続・トコモカリス無法地帯

うんざりするほど長文です。

読書感想 「乙霧村の七人」

2022-07-10 05:17:07 | 読書感想

去年の読書
「乙霧村の七人」
作者は伊岡瞬て人。

戦慄のホラー・サスペンス、とあらすじにありますけど既にここからトリックが始まっています。
まずは、都市伝説風に昔とある村で起きた惨殺事件を紹介し、現場となった村をへ大学生の男女7人が訪ねて調査に向かうところから話が始まります。ただ、それだけだと昔の2ちゃんオカ板洒落怖スレの肝試しテンプレ話と変わるところがありません。もちろんプロの作家がサスペンスを書く以上、ありがちなスタートからいかに物語をひっくり返せるかが主題であり、これもその変化球を狙った小説です。叙述トリックが仕込まれています。

ありがちな導入から始めて、惨劇のあった村で大学生達がトラブルに遭遇するのが前半の第1部。そのトラブル中に読者に違和感を与えるのが目的のパートです。惨劇の起きた村で、今夜また新たな惨劇が……と思わせて、あれ?これ惨劇じゃないなといくつも引っかかる伏線を撒いています。

本編は参加した大学生7人の側面を掘り下げていき、事件の真相を明らかにする第2部のほうです。ここで見えてくる参加者7名の人物像がなかなかに癖があり、基本的に好ましくない嫌な人物が揃っています。ただし単純に悪人ではなく、それぞれに嫌味具合が違い、傲慢や卑劣、狡猾や貪欲、しかしそれぞれ性格が多少曲がるのも理解できそうな苦労も抱えており、唾棄すべき極悪人ではなく、長所短所が同居する少々情けない小悪人のように書かれています。これらを調査していく探偵役が実は……のトリックもありますが、それは勘が良い読者なら1部で気づいてるネタ。

この小説のひっくり返す範囲はもっと大きいです。しかしそれが物語を大化けさせるどんでん返しとまでは機能しておらず、むしろ狙ったのは物語ではなく読者への疑問提示効果ではないかと思います。
つまり「噂の証言や資料にも恣意が含まれる」そもそも前提の噂は正しいの?という疑問です。よくある典型的な都市伝説の原典にも最初から錯誤が含まれているかもよ。


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読書感想 「終わりなき戦い」

2022-07-03 05:36:08 | 読書感想

今週の読書。
「終りなき戦い」ジョー・ホールドマン著。

50年くらい昔のSF。有名な「宇宙の戦士」と同様に、パワードスーツを着て異星人と戦う物語なのだが、作者がベトナム戦争に参加した経験をもとに書いてるそうで、実際ハイテク兵器の設定や、SF戦術の描写はあるものの、全体的に個人の判断と行動だけではどうにもならない状況に巻き込まれて悩む、スケールの割に等身大な個人の苦しみの物語に収まってます。戦況は目まぐるしく変わり、劇中時間は2千年もかかる大規模星間戦争なのに、その中で周囲の変化に戸惑い、孤独に悩み、それでもやれる努力は尽くし、若干の諦観を漂わせ、どこまでも主人公の内面をしっかり描いており、視点のブレない長さのわりに読みやすい物語でした。

最初こそ、パワードスーツを着た戦闘技術訓練や、初の敵宇宙人と遭遇し接近戦に入ったり、SFバトルアクション要素がありますが、戦争規模が拡大するにつれ一介の歩兵である主人公の意図を超えた戦況に巻き込まれ、中盤からは輸送機内で敵ミサイル回避中には結果を待つだけの手持ち無沙汰感や、帰還後にも仕事に就けず生活が難しい現状など、状況に対して受け身にならざるを得ない主人公の悩みが続きます。それが退屈かといえば、まったくそんなことはなく、主張の少ない主人公ながら目先の状況にできるかぎり最善を尽くそうと努力します。それは敵を倒して戦争に勝つぞ、という戦意高揚の努力ではなく自分の生活や正気を維持したいという、ごく個人的な小さい努力ですけど十分共感できるもので、逆に50年前冷戦バリバリの時代に戦争と兵士の物語でありながら、こんなに肩の力が抜けた主人公が成立してたことに驚きました。

1974年のSF戦争描写ってもっとこう「戦え!負けるな!勝利を掴め!今だ必殺ウルトラスーパーミサイル光線!」みたいのを想像してました。ところが、この主人公は劇中終始一貫してずっとセックスのことばかり考えています。では頭の中が性欲でいっぱいのスケベ野郎なのかというと、むしろ逆で淡白なくらい普段の言動も思考も落ち着いてます。セックスの悩みなのは違いないけれど女性と性交したくてモテたい悩みとは違いました。2020年も過ぎた現代では性別だのジェンダー論だのが紛糾した挙げ句に混乱して、もう異性との駆け引きとか無駄なコストなので、避けれるならば避けたい事象になりました。でもこの小説内では社会における男女の役割と立ち位置は重要で、劇中でも古代人に入る20世紀生まれの主人公は、社会における男性のポジションを果たすことで所属意識を保つ考え方をしています。もちろん男女で立場も役割も違う頃に生まれ育った人間なので、意識の根本ルールとして「自分は男性であり女性と向かい合って対になって生活する」のを念頭に置いている様子です。しかし長大な物語時間の中で社会は変質し、男女差は両者を隔絶し、性愛は生殖と切り離され、出生は社会システムによって管理され、男女のあり方などまったく意味を成さない世界に取り残されてしまった主人公は、終始セックスによる社会への向き合い方を捨てられずに悩みます。つまり自分は男である、と当然の認識を持ち、男として生きるつもりだったのに、男女性差が消えてしまいアイデンティティが保てなくなってしまいました。肩の力抜いて紳士的な振る舞いしようにも「そういうのいいから」と払いのけられる状態です。彼の場合はセックスに代表される性差が社会の根本にあったので、セックスの悩みとして描かれているのだけど、これは帰属意識とアイデンティティの問題です。自分も人格形成を支えている文化基盤を全部取っ払われて、ゼロから知らない社会に馴染むしかない状況に置かれたら相当に苦しむだろうことは想像出来ます。

だからSFや戦争のモチーフを通して、なんとも頼りない自己のあり方に悩む姿は普遍的な物語として、50年近く時間が経った今でもすんなり共感理解のできる作品に仕上がっています。最初にあらすじから期待した内容は、パワードスーツ+ベトナム戦争の泥臭く血生臭いメカバトル要素だったのだけど、実際読んでみると想像したものとは大きくズレた内容でした。中盤からはよくわからない戦況をよくわからないまま生還し、自分の働きなどまるで戦果に寄与しない末端兵士が翻弄される話でしかないのですが、それでも彼は最後まで生きて帰ることを諦めないし、社会の男であることも止めないし、ラストはハッピーエンドで終わるのでキレイな読後感で終わりました。


それはさておき、この物語は壮大な異星間戦争が舞台ですが、敵異星人「トーラン」の記述があまりに少なく敵の姿が見えないため、パワードスーツを着込んだメカニカルバトルアクションを期待すると肩透かしに遭います。SF戦争に必須成分「戦闘メカVS宇宙モンスター」要素が全然足りません。読んでもさっぱり摂取出来ません。しかし作者の筆力が高いので、主人公が陥る普遍的な悩みに引き込まれてしまいます。

ちなみに戦争相手の異星文明種族「トーラン」という呼称は、地球の移民船が牡牛座アルデバラン星の近くで何者かに破壊される事件が起こり、どうやらその辺りに敵対的な異星文明がいるらしいことから牡牛座「(トーラス)のアルデバラン」星人を略してトーランと名付けられた、はるか遠くに居る、姿はさっぱり見えないけれど事件痕跡から推定される曖昧模糊とした存在で、物語序盤ではまるでイメージできないぼんやりとした敵です。ぶっちゃけ対戦相手としてのキャラクター像がまったく出来ていません。そりゃあ戦意も盛り上がらないよ。そもそもいるの?そんな奴と疑うほどに漠然としています。

そのトーランとの第一次接近遭遇と初戦闘では、何もかもが初遭遇のためトーランについての解説がほとんどありません。容姿としては、大きく膨れた胴体と大きな骨盤が細い腰で繋がっており、腕も足も細長く、頭は首がなく胴体から直接盛り上がってる形状で、目は魚の卵塊のよう、鼻の位置には房状の塊、口は喉より低いところに穴が空いてるだけで、衣服を着ている様子はなく性別もわからない。シャボン玉のような透明な球体で身体を覆い、乗り物や防護服のように使います。しかし負傷すると赤い血のような液体が流れて死にます。身体構造や科学技術体系に違いはあれど、人間と撃ち合い斬り合いが成り立つほぼ同サイズの種族でした。劇中描写を読む分には容姿や行動に共存不可能な凶暴生物としての記述が薄く、初遭遇では生態や主義主張がまったく不明なまま戦闘に突入し、一方的に殲滅して人間側が勝利しました。そして本編でのトーランの生態に関する記述もここでほぼ終わります。

以降、トーランと主人公が互いに視認できる状況での戦闘は長期間にわたり発生しません。光速で飛ぶ宇宙船で移動する間に数十年、数百年、主人公が冷凍睡眠している間に戦線はどんどん拡大し、移動中にミサイルを撃って撃たれて回避と撃沈が宇宙のそこかしこで起こり、歩兵の主人公が出る幕はありません。敵のミサイル回避は宇宙船操縦士とコンピュータに任せて、命中しないことを祈りながら加速シェルに潜り眠ることしか出来ません。宇宙戦争バトルシップアクションなどまったく期待できません。そして初遭遇時はシャボン玉に入った全裸宇宙人でしかなかったトーランは、宇宙空間での撃ち合いならば恐るべき強敵です。何せ姿はまったく見えず、広域に展開した観測機からこっちに向けて撃たれたミサイルの数と到達時間が知られされるだけで、戦ってどうにか出来る状況でもありません。ただ祈り耐えて待つだけの時間。これキッツいわ。

そして冷凍睡眠から起きれば、また時間が数百年も経っており、社会の仕組みも技術も大きく変わり、主人公はさらに悩み始めます。退役軍人の社会復帰もままならず、主人公は不本意ながら軍隊に戻りました。もう周囲に同期の友人知人は1人しか残っていませんが、その友人とは別部隊に配属されました。そしてまたもや冷凍睡眠に入り、互いに別の遥か遠くの星へ飛ばされて行きます。ウラシマ効果で寝ている間の数日が、実時間では数百年の時差になります。再会は絶望的です。

最後の戦闘場面は、サード138という縮潰星からさらに数ヶ月かかる惑星での基地建設中に起こります。縮潰星(コラプサー)ジャンプというブラックホールを利用した宇宙航行技術で数値的に意味不明なほど遠くの星へ行き、そこでトーランの襲撃を警戒しながら基地をこそこそ建てる作戦ですが、やはりここでも怖いのは宇宙船からの爆撃であり、トーランの顔など見えません。主人公はパワードスーツを着込んで基地建設と上空警戒の指揮を執ってます。書類上の従軍期間がとんでもない長さなので、戦争初期から生き残ってるだけでも昇進してしまいました。戦場で活躍してる場面は全然無いのだけど同期はとっくに戦死か寿命で誰も残っていません。そして周囲の新兵達は全員が同性愛者です。冷凍睡眠で眠っている間に人間の社会は激変しており、出生は管理され異性愛は不安定な要素として排斥されています。20世紀生まれのノーマルでヘテロな主人公は大変に悩みます。自分の学んできた社会での男性の立ち振舞作法が一切通用しません。変わらないのはトーランだけだよ。奴等はこの時代でも相変わらず恒星間長距離ミサイルを撃ち込んで来ます。

しかし、この時代の戦闘は科学技術が進みすぎて意味不明です。停滞フィールドという爆弾もレーザーも止まる空間を作り、それに入ると人間もトーランも死ぬので、停滞フィールド防御服を着た兵士が刃物で殴るという末期的状況です。それでも近接白兵戦は停滞フィールドを持ち出す前に、まず惑星破壊爆弾や防御レーザーやタキオンロケットを撃ち合って、おおよその物体がなにもかも消し飛んだ後の残存兵力が最後に使う戦術らしいです。大抵の人員は星々の向こうから飛んでくる惑星破壊ミサイルで、宇宙船や基地ごと一瞬で吹き飛ぶ戦争です。個人の才覚でどうこう出来る規模じゃないのよ。

しかし最終戦は基地占拠を狙ったトーランの歩兵部隊が殺到してくる泥沼の白兵戦です。防衛システムは焼き尽くされ、基地もミサイルの爆発エネルギーによる地震で崩壊しました。主人公は残存した兵士を停滞フィールドのドーム内に避難させました。この中には外からの砲撃爆撃の一切が止まるけど防御服無しでは生きられず、外への視界も効かないため状況も把握できません。しかし刃物は通るんだよ。外部の見えない灰色のドームに上からダーツを投げ落とす攻撃が2度、そしてドームを囲むように並んだトーランが、盾と武器を手に構えて一斉に雪崩込んできました。あとはもう乱戦乱戦また乱戦。50人いた生き残りも20人ほどまで減ったけど、その数倍のトーランの死体の山が出来たころに敵部隊は撤退していきました。そして散発的なダーツ投下攻撃はあるものの、トーラン側に大きな動きがありません。周囲の状況がわからないので停滞フィールド外へ鉄の棒を出してみると、手元に戻した棒の先は溶けて無くなっていました。つまり停滞フィールドの外は爆弾で焼かれた灼熱地獄になっています。トーラン側は周囲を焼きながら持久戦の構えです。どうしようこれ。

実は停滞フィールドは持ち運び可能です。防御服を着た人間が4人くらいで担げばフィールド発生機を移動させることが出来ます。そこで主人公は「新型爆弾時間差爆破作戦」を考えました。フィールド内にあった戦闘艇から新型の超強力な爆弾を取り外し、停滞フィールド内で起動状態にして爆弾を置いたまま、自分達は停滞フィールド発生機を抱えて移動する。停滞フィールド外に出た爆弾は爆発し周囲で待ち構えているトーラン達を一掃するだろう。するかもしれない。灰色の停滞フィールド内から外部は見えないので博打戦術ですが、他に使える策はありません。

では作戦決行、フィールド外に出た途端に爆弾は大爆発し停滞フィールド内も一瞬変な色になったけれど、概ね狙い通りに行きました。後は爆発の熱が冷めるのを停滞フィールド内で待つのだが、計算としては6日ほどかかりそう。6日間休み、試しにフィールド外へ出した鉄棒は溶けることなくそのまま戻ってきました。トーランは去ったのか。停滞フィールド発生機のスイッチを切ったところでこの戦闘の記述は終わりでした。

結果から言えばトーランは撤退しており、主人公は仲間を連れて残った戦闘艇に乗り本隊へ帰還します。
確かにSFギミックあるけど、トーランの宇宙人的描写があまりに薄いです。容姿に若干の異形部分がありますが、両手両足等身大と身体構造が人間とかわりません。しかも使う道具は、シャボン玉状の外見差異があれど、防御服に宇宙船にミサイル、近づけば盾と刃物と打撃棒、と人間と同じ動きをします。作者がベトナム戦争従軍経験をもとに書いた小説ですが、トーランてのはそのまま北ベトナム軍とソ連軍がモデルでしょう。劇中では人間とトーランの終戦協定が結ばれた後に主人公達が2百年以上の時差を経て帰還して終わりますが、主人公は最後までトーランという存在の思考を理解できずに終わります。トーランてのは他所の星で生まれた自然発生のクローン生物で、個体差が無い種族らしく、人間側もクローンが社会の維持管理を行うようになってから両者の理解が進み、ようやく戦争が終わったとあります。最初から個人では何も解決できない出来事ばかりの物語です。

では個人なんて無力、洗練された管理社会礼賛の物語かといえば、作品テーマは真逆で主人公が悩んでもがくだけでは足りないけど、そこに他者とつながる気持ちが少し足されると良いことありますよ、とキレイに締めくくられる収まりの良い話です。伊達に賞を3つも取ってません。主人公は作中通してずっとセックスに悩み続けているのに、性欲の生臭さや下卑た下心といった下半身事情はまったく無くて、性別を通して自分が社会と向き合う姿勢を真剣に考え続けてる印象が強いです。決して20世紀的タフガイ・マッチョ型の人物じゃないし、状況に流され続けても自分を見失う場面が一切無かったので、強いカッコいい頼りになるヒーローキャラでもないけど、悩みに押しつぶされる弱さもなく、一見中庸に見えて意外に芯が強く、なんとも捕らえ所のない主人公です。

SFを期待すると薄味、戦争を期待すると流れが見えず、主人公の活躍を期待すると能動的行動が少ない、それなのに全体を通して読むと壮大な宇宙戦争の中で、誠実に強かに懸命に生きる主人公の姿が見えてきます。通して読むと見えてくる主人公は苦境逆境の連続なのに、強く自己主張をするでもなく諦観すら漂わせているのに、どんな激戦の中でも常に理性的でした。
だからこれは凡人の偉大さを書いた物語に思えます。凡人なのかな?理性は凡人の誰でも備えてるものでしょう。それが無い人は粗暴や幼稚と呼ばれる低い枠で凡人には含まれないと思います。

 


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映画感想「N号棟」

2022-06-12 21:21:34 | 映画の感想

映画「N号棟」を観てきました。しかしたいへんに期待外れの内容だったので、ここに感想を書き捨ててしまおうと思います。もちろんネタバレ全開です。

これミッドサマーじゃん。ミッドサマーみたいな話を邦画でやろうとしたけど、変なカルト集団の話だけでは客への訴求力が足りないと考えたのか、前宣伝はかなり盛っています。
その事前宣伝と紹介文句では「2000年、実際に起きた…幽霊団地事件~云々~が、その裏で本当は何が起きていたのか?」等長々と書いてあり、劇中に起こりそうな奇怪な事件を匂わせていますが、本編では幽霊要素も実話要素も極小フレーバー扱いでしかありません。ぶっちゃけ物語内容にほとんど関係しません。廃団地現場に行くと早々に怪しい住人達と遭遇し、そのまま妙に馴れ馴れしく画一的に親切な集団に取り囲まれ、あとはなし崩しに彼らのペースに振り回され続け、最後には取り込まれて死ぬ話。ミッドサマーじゃん。終盤に全員が同調して大声で泣き叫ぶのも同じ。ミッドサマーじゃん。

初っ端からケチつけるのは他作品に似過ぎているから、だけが理由じゃないけれど、少なくとも話題作だった「ミッドサマー」を先に見ていたら、本編の内容予測は早くに出来てしまうし、その予想を超えるオチでもないので、ここは個人的な低評価要素の一つです。

私が大きく不満を感じた期待外れの主な理由は、事前紹介の品書きと本編内容の食い違いです。この映画に興味を持って公式サイトに見に行けば
「2000年、実際に起きた…幽霊団地事件」
の前振り文がデカデカと真っ先に目に入ってきます。そこで私が期待したのは、

・幽霊団地と呼ばれる程に頻発したらしい過去の超常現象の謎
・それが解決できないまま、廃団地と化すまでに住人を襲い続けた怪奇エピソード
・現在の視点から情報を統括した調査による異常事態の謎と原因の究明

つまり日常世界とは違う超常現象が起こる異常事態の法則を調べ上げ、恐怖の原因を突き止め、それらを解除、もしくは回避手段の発見へ至る、未知の危険へ対処法を探る展開でした。サイトにも「考察型体験ホラー」と書いてあるのだから、深く緻密な構造で作られてると期待するじゃない。しかし、そんな展開はぜんぜんありませんでした。私の期待は一つも応えられませんでした。

少しばかりの超常現象は起きるけれども、それより周囲に居並ぶ不気味な人達をどうにかする方が先決です。この映画で最大の欠点は「超常現象よりも狂った人間が怖い」物理的な恐怖優先なことです。そんなん知ってるよ。音や影の遠まわしな雰囲気で不安を煽るお化けより、包囲圧迫してくるキチガイカルト集団の方が、直接物理攻撃で襲ってくるから単純に危険度は高いんだよ。でもそれは現代日本舞台じゃ警察に通報して解決する話なので、興味をそそる謎と不思議には繋がら無いんだ。サイコホラーも恐怖ジャンルの一種には違いないけど、幽霊団地と超常現象の謎にはかすりもしない、迷惑人間に困らされるだけのリアクション芸なんだ。

だからというか、映画序盤で主人公たちが廃団地に乗り込んだはずなのに即住人と遭遇、あとは怪しげな住人がわらわらと出てくる時点で、無人の廃墟が時間経過によって醸し出す独特の薄気味悪さなどすぐに消失してしまいました。そして団地住民たちの妙に統一された生活用品と白衣装は、明らかに閉鎖的なカルト宗教を思い起こさせる出で立ちで、ぶっちゃけオウム真理教くさいです。あの激ヤバカルトを彷彿とさせる集団などと、まともに会話しても真意など掴めません。カルトの勧誘は大抵わかりにくい言い回しで翻弄し、獲物を捕える時だけ危険な素が出るものですが、既にオウム事件も風化しつつあるからか若い主人公達は優柔不断に相手のペースに飲まれて、ビビりっぱなしのくせに危機管理意識などまるで無く、唯唯諾諾と相手の言い分を聞いて行き、たった一晩で3人中2人が籠絡されてしまいます。いや、こういう真の目的を伏せたままにこやかに近付いて来る、カルト宗教やマルチ商法の集団にアウェーで立ち向かうのは実際かなり不利で難しく、恐怖には違いないが、そういう生々しい対人トラブルの恐怖を求めて観に行った映画じゃないんだよ。幽霊・心霊・超常現象、完全に人外の怪奇要素を摂取したくて観に行ったんだよ。

わりと早いタイミングで、これは「人が怖い」系映画だと気づいてしまったので、あとは尺稼ぎにしか感じませんでした。それでもまだ事件の根本原因には怪奇現象が係わってるかもしれないから、希望を捨て切ってもいませんでした。しかし終盤に主人公が逃げ込んだ先の部屋で椅子に座った謎のミイラを発見します。このオチはサイコじゃん。ヒッチコックの。いくらなんでもネタが古過ぎるだろ。令和の映画なのに20世紀の古典映画と同じもん出すのかよ。制作の感性古過ぎるだろ。こんなの一周回って新しいなんて解釈すらできません。もう五周くらい回って味がしないネタだよ。そしてミイラ発見した直後にカルト親分が登場して教義解説を始めます。せっかくミイラという怪奇アイテムが出たのに即狂人演説フェイズに入り、謎のポルターガイスト現象は狂人の背後で騒ぐ賑やかし役でしかありませんでした。観たいものは観れず、知りたいことは知れず、期待していない奴らばかりが前面に出てきて、へたくそな新人勧誘場面ばかりが続く展開に、見ている最中ながら気分は盛り下がる一方でした。久々に掴んじまった「これじゃない感」こんな映画に誰がした。

個人的に感じた制作側のやらかしは、内容と不一致な虚偽宣伝だけに限りません。元々の内容が「廃墟に行ったらカルト集団に遭った」だけの1行で済む極薄のため、前半では主人公達の過剰に軽薄な会話が多く、現場に到着してからも軽薄会話が続き、それらは些細な物音に大げさに驚く場面の前振りになるのですが、あまりに何度も驚く場面が頻出するため、物語が動き出す前に気分が冷めてしまいました。ホラー映画の大きな音で驚かす手法は「そもそも大きな音は強い刺激だが恐怖ではない」と、これも古いやり方と揶揄される風潮が20年くらい前には既にありましたが、この映画では未だに多用しています。全体的に感性が古い映画です。古いだけならまだしも使用法が稚拙です。序盤からあまりに多用するもんだから、中盤に差し掛かった頃には見ていて疲れてしまいました。仕組みはわかるけど、急な大きい音声てのは単純に神経へ負担がかかるので、何度も鳴らされると疲れるのさ。だから序盤の虚仮おどしに乱発したせいで、本筋が始まった頃には耳が麻痺して聞き流すモードになっており効果が大幅に減少していました。

そして演者の驚愕演技も大袈裟過ぎました。怖い場面でも他人が余りにビビる姿を見ると、逆にこちらが冷静になってしまう相対効果が悪い方向に出ています。自分のギャグに自分でウケて笑う人の話は聞き手が冷めてしまうとも言われますが、これも同様の自分のホラー描写に自分でビビる人に見えます。いわゆる自画自賛タイプ。つまり何も起きてないうちから音演出と過剰演技を乱発したせいで、本筋に入った頃にはすっかり慣れて飽きて冷めていたわけです。見せ方がワンパターンなんだよ。

なので前半部分に食べたくもない調理法のホラー要素を食わされてしまい、後半に入っても味付けが変わらず、せめて口直しのデザートを欲しつつも、映画は終了まで好みの味付けに変わることなく進んでしまいました。

そもそも開始冒頭で画面に「タナトフォビア」と文字が出ます。日本語に直すと「死恐怖症」
主人公はこのタナトフォビアであり、死ぬのが怖くて夜も眠れないほど常に怯えて生活していますが、私にはタナトフォビアの素養が皆無なため、主人公の恐怖がさっぱり理解も共感もできませんでした。死ぬのが怖いんだって。じゃあ不老不死になりたいのか?というほど突き詰めた執着も見えず、なんとなくふんわりと死ぬのが怖いファッション・タナトフォビアぽいです。自分一人だけが何時までも死ねない終わらない不老不死生活の方が怖くないですか?私は怖いです。なので見ていて主人公にまったく感情移入できませんでした。

というか、この映画の描く恐怖描写は普遍性に欠けています。ビビるべき時には鈍く、平常時はパニクってばかりの彼らが遭遇している恐怖は、まわりくどい干渉をしてくる狂気集団のせいばかりではなく、もちろんほぼ無害な怪奇現象のせいでもなく、彼ら自身の愚鈍さに由来する結果であり、常人の意志判断力と危機管理意識があれば容易に回避できる事態であり、一般的恐怖と看做すにはいささか危険度が低すぎると思います。逆に言うと、主人公達はこの映画舞台のような「元幽霊団地と呼ばれた廃墟」という特殊環境を除き、日常内でも同様のカルト宗教やマルチ商法の勧誘に遭遇した場合でも、やはり取り込まれて身の破滅を迎えていただろう人達です。目先の不安へ向き合わず、不審人物相手に断ることも出来ず、判断と行動を先延ばしてばかりの人物に相応の最期を迎えただけの話です。

これ一番怖いのは主人公達のゆるい頭じゃないのか。環境のせいにしちゃいけないわ。だって主人公達は明らかに怪しい外敵には弱腰で唯唯諾諾と流されるだけなのに、仲間内だと互いに煽ったり貶したり盛ったりとやりたい放題言いたい放題なんだよ。外敵に弱いくせに内部のマウント取り合いは熱心なんだよ。だめじゃん、自業自得やん、こんなの。ホラー映画の序盤で無残に死ぬタイプのいけ好かない若者が最後まで出番引っ張るんだよ。誰視点で観ればいいのさ。ムカつく若者を死なせる犯人側視点もカルト集団の時点で難しいです。少なくともぼっちの私には難しい。カルト仲間と一緒に友情・努力・勝利を目指す物語になっちまうじゃないか。そういうの摂取したい時は素直にジャンプ漫画でも読みます。ホラー映画に求めていません。

ここまでボロクソに貶しましたが、当然優れた点もあります。廃墟舞台のホラー映画に付き物の「画面が暗過ぎて何が起こっているのか見えない」問題がありません。夜間POV視点の画面がぶれて見づらい場面はありますが、それもあえて見づらいPOVとして撮っており、不安と不気味さの前フリに使うためわざと画面を乱す演出です。どちらかと言えば画面より台詞で恐怖を煽っていくスタイルであり、人物間のやりとりは過不足なく、観ていて状況理解しやすい良く練られた内容でした。最初から狂気の集団による物理型サイコホラーとして宣伝していれば、自分もそれに合わせた気構えで観れたはずです。世間には不意打ちのような予想外の展開を喜ぶ客層が居るのも知ってますけど、少なくとも自分は違い、戸惑いから気分を立て直すのに時間がかかるタイプなのでこの映画は合いませんでした。

もう終盤に差し掛かろうかというあたりで、ようやく主人公が能動的に動き始めます。仲間はカルト側に取り込まれてしまい、もう誰も頼れなくなったため、深夜に自分一人だけでも脱出を試みます。しかしステルスミッション開始かと思いきや、照明を手に持ったまま明るい広場方向へ向かって行きます。夜の闇に身を隠して移動するどころか、敵陣ですげー目立つ行動を取ります。しかも寄り道しやがる。少し離れた場所に小さい別棟があり、そこへ用もないのに入っていました。そこでは医療施設のような設備があり怪しい男が遺体を分解作業している様子でした。また突然のジャンル変更、バイオハザード等のSFホラー系へ。もうこれ幽霊と全然関係ないよね。廃墟である必要もないよね。そしてアクション開始、主人公は遺体損壊男と戦って勝ちました。しかし増援に囲まれカルト集団に再度囚われてしまいました。脱出するんじゃなかったのか。なぜ寄り道したのか。なぜ戦っちゃったのか。主人公の行動が全然理解できない。

そして映画は主人公がカルト側に取り込まれ、元仲間を殺し、自分で自分の腹を刺してカルトリーダーおばさんに褒められながら死んでいきました。それから外出すると、入院中の母も死なせ、団地廃墟に住みつくお化けの仲間入りして終わります。最後の場面で真っ赤な服を着て廃墟の一室に佇む主人公はまともな人間には見えません。そもそも廃墟の住人達も死人の群れだったのでしょう。劇中はっきりと言及しないし、昼間っから皆でわいわい騒いで暮らしてるから錯覚するけど、生活インフラの無い廃墟で集団生活のインフラが維持できてるわけがないです。あれは死人の生活ごっこであり、供された食べ物も死人の食べ物でしょう。やたら陽気に食べて食べてと推してくる中身の見えないコップに、主人公達が口をつけるまで全員が凝視して様子を窺がってるのは、ヨモツヘグイだからだと思いました。ヨモツヘグイてのは死者の食事を生者が食べると生きて帰ることが出来なくなる呪いの一種です。

だから物語をまとめると、大学生3人が曰く付き廃墟へ向かい現地に巣食う死者の群れに取り込まれてしまった話、となります。大まかな本筋だけを抜き取ると、なんとも気味悪くおぞましい話なのに、死者のとるアプローチ方法が死人であることを隠し、馴れ馴れしいカルト・マルチ商法のような勧誘を仕掛けてくるため、気味悪さの質が違ってしまいました。最終的には心霊現象に行きつきますが、そこへ至る過程は全部カルト集団との対人トラブルとして描かれており、超常現象怪奇ホラーを期待して見に行くと、実際の内容は狂人サイコサスペンスをお出しされてしまい大きく肩すかしを喰らいます。最初の宣伝は良かったし、撮影方法も上手かった。画面的な問題はまったく無いけど、本編の物語展開だけがネックとなり終始違和感をぬぐえず、物語に乗り切れなかった映画です。

つまり脚本が悪い。

スタッフロールが流れ始めても、すぐには席を立たずに画面を見ていました。戦犯たる脚本担当者が誰なのか確認するためです。しかしなかなか出てきやしねえ。ひょっとしてもう見過ごしてしまったのでは、と疑問が出かかったあたりで、スタッフロール最後に「監督・脚本:後藤庸介」とありました。監督も兼任かよ。こんな映画に誰がしたのかわかりました。この人物が最高に雰囲気ある心霊ホラー設定を、狂人トラブル物語で潰してしまった張本人です。脚本・監督を占めてるてことは、映画も最初から徹頭徹尾この内容で製作してたわけで、宣伝文句に騙された私が浅はかでした。私は考察型と相性悪いんだ。今後に邦画ホラーを観る時には製作スタッフを確認します。この人の名前があったら宣伝文句と内容に乖離があるので、その映画には注意します。

これが明らかに稚拙なアイドル頼りのしょぼいホラー邦画だったら、こんなに不満も感じなかったんだよ。最初から「隔離地域で狂気カルトに襲われる映画」を期待して観に行けば、むしろ高評価だったかもしれない。観客に見せる情報量整理は巧みに構成されてるから、過不足無く物語が頭に入り理解できる。考察型にありがちな散漫な伏線未満バラ撒きは殆どないから、設定も物語も良くまとまってる。途中で期待ジャンル違いに気づいて、脳内の鑑賞態勢変更しながらでも話について行けたからな。だから結論は「ジャンル違いの不幸な出会い」です。私が劇場代金払って期待していた内容は、怪奇現象の因果解明であって、対人トラブルの悲劇じゃなかったからです。


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怪獣ソフビのトラウマと克服

2022-05-19 05:21:43 | 収集物

怪獣ソフビを買い集めて20年くらい経ちました。古いビンテージやレア物の類には関心無く、その時期ごとに普通に店頭で売っていた怪獣ソフビをちまちま買い続けて、有名所はだいたい手元に揃いました。安価で頑丈、子供玩具の代表だと思いますが、自分の幼少時は欲しくても買えなかった商品でした。値段の問題じゃなく、バカな子供だったので売り場がわからなかったためです。親に「玩具買ってやるから欲しいの選びなさい」と言われたものの、たまたま別コーナーに紛れていた怪獣ソフビを見つけ、そのまま違うコーナーを探し続け、結局同シリーズの他怪獣を見つけられず、別玩具で妥協した後で怪獣ソフビ売り場を発見し大変な後悔したものの、親相手に泣いてゴネることもなく自分の視野狭窄を強く反省しただけでした。親の出した条件に落ち度はありません。自分がもう2コーナー隣を探していれば望みは叶っただろうに。以降の私は狙ったモノを探す時には執拗に調査探索を重ねるようになりました。物欲児童は痛い目を見て学びました。

生まれる前から既に怪獣映画や特撮TV番組があった世代のため、本来なら物心付く前から派手な絵面で暴れる怪獣デザインを見ながら育つはずでした。しかし、そうはならなかったんだよ。実はそうした映像作品に慣れ親しんだ幼少時ではなく、むしろ遠くから怪獣の姿を眺める機会にすら恵まれない貧しい環境でした。ビデオ普及前だったし。
怪獣映画はどれもとうにシリーズ終了しており、そもそも映画を観に行く習慣など無い家庭に育ち、TVのチャンネル選びは親が決め、手元に怪獣本1冊すら無く、幼少時の自分には「見えないほど遠くにある格好いい姿」として好奇心を強くそそられながらも、アクセスしようのない漠然とした憧れでした。自分よりも年上の世代が熱狂したらしき遠くの最先端ジャンルだと思っていました。要は特撮やSFXといった派手な映像に強い飢餓感を覚えながら過ごしていたわけです。どうせ見るなら、そこらにいる人間の顔ばかりのドラマよりも、架空の異形がありえない大暴れをする映像を見たいというシンプルな欲求です。

そんな文化的素養の貧しい幼少期のある日、友人宅へ遊びに行った時のこと。その家の庭の一角に砂場があり、そこには無造作に怪獣ソフビがいくつも放り出してありました。いやいくつもどころじゃなく、大量にありました。今の知識だとわかるのですが、当時「キングザウルス」という怪獣ソフビ商品が展開中でした。当時の最先端。それがわんさかと屋外砂場にある。幼少時の私は怪獣成分に飢えていました。めったにお目にかかれない貴重品感覚でした。それが大量に砂場で屋外遊び用に置いてある。いわば天然ジオラマ環境で遊び放題なわけで。それを見た当時の私が受けた衝撃の大きさたるや、子供が絶句して動けなくなった程です。しかも、その友人はどちらかといえば活発なスポーツ少年で、怪獣TV番組になど普段はほとんど言及しないタイプでした。

自分が強く憧れ欲しがっていた対象が、相手にとってはスポーツの片手間で嗜む程度の物だった、そんなふうに感じて、なんだか敗北感を受けました。当時の自分には数個の小さな怪獣消しゴムすら貴重な怪獣グッズで、ソフビなど遥か彼方の天上アイテムな感覚でした。それは育った家庭が際立って貧困だったわけではなく、単に子供に厳しかっただけで、特に子供が強く望む物ほどあえて遠ざけ与えない傾向がありました。私の親世代は何かと「ハングリーさを持て」と謎の精神論を掲げ、無意味に子供へ抑圧的な養育したがる傾向がありましたが、自分の家庭内ではそれが特に強く、子供に夢中になる物を与えると耽溺して他が疎かになるから禁ずる、というのが理由でした。おかげでこちらは飢餓感と執着を一生引きずる羽目になったのだから、親の養育方針は大失敗だったと言えます。

それはともかく、その時に自称怪獣大好き貧困児童が片手間怪獣コレクターへ謎の対抗心を燃やしたことは事実で、自分は早速口先マウント取りに行きました。
「すごいねー、何体くらいあるの?」
「数えたことないなー」
「レッドキングはある?」様子見開始
「あるよ」
「じゃあゴモラは?」軽くジャブ


「あるよ」
そのへんからひょいと取り出して見せてくれます。
では少し変化球を入れて牽制だ。
「ギャンゴやケムラーは?」
「あるよ」
「アーストロン、サドラー、ノコギリンは」別作品に切り替えて


「あるよ」
「ベロクロン、バキシム」さらに別作品で


「あるよ」
またも砂場のあちこちから拾い上げて見せてくれました。
これは手ごわい。TV番組出身だけじゃダメだな。だが映画作品ならどうだ。
「ゴジラはある?」


「あるよ」
「ガイガンやメカゴジラは?」さらに捻ります


「あるよ」
ウルトラだけじゃなくゴジラも抑えてるのか。ならば
「ガメラはあるの?」こいつは制作会社が違う映画だ、円谷系列じゃないはずだからさすがに無いだろう。


「あるよ」
なんであるの……もうだめだ。私の小さな意地張りマウント取りは何一つ通じず、木端微塵に砕かれました。持てる者と持たない者の圧倒的かつ絶望的格差を思い知りました。

そして思い知ったのは敗北感だけではなく、自分の作りたい箱庭の具体的な理想像でした。そこで私は先ほどまでの意地張りなどすっぱり捨てて、普段遊ぶ機会のない怪獣玩具ブンドド遊びを満喫させてもらいました。

でもその後に友人宅に行く事はほとんどありませんでした。あの楽しい庭は友人の物であって、自分の庭じゃないから。自分にとっての、さらにもっとこうしたいああしたいという欲求をかなえる場所じゃないから。その頃に、自分が大人になったら自分だけの庭を作って、好きな物を好きなだけ揃えて並べて存分に遊ぶという目的が出来ました。小学校低学年だった当時の強烈な敗北感、口先だけで名前を並べる行為が、現れる実物に尽く跳ね返される圧倒的な存在感。当時の私は確かに全力で立ち向かったのです。それらの映像文化に触れる機会の乏しい子供が、必死に知識を貯め続けてきたけど、元資本が違い過ぎてまったく対抗できませんでした。そして自分が井戸の中の蛙どころかおたまじゃくしですらなく、隣にいた蛙はすでに大海を泳いでいたことを思い知りましたが、そこで生まれたものは敗北や屈辱よりも、さらなる大海への憧れと期待でした。
おかげで現在に至るまで私は完全にインドア人間で、相変わらず怪獣玩具を買い漁っては部屋に並べ続けているのですが、仕方ないだろう。まだ10歳にもならないうちに圧倒的な敗北と目指す希望を同時を得てしまったら、ショックで性癖が多少ひん曲がる執着が生まれるのはむしろ当然のことだと思います。

それで今の自室には幼少時の自分が見たら驚愕するようなメンバーが並んでいます。ウルトラ怪獣と東宝・大映怪獣が競演状態です。怪獣ソフビに関心が無い人達にはピンと来ないでしょうが、初期のウルトラ怪獣と映画怪獣は商品サイズが違いました。値段も旧ウルトラ怪獣シリーズが700円統一サイズだったのに対し旧映画怪獣は2~3千円ほどの大型サイズでした。そして現在ではウルトラ怪獣が13cm程に縮小し、映画怪獣は16~7cm程で、やはり大きさが違います。しかし2000年頃から2012年頃まで両者サイズが一致していた時期があり、ほぼ同寸で揃えることが出来ました。つまり所属作品を超えたクロスオーバーが10年ほどの時期限定ながら可能で、自室の棚に並べながら
ゴジラ対ゴモラ、だの
ガメラ対レッドキング、だの
キングジョー対キングギドラ、だの
メカゴジラ対恐竜戦車、だの
と実現しようもない対戦カードを考えて遊べます。自室で映画の一場面を再現したいわけではありません。どうせなら再現しようのない場面を考えたほうが楽しいです。べつにアイテム無しに想像して楽しむのもかまわないけど、手元に現物あるほうがイメージ膨らませるの捗るじゃない。それで自分の遊び方は、頭のなかに一定ルールを設けて、それに応じたメンバーを収納ケースから取り出し、棚にぞろぞろと並べます。そこでソフビを手に取り怪獣になりきってブンドド遊びをする――なんてことはまったく無く、並べたメンツを眺めながら何分も、長い時には数時間に渡ってひたすら思考の展開と掘り下げを続けます。黙したままほとんど身動きせず延々思考を続ける様子は、傍目に見れば瞑想のように映るかもしれません。つまり目の前に並べた怪獣メンバーを動員して、脚本:自分、監督:自分、観客も自分な物語を作って楽しんでいるわけです。それの何が楽しいのか、何もかもが楽しいですけど。脳内で展開される光景はただの殴り合いではありません。格闘漫画に「競うな!持ち味を生かせ」という格言がありますが、その金言に従いそれぞれの持ち味を生かし、格下でも特技を生かして有利な戦況に持ち込んだり、強者は自身の武器を最大限に使い、互いに持てる能力を全て出し切って激突したならひょっとしてもしかすると意外な結果が起こり得るかもしれません。そうした性能検証も加えた脳内シミュレートを楽しんでいます。

最近のお気に入り大戦カードは「空の大怪獣因縁対決 ラドンVSメガギラス」です。

どちらも東宝怪獣ですけど出演時期が大きく離れており共演したことないので。そもそもデビュー作からすでにラドンはメガヌロンという古代トンボの幼虫を食っており、食物連鎖に歴然とした序列がありますが、その後40年程経ってからメガヌロン側に種族決戦用大型個体メガギラスの設定が出来ました。そのメガギラスは映画内でもゴジラ相手になかなかの健闘を見せたのですが、本来こいつが決戦を挑むべき相手は生まれるヤゴをかたっぱしからパクパクパクパク食ってしまう、天敵捕食者のラドンであるはずで、これは超音速で衝撃波ぶち撒けながら飛び回る巨大翼竜と、生物界最高性能を持つトンボの飛行能力で、前進後退滞空あらゆる立体機動可能な巨大捕食者昆虫との天空大決戦になるのは間違いないでしょう。それなら、同じく高速で飛行するうえに高周波ブレードを吐く、飛び道具持ちのギャオスのほうがさらに強いんじゃないですかね。そういうのもまた後で考えるから。今はラドンとメガギラスの話だから。まずは食物連鎖の因縁と被捕食者の反撃の話を片付けてからです。でも結局は飛行怪獣全体ならモスラが一番強くなるんじゃないの。鎧モスラとかでたらめに強いと聞いてますが。しかしうちにモスラはいません。私は蛾が大嫌いだし、あいつ格闘戦できないし、殴り合いできない怪獣に用はありません。じゃあバトラはどうなのさ。バトラは陸戦型で格闘戦も得意だろうが。バトラはいいんだよ。でもうちにはバトラもいないけどな。

しかし現状ではウルトラ怪獣はサイズダウンされ、映画怪獣もムービーモンスターとして続いているものの、両者はまたサイズ違いのシリーズに別れ、あまりそそられる商品展開はありません。それで3年前くらいに怪獣ソフビ収集趣味も終了したつもりでした。出ている欲しい物は一通り押さえているし、これ以上増えないと思っていました。

プレミアムバンダイでたまーにマイナーな怪獣をウルトラ怪獣5000といったシリーズで出してくれることもありますが、あれ少しサイズが大きいんだよね。もともと特撮怪獣は着ぐるみで中に演者が入って動かすものだから、私は中に入ってる人のサイズ感を重視します。強キャラはデカくても良いし、尻尾の無い人型はその分の材料が背丈にまわり、やや大型化するので、現行の600円シリーズくらいでも良いとも思いますが、旧型直立恐竜タイプのゴジラ体型怪獣に関しては頑なに旧型での同サイズに拘っています。具体的には中の人の肩の高さや腰膝の位置が重要です。そしてプレバンでたまに出る豪華版の怪獣ソフビは、この位置が従来シリーズと微妙に合いません。平均サイズ16cmのところに18~20cmが出てくるのよ。等身大に直したら約30cm差ですから、これは女性と長身男性くらい体格差があるわけで。並べると結構な違和感があります。そんなわけで私にとって怪獣ソフビはもう増やす理由の無い終わったジャンルのつもりでした。幼少時の憧れもここでゴールを迎えたはずでした。

ところが、最近になって怪獣ソフビの供給先が増えました。
「さくらトイズ、Y・MSF」というソフビ製作販売を手掛けている会社があります。去年まで存在を知りませんでしたが、どうやら小ロットで怪獣ソフビを製作しイベント等で販売している様子です。とあるネットの書き込みに「メガロとエビラのソフビはY・MSFので満足した」とあるのを見て、メガロとエビラのソフビ?そんなのあったかな(バンダイのムビモン・メガロの発売告知前です)ブルマァクの復刻じゃなくて?と画像検索したら、ものすげーかっこいいメガロと、ものすげーかっこいいエビラが出てきました。なんじゃこりゃあ、と我が目を疑いましたがこれはまだ序盤の前振りに過ぎません。さらに検索を続けると他にもマイナーな東宝怪獣、初期ラドンに、バラン、サンダとガイラ、メカニコングなど次々出てくる。そしてどうやらサイズが16cm前後と、自分の収集しているシリーズとほぼ一致する様子。マジか、存在したのか、ありえない物を見てしまった衝撃。これらが並んだ自室を見せたら、幼少時どころか3年前の自分でも驚愕すると思います。是非とも欲しくなったので流通方法を調べましたが通販サイト等は無いらしく、たまに中古ショップに出るも現在品切れで、しかも結構お高い。困ったわ―とさらに検索を続けるとどうやら当事者らしきツイッター・アカウントを発見しました。説明欄を読むとフォロー後に直接DMをやり取りして商品購入する方法を取っているのがわかりました。ならば早速フォローしましょう。その後しばらく経ってツイッター上に告知が出ました。
「メガロ販売します」

ついに来た。これを待っていた。初めての申し込みでしたが、購入手続き案内に従いスムーズに進めることが出来ました。メガロ入手。
手元に届いたメガロは想像以上の素晴しい出来栄えでした。プロポーション完璧、表情は精悍、成型色と塗装も文句なしの色調、特に背面の羽根模様が鮮やかです。さらにサイズもちょうど良く、肩や腰位置が他怪獣と並べてもほぼ一致します。だいたい同じくらいの体格の人が中に入っている状態です。そしてやや肩を落としながら低く構えた前傾姿勢は、相方のガイガンが反り気味のポーズなのと対照的で、それぞれの魅力を引き立て合う形状です。さらにつや消しのざらついた質感と、リアル過ぎずチープ過ぎずの絶妙な玩具感は他怪獣ソフビと並べてもまったく違和感が無く、数ヵ月前まで存在すら知らなかったはずなのに、怪獣ソフビ棚に並べた瞬間からまるでずっと昔からそこに居たかのように即馴染んでしまいました。昭和ゴジラ終盤敵怪獣のガイガンとメカゴジラの間にすとんと納まり、両脇の2体が「よう、戻ったのか」と挨拶かわしていそうなくらいに馴染んでいます。
これは良い物だ。買って良かった。

現在の私も喜んでいますが、私の中に残っていた幼い自分も喜んでいます。幼い日に強烈な印象を受けた友人宅の砂場にもたぶんメガロは無かったからな。もう敗北感も消えました。

もちろん、その後も気に入った品物の販売告知が出る度に購入し、初期ラドン、うつ伏せバラン、サンダとガイラ、キングコングとメカニコング、エビラ等を続々と購入。たちまち怪獣ソフビ棚の昭和東宝エリアが充実しました。ここにバンダイ新作のゴロザウルスとヘドラも加わり、もう満足しました。いやまだバラゴンがいないな。首から下はネロンガだからそれで我慢しろ、とは考えません。ゴジラの後を務めるべく新怪獣として作られながら微妙にぞんざいな扱いをされ、しかしながら後にパゴスやネロンガやマグラーなど多くの怪獣の下地として活躍した貴重な存在です。あの特徴的な大きい耳や光る角、やや哺乳類ぽくも見える口元や大きな目など、独自個性を多く持つ良デザインです。私は16cmサイズのバラゴンが欲しいんだ。旧ソフビは造形完璧だが若干ながら大きいんだ。だからムービーモンスターで新商品化されるためにも話題作りのため、今こそ映画「シン・フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」を撮るべきではないでしょうか。そしてもちろん大ダコもソフビ化するべきです。商品名は大ダコでもスダールでもかまいません。バラゴンを倒した後に脈絡なく登場し、最終戦を飾る大ダコは他映画やウルトラQにも登場しますが、出番が多い割にただデカいタコという見た目の地味さから商品化の機会が少なく、16cmソフビと絡めるサイズの商品も自分の知る限りはありません。

指定外来種対決 ミドリガメVSアメリカザリガニ

サンダとガイラ

宇宙ギャオスと昭和ラドン

包丁怪獣ギロンとムササビ怪獣バラン

それはともかく、この1年で私のソフビ欲は急激に解消され、幼少時に感じた心の傷も埋まりつつあります。5年程前まではわりと自暴自棄を起こしており毎日やさぐれて暮らしていましたが、その頃の自分に「2021年まで生きてたら良いことあるよ」と教えてやりたいです。そしたら今頃は来る時に備えて前もって用意した予算をじゃんじゃんY・MSFソフビに投入してばかすか買いまくっていたのに。いや5年前だと2017年、あの当時は既に2015年から始まった1/35ボトムズプラモ企画があちこちから出て、それらを大喜びで追い始めた頃だな。もう自暴自棄になってないや。ならば子供の頃の自分に教えてやりたいです。嫌なことたくさんあっても2020年代まで生きていたら、おめーの消費型生活に大当たりする品物が続々出てきて嬉しい悲鳴上げる事態になるから、それまで耐えな。メジャーどころが一周り二周りして飽きられてくる頃にマイナーアイテムがぞろぞろ来るぞ。好きだろうマイナーキャラ。決して物語に中心にはなれない脇役達にばかり目が向く性質だろう。そんな脇役達の出番がまた来るよ。今後もホビー界隈は楽しみだね。


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「ペギタン」に関するヘイト二次創作の話

2022-05-19 05:03:04 | 好き嫌い趣味

一昨年のニチ朝番組のマスコットキャラがネット上の某所で虐められています。ネット上で匿名掲示板なり、R18Gも扱う画像SNSなどでは、こうした架空キャラを虐待するネタが定期的に発生します。古くは2ちゃんの「しぃ」ふたばの「実装石」ピクシブの「ゆっくり」など枚挙に暇がありません。近くでよく見ればそれぞれが持つ雰囲気が微妙に異なるのがわかりますが、遠くから眺める分には残酷で悪趣味なネタに変わりなく、大抵の人からは眉を顰めて敬遠されるジャンルです。しかし同じように見えても細かな傾向は違います。自分の専門は実装石ですが、ゆっくり等の他キャラにはまったく興味が湧きませんでした。
ところで、それら古い虐待ネタに代わって現在進行形の被虐キャラ化しているのは「ペギタン」です。実はこれも盛り上がっていたのは2020後半~21年までの話で、現在は残り火が燻っているだけなのですが、そろそろ流れも鎮火しつつあるので、私見を交えた概要を書いておこうかと思います。

ペギタンというのは2020~2021年にかけて放送された「ひーりんぐっどプリキュア」に登場するマスコットキャラの1匹で、小さなペンギンの姿をしています。性格は気弱らしいです。らしい、と伝聞のような書き方なのは、私がプリキュアという作品をシリーズ通してただの一度も視聴した事がなく、まったく本編内容を知らず、ふたばやピクシブでのペギタンの描写から窺い知れるキャラ概要がそのくらいだからです。本編なんか見なくてもキャラ虐待に支障ないのは実装石でよく分かってるんだよ。私はローゼンメイデンも未読未視聴だけど、翠星石の劣化コピーらしい実装石をギタギタにするのは得意でした。それでペギタンも本編中では気弱なのが災いして、どうも戦力増強にあまり貢献できなかったらしく、視聴者からのヘイトを稼いでしまったようで、本編でさらっと流された失態への応報な扱いを、二次創作的に消化しようとする流れが生まれた様子です。

私がこのジャンルを最初に知った時には、既に「ペギタニスト」という言葉が存在していました。ペギタニストとは文字通り、ペギタンをギタギタに痛めつける嗜好を持つファンの事を指します。しかし彼らはペギタンを嫌っている様子ではありませんでした。作中で迂闊な行動を取るペギタンに何の報いも無く進んでいく本編物語に対し、作品世界とキャラクターの行動を納得消化するためのファン心理が働いていたフシが窺えます。視聴者視点では過剰な高待遇を受けているかに見えるキャラへ、相応の苦痛と受難を与え、視聴者それぞれが解釈のバランスをとるために虐待パロディを作っている様子でした。なぜなら、それらペギタニストと呼ばれるジャンルで描かれるペギタンは、たいへん可愛らしく、また性格や言動も愚かしい程にパートナーを一途に慕うものであり、その小さく愛らしいペギタンが理不尽に翻弄され、不条理に蹂躙され、ボロボロに傷つけられながら泣き叫ぶ姿は、残酷描写で可愛らしさがより一層際立つ内容でした。つまりペギタニストと呼ばれる人々はペギタンを嫌うどころか、大変可愛いと考えており、そのペギタンを過酷な環境へ追い込むことで、必死に苦しみもがくペギタンの可愛らしさがさらに輝くという感性を持っています。大変よく理解できます。私も同意します。小さく儚く可愛らしい者が悲鳴を上げ絶叫し死に物狂いで悶え苦しむ姿は大変可愛らしく、他に代えようもなく尊い価値があるものです。

しかし、それでもやはりこれらはヘイト創作です。ヘイト創作とは、ある作品やキャラクターに不満を感じた時にそれらを改変し、貶める意図で作られる二次創作を指します。先のペギタンを虐待する一連の流れに、ペギタンを貶める意図が皆無とは言えません。これらのペギタン二次創作では本編中に一切なかった糞尿を漏らす場面が頻発します。また設定上オスなのに卵を産み、ベビーペギタン(略してベビタン)という赤子を育てる場面もよく出てくるようになりました。実はこれらの「過剰な排泄」と「子供を産み増える」設定は虐待ネタでは普遍的な描写で、これまでも余所で虐待ネタに使われたキャラクターには、もれなく追加されていました。そしてこの設定が大っぴらに取り込まれていくと、キャラクターが必ず陥る既定路線があります。有害野生動物化して駆除対象となる方向性です。すると描かれるキャラの容貌に変化が起こります。容姿はより醜悪に、言動はより傲慢で強欲に、憎むべき邪悪な存在へと書き換えられていきます。そしてこれらの架空キャラ虐待ネタを好むファン層にも系統分化が起こります。

元々の、可愛いけど少々ウザいキャラが酷い目に逢うのを好む層。
新解釈で、醜悪な汚く卑しいキャラを苛烈に処罰するのを好む層。

どういうわけか、この手のジャンルではある程度まで参加人数が増えると、被虐対象を過剰に蔑み貶め、悪として糾弾処罰したがる傾向が出てきます。それでペギタンについて話すスレッドでも日々が経つほどに雰囲気と流れが変化していきました。より過激で即物的な方向へです。いや過激なのは元からか。ペギタンで検索するとサジェストで「はんだごて」と出てきます。これは2020年中頃からペギタニスト達が執拗にペギタンの尻にはんだごてを突っ込み焼き続けた結果です。最初期からやってることは酷いのですが、当時のスレッドの流れはなかなかに技巧的でした。ペギタン画像となりきり台詞の書き込みに対し、当意即妙なレスを返しつつ場面に応じた画像を貼り、小さなエピソードを繋げていくのです。例えば、
ペギタンが温泉に入りたいと言えば、ゆっくり暖まってね、と「熱湯で煮られる」画像が貼られ、
いくらおにぎりが好きだと言えば、いくらをプレゼント、と「足にマチ針を大量に刺す」画像が貼られ、
僕のアナルさんに忠誠を誓えと言えば、即「はんだごてで腹腔内を焼かれる」画像が貼られ、
もっと舌を使えと生意気を言えば、その舌を用意するために「ペギタンの舌を切り落す」画像が貼られ、
何をどうしてもペギタンがドギツイしっぺ返しを受ける即興劇の様相を呈していました。それでいて会話口調は穏やかに進み、つまり「口頭では柔らかな態度を崩さないのに、行動は苛烈で容赦ない暴力を加え、ペギタンの望まない方向に要求をかなえる」悪意と皮肉に多少のウィットを交えた大人の悪趣味な雰囲気がありました。例えるならば大昔の連歌遊びのような上の句に下の句を繋げるように、なりきりペギタンの言動へ逆手に取るような一捻りした返答と、内容に応じた画像を即時貼り付けていく、少々知恵と発想の妙意が要る、なかなかに高度で雅な楽しみ方でした。実際、書き込みに対し瞬時に論点ずらしと混ぜっ返しを考え、最適な画像を選び数秒のうちにレスを返すのは、瞬発的発想力と豊富なネタ画像を網羅する記憶力の両方が必要で、くだらないことに無駄な力を発揮する「としあき」さん達の高いスペックが窺えました。あの人たちは基本的に頭は良いんだよ、性癖が歪んでるから理解されにくいだけで。

しかし、どんなジャンルも時間が経てば変化します。ペギタンがギタギタにされる絵を描く人も変わり、ネタ傾向も変わり、ピクシブの感想欄の雰囲気も変わり、ふたばのペギタンスレッドの流れも変わっていきました。可愛らしいペギタンの容姿を醜悪にアレンジした絵が増え始め、ペギタンなりきりの台詞は元の気弱キャラとはかけ離れた図々しくふてぶてしい物言いに占められ、それらへの返答レスも直接的な罵倒と殴打画像の割合が増え、架空キャラを悪意と嫌味で面白おかしく弄るよりも、直球の憎悪で叩きのめす傾向に流れて行った様子でした。つまり、ペギタンを扱うヘイト創作に違いはありませんが、主人公が交代したのです。

前半では、理不尽と不条理な受難に翻弄されるペギタンが悲劇の主人公でした。
後半では、理不尽で不条理な言動で周囲に迷惑をかけるペギタンを罰するスレ民が主人公になっています。

ただし、どちらも使用されるのは苛烈なペギタン暴行画像なため傍目には同様に見え、両者ともペギタンがぼろぼろになる点では一致するので、傾向が違えども対立することはありません。ただし両者から見たペギタンの姿は明らかに違うようです。

一方は、気弱で甘ったれなマスコットキャラが、日曜朝の子供向けTV番組から間違ってR18G指定Vシネマ世界に迷い込み、ガチ悪人の残虐さに蹂躙される哀れな姿を好み、この場合のペギタンは惨たらしい仕打ちにより一層可愛らしさを引き立てられた、悲劇の主人公です。
もう一方は、己の分をわきまえず自分のわがままで際限なく周囲に要求を繰り返し、節制なく増殖し周辺環境を汚し迷惑を振りまく害獣の姿です。容姿こそペギタンですが性格も図太く、パートナーに依存せずとも逞しく野生化して暮らしており、それらに迷惑を被った人間が腹に据えかねて報復処罰する対象としての設定が多数つけ加えられており、こちらのペギタンはいわば勧善懲悪ドラマで時間いっぱいに傍若無人を重ね続けて、最後に誅殺される悪役の役目を負っています。周囲に散々ストレスフルに負荷をかけ続け、その応報として有らん限りに罵倒されながら壮絶な死に様を散らすヘイト要員として消費されています。

つまり、両者では暴行を受ける要因が異なります。前者は小さく非力でやや愚かしいマスコットキャラを、可愛いからとギタギタに痛めつける人間側に問題理由があり、後者では有害生物がその迷惑の咎で刑罰を受けるペギタン側に問題原因があります。どちらが歪んでいるかと言えば前者のサディズムだと思いますが、後者の無理矢理な他罰傾向も行き過ぎている気がするので、共に世間からは公序良俗に反したモラルの無い悪趣味ネタと見られることには違いないでしょう。


ここまで書いていれば隠しようもなく、自分は明確に前者の「可愛いから痛めつけたい」側で、いちいち相手の落ち度をあげつらわないとペギタンに暴行を加えられない面倒な縛りを窮屈と感じます。そもそも善だの悪だの気にしてたら楽しめないジャンルです。そして自分が求めるものも、悪を叩き潰す正義と自己肯定感ではなく、可愛らしい者が凄惨な目に遭うギャップの美しさであり、あくまで主人公はペギタンであり、虐待を加える者は添え役でしかありません。そして苦痛と悲哀の表現は肉体損壊と流血量だけで表すものでもなく、むしろ内面的な精神が蝕まれていく過程こそが最も重要と考えています。自分で書かないのかと言えば、ペギタンはあくまで「出来の良い他所の子」なので書きません。老害思考の自覚もあるので他人には指示も表明もせず、自宅の日記で感想を一人で呟くだけに留めています。

しかし昨今の新しい被虐ネタとして、というか一部の二次創作者の描くペギタンは非常に精神的損壊描写に優れており、極めて高レベルな残酷悲哀キャラに仕上がっています。強度の精神的ストレスを受け続けた場合の、心が壊れた姿の描き方がたいへん秀逸です。苦痛と恐怖を受け過ぎると悲鳴すら上げられなくなるのよ。そんな元気は残ってないのよ。そして特筆すべきは、物理的にも精神的にも容赦ない凄惨な拷問を何百回も描きながら、対象のペギタンは終始一貫して素晴しく可愛らしいこと。TV本編だとちょくちょく作画崩れがあったりイマイチ容姿の解釈がこなれていない絵もあるのですが、ペギタニスト系創作者の描くペギタンは本編よりも容姿の愛らしさが大増量されています。もちもちとやわらかそうなほっぺやお腹やペギケツの丸さ、気弱そうに潤んだ目、非力にぺちぺちと振る小さな手足、不安に溢れ出す涙、苦痛に強張る皺、ストレスで禿げる脱毛、助けを求めて「ちゆ~」とかつてのパートナーの名を呼び続けるも、番組放送終了とともにパートナー契約は解消されており、誘拐監禁され終わりの見えない拷問虐待を受け続けるうちに表情が固まり、明らかに精神に失調をきたして怯える姿はあまりに可愛らしく、キュートアグレッションを強くそそられる姿をしています。その怯え続けた先に到達したのは、もはや抵抗も諦め、悲鳴をあげる気力も失い、ただ恐怖に硬直しながら無言で涙を流し続ける適応障害を起こした精神の壊れたペギタン、俗にPTSDタンと呼ばれる状態です。

よくぞここまで描き切ったと感心します。肉体損壊のたびに大声で悲鳴と絶叫をあげながら惨殺されてる間はまだまだ元気があるんだよ。少なくとも大声をあげる自由はあり、苦痛を主張する気力もあります。何回ブチ殺されてもすぐに再生復活するネタなので、肉体損壊などダメージのうちに入りません。それで好きなだけ泣き叫ぶの騒音も許されてるなら、心も体もめいっぱい自由を満喫しているのと変わりません。苦しみの質としてはまだまだ序の口だと思います。私は加虐方法手段として派手な肉体破壊より精神を蝕む拘束を好みます。一瞬で終わる肉体の苦痛より、無限に続く終わらない精神抑圧のほうが効果的と考えます。もちろん併用すればなおさら効果的です。

結局のところ、他にも数多くあるヘイト創作キャラ虐待ジャンルで、私が興味をそそられたのが実装石とペギタンだけというのは、効果的なメンタル破壊描写があるかどうかに尽きます。ちなみにこの手のジャンルの多くでは、精神的虐待方法として、親子を捕えて子を殺す展開が多くありますが、ワケあり家庭育ちの自分には親子愛が理解できず、家族殺しのどこが苦しいのかサッパリわかりません。子供をぽんぽん生んでダメージを受ける盾役を増やす防御策は生存戦略として優秀で、実際それで本体がノーダメージで済むのだから、これはもはやサバイバル群像劇の一種で、虐待ネタではないとも思います。
というか、どのジャンルでも虐待ネタが進むとキャラの性格がどんどん改変され、親子の情愛など欠片もないふてぶてしく悪辣な種族へと設定が変化していくのは毎度のことなのに、そこで出てくる精神的苦痛の与え方が親子関係を壊す方向にしか考えられないのは、発想が貧困かつ矛盾してると思います。倫理も道徳もわきまえない卑しいキャラがなぜか親子愛だけは十分に備えている不思議。つまり作者側が家族愛を無条件に信じており、疑問なく前提に置いてしまっている。彼らは幸せな家庭で大事にされて育った人達なのでしょう。私にはそのへんよくわかんねーや。

私は子だの親だの外部オプションへは目を向けません。そんなマトを散らせる作戦には乗りません。そいつ本体を捕まえてから分解できる限り解剖し続けます。自由を奪い可能性を削り希望を一つづつ諦めさせながら、徐々に変化していくであろう泣き声を楽しみます。始めは悲鳴、次に絶叫、続いて嗚咽、やがて慟哭、その先は何でしょうか。断末魔までじっくり付き合いながら眺めていたいと思います。対象を嫌いだからやるんじゃないのよ。可愛いからこそ見たい聞きたい楽しみたいと思うのです。

そんなジャンルの有望株として最近上がってきたキャラがペギタンですが、結局のところ、私にとっては他所の子なので、他所のペギタン飼い主さん達の虐待手腕に関心しつつ、受けた刺激は自分のところに居る子達にフィードバックしたいと考えています。うちの子てのは実装石のことです。うちの実装石達は、主を求めて彷徨う非力な出来そこない人形であり、野生で図々しく逞しく繁殖する害獣ではありません。その小さな儚い生きた人形の心を弄び踏み躙る話が大好きなのですが、全盛期から既に20年近く経っており、もう誰も書いてくれないので自分が書くしかありません。当時からも自分好みの傾向作品は少なく自分で書くしかありませんでした。自給自足です。ちなみにヘイト創作のつもりはありません。元ネタのローゼンメイデンは原作・アニメともに未読・未視聴で、元キャラの翠星石にも興味なく、彼女を貶し蔑む意図もありません。彼女をモデルにいじった劣化コピーキャラがたまたま私の琴線に触れただけです。キュートアグレッションとは対象が可愛くなければ成り立ちません。対象へ過剰な落ち度を求め、咎を負わせ、汚く卑しく醜く貶め蔑み、悪として断罪するのはただの正義他罰中毒で別種の欲求です。私はペギタンがギタギタに傷つけられる姿が大好きですが、その原因の9割は病んでる自分にあります。残り1割は他者への依存心の高いキャラクターの甘えんぼ性格描写に依ります。つまり、危機感の薄い甘えん坊かまってちゃんが恐ろしい人達に捕まり、意図しない方向でかまわれてしまい、一方的にボロクソに壊される様子が大好物です。対象の性格が「かまってちゃん」なのが重要なのさ。私の世界法則ではかまってちゃんは大リスクなので、そのまま愛され肯定しちゃうとバランス悪いのよ。

コメント (1)
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メタルフィギュアのままだと自分の内側に組み込めない

2021-12-26 07:12:40 | D&D4版 キャンペーン回想

長いこと仲間内で卓上ゲームの長期キャンペーンを続けていますが、自他の温度差を感じます。参加時の感覚がおそらく「端末」だからと思います。自室内にある自分帝国から外部へ出る時に、専用化した外装を付け替える感覚が近いです。
コロナ前の実際に皆で卓を囲んで遊んでいた頃、卓上に広げた戦場マップに3cmほどのメタルフィギュアを置いて、それを自分のコマとして動かしていました。そのコマが自キャラの器に少々足りなく感じていました。情景オブジェとして十分だけど、可動しないからね、ポーズ決められないのよね。
引越した時に荷物の梱包開封をしながら思ったのが「自分はゲーマーじゃないな」という認識。30年くらい続けてる趣味なのに関連資料や備品をほとんど所持していない。参加してたキャンペーン用のメタルフィギュアがトロフィーのように数体並んでいるだけで、その関連する背景に繋がる品物はまるで無い。怪獣・ロボット玩具が溢れるほど並んでいる環境で、30年歴の趣味へ向ける意識があまりに淡白。これはゲーム側へ興味が薄いのではなく、ゲーム駒は自分の規格と合わないので、それ用にキャライメージを「端末」化して出張させているせいです。キャラシートは端末。自室内に並んでる10cm~16cm程の立体が本体。
2017年の参加キャンペーンは自キャラが最期にロボ化し、仲間ウケは悪かったのだが他所の規格サイズである3cmのメタルフィギュアから、13cmの可動フィギュア化したので、当時の使用キャラは自分世界のレギュラー規格へ到達したわけで、ようやく自室内の怪獣・ロボット棚に同列として並ぶ「うちの子」へなれたのです。


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あかねりんご

2021-10-16 03:54:04 | 日常

食料に無頓着な自分が珍しく冷蔵庫に常駐させている食品はりんごです。服薬の副作用で喉が苦くなることがしばしばあり、その苦さを解消するのに果物の酸味がちょうど良いためです。

スーパーで売っている手頃な価格のりんごはだいたい、サンふじ、王林、ジョナゴールド、の3種です。苦味消しに王林は味が薄く、他2つも旬を過ぎるとやはり酸味が足りません。

ところでコロナ禍以降からスーパーの生鮮食料品の仕入れがたまに乱れるのか、普段見ない種類のりんごがごく短期に入荷していることがあります。

以前に販売時期の隙間を埋めるように店頭で並んでいたりんごは主にシナノゴールドでした。少し小さめな黄色いりんごです。わりと酸味がある好みの味で見かけた時は積極的に買っていました。

今年の店頭にまた今まで見なかったりんごが並んでいました。

「きおう」という黄色いりんごもいい具合の酸味の強さ。甘みとのバランスも良い。いや、こういうりんごを待っていました。美味しいです。

後日、また「きおう」を買いに行くと、もう店頭にありませんでしたがまた知らないりんごが。

「あかね」これは酸っぱい。一口食べて舌に響く今までにない強い酸味。素晴らしい。服薬の苦味など一瞬で消えました。あまりに自分の好みに合った美味しさなのでネットで検索すると「酸味が強く生食より料理素材に向く」らしいですが、これを生食しないなどとんでもない。この強い酸味と甘さのバランスが良いのです。私がりんごに求めている味は「あかね」の味でした。

自宅の買い置きを食べ終えたので店に買いに行くと「あかね」はもうありませんでした。かわりにまた「きおう」がありました。今年はもう出てこないかもしれませんが、来年の入荷を期待して、さらに基本的に食べ物に無頓着な自分は来年まで美味しかったりんごの名前を憶えてない可能性が高いので、備忘録として書いときます。

最優先りんご「あかね」

今まで食べたりんごで一番おいしかったのは「むつ」だけど、お高いし何より食べた瞬間あまりに美味しいうえに大きいので、質も量も一度に食べきれなかったのさ。半分食べて満足してしまいました。あまりに美味しいから怖くなったので食べるのに覚悟が要ります。

 

追伸。

今年2022年は冬にかけて店頭に並ぶりんごの種類が多く、あかねりんごがたくさんありました。常に冷蔵庫にストックしておき、酸っぱさを堪能しています。この酸味がないと物足りないのさ。


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落ち着き

2021-07-31 01:09:20 | 収集物

部屋を片付けて、棚にコレクションを並べて、それを画像に撮ったらなんだか気が済んでしまった。メッキとクリアーがきらきら綺麗です。


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オンラインでD&D4thを遊ぶ 謎解きシナリオにて その3

2021-06-22 22:42:13 | D&D4版 セッション感想

前記事では一応D&Dを褒めたつもりなので、今回は欠点を書くつもりでしたが、テキスト打ってるうちに胸糞悪くなって止めました。自分に向いてないわD&D4th。考える余地がまるで無い。場面を6秒間を進めるのに処理が60分以上かかる、とてつもなく計算の遅いCRPGやってるのと変わらないし。どのパワーを取ろうが技能取ろうがどうせ通用しないし、スキルを取ってない素の弱点には必中で当てられるし、圧倒的に高パラメータの相手にボコられながらHPを継ぎ足す持久戦が今まで続いてきたし、これからも続く。コマンドRPGで「戦う」ボタン連打してるのと変わりませんが、だったらその「戦う」コマンド内容を盛りに盛れるCRPGのほうが優れている説を推します。処理も早いしな。ミサイル100発撃つのも数秒で済みます。

連続持久戦から脱する方法はありません。リソースを削られジリ貧になっていく戦闘のためのルールなんだよ。ゲームの設計がそれしか出来ないように制限をかけています。作戦を考えるなら他能力を潰して、PCを作戦特化ビルドに組まないといけませんが、作戦が使える環境自体が稀なので、作成コストの空振りで終わります。そりゃ皆「とにかく殴ればいつか倒せる」思考になるのも当然です。対戦相手がゾンビ軍団でも人食い熊でも毎回同じ突撃戦法しか取れる手段がありません。対策方針はフレーバー程度で戦況に影響せず、及ぼす効果を起こすルールはありません。あんなに厚くて重いルールブックがたくさんあるけど、内容は使い道の無い文字の羅列です。今よりもっとレベルが上がり資産が増えたら有効な対策が取れるようになるけれど、そのレベルに到達した頃には敵がさらに強大化しており、専用クラスの特効パワーでしか対抗できず、やはり情報と対策に頭を使う機会はありません。自分のPC達は頑丈人間から頑丈超人になるけど、常に後手に廻るバランスに作られたゲームシステムです。到達レベルで得られる装備と財産の上限がガッチリ決められてるのよ。その強化リソースを一点特化して強みを活かせないように、分散するルールもガッチリ決められてるのよ。最初から最後まで厳格に能力値を抑制し、プレイヤー行動を制限し、絶対に有利な立ち回りを許さないゲームデザイナー側の強い意図を感じます。戦術的に1~2マス単位の間合い取りはOKだが、戦略的な補給兵站を考えるのはNGです。そのルールはありません。敵キャラ用のルールです。そもそも敵キャラは能力値構成からPCとは別物で、4桁HPのおっさんとか普通に出てくるので考えても無意味。

ここまで理屈っぽく解説調で書きましたが感情面ではまた別の話で、要は私というプレイヤーが長期キャンペーンシナリオでいつも蔑ろにされてきた、という話です。周囲から侮られているため、意思決定は省みられず、行動は汲み取られず、私はシナリオに関与する機会がありません。関わっても何の影響もなく話が流れていくので、やれることは敵の数を減らす削減行動のみです。敵がフルコンディションで襲撃するのが前提なので、戦況に即した対応を考えるのも意味が無く、与えられた標的のHPを減らす単純作業の担当です。
つまりコイツは自動砲台程度の扱いが妥当と思われている、敵を倒せるNPC。NPCが敵を倒すと「手柄をかすめ取るウザキャラ」になるので、一応中の人が居る体裁は必要です。今回はドルイドで砲台役すら務まりませんが、扱うデータ量は前回の倍以上で取り回し重いったらないわ。当初はキャラの容姿をしっかり描こうと、ペンタブ持って四苦八苦していた覚えがありますが、今となってはどうでもいい事です。ドルイドに伸び代無いしな。ルールブックでも成長ルートに選択分岐無し一本道です。決まったルートを決まった早さで進み目的地も最初から見えてます。あとの操作はボタン連打で良いんじゃね。

こんなに嗜好と方針が合わないのに、なんでD&D4thやってんの。前キャンペーンとは全く別方向からキャラ設計したから、別視点の異なる魅力が見えてくるかとも考えていたけど、気のせいでした。これが片付かないと本命のD&D5th「赤き手は滅びの印」キャンペーンが再開しないんだよね。


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オンラインでD&D4thを遊ぶ 謎解きシナリオにて その2(脱線)

2021-05-16 02:09:12 | D&D4版 セッション感想

D&Dを長く遊んでる分、しかしファンと自称できない微妙な距離感が続いているこのゲームシステムに対し、評価は厳しくなりがちです。この馴染めなさを他に例えると、憧れていたブランド商品のカタログを眺めている間は楽しいけれど、いざ実物を手に取ると期待ハズレの肩透かし内容、しかし実用的には十分な機能が揃っていて不便は無い、歴史ある由緒正しい海外産の「普通」な高級品でしょうか。そして極まった瞬間に素晴らしい輝きを放ちますが、持続せず狙って光らせることも出来ません。

それでもまず先に長所から。

キャラクターを作り、物語上で動かすTRPGのシステムとして、歴史の長さはダテではなく、掘り下げ作り込みのルールが半端なく詳細なため、最終的な異能力の根拠が明確です。世界を滅ぼす異質な存在など中二病炸裂させるにも確実なルールがあり、後から自己申告設定言った者勝ちは出来ません。ルールが詳細な分、状況対応策が多く特にピンチからの立て直し手段はありとあらゆる事象にこじつけて復活可能です。
終盤にいくほど能力は微に入り細を穿ち、使える手段が増えるため、かなり格上らしき強大なデータのボスキャラでも勝ちに行ける見込みがあります。
これが例えば「私の戦闘力は53万です」と強さを示す基準軸が1本しかないと、たった戦闘力5ではゴミのように消し飛び、対抗手段がありません。他所のゲームでは53万に対抗するルールがありません。おそらく。たぶん。そこでD&Dだとどうなるかといえば、鍛えて育てて知恵と策略に資材と人脈をフル活用し
・自分を50万まで鍛え10万の装備を足す
・30万の自分を二段に構える
・10万の自分を10回復活させる
・他所から40万借りて20万で倒す
・相手を半分に減らし30万で倒す
・相手が10万に減るまで待ち20万で倒す
・まぐれで得た一生一度の100万をぶつける

時間をかけて仲間と相談したり、他者の知恵を借りるならばもっとアイデアは増えるでしょう。そして、これら道筋を想定したなら、次は具体的に目的達成まで積み上げるルールがあります。それに自分一人だけで頑張るわけでもなく、チーム内の誰かが勝てば良いくらいの気構えだと、結構なトンデモ危機状況でも意外とすんなり行けたりします。自分を含めた他メンバーのトンデモ能力をあれこれ相談しながら試行錯誤を繰り返し、やがては「これ倒すの無理だろ」みたいな強大な相手に難易度の高いシナリオを突破する物語が組み上がります。長い物語を進んでいく楽しさと、多くの戦術で駆け引きする楽しさが両立します。以前に仲間内で8年間かけて長期キャンペーンを遊びました。それだけ続けると、どんなボンクラ行動を続けたキャラクターでも、物語の主人公足り得る厚みが出ます。創作の楽しみに+αのランダム性が加わり、最後まで「ひょっとしたら」の期待とスリルを含ませながら進めることが出来ました。これが完全に物語創作の手順だとキャラが作者の枠を超えるのはまず不可能でしょう。外部から想定外の感想をもらった、終了予定地点を超えても物語がまだ続く不測の事態になって、ようやく創作キャラクターは自ら動き出すのではないでしょうか。

つまり、キャラクターを創作して活躍させる箱庭として、D&Dの世界はたいへん遠く深くまで広がっています。距離設定の話じゃないです。構成する概念の圧倒的分量の多さが魅力です。

試しにさ、昔に別ゲームで使ってたキャラクター達と戦わせてみたのよ。誰にでもあると思うけど、脳内世界オリジナルキャラクターの中に必ず一人「最強」の存在がいるはずです。その人にとっての創作の起点で、思いつく限りの中二設定を詰め込んだ世界の中心にそびえている最強柱な人、いるじゃない。
私にも当然いました。超カッコよくて超強い奴が。
その最強さんと、D&D4thで最高レベルまで鍛え上げた自キャラを戦わせてみました。仮名をD&D君と呼びます。その2人が最強の座をかけてタイマン対決を脳内シミュレートしました。

ーー最強さん、勝てないんだよ。
勝つ姿が想像できない、どうしてアナタが倒れてるんですか。おかしいぞ、自分のインナー世界の法則が崩れるぞ、何かの間違いだろ。じゃあ、何か条件を付けて……、いや待て、最強が条件つけてどうすんだ?なんで負けるんだ?積み重ねてきた手段の分量が違うんだ。

元・最強さんのパラメータは主に3つ。
バカみたいに強い攻撃力
アホみたいに高い耐久力
あとはスピードも超速いんだけどさ

でも、D&D君の猛攻を凌ぎ切るルールが無いんだ。逆にD&D君のほうは、倒れた後のリカバリの早さと間合い詰める能力が明確に決まっていて、確実に二手目が打てる。そこを凌ぐには瞬間移動なりで「逃げ」ないと耐えられない。逃げるか倒れるかの二択だが、最強は逃げちゃいかんよね。そんなの耐えりゃいいじゃん、最強なんだろ?とは思えなかった。こいつの全力ラッシュに耐えられる奴なんていないよ、ゴジラいるでしょ、D&D世界にも居るんだゴジラ相当の怪物が。そのD&D版ゴジラが1ラウンドで倒れるんだよ。それも全弾ヒットする前にだ。6割程打ち込んだあたりでダウンしちまった。そんな馬鹿パンチを喰らって立っているほどウチの最強さんは厚かましくなかった。撃ったD&D君も自分で自分を打ったら始め4~5発で消し飛ぶ破壊力だからね。攻撃力だけキャパオーバーしてるのさ。

それでも攻撃力過多同士の激突だから、体力なんて即ゼロになって互いに精神力だけで立ち上がって殴り合う展開も考えた。では最強さんとD&D君のどっちがメンタル強いのか比較した。

最強さんのピンチ時に奮起するトリガーは「想い出」だ。どれだけダメージ受けようが、過去に一つだけあった「想い出」を支えに何度も立ち上がるんだ。それ本当に想い出かい?呪いじゃないのかい?

D&D君の奮起するトリガーは、そもそも存在しない。正確に高威力攻撃を繰り返すための制御機構でしかない。いつまでも同じ性能を維持し続ける。

同じくらい強い奴らが時間無制限でやりあったら、先に疲れた方が負けるシンプルな結果になった。最強さんは元・人間、機械みたいな奴相手には成長して打ち勝てるんじゃないのって展開は不採用。最強さんは既に限界まで努力して成長して最早ありえない程に強いが、メンタルは元・人間なのであまりに長時間動き続けると疲れるし飽きるんだ。単純にヒューマン・エラーが起きた。環境最悪なブラック戦場だから仕方ない。一方のD&D君は機械みたいだが機械じゃない。ただ永遠に正確な動作を続けるのが目的なので疲れないし性能低下もしない。正確な攻撃を打ってる間にフィードバックされる感覚は「楽しい」なんだよ。こんなアタック中毒者と殴り合って、私の自分世界最強キャラクターは頂点から脱落してしまいました。それでもまだ2番目に強いからな。どこも弱体化してないからな。相手がおかしいんだよ。

長々と脳内世界独自設定語りを書きましたが、要点は自己を支える「偶像」を後から破壊するほどに、D&Dというゲーム世界のデータ量は膨大で、それらを拾って組み立てる像は、緻密な造りで異論反論を納得させるだけの根拠に足り得ます。
ある日、ひょいと覚醒した超能力のような都合良さは無く、小さな能力ルールを増やし、実際に使いながら、成功と失敗を繰り返して運用法を編み出し、それらの集合体として活躍した成果から、ようやく浮かび上がった「揺るぎない信仰を伴った偶像」ですから、そりゃ自分に都合よく設定を盛った「古い偶像」では分が悪いのも当然でしょう。あと、新・偶像は2箇所ほどルール違反の強化を施しているので、手段を選ばない程の目的意識がかなり強固です。実は強さ比べが本質ではなく、目的のために違法禁則にも手を染める覚悟量の差です。少なくとも20年前の自分と現在の自分では、今のほうが遥かに頑迷です。昔の自分が嫌いですから。もしも10年前、20年前の自分と出会っても意見が合わないでしょう。10年前は愚鈍、20年前は短慮、現在は狷介、その年代で性格の悪さが皆どれも違います。そこを多様性に富むといえば流行りに乗って聞こえが良いでしょうが、一貫性が無いだけでは、と自分で思います。

D&Dの長所を書くはずでしたが、システムに直接言及した部分は無く、自分の趣味と性格形成の話になってしまいました。
まるで架空宗教の経典と、それを娯楽として消費する不信心者の関係です。神はいるんじゃね?私のために、みたいな。
私はD&D信者の素質に著しく欠けており、本編に興味なく自己内パーツを組み立てる素材集としてしか見ていません。変な怪人と怪獣いっぱい居て楽しいですよね、D&D。


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