D&Dのキャラクターメイク中にあれこれ数値を組みながら、でもどーせ一人じゃ何も出来ないしな・・・と冷める瞬間がある。 PCが弱すぎるから団体行動必須、自己主張より協調性、結局は戦闘員の頭数にしかならない。自分は嫌でも仲間が戦闘始めたら強制参加だし。個の意味が無いよな。
実は赤箱からやってる古参なんで、魔法アレルギーにも理由があるんだよ。赤箱時代に魔術師キャラの一発屋具合を知ってるので。魔法1発撃ったらあとは役立たずのゴミ化するんで、自分じゃ絶対やりたくねーと思ったし、あの印象がずっとある。あとD&Dは不便と抑圧が主軸だと思ってる。
基本的にD&DはPCがクソ雑魚でしかなく、不便な場面を魔法で一時凌ぎを繰り返しながら進むゲーム。その便利な魔法を使う代償に魔術師のフィジカルは超脆弱にされるので、あらゆる方向で雑魚気分を味あわされるドM向け仕様。 最後まで「雑魚が調子に乗るなよ」と思い知らされる仕組み。
D&Dのゲームシステムって尖った能力を弱体化させる方向でバランス取るから、一芸特化型はナーフされて存在価値が消える。そいで搦め手使いはそのままイケるんだけど、所詮搦め手なので決定打に欠ける。結果的に雑魚PCが結集して間延びした持久戦を続け、PLが先に飽きる。
あとはD&Dの魔法システムは煩雑過ぎて初心者お断り状態。運営は自覚ないようだが、何百種類もある呪文が何冊ものルールブックに散らばって掲載されているので、参照の煩わしさが劣悪にも程がある。そして運用ミスはペナルティとして後々まで響く。負けるとPCは弱いままだが敵は強くなる悪循環。
昔のD&Dにはデス・ペナという恐ろしい仕組みがあった。ハウスルールかもしれんが。 戦死したキャラは1レベル低くなって再加入するため、能力値に差が付き、弱いために死にやすくどんどん強さに差が開く一方で、終いには何の判定も通らなくなる格差社会の縮図が完成する。 D&Dは残酷で怖いんだよ。
皮肉なことに、D&Dは「好きな自キャラを活躍させたい」目的で遊ぶと退屈と窮屈に絶望したのだが「いつ死んでもいい捨てキャラ」を使い始めてから面白く感じるようになった。 物語の登場人物としては味がしないんだけど、STGの残機の感覚だと性能だけで遊べるんで。
自分のD&D観が歪み切ってる自覚はある。けどこれは8年間のキャンペーンで物語に一切関わらず、ロールプレイ要素皆無でひたすら戦闘要員地蔵プレイを続けた実体験に基づく見解なので誰も否定できないよ。自分はどこの卓に参加しても戦闘オンリー地蔵プレイ可能だし。
D&Dに戦闘を求めないPLの自分が間違ってる気もするが、経験上D&Dの戦闘は中だるみしやすく冗長で飽きるので、早く片付けるために火力偏重型になり、結果的に興味の無い戦闘でしか行動が出来ず、物語部分に振るパラメータが皆無で地蔵PL化した苦いトラウマ。 私はD&Dが絶望的に下手クソなんだよ。
当時の自分には社会との接点維持の目的で卓参加の意義は大きかったが、D&Dというゲーム自体には一体何処に楽しみを見い出せばいいのかわからなかった。 つまらない、のではなく恐怖感が伴っていたから。 ここで負けたら次はもっと酷い目に遭わされる。だから全力で最適解を出し続けないといけない。
自分にとってD&Dの自由度とは
・今酷い目に遭う
・次酷い目に遭う
の2択で、さらに
・酷い目に遭う
・もっと酷い目に遭う
の2択も付いてくる。 だから常に上を選び、祈りながらダイスを振る。そして目が悪くて目標値に届かない。確率的に3/4は外れるんだ、もともと分の悪い賭けなんだ。
卓のGMが悪かったとは思わない。むしろ相当に融通を利かせてくれた。 それでも公式のルールやシステム設計姿勢が、PLに負荷をかけて耐久時間の長い者ほど優秀、といった忍耐力を試すような意図を感じた。 1の楽しみのため99の苦難に耐えるのが美徳のような、前世紀の根性論。
少し前にTRPGで「耐えられない場面」に挙げる札、の話題が出ていた。一般的には過度に性的・残虐など感性が受け付けない表現に対する脱出装置のような使用法だったと記憶している。 自分の場合は、戦闘時間が長すぎ、その間やることが無い退屈さにギブアップしてたのだが、適用対象になるのかな?
D&DのGM本には「ヒマそうなPLには戦闘のダメージトラック役でもさせておけ」と書いてあるが、私には少々聴覚障害がありダメージ数を聞き取れず、何度も聞き直して確認しないといけなかったので、そのたびに戦闘を止めてしまい苦痛度が増した。GM本には障害者配慮の記載が無いからさ。