ことばの起源は人間の思考の歴史が始まって以来、探求された題目である。その記録に探せば、ギリシャ時代はおろか、紀元前三千年の尚古日本の古記録、真秀伝にまで遡ることが出来る。人は常に言葉の機能とその起源に附いて、関心があったという根拠でもある。現生人類は何もアフリカ起源ではないだろう、それは一種の幻想にすぎない。日本の旧石器時代は現在よりも12万年前にまで遡れる。その当時、人が日本列島に居たのだからAfricaから来るはずはない。暖かい南方でAsiaで人類は誕生した。そして人類の誕生は、またことばの誕生でもある。言葉は人間だけではなく、あらゆる生命体に特有のものである。もちろん魚類には、通信が無いとは謂わないが明確な言語が有るとは言えないだろう。人間に特有なのは明確な言語を持つ事である。言語とは共通の音韻構造に因る通信手段である。そして言葉は段々に新たな単語を創り出し、精緻な構造を築き上げることでもある。言葉は共通の集団の中で自然発生し、その中で変化深化して行き、氏族のことばから民族のことばへと発展し、ひとつの言語構造へと体系的に変化し発展して出来上がったものだ。それが民族特有の言語であった。
18世紀は其れゆえ言語の探求がなされ、当時の主要な思想家の探求するテーマの一つでもあった。言語起源論に関しては何人かの思想家の著作がある。いちばん素朴な物はJJ・ルソー「言語起源論」であり、次には精緻で独創的な、J・G・ヘルダー、の「言語起源論」である。G・ヘルダーの起源論はインスピレーションに満ちており、非常に面白いものだ。いずれも人間の精神に、どの様な過程でコトバが発生したかと言う、その契機の理由を考えてゐる。コトバは文明と共に在り、その文明の特徴に決定的な影響を与えるのであるが、言葉がもたらす思考形態の言語に因る差異は、E・サピアが「言語」という著作のなかで現に語っている。明らかに言語は思考様式に影響を与えるのだ。その逆も言えるだろう。ルソーは18世紀の人間であり、ヘルダーも18世紀のドイツRenaissanceの人物である。
20世紀に入って文化人類学と同様に言語学は益々盛んに研究された分野である。多くの言語学者と言語哲学者が誕生した。私はその中で、現代にもつながる構造主義言語学を挙げたい。それはUSAのブルームフィールド達が主に成って進めた物だが、構造主義の言う結論からすれば、言語の本質は、「音が全て」であるという、彼らは考え違いをしている。1950年代から1970年代に掛けて、私が生まれた頃から二十歳代に掛けて、日本を含めた世界の思想界を席巻した「構造主義」とは、元々、文化人類学から派生して生まれた用語である。その用語の下に成った著作は、レビ・ストロースの研究で、それは南米の密林に暮らす未開のインディオの研究である。その本の中で、ストロースは南米のインディオ(ラカンドン族)の家族関係を構造的の捉え、「親族の基本構造」という論文を書いた。それが構造主義の用語の始まりである。ストロースは、家族関係の分析に構造主義という言葉を使い、「氏族の内部構造」と、「親族の基本構造」を、数学的な群論の手法を使って抽出した。だが、未開民族の家族構造が全ての民族の基礎にあるというルソーの家族観は、単なる幻想にしか過ぎない。たぶんレビ・ストロースは、夫婦関係、親子関係、兄弟関係、従妹関係、また嫁に行き新たに出来る人間関係、などを統一的に扱う一般構造を探求していた。
その構造主義は言語学にまで波及し、ブルームフィールド達の「構造主義言語学」が誕生した。ブルームフィールドの弟子であったチョムスキーは、1970年代に流行した生成文法の創始者だが、それは1953年の論文「文法の構造」に始まる。一般生成文法とは、人間の話す多くの言語の元と成る、最も基本的文法が有るはずだという発想である。この考えは一見、魅力的だが、あらゆる言語が導き出せるという究極の万能文法は存在しないし、言語は飽く迄、それ自身で存在するのではなく、自然環境の中で生きてゐる生命体の脳神経の反映なのであり、生成文法自体が最終的には「言語起源の問題」を、解決したようには見えないし、あらゆる言葉の基本形態を導出するという触れ込みは、謂わば、何でも神が解決するという一神教の教理その物だ。どうも一神教的心性は、究極の法則という発想にすぐ行って仕舞う傾向がある。そんなに簡単に真理に到達する道はない(笑)。
さて言語起源論に題目を戻そう。此処では、J・G・ヘルダーの「言語起源論」を分析してみたいが、その前に。当時、西欧では「言語起源論」は、大きなテーマの一つであった。当然のことであるが、思力に自信のある哲学者や心理学者に取っては、このテーマは、片付けるべき問題の一つであった。言語の起源を問う際に、最初に問題に成るのは「音と意味の対応」であり、オトと意味はそれを習得(母語が完成した後には)した後には、オトと意味は、余りに強く思念と結合している為に、その結合の部分の構造の差異が解らなくなる。言葉が完成するとは、その結合が完成するのと同じなのです。言語は思念と強く結合して仕舞うと、音はまるで意味の如く認識されてしまうし、自分の思念は自動的にオト化される。言語を習得するそれが、その成長のどの時期に、どの様な過程を踏んで対応が完成するか?が問われるのです。これが人間んが言語を習得する過程です。我々哺乳類は、なに・なに、語という、特定の言語なしで生れるが、言葉なしで生れる訳では無い。この違いが分かるだろうか? 真のコトバの起源は、音の背後にある思念なのだ。うまれて最初に触れるのは産みの母親である。母親は優しい目で我が子を見て、スキンシップと声を掛けてくれる。産まれ立ての赤子は、言語としてのことばは話さない。ただ笑ったり泣いたりするだけである。だが、この笑うこと泣くことも、交信の手段としては明らかに言語への助走であり、それは将来、明確な言語の始まりとして認識されるモノなのである。そこには母と子の、同体としての信頼が生まれる。コトバの意志を通じた対応はこの辺の親子の交信から始まる。
さらに言葉の起源に関してだけでは無く、「言葉と思考」の関係も、言葉の問題の、最も大きな5つの問題の内の一つです。音と意味の対応関係は思考の発展性に直接関連している。音は単なる言語上の指標であるが、それは内的言語(内語)を習得することで、音と思考の切れ目はふさがってしまう。それで音と意味は一体になって仕舞うが、本来は同じ物ではない。オトと意味の対応の解明は当面の最大の問題だろう。それは心理学と脳神経系、分子遺伝上のデータの問題ともつながっている。
1ー オトと意味の対応を解明する。
2ー 意味とは何か
3- 思考と言語の、視覚を使って思考する。音を使って思考する。
4ー 完全なる交信は存在しない。
5ー 将来人間の言語はどのように変化するか。
*言語起源の問題は謂わば古典的な問題であり、もっと大事な問題へと導いている。もっとも重要な視点は、言葉とは内的な世界の反映であって、たんなる音と捉える事は錯誤といえる。音とは、或いは音声とは、一表面に出た通信符号の一種に過ぎない。言語学の本質は、むしろ通信体の方にこそ重要さがある。
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