この間、友だちが私の体験と重なる部分があるからと勧めてくれた本
米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読みました。
内容(「BOOK」データベースより)
一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!
大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
知っている人は知っていると思いますが、
私は、小学2年の夏から3年の夏までの
1年間東ベルリンの小学校に通っていました。
通っていた時期も国も違うけれど、
同じ共産圏の小学校と言うこともあり
自分の小さな頃を思い出さされる内容でした。
著者と同じように私もずっと探している友達がいます。
彼女の名前と彼女が私が日本へ帰ったあと
少ししてから西ドイツへ行ったということしかわかりません。
日本へ帰国した後も、1,2年は文通のやり取りをしていたのですが、
彼女が西へ亡命してからは全く音信不通。
当時、書いた手紙が戻ってきて
もう二度と会えないのか・・・・
と子供心にも悲しかったのを今でも覚えています。
ドイツに私が来た理由の一つに、
昔の友達にもう一度会いたい。と言うのもありました。
でも、14年もこっちで暮らしていると、
そういう気持ちも日常生活と言う中に埋もれていったのですが・・・。
先月、父親が滞在している時に、
別の友だちの苗字を父親が覚えていたので
ドイツの同窓会サイトで私の小学校のクラスメートを
たくさん見つけることが出来ました。
来年のクラス会にはぜひ参加を!
と言われて飛び上がるくらい嬉しい私です。
でも、私の探している友人は依然不明。
その夜、ネットでいろいろと探しているうちに、
ドイツの国際放送事業体でラジオ、テレビ、
インターネットでサービス提供を行っている、
「ドイチェ・ヴェレ」のサイトに
投稿された去年の記事の内容のなかに友だちの名前が
著者の娘として書かれていたのです。
(実は数年前にも何度が探したのですが、その時は見つからなかったのです)
インターネットもこういうときには使える!!!!
おまけに彼の経歴が、
私の記憶のなかで彼女が西に亡命した時期とも一致したので
ドイチェ・ヴェレにそのジャーナリスト宛の手紙と
当時の写真を同封して送りました。
彼が友だちのお父さんなのか、もし違ったら間抜けだな・・・
と考えながら送ったのです・・・
昨日、メールが友達から来たのです。
そう、28年ぶりの手紙の返事。って感じです。
彼女も私の事を覚えていてくれて、
近くの街で服飾デザイナーの仕事をしているとのこと。
昔の事だから、あまり記憶に残っていなかったりするんだけれど...
と言いながらも、私の誕生日会に来てくれたことは覚えていた様子。
私の人生に大きな影響を与えた貴重な1年。
学校に行きたくない日もあったけれど、ちゃんと通えたのも
言葉の出来ない私を助けてくれたJuliaがいたからです。
近いうちに、彼女と会っていろんな話をしたいなと思っています。
今となれば小学2,3年生の記憶も馬鹿にしたものではない。
と言えるのですが、
以前は私にとっての空白の1年間。
そう、誰とも共有できずにいた時間。
たまに、あれは夢だったのではないだろうか?
と考えたこともありました。
だって、当時暮らした国は今はないのですから。
東ドイツ時代の1年間の貴重な体験をもう少し大切に探してみるのも良いかな??
と思った14年目のドイツの夏です。
2-bのクラスメートと。
ドイツ語が上手くない私はもちろん一番前。
みんながピオニアのスカーフをしているのに私とJuliaは私服(笑)
米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読みました。
内容(「BOOK」データベースより)
一九六〇年、プラハ。小学生のマリはソビエト学校で個性的な友だちに囲まれていた。男の見極め方を教えてくれるギリシア人のリッツァ。嘘つきでもみなに愛されているルーマニア人のアーニャ。クラス1の優等生、ユーゴスラビア人のヤスミンカ。それから三十年、激動の東欧で音信が途絶えた三人を捜し当てたマリは、少女時代には知り得なかった真実に出会う!
大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。
知っている人は知っていると思いますが、
私は、小学2年の夏から3年の夏までの
1年間東ベルリンの小学校に通っていました。
通っていた時期も国も違うけれど、
同じ共産圏の小学校と言うこともあり
自分の小さな頃を思い出さされる内容でした。
著者と同じように私もずっと探している友達がいます。
彼女の名前と彼女が私が日本へ帰ったあと
少ししてから西ドイツへ行ったということしかわかりません。
日本へ帰国した後も、1,2年は文通のやり取りをしていたのですが、
彼女が西へ亡命してからは全く音信不通。
当時、書いた手紙が戻ってきて
もう二度と会えないのか・・・・
と子供心にも悲しかったのを今でも覚えています。
ドイツに私が来た理由の一つに、
昔の友達にもう一度会いたい。と言うのもありました。
でも、14年もこっちで暮らしていると、
そういう気持ちも日常生活と言う中に埋もれていったのですが・・・。
先月、父親が滞在している時に、
別の友だちの苗字を父親が覚えていたので
ドイツの同窓会サイトで私の小学校のクラスメートを
たくさん見つけることが出来ました。
来年のクラス会にはぜひ参加を!
と言われて飛び上がるくらい嬉しい私です。
でも、私の探している友人は依然不明。
その夜、ネットでいろいろと探しているうちに、
ドイツの国際放送事業体でラジオ、テレビ、
インターネットでサービス提供を行っている、
「ドイチェ・ヴェレ」のサイトに
投稿された去年の記事の内容のなかに友だちの名前が
著者の娘として書かれていたのです。
(実は数年前にも何度が探したのですが、その時は見つからなかったのです)
インターネットもこういうときには使える!!!!
おまけに彼の経歴が、
私の記憶のなかで彼女が西に亡命した時期とも一致したので
ドイチェ・ヴェレにそのジャーナリスト宛の手紙と
当時の写真を同封して送りました。
彼が友だちのお父さんなのか、もし違ったら間抜けだな・・・
と考えながら送ったのです・・・
昨日、メールが友達から来たのです。
そう、28年ぶりの手紙の返事。って感じです。
彼女も私の事を覚えていてくれて、
近くの街で服飾デザイナーの仕事をしているとのこと。
昔の事だから、あまり記憶に残っていなかったりするんだけれど...
と言いながらも、私の誕生日会に来てくれたことは覚えていた様子。
私の人生に大きな影響を与えた貴重な1年。
学校に行きたくない日もあったけれど、ちゃんと通えたのも
言葉の出来ない私を助けてくれたJuliaがいたからです。
近いうちに、彼女と会っていろんな話をしたいなと思っています。
今となれば小学2,3年生の記憶も馬鹿にしたものではない。
と言えるのですが、
以前は私にとっての空白の1年間。
そう、誰とも共有できずにいた時間。
たまに、あれは夢だったのではないだろうか?
と考えたこともありました。
だって、当時暮らした国は今はないのですから。
東ドイツ時代の1年間の貴重な体験をもう少し大切に探してみるのも良いかな??
と思った14年目のドイツの夏です。
2-bのクラスメートと。
ドイツ語が上手くない私はもちろん一番前。
みんながピオニアのスカーフをしているのに私とJuliaは私服(笑)