”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(124)

2007年08月01日 23時29分02秒 | ビジネス

8月1日(水)晴
梅雨が明けたかと思えばもう8月です。夏は日本人にとってはいろいろ楽しい思い出の多い月ですよね。夏祭り・花火大会・海水浴・盆踊りの各種行事とスイカ・アイスキャンディー・トマト・キュウリ・とうもろこしと言った夏の食べ物にみんな思い出があると思います。
さて今日は先週の約束どおり「中庸」の解説をしていきたいと思います。
少し復習です。「中庸」の「中」とは過ぎたるもなく、及ばざるもなく、いずれに偏ることもない、まさに一番正しい心の状態を言います。また「庸」とは万世にわたって変わることのなく保ちつづけることを言います。従って「中庸」とはいずれかに偏った判断をすることもなく常に正しい心を万世までも保ち続けるための教えを説いたものです。
「中庸」は孔子の孫弟子にあたる子思が記したと言われており、宋の時代に朱子(朱熹)が整理・補足して儒学体系として四書五経の中の一つとして世に知られるようになったものです。
これらの書物が江戸時代に日本に入ってきて、朱子学としてさかんに研究され、日本的な考え方も加味して「武士道」なるものが完成したと僕は考えています。
さてこの「中庸」は第一章で全てを総括して言い、2章~32章で細かく紐解きをして、最後にまとめると言う形をとっているのでまず第一章はよく意味がわからずともきちんと読んでおくことです。
ではその一章とは

天の命ずるをこれ「性」と謂い、「性」にしたがうをこれ「道」と謂い、「道」を修むるをこれ「教え」と謂う。

(人が生まれつき先天的に持っている心を「性」と言い、この天性、自然に従った行いを「道」と言い、この自然に従った天道・人道を修め極め天下の法則としたものを「教え」と言う。)

道は須臾(しゅゆ)も離る可からざるなり。離なるべきは道に非ざるなり、是の故に君子その見ざる所を戒心し、その聞かざる所を恐懼(きょうく)す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕なるは莫し、是の故に君子は独り慎むなり。

(道は自然に備わった天性に従うものであるからいか時も離れることはない。もし離れるものがあればそれは道とは言わない。それ故君子たるもの目に見えない所もあることを戒め慎み、耳に聞こえない所があることを恐れ慎むのである。隠れているものは見えることがないけどやがては露見するものであり、また微細なことは顕著のなることはないが、いずれ外に影響を与えるものである。それ故君子は人の知らないことについても自分独り慎むのである。)

喜怒哀楽の未だ発せざる、これを「中」と謂う。発して皆、節に中(あた)る、これを「和」と謂う。「中」は天下の大本なり。和は天下の達道なり。「中」「和」を致して、天地位し、万物育す。

(喜怒哀楽がまだ発していない渾然とした精神の状態を「中」と言う。この状態の時は生まれたままのどちらにも偏りがない自然の状態です。それが喜怒哀楽の感情が起こると、皆当然の節にかなうのは情の正しさを持って過ぎたるも及ばざるもない状態にすることを「和(か)」と言う。「中」はすべての物の根本となるものである。「和(か)」は情の正しさ、道の方法であり、天下の達道である。「中」と「和」を推し極めることができれば、家・国・天下は安定し、人も物もその生を遂げることができるのである。)

以上が子思が孔子から伝えられた教えの趣意を述べたものである。初めに道の根元が天より出でて、一定不易のものであり、生まれながらにして自己に備わっているもので離れることのできないものであることを明らかにし、次に見えざる、聞こえざる所を独り慎むこと(存養省察)を言い、最後に「中」「和」を推し極めて全てのものが生を遂げることができる(聖神功化)と言っている。この点について儒教を学ぶ者が自分の身によく自覚して、体得し、外界の誘惑に迷うような私欲を去って、善を充実することを願っている。この章は「中庸」全編の意義を総括して、要旨を述べたものである。これ以下の10章はは孔子の言を引用してこの章の意義を補足的に述べたものである。

ここまでが第1章です。今日はここ迄です。次回は孔子の言の引用から参考になる部分をとりながら三達徳、五達道、九経等儒学で言う道の詳細をみていくことにします。

結構疲れます。ここまで読んでくれた人ありがとうございます。
それではおやすみなさい。

それから先週土曜のヨットの写真ができてきました。次回にでも紹介します。

コメント
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