井頭山人のgooブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

南方熊楠の人生

2023年11月11日 19時57分46秒 | 日本文化論

 現代では和歌山県田辺市に生れた博物学者の「南方熊楠」を知らない人は居ない。だが、彼が生きてゐた当時、南方熊楠は、知る人ぞ知る無名の人であった。彼は和歌山県の田辺の大きな雑貨商に生れ、幼少の頃から普通の子共とは違った性格を示し、なんにでも強い好奇心を持った異常な子共であった。幼少の頃から近くの医者の家に在った百科事典に関心を示し、それを熱心に読んだ。その本は江戸時代中期に医師寺島良安によって編纂された「和漢三才図絵」である。熊楠はそれを見て興味を示した。この膨大な百科事典は、全体に105巻81冊から成る知識の宝庫であり、熊楠はそれを欲しがり、手に入れることを望んだが買ってもらえず、医者の家に通い、その全巻を自分で筆写したと謂われている。この根気と集中力が、後に彼の才能を後押しして膨大な知識を我が物とした。彼の博覧強記はこの辺にその種があったと思われる。歴史的に天才のライフヒストリーを見ると、子供の頃に強い好奇心を持ち、その好奇心を周りの者が上手に育てた例が多い。それは洋の東西を問わない。どんなに才能を示した子供でも、周りの理解が無く、埋もれて仕舞った才能がどれほどあったかを思い私は暗澹とする。教育の名のもとに天才を殺して仕舞った事例は多分多い。私が知る上手に育てた例では、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーがそれである。彼は小学生の頃にencyclopedia・Britannica(大英百科事典)33巻をすべて読んでしまったという。後年、数学に於ける確率過程論で業績を挙げた。ブラウン運動に於けるウィーナー過程である。また後年、現代の工学技術と連携したサイバネティックスで現代の技術論の原型を作った。熊楠もウィーナーも、普通の子供のレベルからすると、すこし異常であるが、知的好奇心にあふれた子供には、膨大な百科事典を読み通す事など苦にはならないものだ。

子供の将来を期待した父親は、小学校から旧制中学に上げて、卒業後には東京に遊学させて神田の共立学校に英語の習得の為に送った。熊楠は語学が出来た、その為に共立学校での進歩は著しい。そして無事に大学予備門に入学することが出来た。この大学予備門は戦前の旧制高等学校と同じである。現代で云う処の大學に於ける教養課程である。現代の大学が4年制でその前半の2年が教養課程であるが、戦前は旧制中学を卒業すると高等学校の入試が待っている。旧制高等学校はに遊学試験が難関であった。旧制高校は3年制で試験で赤点を取ると留年である。その次の年も留年すると、放校であり退学となる。無事に高等学校を卒業すると、次が帝国大學への入試である。ところが帝国大学の募集人員と、旧制高校の卒業生の人数が、ほとんど同じであった為に、帝国大学の法学部とか理学部とか医学部とか、難関の学科を目指さなければ、つまり文学部とかどこでも好ければあぶれることが無かった。大学予備門も定期試験には厳しく、赤点を取れば下手をすると退学と云う憂き目にも会う。記録を見ると面白い事実があり、熊楠の予備門時代の同級生には、夏目漱石とか正岡子規、芳賀八一、山田美妙、工学者の本多光太郎など、その他の将来の有名人が多い。この時代は永い幕藩制が終了し、いずれも旧藩の秀才が東京に出て一旗挙げるために大学予備門を目指したものだ。南方熊楠もその例に漏れない。彼はその特異性を発揮し、大いに楽物を進歩させたが、嫌いなものは余りやらない為に、予備門の試験で及第せず2年で退学となる。彼はこのまま東京に居て鳴かず飛ばずの青春を送るより、世界に雄飛し己の人生を掛けてみょうと決心したのであろう。故郷に帰ると彼は父に相談し一人アメリカに出掛けることにした。

若い時代には恐い物など有りはしない、熊楠は意気盛んにその留学というか遊学を実施して、数々の謂わば冒険をこれ以後する訳である。彼は渡った当地で、色々な苦労をするが、最終的には英国に渡り、そこで大英博物館に通い、独自に自らの勉学に精を出した。英国の科学的な雑誌や文化的な雑誌に投稿し、彼の様々の知見を披露した。そして、南方熊楠の名は、知る人には有名になり、その雑誌には現在でも続くネイチャーとかがある。当時の英国は日本文化を研究する者が居て、熊楠は其の推薦で、ケンブリッジ大学に日本学の講座を創設しょうという有力者が居て、若しかすると、その日本学の講座が創設された暁には熊楠が、ケンブリッジの日本学の教授に任命されたかもしれない。当時は日本国と英国は政治的にも文化的にも、互いに互恵関係を持ち、其れなりの関係を築いていた時代である。だが残念な事には日本学の講座創設は頓挫してしまった。そして熊楠も英国での可能性の道を絶たれ、日本に帰国することに成るのである。英国で熊楠は日本の仏教研究者と親密になる。土宣法竜である。彼は真言宗の僧侶で、同じく留学して居たロンドンで出逢った。真言密教の本質について熊楠と語り合い、其れなりの感嘆する所が在ったのだろう。法龍と熊楠の交友は日本に帰ったからも続き、博物学者南方の意外な面も其処には見える。

真言密教は偉大な空海が開いた真言宗の核心である。真言とは謂わばインド由来のもので言えば呪言であり、言葉の究極と精神の究極、生命の究極、宇宙の究極、物事の初めが解き明かされる探求分野であり、それを空海は「真言」と呼んだ。空海は実にマルチユニバースの如き才能者であり、言語一つをとっても、日本語、シナ語、サンスクリット語、ヒンズー語、チベット語、を理解した。彼に取って言語的な壁など無かった縦横無尽の守備分野の広い人だ。言葉の究極に仏の世界がある。そう空海は予想していた。言語哲学の達人であり、言語の獲得から精神の芽生えまで、研究していた。能書家で、それ以上に深い内容の文章を書いた。彼が普段、弟子たちに語り掛けた言葉を、弟子が記録したのが、あの有名な「性霊集」である。これは一部欠けているが、それは私の推測する所、弟子が意図的に隠した物であろう。詰まり都合の悪い事が書かれていた。と思える。多くの著作も残している、「般若心経秘鍵」、ウン字義、他多数あるが、最終的には「秘密曼荼羅十住心論」に要約される。だが、此れの本質を理解することは、そう簡単ではない。空海は61歳を最後にこの地上を去ったが、このもの凄い日本人は未だにその本当の才能を理解されていない。空海に匹敵する才能無くして、真の空海を理解する事など出来ないだろう。

熊楠は日本に帰ったからも同じ様に生きたかっただろうが、日本では中々勝手が許されなかった。弟は熊楠が着の身着のままで、学位の取らず帰った事に不満だったという。外国にある熊楠に多くの経済的支援をしたのは父が亡くなった後は弟である。熊楠は孤独にならざる得なかったろう。兎に角、仕事と云えば自分の趣味・遊びの類の様に見られて居たし、自分で稼ぐという方法を知らなかった。つまりは実家の援助である。当時でも今でも、学問で食うには大學か研究機関の職員に成らねばやれないのだから。柳田國男は内閣書記官長という職にあって、退職したのちも恩給が出て生活には困る事が無かった。アチックミュージアムの渋沢敬三は渋沢財閥の大御所であり、経済的に困る事はない。だが熊楠は実家が裕福だとは言え、彼個人で生活費を稼いでいるのではない。在野の研究者は皆同様なのだが。

熊楠は子供の頃から百科全書に興味を持ち、その内容を紙に書き写す事で殆ど記憶して仕舞った。この様な記憶は一生持ち続けることが出来る。読むだけでは駄目なのである、書くことで本当の昇華され、記憶に記銘された知識が刻印される。だから未だ十代前の子共には膨大な知識を我が物とする機会がある。子供が嫌がるのでは駄目だが、好む子供には、百科事典を宛がう事が必要である。熊楠は要衝にしてそうだったが、凡人でも15歳の頃に突然知識欲に目覚め、膨大な著作を読みだす者も居る。それはまた天才でもある。そんな機会を逃さない事だ。好奇心というダイナモは人間の知能を飛躍的に発展させる。熊楠は、和漢三才図絵に興味を示し、それを全て写筆して仕舞った。そこに熊楠の真価があり、後年に粘菌という、物だか生き物だか分らぬ存在にのめり込んだのも、和漢三才図絵の記憶に起源がある。この様な物に興味を示すのが、熊楠らしいところで、粘菌には宇宙の存在様相の秘密が隠されている。実際そうなのだ、命の全ては繋がっており、それは外界の条件次第で命は、どんな様態にも変化するからだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高橋是清自伝 | トップ | 日本古典文学の様相ー最も日... »

コメントを投稿

日本文化論」カテゴリの最新記事