう一口お飲みくだされ。」
「わかった・・」

(その薬湯を早く飲み干してくださいませ、中宮様。あの方の為にも・・)

雲居の御息所邸では、菫の君が病から快復し、それを祝う為の宴が開かれていた。

「姫や、よう生きてくれた。」
「お母様が加持祈祷をしてくださったお蔭ですわ。」
「礼を言うのではわたくしではない、あの陰陽師に申すがよい。」
「陰陽師とは・・わたくしの所に来て下さった、あの方?」
「そうじゃ。あの者のお蔭で、そなたはもうすぐ入内できるのだから。」
笑顔でそう言う雲居の御息所とは対照的に、菫の君の顔は暗く沈んでいた。
「なぁ、聞いたか?」
「中宮様がご懐妊されたとか・・」
「この時期に・・」
陰陽寮に出仕した仁は、学生(がくしょう)達の噂話から中宮がご懐妊されたことを知った。
「仁、ちょっと来てくれないか?」
「はい・・」
忠光とともに講堂を後にする仁をチラチラと見ながら、学生達は何やらひそひそと囁きを交わしていた。
「どうしたんだ?」
「最近あいつ、陰陽頭様に呼び出されているなと思って。やっぱり、父親が高名な陰陽師だと、待遇も違うのかな?」
「そんなことはないだろう。俺だって、父親は帝の護持僧だが、一度も特別扱いなどされたことはない。」
真雅(みつまさ)が不機嫌な顔をしながらそう言うと、学生達は一斉にバツの悪そうな顔をしてそそくさとその場から去っていった。
(全く、下らない・・)
何かにつけて権力者の機嫌を取ろうとする学生達の態度に、真雅は心底うんざりしていた。
彼らは互いに切磋琢磨(せっさたくま)しようともせず、他人の粗探しをしては足の引っ張り合いをしている。
陰陽師にとって一番大切なものは、優秀な能力を持っていることと、そして名家の出身であること。
優秀な能力があり、尚且つ名家出身である真雅と仁の存在は、実力も家柄も劣っている他の学生達にとっては脅威そのものであった。
陰陽寮に入寮して以来、真雅は一度も他の学生達と腹を割って話したことなどなかった。
一方仁はというと、初めは他の学生達とぎこちない様子だったものの、次第に打ち解けてきているようで、数人の学生達に囲まれて談笑する姿を何度か目にすることがあった。
自分にはあって、彼にはないものは何なのだろう―真雅がそう思いながら簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、突如後宮の方―正確に言えば弘徽殿の方から悲鳴が聞こえた。
「忠光様、弘徽殿の方から悲鳴が・・」
「まさか、中宮様の身に何か・・仁、真雅、ついて来い!」
「はい!」
忠光とともに仁と真雅が弘徽殿へと向かうと、そこには大量の血を吐きながら床に倒れ伏している女房の姿があった。
「一体何があったのですか?」
「ちゅ、中宮様の為に作られた薬湯を毒味した者が、急に苦しまれて・・」
中宮付の女房が泣きながら忠光にそう訴えると、彼は宣旨が混乱に乗じて弘徽殿から出て行くところを見た。
「暫し、お待ちくださいませ。」
慌てて忠光は宣旨の後を追ったが、彼女はまるで煙のように姿を消してしまった。
「クソッ、逃がしたか・・」
「宣旨よ、あの忌々しい陰陽頭には捕まらなかったか?」
「はい、御息所様。それよりも、例の薬湯は毎日中宮様に飲ませております。」
「そうか。このまま順調に計画を進めれば、わたくしたちの復讐は完了する。くれぐれも気を引き締めるように。」
「御意。」
(ふふ、面白くなってきたわ・・あとはあの目障りな陰陽師どもを片付けるだけね。)
蝋燭(ろうそく)な仄かな明りに照らされた美しい貴婦人の横顔は、禍々しく見えた。
「中宮様、薬湯をお飲み下さいませ。」
「あんなことがあったというのに、飲めるものか!」
毒味役の女房が死んだ日の夜、宣旨(せんじ)が平然とした様子で自分に薬湯を差し出すのを見た中宮は、そう叫ぶと宣旨の手から薬湯を払いのけた。
「この薬湯には、毒など入っておりませぬ。」
「じゃが・・」
「あの者はたまたま運が悪かったのでございます。いずれ国母となられる中宮様に毒を盛るような者が、この後宮に居(お)りましょうか?」
「そ、それは・・」
「ご安心なされませ、中宮様。わたくしがあなた様と腹の御子を我が命を掛けてお守り致します。」
「宣旨・・」
もしや自分に毒を盛り、殺そうとしたのは宣旨ではないかと一瞬彼女を疑った中宮は、己の猜疑心を恥じた。
「そなたさえいれば、妾も腹の子も無事じゃ。」
「そうでございますとも、中宮様。さぁ、薬湯をお飲み下さいませ、腹の御子の為にも。」
「わかった。」
宣旨に騙されているとは知らずに、中宮は安堵の表情を浮かべながら薬湯を飲み干した。
「あの女房の死因がわかったぞ。」
「死因が?」
「ああ、あの女房が死ぬ直前に毒味した薬湯だが・・あれにはトリカブトの毒が入っていた。」
「トリカブトの毒が・・やはり、あの薬湯に何者かが毒を入れたと考えて宜しいのですね?」
「ああ。中宮様付の女房の誰かが、薬湯に毒を盛っていたと考えていい。しかし、その犯人を突き止めるのは少々時間がかかるな。」
忠光の部屋で、弘徽殿での事件の詳細を聞いた仁は、彼の言葉を受けて唸った。
「事件が起きたのは男子禁制の後宮ですからね。始終見張りを置くのは難しいでしょうし、今は皆、例の病の事で出払っておりますし・・どうすれば・・」
「最も効果的な方法は、陰陽寮の誰かが後宮に潜入し、犯人を突き止める事だ。」
そう言った忠光の視線は、何故か仁に注がれていた。
「あの、もしかしてそれをわたしにやれと?」
「お前はまだ宮中に入って日が浅いし、お前の事を知っているのは中宮様と宣旨様だけだ。それに、女装しても余り違和感がないだろう。」
「そうですけれど・・」
いくら事件を解決する為とはいえ、女装して後宮に潜入するのは少し気がひけた。
「忠光様がおゆきになれば宜しいのでは?」
「生憎だが、わたしは後宮の女人達に顔を知られてしまっているからな。」
「そうですか・・このまま手をこまねいていても仕方がありませんね。」
「では、やってくれるか?」
「はい。必ずや犯人を突き止めて参ります。」
そう言ったものの、自分にこんな大役が務まるのだろうかと、仁は不安で堪らなかった。
「まぁ、後宮に潜入捜査を?」
「うん、事の成り行きでわたしが行く事になった。でも、不安だなぁ・・」
「そうおっしゃらずに、仁様。仁様ほどの美貌をお持ちならば、きっと帝の目にも留まりましょう。」
何処か嬉しそうな口ぶりでそう言った涼香の目は、きらきらと輝いていた。
「仕事だから仕方ないだろうけど・・父上にもしこの事が知れたらどうなるか・・」
「お父上様もご理解して下さいますわ。」
数日後、仁は忠光とともに弘徽殿へと向かった。
「そなたが、後宮に潜入するという旨は、忠光から聞いておる。」
中宮はそう言ってじろりと仁の顔をじっと見つめた。
「あの、中宮様?」
「そなたほどの美貌ならば、男だと露見するのは難しいだろう。そうは思わぬか、宣旨?」
「ええ。近々入内される雲居の御息所様の姫君よりも、お美しい方ですしね。」
「あの、菫の君様が入内なさるのですか?」
自分と面識がある菫の君が入内すると聞き、仁は少しうろたえた。
「ええ、何でもあの病から無事全快されたようで、雲居の御息所様が主上に文で娘が入内する旨をしたためになられたようじゃ。」
「そうですか・・」
「何か、引っかかることでも?」
「いえ、ございません。」
「そなたが男と知っているのは、妾と宣旨のみ。くれぐれも男だと露見せぬよう、気を付けよ。妾からの話は以上じゃ。」
「では、失礼致します。」
忠光とともに中宮に深々と頭を下げた仁は、忠光と別れて宣旨とともに支度部屋へと入った。
「烏帽子を脱ぎなされ。」
「ですが・・」
髪を結い、烏帽子を被ることは宮中に居る時の身だしなみとされ、髪を下ろし烏帽子を被らずに出仕すると、“はしたない”と非難されてしまうことくらい、仁は知っていた。
「ここは女人達が住まう後宮ですぞ。男であるそなたが女人に化けるには、まず烏帽子を脱いで髪を下ろすことから始めるのじゃ。」
「はい・・」
不承ながらも仕事の為だと割り切った仁は、烏帽子を脱いで結いあげた髪を下ろした。
「ほう、見事な髪をしておる。烏の濡れ羽の如き艶やかな髪じゃ。」
仁の髪を櫛で丁寧に梳きながら、宣旨は彼に賛辞の言葉を送った。
「ありがとうございます。」
この場でどう返したらよいのかわからず、仁は素直にそう言って宣旨を見た。
「まぁ、髪の美しさだけでは後宮では生き残れぬ。女人が最も必要とするのは知性じゃ。その事を肝に銘じておくがよい。」
「わかりました、宣旨様。」
「さてと、髪は下ろしたが、直衣姿では皆の前ではそなたを紹介出来ぬ故、それを脱いで貰おうか?」
「は、はぁ・・」
仁はこれも仕事の為だと割り切って羞恥に耐えて宣旨の前で直衣を脱いだ。
「そなたには紅が似合う故、紅を中心に色を襲(かさね)ると良いな。」
宣旨は終始上機嫌な様子で、仁が着る装束の色を次々と決めていった。
仁は彼女にされるがまま、壮麗な女房装束(にょうぼうしょうぞく)を纏って中宮と彼女に仕える女房達の前に顔を見せることになった。
女物の衣は動きにくい上に、袴の裾が長い為に上手く捌く事が出来ず、仁は数歩進むだけでも苦労した。
「中宮様、その者が新しく入った女房ですか?」
中宮の右隣に控えていた一人の女房が、そう言ってジロリと仁を睨みつけた。
「お初にお目にかかります、淡路様。相模(さがみ)と申します。」
予め後宮に潜入する為に用意した名でそう仁がその女房に挨拶すると、彼女は少し面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。
「中宮様が是非にとそなたをこの弘徽殿へと入れたが、中宮様に気に入られたからといって天狗になるでないぞ!」
「はい、肝に銘じます。」
こうして仁は、弘徽殿で“相模の方”として中宮に仕えることになった。
今回の事件の犯人を突き止める為に女装して後宮に潜入した仁であったが、中宮付の女房・淡路の方に何故か目をつけられてしまい、彼は何かと彼女から雑用を押しつけられて調査どころではなくなっていた。
(一体淡路の方は、わたしの何処が気に食わないんだろう・・)
縫物をしながら、仁は溜息を吐いて淡路の方が自分に対して何故冷淡な態度を取るのかがわからずにいた。
「どうしたの、何か考え事でも?」
そう自分に声を掛けて来たのは、中宮の左隣に控えていた伊勢の方という女房だった。
「わたくし、淡路の方に何か失礼な事でもなさったのでしょうか?何やらあの方、わたくしに対してだけ態度が違うので・・」
「恐らく、あの方と仲違いされた妹御と良く似ていらっしゃるから、あなたに厳しくされるのでしょう。」
「まぁ・・」
そんな理不尽な理由でいじめられたら堪らないと仁は思ったが、そんな気持ちはおくびにも出さずに伊勢の方にある事を尋ねた。
「伊勢の方様は、こちらに勤めて長いのでしょう?」
「ええ。中宮様が入内された頃から勤めているから・・7年位になるかしら?」
「まぁ、そんなに・・では、宣旨様のことは良くご存知で?」
「あの方は確か、わたくしの後に弘徽殿に入って来たのよ。何でも、訳有りだとかで・・」
「訳有りですって?」
宣旨が何故弘徽殿に入ったのかを伊勢の方に聞こうとした仁だったが、間が悪いところに淡路の方が部屋に入って来た。
「ちゃんと仕事はやっているようね?」
「はい、淡路の方様。」
「まぁ、新入りにしてはなかなかの出来だこと。」
仁が縫いあげた物をひとつずつ手に取りながら、淡路の方はそう言って彼を睨んだ。
「今宵、中宮様が管弦の宴を開かれます。腕に覚えのある者は来なさい。」
「はい、承知致しました。」
「わたくしが居ないからといって、怠けるのではありませんよ!」
淡路の方は去り際にジロリと再度仁を睨み付け、衣擦れの音ともに部屋から出て行った。
「不機嫌な様子ですね・・何かあったのでしょうか?」
「気にすることはないわ。それよりも、もう仕事は終わったのでしょう?」
「ええ。」
「では急いで中宮様の元に行かなくては。淡路の方様から聞いたでしょう?」
「ですがわたしは、宴に出るつもりはございません。」
「あらあなた、そんな事をしてはますます淡路の方様からにらまれてしまうわよ?」
何だか訳が判らずに仁が伊勢の方とともに中宮の元へと向かうと、そこには数人の女房達が彼女の前に集まっていた。
「あら、相模の方様も宴にお出になられるの?」
「ええ・・淡路の方様が是非にと推してくださったので。」
横目で憤怒の表情を浮かべる淡路の方をチラリと見つつも、仁は同僚の女房にそう言って笑った。
「何をお弾きになるの?今回の宴では琵琶や和琴(わごん)、箏、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)の奏者がそれぞれ選ばれるのよ。」
「わたくし、余りわからなくて・・」
仁は父・有匡の影響で幼い頃から和琴を嗜(たしな)んでいたので、和琴を弾くつもりでいたのだが、淡路の方が何を弾くのかがわからないので、同僚には曖昧な返事をしておいた。
「まぁ、そうなの。淡路の方は箏を弾かれるのだそうよ。」
「そう、じゃぁあの方に被らないようにしなければね。」
淡路の方が弾く楽器が和琴ではないと知り、仁はほっと胸を撫で下ろした。
雅やかな楽の音が弘徽殿(こきでん)に響き渡った。
仁が和琴を弾いていると、一人の女童が彼の元へとやって来た。
「相模(さがみ)の方様、淡路の方様がお呼びです。」
「わかりました、すぐ参りますとあの方にお伝えして。」
「かしこまりました。」
一体淡路の方が自分に何の用だろうと思いながら、仁は彼女の元へと向かった。
その途中、簀子縁(すのこのえん)を挟んだ向かいの部屋から誰かが言い争うような声が聞こえた。
「わたくしは、嫌だと申し上げた筈でしょう!」
「何故わたしの言う事を聞いてくれぬのだ!」
どうやら、恋人同士の別れ話が縺(もつ)れているらしく、御簾の奥から啜り泣く女と、それを怒鳴りつける男の声が聞こえた。
だが仁は、淡路の方の機嫌を損ねてはいけないと思い、そそくさとその場から離れた。
「淡路の方様、わたくしに何かご用でしょうか?」
「あなた、和琴をお弾きになられるんですってね?」
「はい・・それが何か?」
「随分と中宮様に目をかけられているようだけれど、何か中宮様に心付けでも差し上げたのかしら?」
「いいえ、そんなことはしておりません。」
「ふぅん、怪しいものだわ。まぁ、いずれあなたの化けの皮を剥がして差し上げますから、そのおつもりで居てくださいな。」
何か含みを持たせたような口調でそう言うと、淡路の方は勝手に仁を呼びつけておいてさっさと奥の方へと引っ込んでいった。
(何だよ、あの態度・・あの女、絶対に周りから嫌われてるよな!)
淡路の方に呼びつけられ、貴重な練習時間が減ってしまったことに苛立ちながら仁が自室へと戻ると、和琴の前には見慣れぬ男が座っていた。
「もし、わたくしに何かご用でしょうか?」
仁がそう言って男に声を掛けたが、彼は振り向きもせずに和琴を奏でている。
「わたくしに何かご用でいらっしゃらないのなら・・」
「あるに決まっているだろう、馬鹿。」
男は突然和琴を奏でるのを止め、ゆっくりと仁の方へと振り向いた。
男―眉間に皺を寄せながら、大陰陽師・土御門有匡は仁を睨みつけた。
「ち、父上・・これはですね、深い事情がありまして・・」
「全く陰陽頭め、人の息子をこき使いおって。まぁ、奴にパシリにされていることにも気づかぬお前もお前だが。」
「あの、父上は何故京に?鎌倉にいらしていたのではないのですか?」
「涼香からお前の事を聞いてな、丁度休暇を取りたかったし、会いに来たまでのことだ。」
(嘘だ。)
父は有能である故に多忙で、何日も職場に泊まり込んで家に戻らない日があり、それが土御門家では当たり前であった。
それなのに、ただ息子に会いに来たという理由だけで休暇を取るだろうか。
「あの父上、ひとつお聞きしても・・」
「おやまぁ、珍しい。誰かと思うたら有匡殿ではないか?」
御簾の向こうから声がしたかと思うと、賀茂忠光が有匡に微笑みながら部屋に入って来た。
「わざわざ息子の顔を見に休暇を取られたとか?」
「違う。お前が息子をこき使うのを黙って見ていられなくなっただけだ。」
「それは心外だな、有匡殿。君のご子息は大変優秀だよ。何せ、今回の病の原因が宮中で流行っている貝殻にあると指摘したからねぇ。」
「貝殻?」
有匡がそう言って忠光を睨むと、彼は笑みを崩さずに次の言葉を継いだ。
「都では最近、原因不明の病で貴族の姫君達が数人亡くなってね。それと、中宮様付の女房も数人死んだ。被害者たちの共通点は、最近恋愛の運気があるという貝殻を死に間際に握り締めていたこと。」
「本当なのか、仁?その貝殻が、今回の事件の原因だと?」
「はい、父上。例の貝殻を三条家から預かっておりましたが、急に貝殻から紫の煙が・・」
「紫の煙か・・忠光様、その貝殻は今どちらに?」
「わたしの部屋に保管してあるよ。」
「そうですか。では、今から案内して頂けないでしょうか?」
「え・・わたしは仁を訪ねてここに来たんだが・・」
「息子はまだ勤務中ですよ?」
そう言って有匡は忠光に向かってニッコリと笑ったが、目は全く笑っていなかった。
「そうだな。仁、くれぐれも油断するなよ?」
「はい、忠光様・・」
「では、参りましょうか?」
有匡は忠光の腕を掴むと、半ば彼を引き摺るようなかたちで部屋から出て行った。
「あなた、土御門有匡様と親しいの?」
彼らと入れ違いに部屋へと入って来た女房が、そう言って仁に詰め寄って来た。
「はい・・彼は遠縁の伯父でして。」
「まぁ、有匡様とご親戚だなんて羨ましいわ。」
女房は嬉しそうに目を細めると、仁の手を握った。
「ねぇ、お願いがあるのだけれど、いいかしら?」
「お願い、でございますか?」
「そうよ、あなたにしか頼めないことなの。」
その夜、仁は溜息を吐きながら淡路の方の元へと向かった。
中宮主催の管弦の宴に出る奏者を、宣旨と中宮が選出することになり、仁達は急遽淡路の方の部屋に呼ばれたのだった。
「中宮様はまだおいでにはならないのですか?」
「ええ。それよりもあなた、和琴が弾けるそうね?」
「はい・・」
「言っておくけれど、和琴は信濃の方が上手いのよ。」
淡路の方は余程仁の事が気に食わないのか、自分が懇意にしている女房の名を出してわざと彼のやる気を削ぐような発言をした。
「そうでございましたか。それでは、負けるわけには参りませんね。」
「ま・・」
まさか仁が反論するとは思わなかったのか、彼の言葉を聞いた淡路の方は怒りで顔を赤く染めた。
彼女が仁に言い返そうとした時に中宮が宣旨とともに部屋に現れたので、彼女は悔しさの余り唇を噛み締めた後、仁を睨みつけてそっぽを向いた。
「さぁ、皆集まったところだから始めようか。」
「はい、中宮様。」
琵琶、箏、龍笛、笙(しょう)の奏者たちが一人ずつその腕前を中宮に披露した。
そして最後に和琴の奏者たちが呼ばれ、仁は信濃の方に負けてなるものかと、日頃の特訓の成果を見せた。
「和琴の奏者二人は、甲乙つけがたい腕前だった。だが、その中で一人選ぶとすれば、妾は相模の方を選びたいと思う。」
淡路の方が憎悪の視線を自分に送っているのを感じた仁だったが、彼はそれを無視して中宮に深々と頭を下げた。
「有り難き幸せにございます、中宮様。」
「皆、主上の前で素晴らしい演奏を見せるがよい。妾も楽しみにしておるぞ。」
中宮はそう言うと、宣旨と共に部屋から出て行った。
「この痴れ者が!お前があんな新入りに負けてどうするのです!」
「申し訳ございません、淡路の方様・・」
管弦の宴で仁に負けた信濃の方に待っていたものは、淡路の方からの激しい打擲(ちょうちゃく)と罵倒だった。
「そなたほどの腕の者が、何故負けたのじゃ!」
「わたくしが至らなかった所為でございます。なにとぞ・・なにとぞお許しくださいませ!」
信濃の方は怒り狂う淡路の方の前に、ただ彼女に対して許しを乞うしかなかった。
「許さぬ、許さぬぞ・・わたくしを差し置いて主上の寵愛を受けようなどと・・」
そう呟いた淡路の方の目は、禍々しい光を放っていた。
「それで、お話とは何ですか?」
一方、陰陽寮では忠光はそう言うと有匡を見た。
「貝殻を、見せてはいただけませんか?」
「申し訳ありませんが、それは出来ません。実はあの貝殻には、禍々しい瘴気を放っているのです。」
「そうですか。では、見ない訳にはいきませんね。」
有匡はそう言うと、忠光を睨んだ。
彼が簡単に諦めないとわかった忠光は、渋々と貝殻がしまってある箱を有匡の前に差し出した。
「どうぞ、お調べください。」
「ありがとうございます。」
有匡は祭文を唱えると、貝殻を手に取った。
すると彼の脳裏に、恋に破れた一人の女が己の血で貝殻に何かを書いている姿が浮かんだ。

“憎い、憎い・・”

ヒシヒシと、女の恨みつらみが伝わって来た。

「何か、わかりましたか?」
「ええ。この貝殻は恋に破れた女の怨念が宿っております。何故、このような禍々しい呪物が宮中に出回ったのですか?」
「それが、わたしにもわからぬのです。亡くなられた三条家の姫君の元に、播磨から来たという女人がその貝殻を姫に手渡したそうです。」
「その女人が、今回の事件と関係しているのかもしれませんな。」
「何としてでも、その女人を捕えねば・・」
有匡と忠光の会話を、一羽の烏(からす)が木に止まって聞いていた。
やがて烏は翼を羽ばたかせると、主の元へと帰っていった。
「お帰り。」
女はそう言って烏の頭をそっと撫でると、烏は嬉しそうにカァッと鳴いた。
「そうか、その様子だと良い事があったようだな?」
女はまるで烏の言葉を解しているようで、笑顔を浮かべながら烏にそう聞いた。
すると烏はまた鳴いた。
「・・あの男が、京に?」
先程まで笑みを浮かべていた女の顔が、突如歪んだ。
烏は不安げに首を傾けると、女の肩に止まった。
「大丈夫だ。そなたを驚かせてしまったな。」
女はそう言うと、烏の頭を撫でた。
「さぁ、腹が減っただろう。中へと入ろう。」
衣擦れの音を立てながら、女は烏とともに部屋の中へと入った。
「姫様・・」
「その呼び方は止めよ。」
年老いた女房は女の言葉を聞いて項垂れた。
女はかつて、後宮で華やかな生活を送っていた。
帝にも目を掛けられ、彼の妃となった。
だが女は、それを快く思わぬ恋敵に嵌められ、親子ともども都から追い出されて、このような辺鄙(へんぴ)なところに邸を構えて暮らしている。
どのくらい、長い歳月が経ったのだろうか。
その間に父は無念を抱えながら亡くなり、自分もこのような場所で生を終えるしかない。
昔は自分に仕えていた女房達も、一人、また一人と自分の元へと去ってゆき、今は乳母だけが残ってかいがいしく仕えてくれている。
こんな筈ではなかったのに。
こんな、惨めな生活を送る為に自分は生まれてきたのか。
何も自分は悪くはないというのに、何故自分だけがこんな目に?
(全ては、あの女の所為だ・・)
女の脳裏に、自分を陥れた恋敵の顔が浮かんだ。
今自分の暮らしぶりを彼女が見たら、狂喜乱舞することだろう。
だが、このまま終われるものか。
あの女を地獄へと道連れにするまで、復讐は止(や)めない。
「笑っていられるのは今の内だ。」
女は虚空に向かってそう言うと、血走った眼で闇を見つめた。
一方、弘徽殿(こきでん)では、中宮主催の管弦の宴に向けての準備が慌ただしく行われていた。
「相模様。」
「おはようございます。」
先輩女房に声を掛けられた仁は、そう彼女に挨拶すると深々と頭を下げた。
「ねぇ、有匡様には例のことをお願いして下さったの?」
「それが、まだなのよ。」
「もう、早くしてくださらないと困るわね!」
彼女は少し苛立った様子で仁にそう言うと、彼に背を向けて何処かへと行ってしまった。
先日、仁は彼女に、“有匡様と自分との仲を取り持って欲しい”と頼まれたのだった。
それを口実に、有匡に会わせて欲しいと言われ、仁は彼女にどう言うべきかどうか迷っていた。
有匡が妻帯者であることを伏せている所為か、よく女達からの文を貰う事があった。
眉目秀麗で、大陰陽師である有匡に恋焦がれる女人は多いだろう。
自分に仲を取り持つよう仁に頼んだ女房も、その一人かもしれない。
「相模様、まだこんな所に居たの?宴の準備を早めに行わないと・・」
「今、参ります!」
我に返った仁は、そそくさと伊勢の方とともに中宮の部屋へと向かった。
「中宮様、遅くなってしまいまして申し訳ございません。」
「よい。宴の時間にはまだ早い。」
そう言った中宮は、少し疲れた様子で仁と伊勢の方を見た。
「お顔の色が優れませぬが・・」
「いつものことだ、案ずるな。」
「ですが・・」
「暫く奥で休んでくる。その間、準備を頼むぞ。」
「かしこまりました、中宮様。」
この時、仁は中宮の様子が少しおかしかったことに全く気づかなかった。
最近、妙に身体が重く感じて、中宮は動くのも億劫(おっくう)で仕方がなかった。
「中宮様、薬湯でございます。」
「ありがとう・・」
宣旨から渡された薬湯を飲み干すと、中宮はその身体を横たえた。
「余り無理はなさらぬ方が宜しいですよ?特にこの時期は。」
「わかっておる。」
少しずつ瞼が重くなり、中宮はいつの間にか眠ってしまった。
「さてと、これで大丈夫ね・・」
誰にも聞こえぬような低い声で宣旨はそう呟くと、薬湯が入っていた器を片付けた。
宴の時刻となっても、主催者である中宮が全くその姿を見せない事に不審を抱いた伊勢の方が中宮の部屋へと向かうと、そこは不気味なほどに静まり返っていた。
「中宮様、主上がもうすぐお渡りになられます。」
彼女がそう言いながら中宮の姿を探すと、彼女は寝所で倒れていた。
「中宮様、どうされたのですか!?」
伊勢の方が蒼褪めている中宮の身体を揺さ振ると、彼女は自分の手に生温いものに触れた気がした。
慌てて自分の手を見ると、赤くねばついた血がついていた。
彼女は思わず悲鳴を上げた。
「今のは・・」
「中宮様の寝所からだわ!」
伊勢の方の悲鳴を聞きつけた女房達が中宮の寝所へと向かうと、そこには恐怖で震える伊勢の方と、蒼褪めたまま動かない中宮の姿があった。
「一体何が起きたのだ!?」
「わたくしが中宮様のお部屋に入った時に、中宮様は既にこのようなお姿でたおられておりました。」
恐怖で震えながらも、伊勢の方は宣旨に対して自分が駆けつけた時の状況を説明した。
「薬師を呼べ、宴は中止せよ!」
「はい!」
中宮が倒れたことで、後宮はもとより宮中全体が騒然となった。
「おい、中宮様が倒れられたとは本当なのか?」
「ああ・・」
「腹の御子は、大丈夫なのか?」
殿上人達は中宮とその腹の子の身を案じていた。
「残念ながら、御子は流れてしまいました。」
「そうか・・」
薬師からの報告を聞いた帝は、彼に下がるよう命じた。
中宮との間に今まで子が出来ず、今回の妊娠を彼女と喜んだのはほんの数ヶ月前のことだったというのに、何故このような事になってしまったのだろうか。
「中宮はどうしておる?」
「それが・・まだ意識が戻られておりません。」
「何と・・」
何処まで不幸は続くのだろうか―帝は溜息を吐きながら扇を握り締めた。
「そうか、中宮の御子が流れたか・・」
「はい、御息所様。薬湯に鬼灯(ほおずき)の根を粉末にして混ぜておいてよかったですわ。」
「あの女も、御子の元にいってくれれば尚良いのだがな。」
自分の企てが着実に進んでいることに満足した雲居の御息所はそう言うと高笑いした。
(これで、わたくしの復讐はもうすぐ完了する!)
やっとあの女に復讐できるのかと思うと、彼女は嬉しくて仕方がなかった。
中宮が流産し、未だ生死の境を彷徨っている事実に弘徽殿(こきでん)は大騒ぎとなった。
「中宮様はこのまま亡くなられてしまわれるなんてこと、ないわよねぇ?」
「馬鹿な事を言うんじゃないわよ!」
「そうよ、縁起でもない!」
主なき弘徽殿では、中宮の容態について様々な憶測が飛び交っていた。
それほどまでに、女房達は中宮の容態を案じていたのであった。
だが中宮の身に降りかかった不幸を喜んでいる者達が居た。
「中宮はまだ目覚めぬとな?」
「はい。」
「でかかしたぞ、宣旨。これで我が家も安泰じゃ。」
「有難うございます、御息所様。」
(漸く我が家に春がめぐってくるとはのう・・)
「お母様・・」
「どうしたのじゃ、姫?」
「中宮様のご容態が芳しからない中で、どうして笑っていられるの?」
「何を言う。姫よ、今までわたくし達があの女からどのような仕打ちを受けたか忘れたのか?」
「忘れる筈がございません、お母様。」
「その恨みを晴らす時が来ているのじゃ。姫よ、中宮亡き後はこの家を頼みましたぞ。」
「はい、お母様・・」
そう言った菫の君の顔は、暗く沈んでいた。
数日後、彼女は豪華な調度品と衣装を持ち入内した。
「これまた、豪華な衣だこと・・」
「雲居の御息所様の姫君様が入内されるなど・・少し不謹慎ではないか?」
「中宮様があのような時に限って・・」
菫の君が入内する様子を見ていた市井の人々はそう言いながら眉をひそめていたが、雲居の御息所は彼らの声など完全に無視していた。
寧ろ、娘の入内を豪勢にして何が悪いと開き直っていたのだった。
「菫の君様がご入内されたそうよ。」
「まぁ、この時期に?」
「まるで嫌がらせのようではなくて?」
「完全に嫌がらせよ。御息所様は中宮様に深い恨みを抱いておられたようだから。」
弘徽殿の女房達は菫の君の入内について様々な事を言い合いながら仕事をしていた。
「相模様、あの・・」
「伊勢様、中宮様のご容態に変化はございましたか?」
また例の女房が笑顔で仁に近寄って来たので、彼は咄嗟に伊勢の方の方へと向かった。
「中宮様のご容態は未だに芳しくないわ。やはり、あの貝殻の所為かしら?」
「あの貝殻と申しますと、巷で流行っているというあの貝殻のことでございますか?」
「ええ。これから、弘徽殿はどうなってしまうのでしょう?」
「それは、天に任せるしかありませんわ。」
仁は伊勢の方に、そんな慰めの言葉しか掛けられなかった。
その夜、中宮の容態が急変し、彼女は一度も意識が戻らぬまま亡くなった。
「中宮様、何故このような事に・・」
宣旨は主の死に悲しみに暮れる振りをしながら、内心ほくそ笑んでいた。
(これで邪魔者は居なくなった。)
中宮の死は、敵側の人間を大いに歓喜させ、中宮を慕う者たちを大いに悲しませた。
帝は、中宮の死を嘆き悲しみ、彼女の喪が明けるまで妃を迎えないことを決めた。
「余が妃と思うたのは中宮ただ一人。」
この帝の言葉は、雲居の御息所を大いにやきもきさせた。
「主上は妃を迎えぬと、そうおっしゃられたのか?」
「はい、御息所様。」
「何のために娘を入内させたと思うておるのじゃ!あの女に勝てたと思うておったのに、とんだ計算違いだったわ!」
雲居の御息所は怒りの余り、近くにあった脇息を床に叩きつけた。
「ええい、あの女め、死した後も妾の邪魔をするつもりか・・」
「御息所様、どうお気を鎮めてくださいませ・・」
「まだ、終わりではない・・」
「そうですわ。」
宣旨は怒り狂う主を前にして、そう言うしかほかになかった。
「雲居の御息所が、動き出したようですね。」
「ああ。中宮様の件で、密かにあの方が動いていたとはな。」
陰陽寮では、忠光と有匡が向かい合って座りながらそんなことを話していた。
例の貝殻で二人が探りを入れてみたところ、中宮に貝殻を贈った者が雲居の御息所であることを突き止めた。
そして彼女がかつて、中宮と帝の寵愛を巡って醜い争いを繰り広げていたことも。
「雲居の御息所は、今回の事件に深く絡んでいると言ってもよいですね。彼女は中宮様を深く恨んでいる。」
「ああ。もう彼女は鬼と化しているかもしれません。」
「人は負の感情を抱き続けると鬼となる・・雲居の御息所の場合は、中宮様に対する強い憎悪、嫉妬、恨みの念を抱いていた。ですがわたしは、彼女の他にも動いている者が居るとにらんでおります。」
「他の者、とは?」
「以前仁が三条家に訪れた“播磨から来た女人”のことが、どうもひっかかっておりましてね。もしやその女人と雲居の御息所が手を組んでいるのではないのかと・・」
「それも考えられますね。今は慎重に動くべきです。」
「そうですね。」
有匡はそう言うと、仁は今弘徽殿でどうしているのだろうかと彼の身を案じた。
「相模様、どうしてわたくしを避けるんですの?」
「あら、わたくしそのようなことなさったかしら?」
簀子縁(すのこのえん)を歩いていると、仁は例の女房に出くわしてしまった。
「有匡様にはいつ・・」
「申し訳ないけれど、有匡様には北の方様がおられるのですよ?」
「まぁ、北の方様が?それは本当なの?」
「ええ・・あくまでも噂ですけれど、有匡様は大層北の方様を愛されておいでだとか。」
少し脚色しつつも、仁は彼女に有匡が妻帯者であることをにおわせた。
まぁ、あながち嘘ではないが。
「そう・・わたくし、急用を思い出したのでこれで失礼するわ。」
仁の話を聞き終えた女房は、落胆した様子でその場から去っていった。
これで彼女に付纏われずに済む―そう思いながら仁が安堵のため息を吐いていると、誰かに肩を叩かれた。
「あなた、あの時の・・」
「菫の君様・・」
仁が振り向くと、そこには雲居の御息所の娘・菫の君が蒼褪めた顔をして立っていた。
「どうしてあなたが、男子禁制の後宮に居るの?」
「それは、申し上げられません。では、これで失礼致します。」
背後で菫の君に声を掛けられたが、仁はそれを無視して伊勢の方の元へと向かった。
「伊勢の方様、今宜しいでしょうか?」
仁が御簾の前で伊勢の方にそう声を掛けたが、中から返事がなかった。
どうしたのだろうかと彼が訝しがりながら御簾をそっと捲ると、部屋の奥で彼女が直衣姿の男と口論している姿が見えた。
「ですから、わたくしはもうあなた様の事を・・」
「何故、わかってくれぬのだ!」
そう怒鳴った男の声に、仁は何処かで聞いた覚えがあった。
あれは確か、淡路の方の元へと向かう途中で聞いたものと同じ男の声だ。
「伊勢の方様?」
仁がもう一度伊勢の方に声を掛けると、奥から衣擦れの音が聞こえたかと思うと、男が御簾を乱暴に捲って部屋から出て来た。
咄嗟に仁は扇で顔を隠したが、男はジロリと彼を睨み付け、その場から去っていった。
「伊勢の方様、今の方は・・」
「お願い、この事は何も言わないで。」
そう言った彼女の顔は、何かに怯えているようだった。
「ええ、何も言いませんわ。」
「あの方は、以前お付き合いしていらした方なのよ。けれど、もうわたくしはあの人と終わりにしたいのよ。」
聞いてもいないのに、伊勢の方は仁に自分の恋愛事情を語り始めた。
「あの方とは幼馴染でね、いずれは親同士が結婚させるつもりでいたのだけれど・・あの方には想い人がいらっしゃったのよ。」
「想い人、でございますか?」
「ええ。その想い人というのは、雲居の御息所(みやすんどころ)様なのよ。」
「まぁ・・」
「あの方には勝てやしないわ、悔しいけれど。」
伊勢の方は、心底悔しそうに唇を噛み締めると俯いた。
一方、播磨の朽ち果てた邸に住んでいる女は、烏と年老いた乳母を引き連れて上洛した。
「姫様、一体どちらへ向かわれるのですか?」
「雲居の御息所様の元じゃ。」
「まぁ・・かつての東宮妃様の元へ?」
「心配するでない、御息所様はわたくしを歓迎して下さる。」
雲居の御息所邸についた女達は、邸の主に歓迎された。
「長旅のところ、お疲れでございましょう。さぁ、たんと召し上がってくださいませ。」
「ありがとうございます。」
女は微笑みながら、雲居の御息所が注いだ酒を猪口に受け、それを一気に飲み干した。
「そなたのお蔭で、わたくしの積年の恨みが晴らせた。礼を言うぞ。」
「礼なぞ要りませぬ。わたくしはただ、当然のことをしたまでです。」
「中宮が死に、我が姫が帝の目に留まれば、没落寸前の我が家もかつての光を取り戻すことじゃろう。その為には、そなたの力が必要なのじゃ。」
「わかっておりますとも、御息所様。」
「これからも、宜しく頼むぞ。」
雲居の御息所と女は、固く手を握り合った。
「御息所様、よろしいのですか、あのような者を信用して?」
「よいに決まっておる。あの女のお蔭で、中宮は死んだ。このまま計画を中止する事はならんぞ。」
「はい・・」
「後は、姫がどのようにして帝の心を捉えるかじゃ・・」
母の期待を受けながら入内した菫の君は、弘徽殿で孤立していた。
中宮を殺害したのは雲居の御息所ではないのかという噂が囁かれるようになったのは、帝が中宮の死後初めて弘徽殿に渡った時からであった。
その日、中宮主催で開かれる筈だった管弦の宴を、菫の君が開くこととなった。

仁達は素晴らしい演奏を帝の前で披露し、彼を感動させた。

「まるで天女達が舞い降りて余の心を慰めたかのような美しき音色であった。」
「そうでございましょう、主上。これらの者達は、わたくしが選んだ優秀な者たちばかりですから。」
奏者達を選出したのは中宮であるというのに、さも自分が選んだというような口ぶりで帝に話している菫の君に対し、その場に居た者達が不快さから眉を顰めた。
「何なのです、あの方は?」
「まるで、ご自分の手柄のように振る舞っておいでではありませんか?」
「あの御息所の姫君様ですもの、狡猾なところは母親に似ておりますわねぇ・・」

宴の件で、菫の君はすっかり女房達に嫌われてしまった。

宮中で行われる行事の準備で菫の君が声を掛けても、その場に居た女房達は無視して別の仕事をしていたり、雑談をしていたりしていた。
特に、中宮に対して親身に仕えていた淡路の方は、新しく主となろうとする菫の君の事を認めようともせず、同僚達と結託して菫の君を弘徽殿から追い出そうとしていた。
日に日に孤立を深めてゆく菫の君は、部屋に引きこもりがちとなり、ブツブツと独りごとを言うようになっていった。
「相模様、あなたあの方とお知り合いなの?」
「菫の君様とですか?いいえ、あの方とは初めてお会いしたばかりですわ。」
以前菫の君とは御息所邸で会っていたのだが、それをわざわざ伊勢の方に知らせるつもりはないだろうと思い、仁は咄嗟に嘘を吐いた。
「あの方、いつまで弘徽殿にいらっしゃるおつもりなのかしら?ご自分が嫌われていることに気づいていらっしゃらないようだけど。」
普段穏やかで他人を悪く言わない伊勢の方の口からそんな辛辣な言葉が出て来るとは思わなかった仁は、思わず彼女の顔を見てしまった。
「なぁに、どうしたの?」
「いいえ。それよりも、最近陰陽寮から連絡はございましたか?」
「ええ。忠光様の使いの方から、文を預かっているわ。」
「ありがとうございます。」
伊勢の方から文を受け取った仁は、彼女の部屋から辞して人気のない場所へと向かい、忠光からの文を読んだ。
そこには、今回の事件に雲居の御息所が絡んでいること、その背後には貝殻を貴族の姫君達に渡した“播磨から来た女人”が居ることなどが書かれていた。
(事件の黒幕は、雲居の御息所様ではない?)
「相模様、こちらにいらしたのね?随分探したのよ?」
「あ、淡路の方様・・」
仁は淡路の方に見つからぬよう、さっと忠光の文を衣の下に押し込んだ。
「わたくしに何かご用でしょうか?」
「ええ、実はね、あなたにお会いしたいという方がわたくしの部屋で待っているのよ、一緒に来てくださらないこと?」
「わかりました・・」
わざわざ自分に会いたいというのは、どんな人物だろう―そう思いながら仁は淡路の方の部屋に入ったのだが、そこには誰も居ない。
「淡路の方様、これは・・」
「まさか、こんな簡単な手に引っ掛かるとはね。あの陰陽師の息子だと聞いていて恐れていたけれど・・随分と間抜けだこと。」
そう言った淡路の方の声は、何処かしゃがれていた。
「そやつが、あの陰陽師の子か?」
「はい、御息所様。」

淡路の方は女に恭しくそう言って彼女に頭を下げると、仁を女の前に突き出した。

その女は、雲居の御息所だった。

だが仁が以前会った雲居の御息所とひとつ違うところは、彼女の額から二本の角が突き出ているところだった。
「あなたは・・」
「御息所様は鬼となって、あの忌々しい中宮を腹の子もろとも始末した。あとは、中宮に与(くみ)する者を殺すだけです。」
淡々とした口調でそう言った淡路の方の横顔が、酷く冷たく見えた。
「そうか。では、貴様には死んで貰わねばならぬな。」
「お待ちください、御息所様は一体何を考えておいでなのですか!?中宮様亡き今、あなたの望みはもう叶えられた筈でしょう!」
仁がそう御息所に問い詰めると、彼女はジロリと仁を睨みつけた。
「そなたは何もわかっておらぬ。わたくしがあの女からどのような仕打ちを受けたのか・・死してなお、帝の心を引き留めるあの女が許せぬ!」
御息所が叫んだ瞬間、周囲の空気が激しく振動したのを感じた。
結界を張っていなければ、衝撃波に身を引き裂かれそうだった。
「そなたなどにわたくしの邪魔はさせぬ。死ね!」
御息所はすっと仁に向かって手を伸ばすと、その首を片手で絞めあげた。
酸素を求めて喘いだ仁は、御息所の手を振り払おうとしたが、鋭い爪で手を引っ掻かれて痛みに呻いた。
「おのれ、小癪(こしゃく)な!」
「やめろ!」
その時、誰かが雲居の御息所を仁から引き離した。
「そなた・・」
「わたしの息子に手を出そうとするとは、恐れ知らずの鬼女だな。」
有匡はジロリと御息所を睨み付けると、彼女に向かって祭文を唱えた。
「やめろ・・」
目に見えない何かに縛りつけられ、御息所は苦しげに呻いてもがいた。
「何故邪魔をする、土御門有匡!わたくし達は今まで苦労したと思っておる!」
「黙れ、鬼を相手にする時間など無駄だ!」
淡路の方の言葉を一蹴した有匡は、護符を放った。
「ぎゃぁぁ~!」
護符を額に喰らった淡路の方は、全身を炎で焼かれ、苦しみながら死んだ。
「おのれ、よくも淡路を!」
本性を露わにした雲居の御息所は、牙を剥いて有匡に襲い掛かった。
だが、その牙が有匡に届く前に、彼が放った式神がその身を引き裂いた。
「おのれぇ・・」
有匡を憎々しげに睨みつけながら、雲居の御息所は灰と化して消えていった。
「父上・・」
「これで終わったな、何もかも・・」
「はい・・」
有匡と仁がその部屋から出て行こうとした時、一振りの太刀が有匡の肩先を掠めた。
「父上、大丈夫ですか!」
「まだ終わらぬ・・終わってはおらぬぞ!」
半狂乱になった宣旨は、太刀を振り回しながら有匡達の方へと突進してきた。
「父上に手を出すな!」
仁はそう叫ぶと、宣旨に向かって祭文を唱えた。
すると彼女は、炎に巻かれて息絶えた。
「良くやったな。」
「連れて参りましたぞ、例の者を。」
淡路の方が部屋の奥へと向かってそう呼びかけた時、黒い影がゆらりと蠢(うごめ)いたかと思うと、一人の女が仁の前に姿を現した。
宮中での中宮呪殺事件から数日後、有匡と仁は京の土御門家を後にして鎌倉へと戻った。

「ただいま。」
「お帰りなさい、仁。長旅ご苦労様。」
「ありがとうございます、姉上。」
仁はそう言うと、数ヶ月振りに会った姉に対して頭を下げた。
「聞いたわよ、あなた、今回の事件を見事解決したんですって?」
「そんな・・大したことないよ。」
「まぁ、そんなに謙遜することじゃないでしょう?あなたもこれで立派な陰陽師ね。」
「もう、姉上ったら。」
雛と仁が談笑している姿を、有匡は横目でチラリと見ながら笑った。
「先生、あの子達はあっという間に大きくなりましたね。」
「ああ。仁はわたしのお蔭で逞しくなったようだな。」
「まぁ、先生のスパルタ教育の賜物でしょうね、今回の事件を仁が解決したのは。女装して後宮に潜入するなんて思ってもみませんでしたけど。」
「わたしの助けが要らなくなる時期も近い、ということだな。」
「そうですね。けれど、これからどうするんですか?」
「どうするって?」
「陰陽寮の忠光様から先程文が来ましたけど、忠光様は仁の事を大変気に入っておられるようですよ?」
「・・見せてみろ。」
火月から文を渡された有匡がそれに目を通すと、そこには仁の事を高く評価しているという旨が書かれていた。
「あいつがもし陰陽寮に居たいというならば、反対する理由があるまい。」
「随分と甘くなりましたね、先生。昔は外に出ようとした仁をこっぴどく叱りつけていたのに。」
「あいつだってもう小さな子どもじゃないんだ。本人の好きにさせた方がいい。」

その夜、有匡は仁に忠光からの文を見せた。

「忠光様が、こんな文を・・」
「どうする?お前が陰陽寮に居たいというのならば、わたしは止めぬ。好きにしろ。」
「この話、喜んで引き受けようと思います。」
「そうか。また、寂しくなるな。」

有匡はそう言うとフッと笑った。

数ヶ月後、仁は再び上洛する事となった。

「向こうで頑張ってきなさいね、仁。」
「はい、姉上、母上。」
「お父様ならまた何処かに行ってしまったわ。全く、困ったものだわ。」
雛がそう言って嘆息すると、仁はクスクスと笑った。
「それじゃぁ、行って参ります!」
「体調を崩さないでね!」
「必ず手紙を頂戴ね!」
牛車が見えなくなるまで、雛と火月は仁に手を振った。
「これからまた、忙しくなりますわね。」
「ああ。」
「忠光様のご期待に応えなければなりませんね、仁様?」
「そんなにプレッシャーかけないでよ、涼香。」

仁が困惑したような表情を浮かべながら涼香を見ると、彼女はクスクスと笑った。


~完~
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凛として咲く花の如く(前編)

2024年09月27日 | 火宵の月 昼ドラパラレル二次創作小説「凛として咲く花の如く」

「火宵の月」二次小説です。

作者様・出版社様とは一切関係ありません。

二次創作・BLが嫌いな方はご注意ください。

「わたしが、陰陽寮に?」
「ああ、そうだ。今しがた、京の土御門家から文が来た。」

梅雨が過ぎ、蒸し暑さを感じるようになった夏の昼下がり、土御門仁(つちみかどじん)は、父・有匡(ありまさ)に呼び出されて彼の自室へと向かうと、彼から上洛するよう言われた。
一瞬動揺した後、仁はずいと身を乗り出し、父を問い詰めた。
「何故、わたしが上洛しなければならないのですか、父上?土御門家とは、母上と結婚した時に絶縁されたと、そうおっしゃいましたよね!?」
「ああ、そのつもりだったが、向こうは人を使って密かにわたし達の生活を調べていたらしいのだ。」
有匡はそう言って嘆息すると、握り潰してくしゃくしゃになった土御門家からの文を仁に手渡した。
そこには直ちに仁を上洛させ、陰陽寮に入寮させるようにとの旨が書かれてあった。
「一体あちらは何を考えているのでしょうか?」
「それはわからぬ。ただ、このまま返事をせずに居ると悪い方へと事が進むかもしれぬ。」
「それは・・」
「母上と雛(すう)のことは心配するな。」
「ですが父上・・」
「くどいぞ、仁。これはもう決まった事なのだ。」
尚も仁が有匡に抗議しようとすると、彼はそっと仁の肩を叩いた。
「わかりました。父上がそうおっしゃっておられるのなら、わたしは従うしかありませんね・・」
悔しさの余り唇を噛み締めながら、仁はそう呟いて俯いた。
「仁、お父様と何を話していたの?」
「姉上・・」
有匡の部屋から出た仁は、サラサラという衣擦れの音とともに姉の雛がやってきたことに気づいた。
双子の姉である彼女は、母・火月譲りの金髪紅眼の美しい容姿の持ち主ではあるが、外見は母親似であるのに対して、性格は父親である有匡に似ていた。
「その様子だと、お父様に何か言われたようね?」
「ええ。」
「どうせ土御門家があなたに上洛せよという文が届いたのでしょう?あちらの主の体調が芳しからないというから、何か含むところがありそうね。」
「姉上のおっしゃる通りです。」
「まぁ、あなたが留守の間、わたしがこの家を守るから心配要らないわ。」
雛はそっと仁の手を握ると、彼に微笑んだ。
姉とともに自室に戻った仁は、衣紋掛けに見慣れぬ直衣が掛けられていることに気づいた。
「先程土御門家から届きました。」
父の式神である種香がそう言うと、仁を見た。
「・・僕の趣味じゃないな。」
「どうやら有匡様が駄目なら、仁様に家督をお譲りする気になったのかもしれませんね?」
「それはどうかな、向こうとは絶縁したって思っているんだから、こっちは。」
上洛するまでの間、仁は土御門家がどんな手を使って有匡に自分の上洛を迫ったのかが気になり、眠れぬ夜を過ごした。
「行ってらっしゃいませ、仁様。」
「仁、くれぐれも身体には気を付けるのですよ。」
「わかりました、母上。それでは、行って参ります。」
出立の日の朝、姉と母に見送られ、仁は上洛する事になった。
「有匡様も薄情よねぇ、息子の見送りにも顔を出さないなんて。」
「殿もお辛いんじゃないんの?だからわざと仕事を入れてさっさと職場に向かわれたんだと思うわ。」
「まぁ、そうかもねぇ・・」
式神達はそんな囁きを交わしながら、家事に取りかかった。
「仁、よう来たな。さぁ、近う寄れ。」
「は・・」
上洛した仁は、土御門家当主と対面した。
有匡の養父である彼は、自分の義祖父に当たる人物なのだが、何故か仁は彼に対して不信の感情しか抱けないでいた。
「そなたをここに呼んだのは他でもない、土御門家を再興する望みをお前に託す為じゃ。」
「そんな大それたことをわたくしが出来る筈がございません。元服したとて、わたくしはまだまだ半人前ですから。」
なるべく当たり障りのない言葉を選びつつ、仁はそう言って義祖父を見つめると、彼は少し落胆したかのような表情を浮かべていた。
「おお、そのような事を言うでない。わしはそなたの父、有匡に絶縁を言い渡されて以来、生きるのが嫌になったことがあった。有仁(ありひと)の時もそうであった・・」
「ご自分のご都合のよいように解釈されては困ります。祖父が死んだのは、あなた方の所為でしょう?」
土御門家前当主であり、有匡の実父である有仁は、帝を惑わした妖狐・スウリヤと逃げ、土御門家を勘当された挙句、土御門家の追手によって無残な最期を遂げた事を仁は知っていた。
「父上が駄目ならば、わたくしに土御門家の家督を譲ろうとお思いになられていることでしょうが、わたくしはこの家を継ぐ気などさらさらありません。」
今まで義祖父を傷つけぬよう、下手に出ていた仁だったが、いい加減彼との噛み合わない会話をしてきてもうどうにでもなれと思ったのだった。
「この際はっきり申し上げますが、わたくしはもうあなた方とは親族でも何でもありません。父がこの家で暮らしていた時、あなた方が父にどのような仕打ちをなさったか、お忘れか?」
仁がそう言って義祖父を睨み付けると、彼はヒィッと叫んで身を竦めた。
「わたくしも狐の子ですゆえ、いつ何時あなた方の寝首を掻き切るかもしれませぬ。それでも良いというのならば・・」
老い先短い老人を脅迫するような真似はしたくなかったが、祖父や父の事を有耶無耶にしようとするこの男が仁は許せずにいた。
「もうよい、そなたの気持ちは解った。じゃが京に居る間、我が家に滞在してはくれぬか?」
「いいでしょう。ですがあなた方とは顔を合わせたくはありませんので、別邸で過ごすことに致しましょう。」
一緒に暮らすことだけでも有り難いと思え―そんな負の感情を言葉の端々に滲ませながら仁がそう言うと、先ほどまで沈んでいた義祖父の顔がパァッと輝いたように見えた。
「何をしておる、別邸を整えよ!」
「は、はい!」
仁が別邸に住むとわかった途端、彼はテキパキと家人達にそう命じ始めた。
(まったく、何て爺なんだ・・父上が絶縁したくなったのも、解る気がするな・・)
別邸と本邸を隔てる渡殿を歩いていた仁はそう思いながら、深い溜息を吐いた。
その時、向こうから自分と同い年の少年が数人やって来た。
どうやら一族の厄介者の息子である自分の姿を見ようと来たらしく、彼らは仁と目が合うなり、意地の悪い笑みを口元に湛(たた)えていた。
「お前があの有匡の息子か?」
「薄気味の悪い顔をしているな、流石あの狐の子と血を分けた息子らしい。」
「呪力はどうかな?まぁ、似ているのは顔だけだと思うがね。」
初対面だというのに、彼らは仁にそんな事を言いながら無遠慮な視線を投げつけて来た。
「わたくしの顔をとやかく言う前に、一度ご自分の顔を鏡でご覧になられてはいかがです?性根が腐りきった醜い顔をしておられますよ?まぁ、あなた方の顔は元から大層残念なものですけれどね。」
背後で彼らが何か喚いている声が聞こえたが、仁はそれを無視してそこから去っていった。
別邸で眠れぬ夜を過ごした仁は、そのまま陰陽寮へと入寮することとなった。

「貴殿が、あの土御門有匡殿のご子息か?」
「はい、これからお世話になります。」

入寮早々、彼は陰陽頭(おんみょうのかみ)・賀茂忠光(かものただみつ)に挨拶に行った。
遥か平安の御世、陰陽道の大家として名を馳せた賀茂家の出身だけあり、彼は何処かこの世を達観しているような賢い顔立ちをしていた。
「君の噂は聞いているよ。何でも、父上にもひけをとらぬほどの実力だとか?」
「いいえ、わたしはまだまだ父の足元にも及びません。」
「そう謙遜するんじゃないよ。それよりも、鎌倉に居る父君に宜しくお伝えしてくれ。」
「はい、わかりました。」
「では、わたしについてきなさい。君にとって陰陽寮は初めてだろう?今日の内に全体を把握しておいた方がいい。」
「わかりました。」
「では早速、案内するよ。」
陰陽寮のトップである忠光の後ろについて歩く仁の姿を、好奇心を剥き出しにした他の学生達(がくしょうたち)の視線が突き刺さった。
突然やって来た、東国(かまくら)から来た新入りが、何故忠光と歩いているのか皆興味があるらしく、仁は行く先々で声を掛けられた。
「お前、忠光様と一体どんな関係なんだ?」
「わたしは大した者ではありませんので、どうかお気にならさぬよう。」
そう言って暦生(れきしょう)の一人に微笑んだ仁であったが、はいそうですかと彼らが納得する筈がなく、あっという間に暦生達に仁は取り囲まれてしまった。
「どうせお前、親のコネで入ったんだろ?さもなきゃ、名高い陰陽寮に田舎者が入れるわけないもんな?」
暦生の一人が冷笑交じりでそう言うと、仁の前に出て来た。
「ほう?それならば貴殿は、どのようにして陰陽寮に入ったのですか?まさか、親の縁故で入ったとは言えませんよねぇ?」
陰陽寮に入る学生達は、天賦の才がある者も居るのだが、その大半は親の口添え、つまり縁故で入ってきた者が殆どだった。
「ふん、そんな筈ないだろう?俺は才能を買われてここに入ったんだ!お前のような田舎者とは違う!」
「ならば、その才能とやらをとくと拝見致しましょう。」
そう言った仁は、近くにあった暦を自分の手元に引き寄せた。
「この暦で、吉凶を占ってくださいませ。常日頃緻密な計算をされる貴殿なら、このような物は朝飯前でしょう?」
「クソ、俺を馬鹿にするな!」
仁の軽い挑発を受けた暦生は、仲間達が見守る中作業に取り掛かったものの、数秒もしない内に根を上げた。
「お前もやってみろ!」
「やらずとも、もう占えましたから。」
仁はスラスラと、暦で吉凶を占い始めた。
「ここは、西北に災いありと出ております。」
「ふん、なかなかやるじゃないか。ならばこれを作ってみろ!」
負け惜しみなのかどうかわからないが、暦生は未完成の暦を仁に押し付けると、そそくさと部屋から出てしまった。
これが新人いびりというものか―仁は苦笑しつつも、暦作りに取り掛かった。
「仁、そんな所で何をしているんだ?」
「先程先輩方から仕事を任されました。」
「全く、新人を来た早々いびるなど・・後で君に仕事を押しつけた者達を呼び出して叱らなければ・・」
「いえ、もう出来あがりましたから。それよりも忠光様、どうやらわたしは彼らに良い刺激を与えたようです。」
「そ、そうか・・」

忠光は仁の言葉を受け少し面食らったが、そのまま彼に背を向けて部屋から去っていった。

新入りでありながら、仁は陰陽寮の学生達に一目置かれる存在となった。

幼い頃から父・有匡に陰陽道の何たるかを叩き込まれ、厳しい鍛錬を重ねて来た甲斐があり、難解な講義にもついていけた。

「先日の試験が発表された。最下位の者は追試を受けることになっているから、心してそれに臨むように。」
忠光がそう言って講堂から出て行くと、学生達は我先にと試験結果が張りだされている場所へと殺到した。
仁はつま先立ちになりながらも、自分の名を必死に探した。
そして一番上に自分の名が出ている事を確認し、彼は安堵のため息を吐いてその場から離れた。
「なぁ、土御門仁って何者なんだ?」
「さぁな。何でも、父親の土御門有匡殿は宮中に居た頃色々と噂になった大物だそうだ。」
「土御門といえば・・確か昔陰陽頭を務めていたのも、土御門姓の者だったよな?」
「やっぱり、血は争えないんだろうなぁ。」
学生達が試験の結果について―正確に言えば仁について話していると、一人の学生が彼らの元へとやって来た。
「血統が何だっていうんだ?親が偉大な人物でも、その仁って奴が凄いっていう訳じゃないだろう?」
「それは・・」
「つまらないことで騒ぐなよ、馬鹿らしい。」
その学生は鬱陶しげに前髪を掻きあげると、蒼い双眸で周囲を睥睨(へいげい)した。
「何が天才だよ、馬鹿らしい・・」
周囲には聞こえぬ低い声でそう呟いた彼は、簀子縁(すのこのえん)を歩いてくる仁を見るなりさっと立ち上がり部屋から出ていった。
「お前が、土御門仁か?」
「はい、そうですが・・あなたはどちらさまでしょうか?」
「ふぅん・・どんな奴かと思ったら、余りパッとしない顔だな。」
「おや、どうやらあなた様はご自分のご容姿にさぞや自信がおありのようですね?」
初対面の相手に“パッとしない”と言われ、黙って引き下がる仁ではなかった。
咄嗟にそんな言葉をその学生に返すと、彼は怒りで顔を赤く染めた。
「真雅(ただまさ)、そこで何をしている?」
「忠光様・・」
仁と睨み合っていた学生は忠光の姿を見るなり、慌てて彼にひれ伏した。
「どうして仁をあんな目で睨みつけていたんだ?」
「いえ・・」
「すまないね、仁。この者にはわたしからよく言い聞かせておくから、今回はわたしに免じて許してやってくれないだろうか?」
「わたしは別に構いませんよ?」
「そうか、ありがとう。真雅、来なさい!」
「ですが忠光様・・」
「黙ってわたしの後について来なさい、真雅!」
まるで見えない鞭に打たれたかのように、その学生はビクリと身を震わせると、慌てて忠光の後を追いかけていった。
「真雅、お前が仁に対して良からぬ感情を抱いていることはわかる。だが、少し分別というものを身につけないといけないよ?」
「ですが、あいつの父上は・・」
「親同士の関係がどうであれ、お前達がいがみ合う理由はない筈だ、そうだろう?」

忠光にそう言われ、真雅は唇を噛み締めながら俯いた。

「わかればいいんだ。さぁ、もう仕事に戻りなさい。」
「これで、失礼致します。」

真雅は忠光の部屋を出ると、苛立ち紛れに近くの柱を拳で殴った。

仁が陰陽寮に入寮して数日後、鎌倉に居る父から文が届いた。

そこには体調を崩さぬようにとだけ書かれていた。
いかにも父らしく、そっけない文だったが、それでも仁にとっては嬉しかった。
「仁様、何やらご機嫌ですわね?」
「そうかな?」
仁の式神・涼香(すずか)がそう言って彼の肩越しから有匡からの文を覗き見ると、彼女は溜息を吐いた。
「そっけない文ですわね。」
「まぁ、別にいいんじゃない?逆に長ったらしい文を書かれたら嫌だよ。」
「そうですわね。それよりも仁様、今日はご出仕ならさないのですか?」
「うん・・試験がまたあるから、勉強しないと。」
「実技はもう終わったのでは?」
「今度は小論文の試験なんだ。実技は出来るんだけど、小論文は苦手なんだよね。」
「余り無理なさらないでくださいね。」
「わかった。」
朝食を食べ終えた仁は、すぐさま自室で試験勉強に取りかかった。
元は有匡所有の別邸には数人の使用人達の他には誰もおらず、ひっきりなしに来客が訪れる本邸とは違って静かだった。
周りに雑音がしなくて勉強に集中できた甲斐があったのかどうかわからないが、仁は小論文の試験でも満点を取った。
「君は優秀だね。実技だけでなく小論文も得意とは。やはりあの父君の子だけである。」
「いえ、わたしは努力してそれが報われただけです。」
そう言って仁が謙遜すると、陰陽博士(おんみょうのはかせ)である賀茂輝義(かものてるよし)は苦笑しつつ彼の肩を叩いた。
「そんな事を言うな。君の実力は君自身がわかっていることじゃないか?」
「まぁ、それはそうですけれど・・」
輝義と仁の会話を、真雅(みつまさ)は柱の陰から聞いていた。

(どうして、あいつの顔を見ると苛々するんだろう?)

初めて顔を合わせた時から、何故か真雅は仁の事が嫌いになった。
何故彼を嫌うのか、自分でも解らない。
それはひとえに、父・文観と彼の父・有匡との確執が原因なのかもしれない。
文観は有匡のことを嫌い、有匡も文観の事を嫌っていた。
だが、有匡の妹・神官(シャマン)が文観の妻となったので、親戚同士となった二人はあからさまに好悪の感情をぶつけ合うことはないものの、親戚づきあいは皆無に等しかった。
親同士の仲が悪いと、当然それは子ども達にも悪影響を及ぼす。
一度も顔を合わせた事がない従兄弟達に対して、真雅はいつの間にか彼らに悪感情を抱いていたのだった。
「どうしたんだ、真雅?」
「父上・・」
何者かに肩を叩かれて真雅が振り向くと、そこには墨染の衣の上に金襴(きんらん)の袈裟を掛けた帝の護持僧(ごじそう)である父・文観の姿があった。
「あれが、有匡殿の息子か?」
「ええ。父親に似て優秀で、それでいて憎らしい顔をしております。」
「そんな事を言うんじゃない、真雅。宮中で不用意な発言を控えるように。」
「はい、父上。」
真雅は、そう言うと俯いた。
「人の事を気にするよりも、勉学に励むがいい。陰陽寮に入った以上、志を高く持ってくれよ?」

文観は我が子を励ますかのように、そっと真雅の肩を叩いた。

「歌会、ですか?」
「ああ。何でも、雲居の御息所(みやすんどころ)様が最近気欝(きうつ)なご様子でいらっしゃる姫君様をお励ましになろうとお思いになって今宵開くんだとか。」
「へぇ・・雲居の御息所様がそんな事を・・」
雲居の御息所の名は、仁は何度か宮中でその名を聞いたことがあった。
かつて東宮妃(とうぐうひ)として後宮で権勢を振るうも、政敵の娘である中宮の讒言(ざんげん)により宮中から追い出され、今は姫君と実家で暮らしているという。
「仁はどうするんだ?」
「歌会ですか?お恥ずかしながら、余り歌を詠むのが得意ではないので遠慮させていただきます。」
仁がそう言って歌会を欠席する旨を忠光に伝えようとした時、衣擦れの音とともに一人の童子が講堂に姿を現した。
「土御門仁様は、おられますか?」
「わたしですが・・」
「これを、雲居の御息所様から預かって参りました。」
そう言うと童子は、梅の枝に巻きつけた文を仁に手渡した。
「ありがとう。」
文には、是非今宵の歌会に出席して欲しいという旨が書かれていた。
「どうやら、出席しなければならないようだね?」
「はい・・」
そう言った仁の声は、少し沈んでいた。
「雲居の御息所様の歌会に?」
「うん。歌を詠むのが苦手なのに、歌会なんて・・人前で恥をかくのは嫌だよ。」
帰宅した仁はそう涼香に愚痴をこぼすと、彼女はそっと仁の肩を叩いてこう言った。
「大丈夫ですよ。雲居の御息所様はそんなに意地の悪いお方ではありませんから。」
「そうだといいんだけど・・」
コメント

真~TRUE~緋 最終話

2024年09月27日 | 火宵の月 現代×鎌倉ファンタジーパラレル二次創作小説「真~TRUE~緋」
「火宵の月」の二次創作小説です。

作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。

「そなたが、土御門有匡か。」
仕事を終わらせ、後宮にいる火月の元を訪ねようとした有匡は、雄仁の部下に呼ばれ、彼の部屋を訪れた。
「はい、雄仁様。」
「面を上げよ。」
有匡が顔を上げると、そこには凛々しくも雅な雰囲気を纏った青年の姿があった。
「女と見紛うごとき美貌じゃ。執権がお前を離さぬのは解る気がするのう。」
「戯言をおっしゃいますな。それで、ご用件は?」
「用は、東宮を失脚させてはくれぬか?」
「東宮様を・・ですか?」
「そうじゃ。生母の身分が高い故、あやつは無能な癖に東宮の地位を与えられておる。乳兄弟の光成が居らねば着替えも満足に出来ぬ奴が東宮など、笑止!」
雄仁はそう言うと、扇子を閉じた。
「恐れながら雄仁様、わたくしは東宮様たっての願いによりこの宮中に戻りました次第でございます。」
「ふん、そなたは奴の味方をするのか。まぁよいであろう。いずれは痛い目を見るであろうの。もうよい、下がれ。」
「は・・」
雄仁の元から下がった有匡は、溜息を吐いた。
どうやら自分が思っていた以上に、宮中では東宮派と雄仁派と二つの派閥に別れて、生き馬の目を抜く闘争が繰り広げられているようだ。
政の世界でも凄まじいのだから、後宮ではさぞや弘徽殿女御が幅を利かせているのだろう。
そう思うと有匡は火月の事が心配になり、後宮へと向かう足が自然と急ぎ足になった。
「火月様、東宮様から文が。」
「東宮様から?」
火月が自室で子ども達と寛いでいると、東宮付の女房がそう言って文箱を火月に差しだした。
東宮からの文は、昨夜の無礼を詫びる旨とともに、今宵の宴に来て欲しいと書かれてあった。
「東宮様からの文には、何て?」
「宴に来て欲しいって。どうお返事すればいいのかなぁ?」
「今朝あんな事があったからねぇ、遠慮しないと。」
「そうそう、弘徽殿女御様に目をつけられたら困るし。」
種香と小里はそう言ったが、東宮の事が気に掛かり、火月は彼の宴に出席する事にした。
「なに、東宮様が宴を?」
「はい。如何なさいますか、女御様?」
「決まっておる。妾も宴を開く。まぁ今はどちらの宴に出るか、宮中の者は皆決めておろうな。」
「そうでしょうとも。」
弘徽殿女御は、意地の悪い笑みを口元に浮かべた。
「ねぇ、東宮様の宴に出ちゃって大丈夫なの、火月ちゃん?これで弘徽殿女御様に目の敵にでもされたら・・」
「大丈夫だって、少し顔を出すだけだから。でも一人だと心配だから、お姉さんたちにもついて来て欲しいんだけど。」
「ま、北の方様のお願いとあっては断れないわね。」
火月は種香と小里とともに東宮殿へと向かうと、途中で雄仁に会った。
「これは、雄仁様・・」
火月はさっと扇子で顔を隠したが、雄仁はジロリと彼女を見た。
「そなたが、土御門有匡の妻か?」
「はい、火月と申します。」
「そうか。東宮の宴に出るとは、物好きな女子よの。せいぜい木偶の坊に媚でも売るがよい。」
高笑いしながら去っていく雄仁を、種香達はあきれ顔で見送った。
「態度でかいわねぇ、あのガキ。」
「どうせ親の七光りでしょ。」
「あんなの気にしなくてもいいわよ。」
「そうだね・・」
火月が東宮殿で催される宴に出席すると、そこには誰も居なかった。
「火月よ、来てくれたのか。」
「他の方々はどちらに?」
「皆義母上の宴に出ておる。木偶の坊の我よりも、義母上の宴の方が面白うて良いのだろう。」
そう言った東宮の顔は、今にも泣きだしそうだった。
「そんな事はございませんよ、東宮様。」
「火月よ、そなたも我の我が儘に振り回されてうんざりしておるのだろう?どうせ我は誰からも見捨てられた存在なのじゃ。」
東宮は盃に酒をなみなみと注ぎ、それを一気に飲み干した。
「まぁ東宮様、そんなに飲まれてはお体に障ります。」
「良いのだ、我が死んでも誰も悲しむ者など居らぬ。」
「いい加減になされませ、東宮様!」
不意に下座に控えていた光成が突然階を駆け上がると、東宮の頬を打った。
「わたしが居るではありませぬか!何故そのような悲しいことをおっしゃられるのです!」
「光成・・」
「死ぬなどと・・死ぬなどともう二度とおっしゃらないでください!」
「済まぬ、そなたの気持ちも考えずに。」
光成はそっと東宮の手を握った。
「光成、そなたは我の側に居てくれるか?」
「ええ、居りますとも。」
光成と東宮の姿を、火月は笑顔で見ていた。
「では東宮様、僭越ながらわたくしが和琴を披露致しましょう。」
火月はそう言うと、和琴を弾き始めた。
「いやいや、盛況ですなぁ。」
「まぁ、今を時めく弘徽殿女御様の御子・雄仁様が開く宴とあっては、断る者など誰も居りますまい。」
「さぁ、どうでしょう。この華やかな場に、あの陰陽師の姿がないですよ。」
公達達は、そう囁き合いながら扇子の陰で笑った。
「あの陰陽師の姿が見えぬな?」
「申し訳ございませぬ女御様、あの者は突然急用が出来たとかで・・」
「ふん、生意気な男よ。あくまで東宮側に与するか。頭の切れる男と思うておったが、妾の見当違いだったようじゃ。」
弘徽殿女御はそう言うと、篝火に誘われて自分の元へとやって来た蛾を指で潰した。
「あの者・・光成と申したか?東宮の味方はあの者だけじゃ。」
「はい女御様、光成は東宮様と乳兄弟ゆえ、東宮様に対する献身ぶりは・・」
「あの者、妾の側に引き込まねばのう。」
「女御様?」
弘徽殿女御の女房・茜が主を見ると、彼女は口端を歪めて笑った。
「東宮を・・あの忌々しい木偶の坊を宮中から追い出すには、奴を孤立無援にすることじゃ。」
(一体何をお考えなのかしら?良からぬ事が起きなければよいけれど・・)
火月が爪弾く和琴の音色に誘われ、有匡が東宮殿へと向かうと、そこには笑顔を浮かべている東宮の姿があった。
「あ、先生。」
「昔と比べて随分上手くなったものだな。」
「酷い。昔の音色の事は忘れてください!」
「済まなかった。それよりも、東宮様の笑顔は初めて見たな。」
有匡はそう言って、夫婦のように仲良く寄り添う東宮と光成の姿を見た。
「光成様がいらっしゃるから、東宮様は安心されているのでしょう。東宮様にとって、彼はなくてはならぬ方なのでしょうね。」
「そうだな。人は独りでは生きてゆけぬ。わたしはお前と出逢う前、独りで生きてゆけると思っていたが、それは間違いだったようだ。」
有匡はそっと火月を抱き締めると、彼女の唇を塞いだ。
「お前と会えて良かった。」
「僕もですよ、先生。」

月明かりの下、二組の恋人達は穏やかな時間を過ごしていた。

1334年初夏。

火月は元気な男児を無事出産した。
「良く頑張ったな、ありがとう。」
産室に入って来た有匡は、そう言うと妻の腕に抱かれている赤子を見つめた。
「無事に産まれてくれて良かったです。雛と仁も兄弟が増えて嬉しいって。」
「これで鎌倉に帰れたら、もっと良いのだが。」
有匡の言葉に、火月は顔を曇らせた。
東宮によって宮中での暮らしが始まって半年が過ぎたが、鎌倉に戻る目処はついていない。
「父上!」
仁が産室に入ってくるなり、有匡に抱きついた。
「どうした、仁。今まで何処に行ってたんだ?」
「東宮様の所へ行ってました。東宮様は歌や笛を教えてくださいました。」
「そうか。」
半年前、塞ぎこんでいた東宮は、今や仁に笛や歌を教えるようになった。
東宮は仁の事を実の弟のように可愛がり、仁もまた東宮を兄のように慕っていた。
「途中、雄仁様にお会いいたしました。お母君の威光を笠に着て、相変わらずの威張りようでした。」
「こら仁、そんな事を言うな。」
有匡はそう言うと、仁の頭を小突いた。
陰謀渦巻く宮中に於いて、軽はずみな発言は命取りだ。
「申し訳ありません。ですが父上、宮中は堅苦しくて息が詰まります。」
「もうしばらくの辛抱だ。」
有匡は仁の頭を撫でながら、弘徽殿女御がどんな手を打ってくるのかを考えていた。
「先程廊下で会うた子ども、仁といったか。聡い瞳をしておったな。」
雄仁(ひろひと)はそう言って気だるそうに脇息に凭れかかった。
「有匡の長男、仁の事でございますか。あの少年、父親に似て洞察力が鋭いところがございます。流石元陰陽頭(おんみょうのかみ)を祖父に持つと・・」
「今、何と申した?」
「いえ、ただの戯言です。どうぞ捨て置いてくださりませ。」
「申してみよ。そなたの胸に留めておくには勿体ない。」
雄仁はそう言うと、臣下の公達を見た。
突然雄仁から宴に招かれ、有匡は嫌な予感しかしなかったが、誘いを断ることもできずに宴に出ると、集まっていた公達達が一斉に彼を見た。
「有匡よ、来てくれて嬉しいぞ。」
「雄仁様、本日はお招きいただきありがとうございます。」
有匡がそう言って雄仁に頭を下げると、彼はにやりと笑った。
「此度の若君の誕生、祝いを申すぞ。そなたの息子であるから、さぞや聡い子に育つであろうな。」
「ありがたきお言葉にございます。」
「そなたの父君・有仁(ありひと)も、聡い息子を持って誇りに思うておったことだろうな。」
雄仁の口から有匡の父・有仁の名が出た途端、場の空気が瞬時に凍りついた。
「何でも陰陽頭を務めておった、大変優秀な男だとか。そなたの優秀(きれもの)ぶりはきっと父親似であるのだろうな。」
有匡は頭を下げたまま、唇をぎりりと噛み締めた。
宴に自分を呼んだのは、公然の場で自分を辱める為だ。
自分にとって一番突かれたくない弱点を突いてまで、雄仁は己が優位である事を示したいのだ。
そんな幼稚な嫌がらせに付き合っていられるほど、暇ではない。
「お言葉ですが雄仁様、あなた様の良く回る舌とその傲岸不遜な態度、まさに母君様譲りであらせられまするな。」
有匡の言葉を受け、雄仁の顔がみるみる怒りで赤くなった。
「腹違いといえども兄である東宮様を蔑ろにし、このような場で一介の陰陽師であるわたくしを辱めるとは、それはどなた様の入れ知恵でございますか?あぁ、そのような所は母親似なのでしょうな。」
有匡がそう言葉を切ると、膳が派手にひっくり返る音がした。
「そなた、黙って聞いておればぬけぬけと!」
漸く有匡が顔を上げると、雄仁(ひろひと)は怒りで身体を震わせ、拳を握りしめていた。
「何をおっしゃいますか、わたくしはあなた様におっしゃられた事を言い返したまでのこと。ではこれで失礼を。」
有匡はそう言って雄仁に背を向けて歩き出すと、背後から彼の怒鳴り声と皿が割れる派手な音が聞こえた。
「雄仁様、気をお鎮めくださいませ!」
「あの陰陽師の戯言など、聞き流せばよいのです!」
重臣たちが宥めても、雄仁の怒りはなかなか収まらなかった。
「おのれ有匡、許さぬ!」
雄仁は怒りで顔を歪ませ、有匡への憎しみを募らせた。
雄仁が開く宴の席で有匡が暴言を吐いたことは、瞬く間に宮中に広がった。
「これからどうなることやら、あの雄仁様を怒らせるとは。」
「全く・・」
「家族ともども追放されかねませんわね。」
女達はひそひそと囁きを交わしながら、ちらちらと火月を見た。
「気にすることないわよ、火月ちゃん。あのクソガキが殿を挑発したんだから、やり返されて当然よ。」
「そうそう。弘徽殿女御様譲りだものねぇ、あの性格は。」
種香と小里がそう言いながら針仕事をしていると、仁が部屋に入って来た。
「母上~!」
「どうしたの、仁?」
仁の目の上には、引っ掻き傷があった。
「雄仁様が、僕のことを櫛で引っ掻いた!」
「まぁ、何ですって?」
「あのガキ、殿では飽き足らず、仁ちゃんまで!ちょっとあたし抗議に行ってくるわ!」
小里がそう言って鼻息を荒くしながら部屋を出ようとしたが、火月が彼女を止めた。
「僕が雄仁様にお会いするよ。仁も連れてね。」
「大丈夫なの、火月ちゃん?殿は今播磨へ出張中なのに、もし何かあったら・・」
「大丈夫。」
火月はそう言って仁の手をひき、雄仁の元へと向かった。
「雄仁様は体調がすぐれず、誰にもお会いしとうないと申しておる。」
火月が息子を連れて雄仁の寝所へと向かうと、雄仁付の女房がそう居丈高な口調で彼女達を追い払おうとした。
「息子の顔を櫛で引っ掻いておいて、体調が優れぬとは・・雄仁様はひきょう者でございますね。」
「何だと?そなた今何と申した!」
「自分よりも弱い者を虐げる癖に、自分が何か言われると逃げるのですか、雄仁様は?そのような臆病者に、帝など務まりますものか。」
火月がそう言葉を切ると、女房は憤怒の表情を浮かべて腕を振り上げた。
「やめよ。」
御簾が乱暴に上げられ、雄仁が彼女の手を掴んだ。
「ですが雄仁様・・」
「俺は臆病者ではない。そなたも有匡と同じように母の威光を笠に着ていると思っているようだが、俺はそんなことは微塵も思うてはおらぬ。」
「そうですか?では何故息子に手を上げたのです?」
火月の真紅の双眸が、怒りで滾った。
たとえどんな理由が彼にあるとしても、息子に手を上げたことは許されないし、一生許さない。
「それは、そやつが俺を馬鹿にしたからだ。」
「馬鹿にしてはおりませぬ。ただ真実を申し上げたまでです。」
雄仁の言葉を聞いた仁はそう反論し、彼を睨んだ。
「真実?俺の悪口を言った癖に、それが真実だと申すのか?」
雄仁の眦が上がり、美しい彼の顔が怒りで険しくなった。
「一体何を言ったの、仁?わたしにも話してごらん。」
火月はそう言って腰を屈めて息子を見ると、彼は次の言葉を継ぐために口を開いた。
「雄仁様が、東宮様を馬鹿にしたのです。」
仁の話によると、彼がいつものように東宮から和歌を習っていると、偶然そこへ雄仁が通りかかったという。
「木偶の坊でも歌を詠めるとは、意外だな。」
腹違いの兄に対して雄仁(ひろひと)はそう言って鼻で笑うと、数人の取り巻き達は東宮をせせら笑った。
実の兄同様に慕っている東宮を馬鹿にされ、仁は思わず今まで溜まっていた鬱憤を雄仁に対して爆発させてしまった。
「あなたのような方が、品性下劣で強欲な卑しい生まれの母君様に似ておいでだとは、良く解りました。あなたが帝になられたら、この国は崩壊いたしますな!」
母親と自分を愚弄され、雄仁は怒りの余りそばにあった柘植の櫛を掴み、それで仁の顔を引っ掻いた。
「確かに、息子はあなた様に礼を欠いてしまわれたことは謝りましょう。ですが、無抵抗の息子の顔を傷つけるなど、許されぬ事はありません!」
火月がそう叫んで雄仁を睨み付けると、一歩彼の前に進み出て彼の頬を平手で打った。
「何をする、貴様!」
「これで済んで良かったとお思いになされませ!夫にはこの事をご報告いたしますゆえ!」
そこから火月はどうやって自分の部屋に戻ったのか、覚えていない。
それほどまでに、怒りで全身の血液が沸騰しそうだったのだ。
「母上、僕は大丈夫ですから。」
柘植の櫛を握り締めている母が今何を思っているのかを察した仁がそう声を掛けると、彼女は仁を抱き締めた。
「仁、痛かったでしょう?良く我慢したね。」
「嫌な相手には涙は見せませぬ。怒りも致しませぬ。そうすると相手の思う壺ですから。」
恐らく有匡から言い聞かせられたのだろうか、仁はそう言った後涙で瞳を潤ませた。
「父上には仁がとてもいい事をしたと伝えておくから、もう休みなさい。」
「はい、おやすみなさいませ、母上。」
仁が寝所へと下がった後、火月は種香達に昼間の事を報告した。
「んまぁ、そんな事で仁ちゃんを殴ったの?ったく、精神年齢が低いわね!」
「火月ちゃんは悪くないわよ。全くあのクソガキ、一度締めてやろうかしら!」
二人が怒り心頭でそう話していると、有匡が帰ってくる気配がした。
「殿、お帰りなさいませ。」
「どうした、何かあったのか?」
播磨からの出張から有匡が帰ると、種香達が火月と雄仁との事を報告してきた。
「火月は今どうしている?」
「火月ちゃんなら部屋で休んでますわ。あのクソガキ、一体誰に似たのやら!」
「仁様、クソガキに暴力を振るわれても泣かなかったそうですわ。殿に似て強い子ですわね。」
「そうか・・」
式神からの報告を受けた後、有匡は仁の部屋へと向かった。
御帳台の中で眠る彼の目には、涙が滲んでいた。
そしてその目の近くには、櫛で引っ掻かれた赤い痕がまだ残っていた。
痛くて堪らなかっただろうに、泣くのを我慢した息子が有匡は愛おしかった。
彼がそっと仁の髪を梳くと、彼は低い声で唸って目を開けた。
「起こしたな。」
「父上、お帰りなさいませ。父上にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
「謝るな。わたしはお前を誇りに思うぞ、仁。」
「ありがとうございます。」
「このままだと痕が残るから、わたしが治してやる。」
有匡はそう言うと、呪を唱えて仁の傷口に手を翳した。
「これで良くなった。さぁ、お休み。」
「お休みなさい、父上。」
仁が隣ですやすやと寝息を立て始めているのを眺めながら、弘徽殿女御と雄仁親子との全面対決は避けられないと思った。
翌朝、東宮の乳兄弟・光成は突然弘徽殿女御に呼ばれて後宮へと向かうと、そこには雄仁が居た。
「お話とは何でござりましょうか、女御様?」
「そなた、妾の側につかぬか?」
女御の言葉を受け、光成は嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「女御様、今なんと仰せに・・」
「東宮を切り、妾と手を組めと申しておる。光成よ、やがてはこの雄仁(ひろひと)が日の本を統べる帝となろう。その日まで、そなたの力を貸して欲しいということじゃ。」
「ですが、女御様、わたくしは・・」
「何故お前はそうも東宮様に義理だてする?」
弘徽殿女御はそう言うと、御簾を上げて光成の前に腰を下ろした。
「乳兄弟として、わたくしは東宮様をお守りするお役目がございます。東宮様の味方は、わたくししかおりませぬ。」
「素晴らしい兄弟愛じゃ。だがこの世で情だけでは渡ってはいけぬ。確かそなたには、姉が藤壺女御に仕えておろう?」
「左様でございますが・・何故そのような事を?」
光成の姉・雪子が仕える藤壺女御は、弘徽殿女御と後宮内の権力を二分していた。
藤壺女御には現在息子が二人おり、二人とも雄仁に負けず劣らず優秀な皇子達である。
「妾を邪魔立てする者は生かしてはおけぬ。光成よ、これを姉の元へ届けて参れ。」
弘徽殿女御がそう言ってすっと光成の手に握らせたのは、薬だった。
「これは?」
「毎日、これを皇子達に飲ませるようそなたの姉に伝えよ。」
「では、わたくしはこれで失礼致しまする。」
「必ず伝えるのじゃぞ。」
弘徽殿女御は去って行く光成に対して念を押すと、雄仁の方へと向き直った。
「あ、光成様!」
廊下の向こうから溌剌とした声が聞こえたかと思うと、有匡の長男・仁が光成に駆け寄ってきた。
「おはようございます。何か弘徽殿女御様から東宮様の悪口を言われましたか?」
「そなたは弘徽殿女御様の事がお嫌いか?」
「嫌いでございます。父上や母上も、今回の事でお二人を嫌うております。」
そう言った仁は、まっすぐな瞳で光成を見た。
「光成様、もしや弘徽殿女御様に東宮様を切れと仰せになられたのでございますか?」
いくら平然を装っていても、仁には光成の変化が判ったらしい。
「ああ。だがわたしがお仕えするは東宮様のみ。」
「それを聞いて安心いたしました。光成様、それは?」
光成が弘徽殿女御から渡された薬を見た仁は、何か嫌な予感がした。
「東宮様のお身体が優れぬゆえ、特別に薬師に作らせた薬だそうだ。」
「光成様、その薬、僕に渡してくださいませぬか?何だか嫌な予感がするのです。」
「仁、それをどうするつもりだ?」
「父上にお見せいたします。まだ子どもです故、薬の事は判りませぬので。」
「そうか。有匡殿に宜しく伝えよ。」
光成はそう言うと、仁に薬を渡した。
「ではこれにて失礼致します。」
仁は光成に頭を下げると、父の職場である陰陽寮へと向かった。
陰陽寮では、有匡がいつものように仕事をしていると、梨壷女御付の童がやって来て、彼に文を渡した。
「これは?」
「女御様に頼まれましてございます。すぐに梨壷へおいでなされませ。」
「解った。」
梨壷女御は後宮の権力争いとは無縁の筈だ。
その彼女が何故、陰陽師である自分を呼んだのかー有匡はそう思いながら、梨壷へと向かった。
「お呼びでございますか、女御様?」
「そなたが土御門有匡か。」
御簾越しに見える梨壷女御の顔は、少し強張っていた。
「最近、弘徽殿女御が良からぬ事を企んでおるらしい。」
「良からぬこと、でございますか?」
有匡がそう言って梨壷女御を見ると、彼女は静かに頷いた。
「父上、ここに居られましたか。」
梨壷女御と有匡が同時に振り向くと、そこには仁が立っていた。
「仁、どうした?」
「先程光成様にお会いして、この薬を弘徽殿女御様から渡されたと。」
仁はそう言うと、有匡に薬を渡した。
「それは、唐渡りの毒薬じゃ。」
梨壷女御が薬を見て声を上げた。
「左様でございますか、女御様?だとすれば、何故このような物騒なものを弘徽殿女御様がお持ちに?」
「決まっておろう。自分にとって目障りな藤壺女御とその皇子達を殺す為だ。」
「何と・・」
強欲な弘徽殿女御がいかにも考えそうな事だが、何の罪もない幼子にまで手を掛けようとするとは。
我が子を帝位に就かせる為に、どこまで彼女は己の手を穢せば気が済むのだろうか。
「光成様は何と?」
「弘徽殿女御様からお誘いをお受けしたそうですが、断ったそうです。父上、何だか嫌な予感が致します。」
仁はそう言うと、有匡に抱きついた。
「もし弘徽殿女御様のつまらぬ野望に僕達が巻き込まれでもしたら・・」
「心配するな、そんな事はさせない。」
彼女が何を企んでいるのかは知らないが、妻と子ども達を守らねばー有匡は我が子を抱き締めながら、新たに決意を固めた。
一方、火月は三人目の子・匡仁(まさひと)に乳をやっていると、そこへ藤壺女御の一の皇子・昌成(まさなり)がやって来た。
「これは一の宮様、何かご用でございますか?」
火月がそう言うと、昌成は彼女の乳を吸っている匡仁をじっと見つめていた。
「赤子は女の乳を飲んで大きくなるのか?」
「左様でございます。昌成様も、お母君の乳をお飲みになられて成長なさったのですよ。」
「わたしは乳母(めのと)の乳を飲んで育った。母上はわたしや惟人(これひと)に余り関心がないのだ。」
昌成の言葉に、火月は藤壺女御が二人の息子達に関心を寄せていないことを知り、胸が痛んだ。
「そんな事はございませんよ。母親なら我が子が可愛くて仕方がないものでございます。女御様は色々とお忙しいのですよ。」
「そうか・・」
長男・仁と数歳しか違わず、次期帝と名高い昌成であったが、9歳の少年は母親の愛情に飢えていた。
「お母様!」
「まぁ、雛(すう)、それはなぁに?」
娘の手に握られている牡丹を見て、火月は彼女に声を掛けた。
「匡仁とお母様に持って来たの。」
「まぁ綺麗だこと。ありがとう。」
楽しく語らう火月と雛を、昌成は羨ましそうに見ていた。
「昌成様、こちらは娘の雛と申します。雛、こちらは昌成様ですよ、ご挨拶なさい。」
「初めまして、雛と申します。」
そう言って自分に挨拶した金髪紅眼の美しい少女に、一目で昌成は心を奪われた。
「昌成、何処におる?」
「母上が呼んでおるから、もう行かねば。またな、火月。」
昌成が火月の部屋から出て母の元へと向かうと、そこには仏頂面の彼女が御簾の向こうに座っていた。
「弘徽殿女御め、ふざけた事を。我が子を差し出せとは・・」
「落ち着かれませ、女御様。あの女の戯言など真に受けてはなりませぬ。」
そう言って母を宥める女御の言葉に、自分がいつの間にか権力闘争に巻き込まれていることに昌成は漸く気づいた。
その夜、梨壷女御が突如目の痛みを訴え、そのまま病に倒れた。
陰陽師や高僧達の加持祈祷のかいなく、病に倒れた梨壷女御は数日後に没した。
宮中が梨壷女御の喪に服している頃、陰陽寮にひとつの知らせが届いた。
それは、京にある廃屋で梨壷女御の名が刻まれた人形が発見されたとのものであった。
「これには呪詛の痕跡がある。梨壷女御様は、何者に呪い殺されたのだ!」
「何と・・」
ざわめく同僚達を尻目に、有匡は淡々と仕事をしていた。
この事件に弘徽殿女御が一枚かんでいると、彼は睨んでいた。
「そうか、あの女が死んだか。」
「はい、女御様。あとは藤壺女御様方を始末するだけでございます。」
「そうじゃな・・慎重に動けよ。」
「はい。」
女房からの報告を受け、弘徽殿女御は檜扇の陰で笑みを浮かべていた。
「これからどうなるのやら。今回の件はきっとあの女の仕業に違いないわ。」
「もしかすると、今度は女御様の身が危ないかも・・」
藤壺女御達に仕える女房達は、梨壷女御の一件で戦々恐々としていた。
そんな緊迫した空気を感じ取ったのか、仁や雛は火月の傍から離れようとはしなかった。
「母上、これからどうなるのでしょうか?」
「さぁ、解らない。二人とも、余り遠くに行ってはいけませんよ。」
「わかりました。」
火月達は弘徽殿女御が梨壷女御呪殺に絡んでいると思いながらも日々をすごていると、季節は初夏から梅雨へと移り変わろうとしていた。
湿度が高い中、連日雨が降り続け、宮中では体調不良を訴える者が相次いだ。
「全く、暑いったらありゃしない。夏物の衣をはやめに用意しといて良かったわね。」
「ええ。」
種香達が衣替えに忙しく動いていると、外から衣擦れの音が聞こえた。
「誰かしらねぇ、こんなクソ忙しい時に。」
「帝のお越しです。」
「えっ!」
突然帝が後宮を訪れたので、女達はあたふたしながら彼を迎えた。
「まぁこれは主上、お忙しいと聞きましたがどのようなご用で・・」
「この局に火月という女房はおるか?」
藤壺女御が帝を出迎えると、彼はそう言って藤壺女御を見た。
「火月でございますか?暫くお待ちくださいませ、呼んで参ります。」
藤壺女御は帝に背を向け、火月の部屋へと入って来た。
「火月、帝がお呼びじゃ。」
「え?」
有無を言わさず藤壺女御に手を掴まれ、火月は帝の元に連れて行かれた。
「お初にお目にかかれます。火月と申します。」
「そなたが火月か。まこと、美しき金の髪をしておる。」
帝はそう言うと、火月の金髪を一房掴んだ。
「あの・・わたくしに何の用でございますか?」
「梨壷女御が呪殺され、呪詛の人形が発見されたことは知っておろう?」
「はい・・」
「実はな、そなたが人形を埋めたところを見たと申す者がおってな。」
「僕が、ですか?」
火月の真紅の双眸が、驚きで大きく見開かれた。
「まぁ主上、この者がそのような事をするなど思いませぬ。何かのお間違いではありませぬか!」
藤壺女御はそう言うと、火月を庇った。
「主上、その証人とやらは何処のどなたなのですか?即刻この場にお連れ下さいませ。」
「いや・・それはその・・」
彼女から詰問された途端、帝は奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「一体どなたなのです?さぁ、教えて下さりませ。」
藤壺女御が問い詰めると、帝の目が泳ぎ始めた。
「確たる証拠もなしにわたくしの女房をお疑いにならないでくださいませ。」
「す、済まぬ・・」
これ以上藤壺女御に責められたくなかったのか、帝は早々に藤壺から辞していった。
「気をしっかり持て、火月。そなたが呪詛などする筈がない。」
「はい、女御様。」
頼もしい主を持って幸せだと、火月はこの時思った。
梅雨が終わろうとしている頃、火月は体調を崩した。
「大丈夫か、火月?」
「大丈夫です。季節の変わり目だから風邪でもひいたんでしょう。」
火月はそう言って夫を安心させようとした。
「もしかしてお前、妊娠したか?」
「そんな・・まだ匡仁が産まれて三ヶ月しか経っていないのに。」
火月が気だるそうに御帳台から起き上がると、有匡は下腹に手をやった。
そこには、生命の胎動は感じられなかった。
「どうやら違ったようだ。」
「何だ。早とちりし過ぎですよ、先生。」
「そうだったな。火月、後で薬湯を種香に届けさせるからちゃんと飲むんだぞ?」
「え~、あんな不味いの要りません!」
火月が嫌そうに言うと、有匡は少しムッとした。
「お前の為を思って言ってるんだ。」
「解りました。飲めばいいんでしょ!」
「お前なぁ~、何だその言い方は!」
有匡と火月が夫婦喧嘩をしていると、几帳の陰からその様子を仁と雛が見ていた。
「また始まったわね、父上と母上。」
「そうですね。では姉上、僕は東宮様のところへ行って参ります。」
仁はそう言うと、東宮殿へと向かった。
同じ頃東宮殿では、東宮が光成が自分の下に来るのを待っていた。
だが彼はいつまで経っても来る気配がなかった。
(どうしたのだろう、光成は?)
彼の事が心配になった光成は、彼が行きそうな所を探して回った。
しかし、何処にも彼の姿はなかった。
一体彼は何処に消えたのかー不安に駆られながら東宮が部屋へと戻ろうとした時、向こうの渡殿から数人の話し声が聞こえた。
「今こそ、東宮様を廃嫡されるべき・・」
「梨壷女御様の件も、東宮様が企んだことに違いない・・」
「そうじゃ。」
また誰かが自分の悪口を言っていると知り、東宮は早くその場から離れたかった。
だが、公達の中に光成の姿がある事に気づいた彼は、驚きで目を見張った。
「光成殿、そなたは如何致す?」
「何をおっしゃっておられる。東宮様は呪詛などなさらぬ。」
「そなた、弘徽殿女御に飼われておる犬の癖に、東宮様を庇うのか?」
「それは誤解だ、わたしはあの女とは何も・・」
光成がそう言った時、視線の端に驚愕の表情を浮かべた東宮の姿が映った。
「東宮様・・」
「寄るでない、裏切り者!」
光成は東宮に近寄ると、彼は邪険に光成の手を払った。
「そなただけは味方だと思うておったのに・・」
「東宮様・・」
「許さぬ、決して許さぬぞ、光成!」
涙を瞳で滲ませながら、東宮は光成の頬を張った。
「仁、東宮様の所へ行ったのではなかったのか?」
「はい父上、ですが東宮様はお身体が優れぬと申されて・・光成様のお姿も見えませんでした。」
「光成様が?」
いつも陰に日向に東宮を支え、彼の傍に居る光成の姿が見えない事を知り、有匡は何かが起こると思った。
彼の予感は的中し、光成の姿が宮中から消えた。
「光成様が急に消えるなど・・一体何が?」
「恐らく彼も弘徽殿女御様に取りいれられたのだろうよ。強欲な女ほど、恐ろしいものはない。」
「全くだ。」
やがて光成が消えたのは弘徽殿女御の指示であるという噂がまことしやかに流れ、自分の思惑通りに事が動いていることを知った弘徽殿女御は口元に悠然とした笑みを浮かべながら、雄仁と碁を打っていた。
「次の手はどう打たれるのですか、母上?」
「馬鹿もの、妾がそなたに教えるものか。」
「そうおっしゃると思いましたよ。これで光成が宮中から追放されれば、我らの思う壷です。」
「そうじゃな。」
静かな部屋に、碁の打つ音が響いた。
光成が消えてからというもの、体調を崩した東宮は食事も喉を通らず、ひたすら彼の無事を祈っていた。
「東宮様、お気を確かに。必ず光成様は戻って参ります。」
「そうだな・・」
火月の励ましも、東宮は上の空で聞いていた。
「何か一曲弾きましょう。」
火月がそう言って和琴を部屋に取りに行こうと戻ったところ、そこには有匡が居た。
「先生、どうされたんですか?」
「その様子だと、すっかり良くなったようだな。」
「ええ。でも東宮様は相変わらずで・・光成様もどちらにいらしているのか解らないし。あ、東宮様をお待たせしてあるので、僕は戻らないと。」
「わたしも行こう。」
有匡と火月が東宮殿へと向かうと、そこから数人の女房達の悲鳴が聞こえた。
「雄仁様、どうか気をお鎮めに・・」
「黙れ、この場で木偶の坊を叩き斬ってくれる!」
太刀を東宮に向かって振り下ろそうとした雄仁の前に、火月が立ち塞がった。
「おやめ下さいませ、雄仁様!」
「黙れ!」
雄仁が太刀を振り下ろし、辺りに血しぶきが飛び散った。
「火月、無事か!」
有匡は血相を変えて火月の元へと駆け寄ると、彼女は無事だった。
雄仁の方を見ると、彼は自分の刃を受けた光成を前に呆然としていた。
「光成、光成!」
御簾が乱暴に捲られ、東宮が背に刃を受けたままの光成の元へと駆け寄った。
「東宮様・・お許しを・・わたしは・・」
「光成、しっかりしろ!」
「光成、死ぬでないぞ!」
東宮は光成の身体を揺さ振りながら、必死に彼に呼びかけていた。
「誰か、薬師を之へ!」
「はい、東宮様!」
雄仁が刃傷沙汰を起こしたと知り、宮中は俄かに蜂の巣をつついたかのような騒ぎとなった。
「お前は一体何てことをしてくれたのじゃ!」
「申し訳ありませぬ、母上。」
弘徽殿女御から叱責を受け、雄仁は項垂れた。
「これで光成が死んでみよ、今まで築き上げてきた妾の地位が、そなたの所為で水泡に帰すのじゃぞ!」
「母上、わたしは・・」
「もうよい、下がれ!」
弘徽殿女御はそう言って雄仁を自分の部屋から追い払った。
「あら、あれは・・」
「雄仁様ではないの。」
「何でも東宮様の従者を手にかけようとなさったとか。」
「恐ろしいこと。」
廊下を歩いていると、御簾の向こうから女達が囁き合う声が聞こえた。
かつて「光る君」と呼ばれ、讃えられていた雄仁は、「異母兄を手に掛けた恐ろしい方」と呼ばれる事に成り、彼の周りからは徐々に人が離れていった。
一方、雄仁の刃に倒れた光成の容態は、余り芳しくなかった。
「光成、しっかりせい!まだ我を残して死ぬでない!」
東宮は寝る間も惜しまず光成の看病をしていたが、やがて無理が祟り彼も倒れてしまった。
「東宮様、後はわたくしどもにお任せを。」
「頼むぞ、有匡。」
有匡が光成の部屋に入ると、そこは血の臭いで満ちていた。
彼が受けた傷は肺まで届いており、もしかしたらこのまま助からないかもしれない。
「う・・」
「光成殿、気がつかれたか?」
「有匡・・殿?」
光成は低く呻くと、そう言って有匡を見た。
「わたしは、一体・・」
「あなたは雄仁様の刃を受けたのですよ、憶えておられないのですか?」
「そうでしたか・・」
光成は苦しそうに息を吐くと、目を閉じた。
「有匡殿、どうか東宮様をお守りください。」
わたしの代わりに、と光成がそう言葉を継ごうとすると、有匡は光成の手を握った。
「東宮様にはあなたしか居られません。」
「そうですか・・では、まだ東宮様をお一人にはできませんね。」
「この部屋には少し陰の気が満ちております故、浄化いたしましょう。」
有匡は光成の部屋を浄化すると、少し彼の顔色が良くなったように見えた。
「先生、光成様のご容態は・・」
「余り良くない。雄仁様はどうしている?」
「それが、何処に行ったのか解らないようで・・また子ども達に危害を加えられたらと思うと、心配で・・」
「大丈夫だ、わたしがお前達を守ってやる。」
有匡がそう言って火月を抱き締める姿を、雄仁は少し離れた場所から見ていた。
「それにしても、雄仁様が宮中にて刃傷沙汰を起こすとは。聡いお方であったのに、残念ですな。」
「左様、東宮様よりも帝の座に近い者だと思っておりましたのに・・」
「いかがなさいますか、右大臣様?このままだと我らも無傷では済みませんよ。」
とある貴族の邸で、三人の男達が口々にそう言いながら上座に座る男を見た。
彼の名は上原金人、宮中で権勢を誇っている右大臣である。
「暫く様子を見るのがよかろう。早まったことをすると災いとなる。」
「そうでしょうなぁ。」
「右大臣様がそうおっしゃられるのなら、我らも従いましょうぞ。」
「堅いことはもう終いじゃ、宴を楽しめばよい。」
金人がそう言って手拍子を打つと、数人の白拍子が部屋に入ってきた。
(これから気を引き締めねばな・・雄仁様を何としても次の帝にする為ならば、手段は厭わぬ!)
雄仁を時期帝にする為の策を練りながら、金人の脳裏にはあの憎たらしい陰陽師―土御門有匡の顔が浮かんだ。
雄仁を帝にするためには、あの男を宮中から追い出さねばならない。
宮中で刃傷沙汰を起こし、忽然と姿を消した雄仁(ひろひと)の行方を公達達はそれぞれ噂をしていたが、次期帝に近い彼が消えた今、誰が次期帝になるかということが、彼らは一番に関心を寄せていた。
「雄仁様より次に優秀な者は、藤壺女御様の一の宮様であろう。」
「それもそうじゃな。あの方な次の帝になっても申し分ない。」
「いやいや、弟君も優秀と聞く。」
有匡が陰陽寮へと向かっている時、数人の公達がひそひそと次期帝となる者について話し合っていた。
主に彼らが取り上げるのは、藤壺女御の二人の皇子達で、東宮には最初から期待していないようだった。
順に言えば東宮が次期帝になるのだが、帝も公達達も、彼の事を諦めている。
(東宮様が何故幼子のように駄々を捏ねられたのか、解るような気がするな。)
幼き頃から周囲から蔑ろにされ、愛情に飢えているからこそ、わざと駄々を捏ねて他人に関心を寄せて貰おうと思っていたのだろう。
だがそれは逆効果で、周囲はますます東宮を蔑ろにするようになった。
心を唯一通わせられるのは、乳兄弟である光成だけだったが、その彼も今は瀕死の重傷を負ってしまっている。
(どうすればいいか・・)
長年複雑に絡まり合った人間関係の糸を解すには、一日で出来ない事くらい有匡は解っているが、このままにしておくとますます悪化しそうである。
彼がますます激化するであろう宮廷での権力闘争に頭を悩ませている時、右大臣から宴に招かれた。
「そなたが、土御門有匡か。」
今を時めく権力者とあってか、右大臣邸は陰陽道の大家である土御門邸よりも広く、宴の膳も華やかなものであった。
「はい、土御門有匡でございます、右大臣様。」
「そなた、あの東宮様のお側に仕えておるときく。そなたから見て、東宮様はどのようなお人じゃ?」
「そうですね、東宮様は思慮深く、余り己の才能を人前でひけらかしてしたり顔をならさぬ方と存じます。」
「ほう、そなたの見解では、東宮様はそのようなお方か。やれ無能だ、木偶の坊だと周囲は東宮様を蔑ろにされておられるが、違うやもしれぬな。」
「は・・」
一体彼は自分に何を聞き出したいのだろうかと、有匡は緊張した面持ちで右大臣を見た。
「そなた、腕が良いと聞く。今後の事を占って貰えぬか?」
「今ここで、でございますか?」
「そうじゃ。出来ぬのか?」
そう言って自分を見つめる右大臣と、周囲の視線は険しいものだった。
「いいえ。右大臣様のお頼みとあらばいたしましょう。」
有匡は呪を唱えると、精神を集中させた。
目を閉じると、ある光景が浮かんだ。
それは、東宮が帝として善政を敷く姿だった。
「どうであった?帝には誰がなった?」
「東宮様でございます。」
有匡の言葉に、周りに居た者達がざわめき始めた。
「そうか。もう下がってよいぞ。」
「では失礼致します。」
有匡が右大臣邸を辞すと、当の本人は数日前に邸に呼び寄せた男達の元へと向かった。
「あの土御門有匡とやら、一筋縄ではいかぬ男のようじゃ。」
「そうですね、余りボロを出さぬようにしなければ。」
「雄仁様が見つかり次第、密かに計画を進めなければなりません。」
四人は顔を見合わせると、それぞれ扇の陰で笑みを浮かべていた。
雨の中宮中へと参内した有匡が東宮殿へと向かうと、そこには東宮が泣き腫らした目で彼を見た。
「有匡、来てくれたか。」
「東宮様、光成様は・・」
「先程突然血を吐いて苦しみ出して・・薬師はあてにならぬからそなたを呼んだのだ。」
東宮はそう言うと、有匡の手を握った。
「有匡、我は不安で堪らぬ・・光成が、光成が!」
「落ち着かれませ、東宮様。」
有匡が光成の部屋に入ると、彼は蒼褪めた顔を有匡に向けた。
「有匡殿、申し訳ない・・」
「謝らないでください。東宮様が心配されておいでです。」
「そうですか・・東宮様はいつもわたくしの傍におりましたから。東宮様のお母君が亡くなられてから、ずっと・・」
光成はそう言うと、目を閉じた。
脳裏に突然、東宮と出逢った日の事が浮かんだ。
3歳の時に実母を亡くし、継母である弘徽殿女御に虐げられながら育った東宮は、深い孤独を抱えていた。
そんな中、東宮の乳母である光成の母が、我が子同然に東宮を育てた。
光成と東宮が出逢ったのは、母に連れられ初めて宮中へ上がった時だった。
「光成、こちらの方が東宮様であらせられますよ。」
母から紹介されたのは、艶やかな黒髪を下げ美豆良(みずら)に結った、何処か寂しそうな顔をした少年だった。
「初めまして、東宮様。光成と申します。」
「みつなり・・我と友達になってくれるか?」
「はい、喜んで!」
それから色々と悲しい事や辛い事、嬉しい事などがあったが、それを東宮と二人で乗り越えてきた。
だがもうそれも、終わりなのかもしれない。
「嫌じゃ、光成、我を置いて逝くな!」
部屋に入って来た東宮は、涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。
「申し訳ありません・・東宮様。もう、わたしは駄目です・・」
「嫌じゃ!そんなの・・」
「もしも生まれ変わったら・・今度はずっと、東宮様のお傍に・・」
光成はそう言って東宮の頬へと手を伸ばすと、彼に微笑んだ。
「やめろ、まるで別れの言葉のようではないか!」
「東宮様、今までありがとうございました・・あなた様と会えて嬉しかった・・」
徐々に視界が暗くなり、目の焦点が合わなくなってゆく。
(駄目だ・・まだ・・)
「光成、どうした、光成!?」
「東宮様・・あなた様のことを・・愛して・・」
やっとの思いで東宮に愛の言葉を紡ごうとした時、光成の意識はゆっくりと闇へと堕ちていった。
自分の頬を擦っていた光成の手が急に動かなくなってしまったのを感じた東宮は、必死で彼の手を握った。
「光成、何をしておる。起きよ。」
東宮はそう言って笑うと、光成の身体を揺さ振った。
だが、光成の目は二度と開く事はなかった。
「嫌じゃ、光成!我を置いて逝くな!」
「東宮様、落ち着かれませ!」
光成の死に受け止められず、暴れ出す東宮を有匡は宥めた。
「光成、光成ぃ・・」
激しい雨の中、最愛の人に看取られて光成は静かに息を引き取った。
「そうですか、光成様が・・」
「あぁ、残念でならない。暫く東宮様をそっとしておいた方がよいだろう。」
帰宅した有匡はそう妻に言うと、東宮の不安定な精神状態を心配していた。

その頃現代では、高原家の者が“火月”を拉致してある場所へと集まっていた。

そこは、高原家の祭壇が祀ってあるところであった。
台の上には、火月が全身を荒縄で縛られていた。
(一体どうなってんのよ!?)
突然薬品を嗅がされて気絶し、目が覚めたら白装束の集団に囲まれ、自由を奪われていた。
「これで、高原家は安泰です。」
すっと祭壇の前にあの女性がやって来た。
「あんた達、一体何を企んでいるの?」
「企むなど、人聞きが悪い。わたくし達はあなた様の為を思って今こうして集まっているのです。」
「何ですって?そんなの信じられる筈がないでしょう!」
そう火月が喚くと、自分を拉致した男が火月の前に現れた。
「お前は高原家の血を継ぐ唯一の娘。多喜子亡き今、お前が家の務めを果たしてもらわねば困るのだ。」
「だからそれを教えろって言ってんでしょ!耳聞こえないのオッサン!」
「黙れ!」
苛立った男―高親は、そう叫ぶと火月の頬を打った。
「これから儀式を始めるぞ。皆、持ち場につけ。」
「はい、旦那様。」
白装束の集団が一斉に移動し、呪を唱え始めた。
火月はここから何とか逃げ出そうとしたが、荒縄が身体に食い込んで逃げられない。
(ここから逃げないと・・)
気持ちが焦るばかりで、動けば動くほど体力を消耗してしまう。
今ここで暴れるよりも、大人しくしている振りをすれば、逃げる時の体力を保てる。
そう思った火月は目を閉じた。
「漸く大人しくなったか。」
「ええ、旦那様。多喜子様とは大違いです。」
高親の隣で、あの女性がそう言って笑った。
集団が唱える呪が天井にまで響き、何かが祭壇の中から出て来るような気配を感じた。
「後少しで、多喜子は甦る。」
高親はそう言うと、一層声を張り上げて呪を唱えた。
(多喜子って、あの船の中で殺された子?このおっさん、本気で彼女を甦らせようとしてる訳?)
一体多喜子の魂を甦らせてどうするつもりなのか、火月は寝ている振りをして高親と女性の会話に耳を澄ませた。
「この者は、いかがいたします?多喜子様の魂を移す器はありますが、この者の魂は・・」
「捨てておけ、この娘は生まれてはならない子だったのだ。」
平然とした口調で、殺人すら厭わない事を言う高親に、火月はゾッとした。
「多喜子、出ておいで、またお父様と一緒に暮らそう。」
祭壇の中に潜む何かに向かって、高親は先程とは打って変わって優しい声で呼びかけた。

“お父・・様”

祭壇の中から、少女のか細い声が聞こえた。
その声の主が多喜子なのか確かめたくて、火月はそっと目を開けた。
そこに立っていたのは、人間の形をしていない肉塊が立っていた。

“お父様・・”

自分の近くで女性が悲鳴を上げるのが判った。
「来るな、化け物めぇ!」
“お父様、お会いしたかった・・”
生前多喜子のものであった肉塊は、ゆらりと高親に近づいたかと思うと、彼の頸動脈を噛み切った。
血しぶきを上げて倒れる彼の姿を見て、集団はたちまちパニックに陥った。

やがて誰かが篝火を倒し、部屋中に炎が瞬く間に広がった。

炎が舐めるように床全体に広がり、パニックに陥った集団は出口へと殺到し、押し合いへしあいながら部屋から出て行った。
火月は荒縄で身動きが取れず、死を覚悟した。
(お母さん、お祖母ちゃん、ごめんなさい・・)
彼女が涙を流した時、誰かが自分の身体を戒めている荒縄を切り裂いた。
「大丈夫か?」
「シキ、あんた何でここに?」
「お前が突然居なくなったからここまで尾けてきた。さぁ、逃げるぞ!」
彼とともに火月が出口へと向かおうとすると、あの女性が彼女の腕を掴んだ。
「逃がしません!あなたはここでわたくし達と死ぬのです!」
「離して!」
火月は女性の手を振りほどこうとしたが、ビクともしない。
シキが女性の顔面に蹴りを入れると、彼女は悲鳴を上げ火月の手を離した。
「助かったわ、ありがとう。」
「礼はいい。神を助けてくれた借りを返しただけだ。」
「そう・・あの島の神様はどうなったの?」
「俺達が神に対する感謝を忘れていることを恥じ、それを神に詫びて許しを乞うた。もうあの島は観光業から手を引くそうだ。」
そう言ったシキの顔は、晴れやかなものだった。
「それにしてもあの肉塊・・死んだ娘の魂だな?」
「うん。船で殺されたあの女の子を生き返らせようとしたんだよ、あのおっさん。そんな事したって無駄なのに。」
「そうだな。自然の摂理に反することは、やがて己の身に返ってくる。」
火月とシキが長い廊下を暫く歩いていると、急に広い庭が二人の前に広がった。
「どうやら、ここを抜けて外に出られるらしいな。」
「そうだね。」
二人が庭に足を踏み入れると、何処に隠れていたのか、黒服を着た男達が彼らに突進してきた。
「その娘を渡せ!」
「カゲツ、ここは俺に任せて逃げろ!」
シキは背中に背負っていた槍で男達と交戦している姿を尻目に、火月は庭を抜け高原邸から脱出した。
「くそ、何してる!相手は一人だぞ!」
黒服の男がそう言って舌打ちすると、彼の顔面に槍の柄が食い込んだ。
相手は五人だが、シキはそのうち三人を倒していた。
残るはあと二人―汗で滑る手を槍の柄を握り締めたシキであったが、一瞬の油断で彼は右肩に被弾した。
「くそっ・・」
「今だ、殺れ!」
二人の男達が一斉にシキへと襲い掛かった時、彼らの間に人影が割り込んできた。
「何だ、貴様は?」
「こいつも仲間だろう、殺せ!」
男達が人影に向かって動こうとした時、人影が何かを彼らに向けた。
「ぎゃぁぁ!」
断末魔の叫び声が聞こえ、男達は血しぶきを上げて倒れた。
「お前は誰だ?」
「俺か?俺は雄仁(ひろひと)、帝の御子だ。」
おどろに乱れた黒髪をなびかせながら、雄仁はそう言って血に濡れた太刀をシキの前に翳した。
(こいつ、魔物の気配がする!)
シキは痛む右肩を庇いながら、キッと雄仁を睨みつけた。
一方、高原邸から逃げ出した火月は、長い坂道を下っていた。
「火月ちゃん!」
「叔母さん!」
坂を下ると、叔母たちが火月の方へと駆け寄ってきた。
「良かった、無事だったのね!」
「心配掛けてごめんね、叔母さん。」
「さぁ、帰りましょう。今日の夕飯はハンバーグよ。」

そう言って聡子は、姪の肩に手を回し、彼女と共に車に乗り込んだ。

高原邸の庭では、シキと雄仁(ひろひと)が睨み合って互いの間合いを取っていた。

(こいつの全身から発せられる“気”・・魔物のものだ!)
神が発していた魔物の瘴気と、雄仁が発しているものが同じだとシキは気づいた。
「貴様は一体何者だ?」
「煩い!」
雄仁はそう叫ぶなり、シキに向かって太刀を振るった。
彼の血しぶきが芝生を濡らした。
「くそっ・・」
右肩を負傷した今、全力を出せない。
「もう終わりか?」
雄仁は口端を歪めて笑うと、そう言ってシキとの間合いを詰めた。
彼は雄仁の攻撃をかわしながら彼に向かっていったが、力の差は歴然としていた。
シキは油断し、雄仁はそれを逃がさず、彼の手から槍を弾き飛ばした。
「ここで死ね。」
(くそっ、どうすれば・・)
右肩の激痛に顔を顰めながら、シキは雄仁が自分に向かって剣を振りかざすのを見ていた。
その時、風が唸る音が聞こえたかと思うと、雄仁の身体が大きく仰け反って芝生の上に倒れた。
「一体何が・・」
訳も解らず雄仁の遺体へとシキが近づくと、彼の胸には一本の矢が貫いていた。
彼は誰が射ったのかと周囲を見渡したが、そこには誰も居なかった。
「シキ、無事か!?」
邸の中から声がしてシキが振り向くと、そこには祖父が自分の方へと駆けてくるところだった。
「右肩を少しやられた。」
「そうか。こいつはもう死んでいるな。わしと一緒に来い、シキ。」
「あぁ、解った。」
シキは雄仁の遺体をちらりと見ると、祖父と共に高原邸から去っていった。
結局、雄仁は行方知れずのまま、遺体も発見されなかった。
有匡は藤壺女御から鎌倉帰郷を許され、彼は妻子とともに京を後にした。
「これからどうなるんでしょうか、先生?」
「さぁな。雄仁様の失脚により、弘徽殿女御とその後ろ盾であった右大臣も大宰府に流罪となった。権力闘争が一段落した今、わたし達が出る幕ではなかろう。」
「そうですね・・」
「久しぶりに家族だんらんの休日を過ごせると思ったが、まさかこんな波乱尽くしのイベント満載とはな。おちおち休んでいられないな。」
有匡はそう呟くと、溜息を吐いた。
「まぁ、これから家でゆっくりできますからいいじゃないですか?」
「それもそうだな。」
有匡と火月は京を後にし、我が家のある鎌倉へと帰っていった。
「あ~、疲れた。」
「やっぱり我が家がいちばんよねぇ。」
今日から戻った有匡一家は、鎌倉の自宅で旅の疲れを取っていた。
「先生、ひとつお聞きしたいことがあるんですが・・」
「何だ?」
「僕と同じ顔をした女の子に会ったって言ってましたよね?どんな子だったんですか?」
「同じ名なのは顔と名前だけだ。性格は全く違ったな。まぁ、もう二度と会うことはないだろうが。」
有匡がそう言って妻に微笑むと、彼女は笑顔を彼に見せた。
「もしかして、違う世界に先生と同じ顔した人が居たりして。」
「まぁ、そうなったらおもしろいな。」
有匡の脳裡に、もう一人の“火月”の顔が浮かんだ。

彼女は無事に家族の元へと戻っただろうか。

2012年夏、鎌倉。

火月は再び、鶴ヶ岡八幡宮へと来ていた。

3年前、ここで憧れの陰陽師・土御門有匡と出会い、色々な冒険をした。
だがそんなのはもう昔の事だ。
(まさかまた、茂みの近くかどっかで倒れてたりして・・)
火月はそう思いながら、きょろきょろとあたりを見渡すが、そこには誰も居なかった。
あの後、彼女は叔母夫婦と正式に養子縁組をし、彼らの養女となった。
今はあの家を出て東京のアパートで一人暮らしをしているが、月に数回は実家に帰っている。
(明日から仕事かぁ~、嫌だなぁ・・)
そう思いながら火月が溜息を吐き、石段を降りていると、途中で少年二人組とすれ違った。
一人は精悍な顔つきをしたスポーツマンタイプで、もう一人は華奢な身体をした少年だった。
初めて会ったというのに、火月は彼らを何処かで見たような気がした。
(気の所為だな、きっと。)
電車に揺られ、文庫本を火月が読んでいると、バッグの中にしまっていた携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、火月?あのさぁ、今日は何か予定ある?』
「ないけど、どうしたの?」
『実はねぇ、合コンがあるんだけど、メンバーが足りないのよぉ、だから来てぇ~!』
「え~、あたし今鎌倉から帰るとこ・・」
『7時に赤坂のアッピアって所で待ってるから!』
友人は一方的にそうしゃべると、火月の返事を待たずに通話を切り上げた。
(ったくもう、勝手なんだから・・)
火月は溜息を吐き、仕方なく合コンに参加する事にした。
「火月、ここよ~!」
友人に指定されたイタリアンレストランに着くと、彼女はそう言って火月に向かって手を振って来た。
「皆さん、紹介します。あたしの友達の西田火月さんです。」
「どうも宜しく・・」
合コンのメンバーは、一流企業に勤めるエリート達だった。
火月の他に自分を誘った友人達はそれぞれの相手と盛りあがっているが、彼女は少し居心地の悪さを感じていた。
はっきり断るんだった―そう思いながら火月が適当な言い訳を考えている時、自分の前に座っている男と目が合った。
「つまらないですよね?」
「まぁ・・そうですけど・・」
「メンバー合わせってだけで興味ないのに連れて来られるって、何だか嫌ですね。」
「確かに。もうあの人達自分達の事に必死なんで、さっさと帰っちゃいます?」
「そうですね。駅まで色々と話しましょうか?」
火月はそう言うと、男性と共にレストランから出て行った。
「自己紹介が遅れましたね。わたしは土御門義人(よしひと)と申します。」
「変わった名前ですね。土御門っていうと、あの土御門有匡の・・」
「ええ、直系の子孫です。残念ながら、力はありませんが。」
そう言って土御門義人はクスリと笑った。
その横顔が有匡に少し似ていると火月は思いながらも、彼と楽しく話しながら帰路に着いた。
「ではまた。」
「さようなら。」
まさか有匡の子孫に会うだなんて思いもしなかったが、彼となら上手くやっていけそうだ―火月はそう思いながらホーム滑り込んだ電車に乗り込んだ。
暫く電車に揺られていると、義人からメールが来た。

『明日、会えますか?』

彼女はそのメールに“イエス”とすぐに返事を打った。

―完―
コメント

真~TRUE~緋 第3話

2024年09月27日 | 火宵の月 現代×鎌倉ファンタジーパラレル二次創作小説「真~TRUE~緋」
「火宵の月」の二次創作小説です。

作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。


色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。

「何だ、今のは!?」
「一体何が起きたんだ!?」
プライベートビーチ全体を突如襲った雷に、観光客達は戦々恐々としていた。
「あれは・・」
ジャングルの中で、シキはプライベートビーチを絶え間なく襲う雷を呆然と見ていた。
「アリマサ、何とかあの方を救えないのか?」
「無理だろう。もう彼は・・この島の神は魔物と化してしまっている。彼はこの島を破壊尽くすことしか考えていない。」
有匡はそう言うと、海辺近くにある旧市街に居る火月のことが気にかかった。
「きゃぁぁ!」
旧市街に住むリンガルのアパートで、火月は激しい雷鳴に悲鳴を上げた。
「大丈夫かい?」
「どうして急に雷が?」
「神がお怒りになられたのさ。あたし達が自然を破壊したから。」
リンガルはそう言って、天を仰いだ。
プライベートビーチ周辺のホテルでは火災が発生し、消防隊が出動して消火に当たったものの、炎の勢いが激しく、巨額を投じたホテルは次々と崩落した。
「おい、お前達何とかしろ!」
「そういわれましても・・」
「何ということだ、わたしのホテルが!」
目の前で崩落してゆくホテルを、レイモンドはなすすべもなく呆然と見つめていた。
“やっと見つけたぞ。”
彼の前に、紅い衣を纏った男が舞い降りてきた。
「何だ、お前は!」
レイモンドはそう叫んで男に発砲したが、銃弾は彼の周辺で留まるだけで、その身体を貫きはしなかった。
「ひぃぃ、化け物!」
“黙れ、愚かな人間よ!”
男の白い指先がレイモンドの顔へと伸びたかと思うと、彼の血と脳漿が潰れた柘榴のように飛び散った。
(神の“気”を近くに感じる・・旧市街の方か?)
有匡がシキと旧市街へと向かっていると、鐘楼の方から悲鳴が聞こえた。
「シキ!」
「一体何が起きたんだ?」
シキに駆け寄った女性が、恐怖に震えながらレイモンドの遺体を指した。
それは顔を原型に留めぬほど潰された無残なものだった。
「何てことだ・・」
魔物と化した神の怒りを感じたシキは、思わず槍を地面に落としてしまった。
その時、一筋の光が有匡の顔を掠めたかと思うと、神が彼の頭上に剣を振りかざしてくるところだった。
“愚かな人間よ、また来たか。身の程知らずが。”
そう言って口端を歪めて笑う姿は、魔物そのものだった。
(このままでは彼が神に戻れなくなる。どうすれば・・)
有匡が土産物店に飾っていた剣を掴んで応戦すると、神は間髪入れずに攻撃を仕掛けてきた。
「有匡!」
向こうから火月の叫び声が聞こえたかと思うと、彼女が自分達の方へとやってくるのが見えた。
「来るな!」
「あんた島の神様でしょう!お願いだから人間を傷つけないで!この人たちはあなたを蔑ろにした事を後悔しているの、だから許してあげて・・」
“黙れ!”
神はカッと目を見開くと、火月を睨みつけた。
「神よ、どうかお気をお鎮めください!」
シキは火月を守ろうと彼女の方へと駆け寄ろうとした、その時だった。
突然島全体が、激しい揺れに襲われた。
「何だ?」
石畳には、あの祭壇に刻まれた文様が浮かびあがってきた。
有匡は慌てて神の姿を探したが、彼は何処にも居なかった。
「ありま・・」
火月が有匡の方へと駆け寄ろうとすると、突然地面がひび割れた。
漆黒の闇の中、三人は凄まじい勢いで落下していった。
(一体何が起きた?)
有匡は青龍を呼び出し、火月とシキを乗せた。
「しっかりつかまっていろ!」
青龍は上空へと向かって上昇していった。
「おい、あれは・・」
「あの青龍、まさか有匡のか?」
一方、戦場では紅牙族と人間が死闘を繰り広げていた。
その最中、琥龍が上空を泳ぐ青龍を目撃した。
あれを操れるのは、二人しか居ない。
有匡と、彼の妹である神官だけだ。
だとすれば、有匡があの青龍に―
「どうしたの、琥龍?」
「禍蛇、有匡の龍が・・」
琥龍がそう言って上空を指した時、敵兵の火矢が彼目掛けて飛んできた。
「琥龍、危ない!」
禍蛇が彼を守ろうと駆け出した途端、上空から何かが急降下してきた。
「化け物だぁ~!」
「全員退却!」
青龍が敵を威嚇すると、彼らは一目散に逃げていった。
「大丈夫か?」
「やっぱりてめぇか、有匡。」
危機一髪のところを有匡に救われ、琥龍は少しムッとした顔で彼を見た。
「人間と和解できたんじゃなかったのか?」
「ちょっと訳有りでな。それよりも・・火月、フェロモンボンバー!」
青龍から降りてきた火月の姿を見るなり、彼はそう言って彼女に抱きついてきた。
「何すんのよ、このスケベ!」
戦場に、乾いたビンタの音が響いた。
「有匡、何で火月が凶暴化してんだ?お前、何かしただろう?」
「何もしていないぞ。今からお前に説明しようと思ってだな・・」
「火月、俺と不倫してくれ~!」
「ウザイ!」

懲りずに火月に突進する琥龍に、彼女は彼の股間を蹴り上げた。

「で?こいつは確かに火月だけど、俺達が知ってる火月じゃねぇってことか?」
紅牙の村で琥龍はそう言うと、火月を見た。
「まぁそういう事だ。顔も名も同じだが、わたしの火月とは全く似ていない。」
「誰ぁれが、“わたしの火月”だと、この野郎!夫ぶってんじゃねぇよ、有匡!」
琥龍は有匡を睨むと、彼は飄々とした様子で酒を飲んでいた。
「全く、まだ火月(つま)を諦めておらんのか、サル。これじゃぁ禍蛇(よめ)に逃げられても文句言えんな。」
「うるせぇ!大体なぁ、火月に先に惚れたのは俺だ!」
「だから火月をものにするのは当たり前だとでも?馬鹿げてるな。女は男の所有物だと古臭い考えは捨てろ。」
「んだとぉ、表に出ろ!」
「全く、口論で負けたと思ったら今度は喧嘩か。これかだから単細胞は困る。」
怒りで完全に逆上している琥龍を前に、有匡は冷静沈着な態度を崩さなかった。
「ねぇ、あいついつもああなの?他人の奥さんにいつもセクハラかますわけ?」
「まぁそりゃぁねぇ、琥龍は火月ちゃんにベタ惚れだったからねぇ。いつも日本に来ては殿(ありまささま)と火月ちゃんの仲を邪魔してたもんねぇ。」
「そうそう。でもさぁ、結局火月ちゃんに振られちゃったからねぇ。」
有匡の式神、種香と小里は、そう言いながら笑った。
「全くあいつときたら、いつも他の女寝室に引き摺りこみやがって。嫁の俺には全然構ってくれねぇんだもんな。まぁその度に〆るけどさぁ。」
「あたしは旦那が浮気したら金は渡さないわぁ。家計を握っている妻の権限よねぇ。」
「言えてる~!」
女性陣による“夫の浮気に対する制裁トーク”で盛りあがり、いつしか夜は更けていった。
「あのう、何処で寝れば?」
「う~ん、やっぱり一応殿と一緒に寝ないとねぇ。」
「え~、それマジで嫌なんだけど。お姉さん達のところで寝かせてくださいよぉ~」
「駄目よぉ、ねぇ?」
「そうそう!じゃぁおやすみ~」
種香と小里はそそくさと自分達の部屋へと入ってしまった。
(どうしよう?)
こんな極寒の中で野宿する訳にもいかないし、かといってあの琥龍(ケダモノ)の部屋で寝る訳にもいかないし・・
結局火月は、有匡の部屋で寝ることにした。
「何だ、来たのか。」
「お姉さん達の所で寝ようとしたら、きっぱり断られちゃったもん。っていうか、あんたと一緒に寝たくないんだけど!」
「それはこっちの台詞だ。」
「何よそれ~!」
また有匡と火月はいがみ合ってしまい、火月は床で寝ることになった。
「あぁもう寒いったらありゃしない。ねぇ、ベッド譲って欲しいんだけど。」
「お断りだ。何故お前なんぞに譲らねばならん。」
「ケチ~!」
有匡が本を読んでいる間に、床で火月はいつの間にか寝入ってしまった。
(全く、どうしてこいつは妻と同じ顔と名前なんだ。)
性格は全く似ていないというのに、顔が似ているというのが厄介だ。
無防備で大口を開けて眠る火月を見ながら、有匡は溜息を吐いて彼女に毛布を掛けた。
翌朝火月が起きると、ベッドでは有匡がすやすやと寝息を立てていた。
ここのところ、心身ともに疲れている所為からなのか、彼女が揺すってもなかなか起きない。
「カゲツ、俺だ。」
扉の向こうから、シキの声が聞こえた。
「なぁに?」
「アリマサと話があるんだが・・」
「あいつなら寝てるわよ。それにしても話ってなに?」

火月がそう言ってシキを見ると、彼の顔が少し曇った。

「さっき、男達が妖狐族の宮城に攻めに行くとか話していた。」
「妖狐族の宮城に?それって確か、有匡の奥さんと子どもが捕えられている所だよね?」
「そうなのか?」
シキの蒼い瞳が驚きで大きく見開かれた。
「いつ頃城攻めするって?」
「さぁな。明朝発つとか言っていたな。」
紅牙族の男達が話していた内容が確かなら、有匡の妻子はどうなるのだろうか。
「シキ、それは本当なのか?」
「アリマサ・・」
いつの間にか起きて来た有匡が、そう言ってシキに詰め寄った。
「アリマサ、何処へ行く!」
「決まっている、妖狐族の宮城だ!」
吹雪の中、有匡が妖狐族の住まう妖狐界へと次元通路を開こうとした時、シキが慌てて彼を止めようとしていた。
「止せ、落ち着くんだ!」
「そうだよ、有匡!少し冷静になってよ!」
「煩い、わたしに構うな!」
有匡は二人の制止を振り切り、次元通路を開いて異界へと行ってしまった。
(行っちゃった・・)
次元通路が閉じられた今、火月はシキと吹雪が吹き荒れる中、彼の無事を祈ることしかできなかった。
次元通路を開き妖狐族がいる妖狐界へと向かった有匡は、一路宮城へと向かっていた。
早くしなければ、火月と子ども達の身が危ない。
有匡が宮城へと脇目も振らずに歩いていると、突然前方から何かがやって来るのが見えた。
それと同時に、通行人達が慌てて脇へと寄り始めた。
(何だ?)
徐々に近づいてくるのは、妖狐族軍の行進だった。
皆それぞれ真紅の髪を靡かせながら、槍の穂先を天に向けて馬に乗って進んでいた。
(軍が行進しているとなると・・余り時間はないな。)
有匡は軍を避けようと裏路地へと入ろうとしたが、馬上の者に目敏く見つけられてしまった。
「貴様、何者?人間が何故妖狐界に居る?」
「離せ、わたしは宮城に・・」
「怪しい奴め、捕えよ!」
有匡は軍に捕えられ、宮城へと連行された。
「こやつが街中に居たとな?妖狐族の街に、人間が?」
「はい、王(ハーン)。怪しい奴ゆえ、捕えました。」
「顔を見せよ。」
兵士の一人にいきなり俯いていた顔を上げさせられた有匡は、そこで妖狐族を統べる王を見た。
「そなた、あの人間の・・」
有匡と目が合った王が瞬時に顔を強張らせると、憎々しげに彼を睨みつけた。
「誰か剣を。この者の首を刎ねて・・」
「お待ちくださいませ、父上!」
謁見の間に駆け込んできたのは、母・スウリヤだった。
「スウリヤよ、邪魔立ては許さぬぞ!」
「父上、わたくしの息子です。父上といえども手出しは許しません。」
娘の言葉に王は怒りで顔を赤く染めたが、忌々しそうに有匡達にこう告げた。
「さっさとその男を連れて行かぬか。目ざわりでならん。」
母に命を救われた有匡だったが、火月達の事が気に掛かってしまい、礼も言えなかった。
「そなたの妻と子ども達は無事だ、有匡。」
「そうですか・・」
有匡がそう言って所在なさげに周りを見渡していると、火月と子ども達が彼の方へと駆け寄ってきた。
「先生!」
「火月、会いたかった!」

有匡は漸く妻・火月と再会し、二人は互い、一目も憚らず熱いキスをした。

有匡が妖狐界に来て、妻子と再会して数日後、紅牙族と人間との争いが激化しているという知らせが彼の元に届いた。
「先生、琥龍達は・・」
「あいつらなら無事だ。それよりも火月、母上には良くして貰ったか?」
「ええ。スウリヤ様は何かと僕達に気を配ってくださいましたし、雛(すう)が熱を出した時も看病をしてくださいました。」
「雛が熱を?」
妻の言葉を聞き、有匡の眦が上がった。
「ええ。先生と突然地震で離ればなれになって、妖狐族の牢獄に囚われていた時になかなか熱が下がらなくて。」
「雛は何処だ?」
「あの子なら庭園で遊んでいます。」
「そうか。熱が下がったのならいいが。」
もしやまた双子に変幻が起きるのではないか―有匡はそんな事を思いながら、スウリヤの部屋へと向かった。
「母上、失礼致します。」
「有匡か。雛の事を聞きに来たのなら、あの子はもう大丈夫だ。」
スウリヤはそう言うと、咥えた煙管に火をつけた。
「そうですか。それよりも今回の地震といい、人間界での異変といい・・原因が全く判りませんね。」
「近いうちに人間界と魔界が呼応する時が来よう。その時は有匡、火月達と逃げろ。」
「しかし、母上・・」
「わたしの事は自分で何とかするから、心配するでない。だからお前は、家族を守れ。」
「母上・・」
スウリヤのまっすぐな目から、有匡は視線を逸らす事が出来なかった。
彼女は、夫と有匡を残し、単身妖狐界へと戻っていった。
それは二人を捨てたのではなく、スウリヤと有仁が有匡を人間として育てることを決意したからの、行動であった。
「親子としてわたしとお前は共に居られなかったが、お前は違う。あの双子を守れ。」
「解りました。」
スウリヤの部屋から辞した有匡は、雛が遊んでいる庭園へと向かった。
「あ、蝶々!」
蒼い羽根を持つ蝶を見た雛は、それを捕まえようと脇目も振らずに走り出した。
あと少しで捕まえられると彼女が思った時、小石につまずいて転んでしまった。
「痛ぁい・・」
擦りむいた膝を擦りながら雛は蝶を探したが、蝶は何処にもなかった。
「あ~あ、逃がしちゃった。綺麗だったのに。」
「雛、大丈夫か?」
向こうから父親が血相を変えて走って来た。
「お父様!」
数ヶ月の間離ればなれだった父親と再会し、雛は彼に抱きついた。
「全く、すぐ目を離すとこれだから・・」
お転婆盛りの娘を抱き上げながら、有匡は溜息を吐いた。
「だって綺麗な蝶を見つけたから、捕まえようと思ったんだもの。」
「綺麗な蝶?」
「うん。蒼い大きな羽根だったよ。」
「そうか。もうここは寒いから部屋に戻ろう。」
「うん!」
庭園を去る時、有匡は一瞬殺気を感じたが、それはすぐに消えた。
「お父様?」
「何でもない、行こうか。」
(今誰かに見られたような・・)
彼らが庭園を去った後、茂みが激しい音を立てて一人の男が出てきた。
「なるほど、ここが妖狐族の宮城ですか。」
帝の護持僧・文観はそう言うと笑った。
「スウリヤ様、結界に侵入者が・・」
「人間だな。放っておけ。わたしはもう休む。」

スウリヤはそう言うと、寝台に横たわった。

(また、見られているような・・)
家族で朝食を囲んでいると、有匡は執拗な視線を感じた。
「お父様、ストーカーに狙われてるの?」
雛がそう言って有匡を見ると、彼は何かを考え込んでいた。
「そなたがストーカーに遭うとはのう。もしや昨夜感じた“気”も、ストーカーかもしれぬな。」
スウリヤがそう言った時、女官達が部屋に入ってきた。
「スウリヤ様、大変です!」
「どうした?」
「人間の男が、宮城の敷地内に!」
女官達の言葉を聞いた有匡が驚きで目を見開いた時、またあの視線を感じた。
「お久しぶりですね、有匡殿。」
凛とした声が背後から聞こえ、有匡が振り向くと、そこには文観が立っていた。
「文観、貴様何故妖狐界に?」
「さぁ、わたしも何故ここに来たのか判りません。寺には身重の妻を一人残しておりますし。」
文観の言葉に、有匡の眦が上がった。
彼の言う“身重の妻”とは、有匡の妹・神官(シャマン)のことだった。
「有匡、そやつと知り合いか?」
「あなたが、皇女スウリヤ様ですか?」
文観の視線が、有匡からスウリヤへと移った。
「そうだが。そなたは、艶夜の夫か?」
「いかにも。お初にお目にかかります、スウリヤ様。」
文観はそう言うと、スウリヤに頭を下げた。
「艶夜が身重とは、どういう事だ?」
「実はこの度、二人目の子を授かりましてね。しかし体調が芳しくなく、安定期を過ぎても悪化の一途をたどるばかりで、このまま無事に出産を迎えられるかどうか・・」
「そうか。文観とやら、わたしを人間界へ連れて行け。」
「皇女様、なりません!」
「妖狐界から王の許可なしに出るとは、正気の沙汰とは思えませぬ!」
女官達が抗議すると、スウリヤはキッと彼女達を睨んだ。
「黙れ、子に会いたいという母親を止めるでない!」
「わたし達も参りましょう、母上。」
こうして有匡達は、文観とともに醍醐寺へと向かった。
「こちらです。」
彼に案内され、有匡は神官が寝ている部屋へと向かった。
そっと御簾を上げた途端、凄まじい瘴気が有匡と文観を襲った。
(これは、一体・・)
「いつからこんな瘴気が?」
「昨年の夏ごろから、悪阻にくわえて意識障害も出て来ておりまして。」
有匡が御帳台の中で眠る神官を見ると、彼女の顔は何処か蒼褪めている。
そっと彼が妹の下腹に触れると、微かに胎児の鼓動を感じた。
だがそれとは別に、何かが蠢く気配がした。

禍々しい、魔物の気配。

「有匡殿?」
「腹の子の他に、魔物の気配を感じた。魔界と現界が呼応する時が近づいているというのは・・」
「艶夜の胎内に宿りし子が産まれし時じゃ。このままだと腹の子もろとも助からぬであろう。」
スウリヤはそう言うと、娘の前に腰を下ろした。
「何か手立てはありませんか?艶夜と腹の子、二人が助かる方法を。」
「本人達の生命力に賭けるしかなかろう。」
スウリヤと有匡、そして文観は、神官と腹の子を助ける方法が見つけられぬまま、残酷に時は過ぎていった。

そして、神官は産み月を迎え、吹雪の夜に彼女は産気づいた。

「もっと護摩を焚け!」
「ですが僧正、これ以上焚いては・・」
「煩い!」
神官が産気づき、文観は彼女と子が無事にこの危機を乗り越えられるよう、加持祈祷を行っていた。
護摩壇からは、天にまであと少し届くかのような紅蓮の炎が上がっていた。
文観は独鈷杵(とっこしょ)を握り締め、祭文を唱えた。
一方、白一色に染められた神官の寝室で、彼女は絶え間なく襲う陣痛に耐えていた。
「ミツタダ・・」
神官は夫の名を呼びながら、荒い呼吸を繰り返した後意識を失った。
「火月ちゃん、殿を呼んできて!」
「解った!」
火月は産室から出て有匡が居る本堂へと向かうと、そこには文観と加持祈祷をしている彼の姿があった。
「先生、大変です!神官が・・」
「どうした、火月?」
「突然意識を失って・・」
有匡と火月、文観が産室へと向かうと、そこは魔物の瘴気に満ちていた。
「火月、暫く外に出ておけ。お前まで巻き込まれる。」
有匡はそう言って妻を背後に下がらせると、呪を唱えた。
すると、産室全体が大きく揺れ始めたかと思うと、神官の身体から魔物が現れた。
それは黒い衣を纏った女だった。
「貴様か、神官に取り憑いていた魔物は?」
「コノ身体ハワタサヌ。血肉ゴト食ライ尽クシテクレヨウゾ。」
女がそう言って口端を歪めて笑うと、また産室が軋みを上げて大きく揺れた。
有匡が呪を唱え始めると、女は苦しげに胸を掻きむしった。
「オノレ、陰陽師メ・・」
女はかっと目を見開き、恐ろしい形相で有匡を睨んだ。
「その様子だと、効いているらしいな。」
有匡はふっと笑うと、女に留めを刺すべく剣を取り出した。
「オノレェ・・」
女は苦しそうに床に蹲り、外に居た火月に目を向けた。
「器ハ変ラレル・・」
「妻には手を出すな。」
有匡は間髪いれずに女の胸を刃で貫いた。
女は凄まじい悲鳴を上げ、消えた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ。魔物の気配はもうしないが、油断は出来ん。」
有匡がそう言って火月を見た時、神官が意識を取り戻した。
「後はお前に任せるぞ。」
「はい、先生。」
有匡と文観が産室を出た後、火月は神官の出産を介助した。
やがて産室から元気な産声が聞こえた。

産まれたのは女児だった。

「そうか、産まれたのは姫君か。一時はどうなることかと思うたが、良かった。」
スウリヤはそう言うと、盃を満たしていた酒を一口飲んだ。
「これも有匡殿のお蔭です。」
「ふん、礼を言うほどのことでは・・」
「シスコンだもんね、先生は。」
火月に図星をさされ、有匡がジロリと彼女を睨むと、彼女はスウリヤと談笑していた。
「火月よ、次はそなた達の番だな。」
「母上、それはまだ・・」
「そなたらの様子を見ていると、三人目も遅くはないようだからの。」
三人目を催促し、戸惑う息子夫婦を前にして、スウリヤはほくそ笑みながらまた酒を一口飲んだ。

それから火月が三人目を授かるのは、そう時間が掛からなかった。

妹・神官(シャマン)の出産が無事終わり、有匡は妻子を連れて鎌倉へと明日戻ろうとしていた。
「もう少しこちらでゆっくりすればよいものを。」
「用は済んだからな。それに幕府側の人間であるわたしが、いつまでも醍醐寺(ここ)に居てはお前の立場もないだろう?」
「お優しいことをおっしゃるのですね、義兄上(あにうえ)。」
宿敵に“兄”と呼ばれ、有匡はあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「それよりもあの魔物、消えたのはいいですが正体が判らないとは。一体なんだったのでしょう?」
「さぁな。それよりも母上の言っていたことが気になる。」

“近いうちに人間界と魔界が呼応する時が来よう。”

妖狐界で母が自分に言った言葉の意味を、有匡は考えていた。
人間界と魔界が呼応する時―いずれまた戦が起こるという意味だろうか。
それとも―
「僧正、帝からの使いが・・」
「今は取り込み中だとお伝えしろ。」
「いえ、それが・・土御門有匡殿に用があるとか。」
弟子の言葉に、文観と有匡は一斉に彼を見た。
(帝がわたしに用だと?)
土御門家とは完全に絶縁したので、今更帝は自分に用はないと思っていたのだが。
「わたしに用とは?」
「実は、帝の東宮様が、あなたのお噂を耳にし、是非会いたいとおっしゃられて・・どうか、一度内裏へ参内してはいただけませぬか?」
「大変光栄な申し出ではあるが、丁重にお断りさせていただく。わたしは明日、鎌倉へと発つ予定で・・」
「東宮様は、貴殿の奥方にもお会いしたいとか。」
帝の使いがそうはなった言葉に、有匡は驚きで目を見開いた。
「東宮様が、わたしの妻にお会いしたいと?一体何の用件で?」
「それは直接お会いになってからお聞きしたほうがよろしいかと。」
向こうは有匡が東宮の誘いを断らないという想定内でそんな言葉をかけると、早々と醍醐寺から去っていった。
「どうなさいます、有匡殿?」
「どうもこうも、出発を早めて鎌倉へと戻る。火月の体調次第だが。」
三人目を身籠っている火月の体調は少し芳しくなく、悪阻が重いようで一日中床に臥せっていた。
「大事な時期ですので、余り無理をかけてはいけませんね。」
「そうしたいのは山々だが・・」
東宮が何故自分達に興味を持ったのか、有匡には理解できなかった。
翌朝、有匡は妻子を連れて鎌倉へと発とうとしていた。
その時、間の悪い事に文観が悪い知らせを彼に持ってきた。
「今から、東宮様がこちらに来られると仰せです。」
「東宮様が?今から鎌倉を発つというときに、厄介な。」
有匡はそう言うと舌打ちした。
「火月、お前は部屋に隠れていろ。」
「はい・・」
ほどなくして、東宮が醍醐寺に現れた。
「文観よ、そちらが土御門有匡殿か?」
まだ17の若さではあるもの、東宮の全身からは威厳に満ちたオーラが発せられていた。
「はい、東宮様。土御門有匡と申します。今日はどういったご用件で?」
有匡がそう東宮に尋ねると、彼は扇子で自分の傍に寄るよう有匡に指示した。
「ほぉ、美しい顔だ。それでいて有能な陰陽師というだけある。そなたの妻は何処だ?」
「生憎ですが、妻は悪阻が酷く床に臥せっておりまして。それにわたくしは鎌倉へと発つことになっており・・」
「そなたを鎌倉へは行かせぬ。」
御簾がするすると上がったかと思うと、東宮がそっと有匡の手を握ってきた。
「そなたは我の元に仕えるのだ、有匡。」
「何をおっしゃいますか、東宮様。有匡殿は幕府お抱えの陰陽師ですよ?そのような事は許されませぬ。」
文観が東宮に抗議したものの、彼は聞く耳を持たなかった。
「すぐに御所へ参れ、有匡。そなたの妻と子どももともにな。」
有無を言わさぬ口調で東宮は有匡にそう告げると、彼は口端を歪ませて笑った。
こうして半強制的に、有匡と火月達は東宮によって御所に連れていかれた。
何が何だか訳が解らぬまま、火月は後宮へと入ることになってしまった。
「先生、これからどうすれば・・」
「心配するな、火月。どうせ東宮様の気紛れだろう。すぐに帰れるさ。」
そう言って妻を励ました有匡であったが、いつ鎌倉に帰れるのか不安で堪らなかった。
「東宮様、土御門有匡様が参りましてございます。」
東宮が住まう部屋へと有匡が向かうと、彼はそれまで物憂げな表情を浮かべていたが、有匡の顔を見るなり一転晴れやかな表情を浮かべた。
「有匡、ようきてくれたな。待ちくたびれておったぞ。」
「東宮様、このようなことをなさったのは何故ですか?ご用件が分からねばこちらとしてしても・・」
「そなたの妻を、我の妃といたせ。」
「東宮様、戯言を。」
「戯言ではないぞ。我はいつも本気だ。」

東宮は有匡がどう反応するのかを、横目でチラチラと見ては嬉しそうに口元を歪めた。

「と、東宮様・・それはできませぬ。」
「何故じゃ?それほどにそなたは妻を愛しておるのか?」
東宮はそう言って有匡の狼狽した顔を見て笑った。
「東宮様、戯言を申されるのはお止めになされませ。有匡殿が困っておいでではありませぬか。」
すかさず東宮の傍に控えていた男がそう彼を窘めたが、彼はブスっとして男を睨んだ。
「お話しがお済みになりましたので、わたくしはこれで失礼致します。」
「嫌じゃ、待て、有匡!」
東宮は突然駄々を捏ね始め、有匡の手を掴んで離さなかった。
「では、わたくしはこれにて。」
有匡は東宮の手を振り払うと、東宮の寝所から辞した。
(全く、何なんだ東宮様は。突然駄々を捏ね始めて、まるで子どものようではないか。)
「もし、有匡殿。」
廊下を歩いていると突然声を掛けられ、有匡が振り向くと、そこには東宮の傍に仕えていた男が立っていた。
「何かわたしに用でしょうか?」
「実は、東宮様の事で・・」
「東宮様の?」
「ええ。先程は驚かれたと思われますが、東宮様は時折あのような駄々をお捏ねになったりなさるのです。お母君を幼くしてお亡くしになられたので、他人の温もりといったものが欲しいのでしょう。」
「確か東宮様は今年で17となられる筈。東宮の母君がお亡くなりになられたのは東宮様がおいくつの時ですか?」
「そうですね、まだ東宮様が御袴着の儀を迎えられた後でしょうか。母君亡き後、帝は弘徽殿女御様を妃に迎えられ、女御様は男子(おのこ)をお産みあそばされて、東宮様はそれ故蔑ろにされたのです。」
男から東宮の生い立ちを聞き、先程の行動は幼少期の愛情不足からくるものだったのかと有匡は思った。
だとしても、他人の妻を自分の妃にするなど、理解し難い。
東宮は何を心の底に抱えているのだろうか。
宮中に参内するのは久しぶりだから、有匡はつい道に迷ってしまった。
道を聞こうにも人気がなく、元来た道を戻ろうと彼が踵を返した時、向こうから人の話し声が聞こえた。
「全く東宮様にも困ったものよの。あれでは弟君に廃嫡されるのも無理はない。」
「ほんに。弘徽殿女御様は、何故あのような無能な者を東宮にするのだと、大変お怒りだそうな。」
「まぁ、東宮様には誰も期待はしておるまい。いずれ土佐にでも流されよう。」
公達達がヒソヒソと話しながら、遠ざかっていった。
彼らの話を聞く限り、東宮は継母である弘徽殿女御から冷遇され、弟君と何かと比較されて育ったようだ。
それ故に突飛な行動をして周囲を驚かせ、気を惹こうとしているのではないのだろうか―有匡はそう思いながら、鎌倉へと戻る日を待ちわびた。
夜の帳が下りた後宮では、女達がすやすやと寝息を立てて眠っていた。
そんな中火月は、悪阻に苦しんでいた。
双子を妊娠した時は全くなかったのに、今回の妊娠に限って酷い。
お腹の子はちゃんと育っているのだろうか。
火月はそっと下腹に手を当て、この子が無事に産まれてくるように願った。
(先生、今どうしているかな?)
そう思いながら彼女が御簾越しに月を眺めていると、こちらへと向かってくる足音が聞こえた。
「誰です、こんな時間に?」
「・・そなたが火月か。」

低い男の声が聞こえたかと思うと、東宮が部屋に入ってきた。

「と、東宮様?」
突然の東宮の来訪に、火月は戸惑った。
「何故こんな時間に起きておる?」
「少し体調が優れなくて・・東宮様は、何故こちらに?」
火月がそう東宮に尋ねると、彼はいきなり火月を抱き締めた。
「何をなさいます、東宮様。お離しくださいませ。」
「嫌じゃ。」
火月は東宮から離れようとしたが、彼は一向に火月を離そうとはしない。
「そなたからは母上と同じ匂いがする。」
東宮はそう言うと、火月の金髪を梳いた。
「東宮様のお母君は、どんなお方だったのですか?」
「余り良く憶えておらぬ。母上は我がまだ幼いときにお亡くなりになられたゆえ。」
「まぁ、そうでしたか。僕・・わたしも幼い頃、両親を亡くしましたので、お気持ちは解ります。」
「そうか。有匡は何故、そなたを妻としたのじゃ?」
「さぁ・・互いに惹かれ合っておりましたので、自然と夫婦になりました。」
「自然と夫婦に、か・・我もそうなりたい。」
東宮はそう言うと、漸く火月から離れた。
「東宮様、もうお戻りになられませんと。」
「嫌じゃ。そちと朝までここに居る。」
「東宮様・・」
火月は東宮に戻るよう説得したが、彼は駄々を捏ねてしまい、結局火月の膝枕で眠ってしまった。
「火月、どうしたんだ?」
「先生・・」
翌朝、有匡が火月の元に行くと、そこには彼女の膝で眠っている東宮の姿があった。
「昨夜急に訪ねてこられて・・寝所にお戻りになられたらとおっしゃっても、なかなかお戻りになられなくて・・」
「そうか。」
「東宮様、幼いときにお母君を亡くされて、色々と心細い思いをなさったのでしょうね。」
「まぁ東宮様のお気持ちは解らぬでもないが・・悪阻は辛くないか?」
「最近は酷くなったり、なかったりと、波があって。無事生まれるかどうか。」
有匡はそっと、火月の下腹を触った。
すると、腹の中から楽しそうにはしゃいでいる胎児の声が聞こえた。
「大丈夫だろう。余り気に病むな。魔物の気配もないしな。」
「そうですか。」
有匡の言葉に、火月は安堵の表情を浮かべた。
「雛(すう)と仁(じん)はどうしている?」
「二人なら良く遊んでいますよ。」
「そうか。さてと、わたしは東宮様を寝所にお連れするとしよう。」
有匡は東宮を揺り起こすと、彼は低く呻って目を開けた。
「東宮様、お戻りになられませんと。」
「嫌じゃ、火月とここに居るのじゃ。」
「東宮様、どうか・・」
駄々を捏ね始める東宮に溜息を吐いた有匡が彼を後宮から連れ出そうとすると、衣擦れの音が向こうからした。
「あら、あれは・・」
「東宮様の弟君ではないの。」
「いつ見ても凛々しいお顔だこと。」
東宮の弟君・雄仁が後宮に現れると、女達が急に色めき立った。
有匡が御簾の向こうから外を見ると、そこには一人の公達が歩いてくるところだった。
紅の直衣を纏い、烏帽子を被っている彼の姿は、堂々としていた。
「さぁ東宮様、お戻りを。」
「嫌じゃ。我はあやつに会いとうない!」

雄仁の姿を見た瞬間、東宮はそう声をあげ、ガタガタと震え始めた。
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真~TRUE~緋 第2話(後半)

2024年09月27日 | 火宵の月 現代×鎌倉ファンタジーパラレル二次創作小説「真~TRUE~緋」
「火宵の月」の二次創作小説です。

作者様・出版社様・制作会社様とは一切関係ありません。


色々と捏造設定ありです、苦手な方はご注意ください。

「また会えたのう、陰陽師よ。」
蒼いドレスの裾を翻しながら、金髪の少女―悠葉(ゆずは)がそう言って有匡と秀介の前に姿を現した。
「貴様に構っている暇ではない。そこを退け。」
「ふん、折角助けてやったというのに礼もなしか。」
悠葉はそう言うと、鼻を鳴らした。
「何の用だ?貴様と遊んでいる暇はないんだ。」
「そうか。では、お前を殺すまでだ!」
悠葉は床を蹴ると、有匡に向かって斬りかかってきた。
有匡は彼の攻撃を避けながら、咄嗟にデッキに飾ってあった洋剣を掴んで応戦した。
「ほう、なかなかやるな。」
顔の前で刃を交えると、悠葉は余裕綽々とした表情を浮かべ、口端を歪めて笑った。
その時、遠くから火月の声が聞こえたかと思うと、彼女がデッキに現れた。
「火月、来るな!」
「あり・・」
「余所見をするでない!」
悠葉は有匡の向こう脛を蹴ると、彼の手から洋剣を奪い、首の前で交差して床に彼を押し倒した。
「下手に動くでないぞ。」
「何してんのよ!」
悠葉に向かって火月が怒鳴ると、彼はじろりと火月を睨んだ。
「小娘、邪魔をするな。邪魔立てすると貴様も海の藻屑にしてやろう。」
悠葉はさっと立ち上がると、火月の方へと突進した。
だが、一発の銃弾が彼の胸を貫いた。
「おのれ・・」
「良かった、こんな時に銀の銃弾持ってて。」
涼やかな声が背後から聞こえ、火月が振り向くと、そこには拳銃を構えた秀介の姿があった。
「貴様、よくも!」
「火月様、逃がしはいたしませんよ!」
慌しい足音が聞こえたかと思うと、老女と白装束の男達がデッキに雪崩れ込んできた。
「来ないで!来たらここから飛び降りてやるから!」
火月は船尾へと向かうと、その裏側へと回った。
「火月様、お気を確かに!さぁ、落ち着いてこちらへ!」
「嫌よ、誰があんたらの言いなりになるかっての!」
火月が老女達にそう怒鳴ったとき、突然突風がデッキを襲った。
「火月!」
有匡は首の前で交差する剣を二本とも抜くと、船尾で悲鳴を上げている火月の方へと駆け寄った。
「掴まれ!」
「きゃぁ~!」
あと少しというところで火月が有匡の手を掴もうとしたとき、新たな突風にあおられ、海中へと落ちてしまった。
有匡はためらいもせずに冷たい海の中へと飛び込んだ。
激しい潮の流れの中、彼は火月の身体を抱き締めた。
「火月様・・あぁ、なんてことでしょう!高原家の最後の希望が!」
老女は二人が消えた海を見つめ、悲嘆に暮れた。
「海の藻屑と化したか、陰陽師よ。哀れよの。」
悠葉はそう言って笑うと、姿を消した。
波音が聞こえ、海岸に打ち上げられた火月が目を開けると、そこには自分を抱き締めたまま気絶している有匡が居た。
「ねぇ、起きてよ。」
火月は有匡の頬を叩くと、彼は激しく咳き込んで海水を吐き出した。
「さっさとどけ、重くてかなわん。」
「さっきはいい奴だと思ってたけど・・やっぱりあんたって最低!」

こんな非常時でも、二人はいがみ合ってしまうのだった。

「一体ここ何処なのよ?まさか無人島だったりして。」
豪華客船のデッキから海に転落し、何処かの海岸へと流れついた火月と有匡は海岸を離れ、人里を探しに森の中へと入っていった。
「さぁな。船が今何処に居るのかは解らんが、わたし達が遭難していることは向こうに伝わっていると思うだろう。」
「あんたねぇ、何でこんな時に冷静な訳?もう少し慌てたら?」
「無駄なパニックは命取りだ。式神に情報収集させてあるし、奴らに聞けば住む事だ。」
「あっそ。それよりもお腹空いたなぁ。何か持ってない?」
「持ってる訳がないだろう、あんな状況で。それとも何か?今すぐ海に戻って魚でも獲って来いと?」
「あたしにしろっていうの?か弱い乙女に裸になれって?」
「何処かか弱いんだ?勝手な行動はするわ、向こう見ずだわ、煩く怒鳴るわ・・こういう所は変に妻に似るものだな。」
「はいはい、悪かったわねぇ。それにしても暑いったらありゃしない。」
水を吸った振袖は徐々に乾き始めてはいるものの、暑くて仕方がない。
グタグダと火月が文句を垂れながら森の中を歩いていると、やがて目の前に道が開け、遥か遠くに村と思しきものが見えてきた。
「無人島じゃなくて良かった!これで食べ物にありつけるよ!」
火月が歓声を上げながら村へと駆けてゆくのを、有匡はあきれ顔で見ていた。
(全く、馬鹿な女だな・・)
妻と名前も顔も同じだが、性格は全く違う。
一つ自分が嫌味を言えば、彼女はそれを十も返してくる。
その所為で火月と顔を合わせるたびにいがみ合ってしまう。
ただでさえ妖狐界に居る妻の身を案じてストレスを感じているのに、彼女との低次元の争いで無駄なエネルギーを使いたくない。
かといって、彼女と歩み寄るつもりはないし、どうしたらよいのか・・
「きゃぁ~!」
遠くから火月の悲鳴が聞こえ、有匡が彼女の方へと駆け寄ると、そこには鍬(くわ)や鋤(すき)、槍で武装した村人達が彼女を取り囲んでいた。
「一体何をした!?」
「何もしてないって!村に入ってきたら突然囲まれたんだから!」
有匡が火月の方へと一歩近づくと、村人達が彼の喉元に槍を突き付けた。
「お前達、何者だ?」
そう言ったのは、顔に鮮やかな刺青を彫った褐色の肌をした青年だった。
「わたし達は怪しい者ではない。遭難し、ここに流れ着いてきた。」
「解った、話を聞こう。」
青年は槍を収めると、村人達に向かって何かを命令した。
彼らは解らぬ言葉で口々に喚いていたが、青年が一喝すると一斉に黙り込んだ。
どうやら青年は、村のリーダー的存在らしい。
「村長がお前達を呼んでいる。」
「解った。」
恐怖で顔を引き攣らせている火月の手を握りながら、有匡は青年の後に黙ってついていった。
するとそこには、周囲の茅葺屋根の家と比べて煉瓦の頑丈な造りの家が目の前に現れた。
「村長、侵入者を連れて来ました。」
「解った、入れ。」
贅を尽くした大理石で作られた玄関ホールに三人が入ると、廊下の奥から若い男の声が聞こえてきた。
青年とともに廊下のつきあたりにある部屋を入ると、そこはペルシャ絨毯がひかれ、優美なヴィクトリア様式のソファに横たわった一人の白人男性が居た。
年の頃は30前後といったところだろうか、注文服(オートクチュール)の高級スーツを着こなしている姿からして、何処かの貴族だろう。
「シキ、お前は下がっていろ。」
「解りました。」
シキと呼ばれた青年はそう言って白人男性に頭を下げると、部屋から出て行った。

「初めまして。わたしはレイモンド、この村を統治する者だ。あなた方は?」

彼はそう口を開くと、好奇心を剥き出しにした視線を有匡に送った。

「遭難して、この島に流れ着いたものだ。」
「そうですか、それは大変だったでしょう。確かこの前、ニュースでそんな事をやっていたな。」
この村の“村長”・レイモンドはそう言うと、今朝の朝刊を有匡達に見せた。
そこには、『豪華客船に暴風雨襲う、男女二人未だに不明』という一面記事が載っていた。
「この記事に書かれているのは、あなた方のことかな?」
「はい、そうです。」
「ではわたしが連絡しておくから、暫く我が家でゆっくりと身体を休めてください。遠慮は要りませんよ。」
「ありがとうございます。」
レイモンドの言葉に多少ひっかかりを感じた有匡だったが、素直に彼の好意に甘えることにした。
「シキ、彼らをお部屋へ案内しろ。」
「かしこまりました、旦那様。」
先程の青年がリビングに入ってきて、有匡と火月を寝室へと案内した。
「ひとつだけ言っておく、奴の事は余り信用するな。痛い目をみるぞ。」
「それは一体どういう・・」
有匡がそう言って青年を問いただそうとした時、リビングのドアからレイモンドが顔を出した。
「シキ、無駄口を叩いてないで早く行け!怠け者に金はやらないからな!」
そんな言葉を投げつけられたシキは怒りで一瞬顔をどす黒くさせたが、レイモンドに向かって黙礼すると、二階へと向かっていった。
「あいつが“村長”か?何処かいけ好かない奴だな。」
「ああ。表面上あいつが村長だが、みんなはあいつに辟易しているんだ。金持ちの道楽でこの島を私物化して、俺達の生活を壊しているんだ。」
シキはレイモンドへの嫌悪を滲ませた口調で言うと、豪華な絨毯に唾を吐いた。
どうやら彼は、あの村人達に憎まれているようだ。
「ここが、お前達の部屋だ。」
シキに案内されたのは、まるで新婚夫婦が使うような部屋で、寝台にはハート形の花弁が飾られていた。
「何か勘違いしているようだが、わたし達は新婚じゃないぞ。」
「そうか、済まん。」
シキはそう言うと、そそくさと花弁を片付けた。
「この村はいつからレイモンドの支配下になった?ここは何処だ?」
「ここはアバソロ島だ。丁度お前達が乗った船の航行ルートにある。農業と漁業が主な産業だが、数年前からあのレイモンドが観光業を始めた。その所為で余所者がこの島の生態系や伝統、文化を破壊した。今やあいつのような強欲な禿鷹野郎どもがこの島に跋扈(ばっこ)してやがる。」
「シキと言ったな?顔の刺青にはどういった意味がある?」
「これか?」
シキはそっと顔の刺青を撫でた。
「これは古くから俺達民族に伝わる神との契約だ。神はこの島に精霊を遣わせ、俺達の祖先とともにこの島の秩序と自然、伝統を守ってきた。」
「それをあのレイモンドが壊したということか。それと同時に、神の怒りを買ってしまったのか?」
「まぁ、そうなるな。実際、この島を通りかかる船や飛行機は必ず嵐に襲われる。」
シキは淡々とした口調で有匡にアバソロ島の歴史を掻い摘んで説明してくれた。
「お前達が乗った船は無事にフランスの港に着いた。いずれ助けが来るだろう。」
「暫く世話になる、宜しく頼む。」
有匡がそうシキに頭を下げると、彼は苦笑して彼に右手を差し出した。
「こちらこそ宜しく頼む、アリマサ。」
男達の間に友情が生まれた時、火月は村の女達が集まるある場所へと向かっていた。
「ここは何処なの?」
「ここは観光客への土産物を作る場所さ。今からあんたに仕事を教えるからね。」

そう言って火月の前に一人の太った女がやってきた。

「あのう、あなたは?」
「あたしかい?あたしはここの責任者の、マテーシャさ。あんた、裁縫は出来るかい?」
「え、ええ・・」
「そうかい。じゃぁあっちで先輩達に仕事を教えて貰いな。」
女は太った身体を揺すりながら、作業場から出て行った。
(何なの、あの婆。カンジ悪っ!)
火月はモヤモヤとした気持ちを抱えながら女達が集まっている場所へと向かうと、彼女達は刺青を彫った顔を一斉に自分に向けた。
「初めまして、火月です・・」
「どうも。あたしはリンガル。それでこっちはメイシャさ。じゃぁ早速仕事を始めるよ。誰かこの子に裁縫箱を持って来て!」
背の高い女・リンガルがそう声を張り上げると、何処からともなく螺鈿細工が施された黒塗りの裁縫箱が火月の前に現れた。
彼女が中を開けてみると、そこにはよく手入れされた裁ち鋏と糸切り鋏、待ち針などの裁縫道具が整然と仕舞われていた。
「あんたにはこの図柄を刺繍して貰うよ。」
そうリンガルが火月に渡したのは、不死鳥が描かれた紙だった。
「何か難しそうですね。」
「ちょっとしたコツがあるからね。」
先程の偉そうにしているマテーシャとは違い、リンガルは懇切丁寧に刺繍の仕方を火月に教えてくれた。
「あの、皆さんはいつもこんな事をなさっているんですか?」
「生活の為さ。昔は魚が沢山獲れたけど、あの禿鷹野郎が来てからはさっぱりさ。男達は出稼ぎで留守にしているし、あたし達が家計を支えてんのさ。」
女達は仕事の手を休めずに、生活が苦しい事などをそれぞれ愚痴っていた。
「ここは“楽園の島”って呼ばれてるけど、ありゃ嘘っぱちさ。あいつが来てからあたし達はいつも食いっぱぐれてるのに。」
火月は女達の話を聞きながら刺繍を施していると、それはいつの間にか完成していた。
「今日はお疲れさん。」
「あのう、あたしと一緒に居た男は?」
「多分レイモンドの館だろうね。ここだけの話だけど・・」
リンガルは突然声を落とすと、火月の耳元に何かを囁いた。
「え、何か女癖悪そうな顔してたのに、そっちだったんですか?」
「まぁ、人はみかけによらないからね。さてと、今夜はあたしの家に来ておくれ。」
リンガルに手をひかれ、火月は作業場を出て彼女の家へと向かった。
彼女家は、村を抜け、島一番の観光スポットとなっている旧市街に建ち並ぶアパートの一室だった。
まるで中世ヨーロッパを思わせるかのような石畳の道を歩きながら、火月は風光明媚な街並みに見惚れていた。
「ようこそ、我が家へ。」
「お世話になります。」
火月が頭を下げると、リンガルは彼女に優しく微笑んだ。
一方、レイモンドの館にある客間に泊まることになった有匡は寝台で寝ていると、不意に胸の上に誰かがのしかかっている感覚がして目を開けた。
「誰だ?」
「君、良い身体をしているね。」
レイモンドの声が闇の中から聞こえたかと思うと、レイモンドが有匡の顔をぬぅっと覗きこんだ。
「貴様、何しに来た?」
「何って、君を抱きに来たのさ。」
レイモンドはそう言うと、有匡の引き締まった腹筋を見て舌なめずりした。
「近寄るな!」
「ふふ、そう怯えないで。痛みは一瞬だよ・・」
夜着を脱がそうとしてきたレイモンドの顔を、有匡は裏拳で殴った。
「そうか、君はこういうプレイが好きなんだね!」
「何を言う!」
どうやらレイモンドはMだったようで、さっきのは逆効果だった。
「やめろ、近づくな!」
「もっと僕をいじめてよ!」

レイモンドが迫って来た時、不意に彼の後頭部を誰かが殴った。

「大丈夫か?」
気絶したレイモンドの顔を踏みつけているのは、シキだった。
「礼を言う、もう少しでこいつに犯されるところだった・・」
疲労困憊した有匡は荒い息を吐きながらシキを見ると、彼は腰に巻いていた荒縄でレイモンドの身体を縛った。
「まぁこいつは男が好きでな。お前のような美男子を見つけると、自分の館に招き入れて色々と遊ぶんだ。犠牲にならずに済んだが。アリマサ、俺とともに来てほしい所がある。」
「解った・・」
有匡とシキが出て行った部屋の天井には、亀甲縛りで縛られたレイモンドが吊るされていた。
彼と共に向かったのは、深い緑で覆われているジャングルの中だった。
「こっちだ。」
闇の中を難なく走り抜けるシキの後を、有匡は必死でついてゆくしかなかった。
「何処へ向かってるんだ?」
「神が祀られている祭壇だ。あと少しで着く。」
神が祀られている祭壇は、ジャングルの中にひっそりとあった。
石にはシキの刺青と同じ文様が彫られていた。
「荒れているな。」
「昔は俺達がこの祭壇に魚や木の実を捧げ、敬ってきた。だがあいつが来てから神は蔑ろにされたことを怒っている。」
「そうか・・」
有匡がそっと祭壇に手を置くと、石が脈打ったような気がした。
「どうした?」
「石が脈打ったような気がした。気のせいか。」
「そうか。」
シキがそう言った瞬間、祭壇が突如蒼い光に包まれた。
「何だ!?」
「一体何が・・」
激しい揺れに襲われ、有匡とシキは身を屈めた。
“わたしの家で何をしておる”
玲瓏な声が直接頭の中に響いてきたので、二人が周囲を見渡すと、そこには真紅の衣と烏帽子を被った男が祭壇の前に立っていた。
彼の全身から発せられる“気”を感じたとき、彼がこの島を守る神だと有匡は悟った。
「あなたは、この島を守る神か?」
“そうだ。わたしはこの島を古より守ってきた。だが、余所から来た男がこの島を滅茶苦茶にした。”
「あなたの怒りは良く解る。しかし、罪なき人間の命を弄ぶのは神にあるまじき所業。どうか怒りを収めてくれぬか?」
有匡の説得に、男は美しい眦を上げた。
“それはできぬ。人間など信じられぬ。”
そう言った彼の横顔が、酷く寂しいものに見えた。
かつて人々に崇められ、尊敬された神は人間の欲により蔑ろにされ、魔物へと変貌しつつある。
それほど、彼の怒りは凄まじいものなのだ。
「どうか気をお鎮めください、神よ!わたくし達が愚かでした!」
シキが男の前に身を投げ出し、そう言って彼に跪いた。
“もう遅い・・”
島を守っていた神は突風を吹かせると、有匡とシキの前から消えてしまった。
「パパ、雨が降ってきたよ。」
「何だ、せっかく来たのに・・これじゃぁ台無しだな。」
観光客向けのプライベートビーチ上空に突如黒雲が覆い、バーベキューをしていた家族連れがそう言いながらゴミを海に捨ててホテルの中へと戻ろうとした。
その時、激しい雷鳴が轟いた。

“愚かな人間どもよ、思い知れ”

稲光が一瞬光ったかと思うと、それはプライベートビーチ全体を襲い、全てを焼き尽くした。

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