高橋是清の生涯は誠に冒険と波乱に満ちている。彼の実父は幕府の御用絵師、狩野派の川村庄衛門守房で、是清は川村家に行儀見習いに入っていた娘のキンに、庄衛門の手が付いて生まれたのが高橋是清である。生まれて幾らもしない内に仙台藩の足軽高橋家に養子に出された、言って見れば数奇な運命である。後にヘボン家の小使いとなり英語を学び、14歳でアメリカに出掛けた。騙されて奴隷として売られ、数々の苦労をするが、元々楽天的な是清は、自分が奴隷の実であることにも気が付かず、えらく仕事が大変だなと感じていた。その内、仕事が大変なのは、自分が奴隷の身として働かされて居ることに気が付き、訴訟を経て自らの身を交渉で解放した。この時に彼はアメリカ英語を身に付けたと云う。
18歳で日本に帰り大学予備門(後の第一高等学校)に入るが、先生よりも英語が出来る為に急遽、助手として生徒に教える事に成なった。この頃の日本では英語が出来るというのは一つの特権で、その為に食う事に事欠かなかった(芸は身を救うである)。その内講師に成り、19歳で色の道に開眼して、大学予備門の授業が終わると吉原(政府公認の売春宿)に出掛け、吉原から大学予備門に出勤するという魂消た行為に及んでいる。体格の良かった是清は精力も絶倫であった。性欲は父親の川村庄衛門の遺伝的な物も在ったのだろう。当時は、日本では英語が出来る者が少なかったので是清は何処ででも引張りだこで、職にあぶれるという事は無かった。彼は英語という技能を十二分に使うことが出来た。だが、次代が進むと英語を操る者もおおく成る。英語が出来ると謂うだけでは、以前の様には行かない事に成る。彼は財政の方策を学び日本の舵取りこそが自分の特技だと思うように成る。
日本の開国から敗戦までが77年である。これはヒトの一代の期間の相当する。この一代の期間の間には、近代日本の幾つかの分水嶺がある。この歴史を詳細に分析してみれば、それは幾つかのターニングポイントがあり、そして日本の災厄を裏で操る世界勢力の手も、朧気ながら見え隠れする。日清戦争がなぜ起きたのか?日露戦争がなぜ起きたのか?、ここで私はなぜ起きたのか?と書いたが、正確にはなぜ起こされたのか?と書いた方が正確だ。明治後半の戦争も、デモクラシーという大正時代の意味も、昭和の不況や恐慌も、軍艦の制限も、軍閥の割拠も、もっと広く深く観察すれば世界の見えない裏側で糸を引いている勢力(国際秘密力)の意図を感じる。高橋是清は江戸の臭いが未だ残っていた時代に、その時代の子となり、そして様々な紆余曲折の後、226事件で横死した。或る意味では日本の運命を彷彿とさせる人生でもあつた。
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