>天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました
>八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。
昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音 (msn.com)
正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)(写真=『天皇家の生活』毎日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
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昭和天皇が父親のように慕った「老臣」がいる。太平洋戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相だ。2人はどのような関係だったのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から一部を紹介する――。
鈴木貫太郎首相と昭和天皇の深い絆
【半藤】中央政府をめぐる情況の経緯としては、昭和十九年七月十八日に「東條幕府」とまで呼ばれた内閣が総辞職。東條のあとを受けて首相となったのは小磯国昭陸軍大将でした。
これまで見て来たとおり絶対国防圏が破られて玉砕がつづき、昭和二十年三月十日の東京大空襲、おなじく三月の硫黄島玉砕、翌四月に沖縄本島にアメリカ軍が上陸を果たすと、四月五日に小磯内閣が総辞職しました。
次期首班をだれにするか。その日の夕刻から重臣会議が開かれた。そして重臣たちの総意として鈴木貫太郎枢密院議長に組閣の大命が降下した。鈴木はこのとき七十七歳でした。鈴木は昭和四年から十一年末まで侍従長として天皇の近くにあり、天皇は鈴木を父親代わりのように信頼していたといわれています。
【保阪】鈴木貫太郎については、鈴木内閣の国務大臣をつとめた左近司政三の話につきますね。鈴木は、左近司が戦艦長門の艦長の任にあったときの連合艦隊司令長官。二人は昔からごく親しい仲でした。ですから左近司は、組閣時から戦争終結にいたる鈴木の本心を、だれよりもよく知る立場にあった。組閣時から左近司には、その真意をはっきりと伝えられていたことがわかります。
鈴木さんは、組閣の当初からこの内閣で戦争に結末を付けたい。それには志を同じうする人を集めねばならない。勢い軍人内閣になるであろう。眞に相談になる軍人仲間を推薦して呉れと岡田[啓介]さんに相談したらしい。それで、米内海相のアシスタントにする積りで、海軍の荒城二郎、八角(やすみ)三郎と私が候補者に上ったようだ。当時私は貴族院議員をしていた。私は、鈴木さんから呼ばれて丸山町の自宅を訪れた。「御互いに相談して講和を促進したいのだ。無任所大臣になってくれ」とのことであった。
「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない」
【半藤】それのみならず鈴木は左近司に、天皇からどのような言葉をもって頼まれたのか、さらに天皇の母である貞明(ていめい)皇后からどう言われたのかについても話していたのです。とりわけ後者は貴重な証言のように思えます。
鈴木総理は大命を拝するに際して、天皇陛下から(侍従を経て)「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない。ご苦労だが引き受けて呉れ」との御諚(ごじょう)があったよしに承る。また、これは後日郷里関宿(せきやど)で直接鈴木さんから聴いた話だが、貞明皇后に御会いした際「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる。私は陛下が痛々しくて致(いた)し方(かた)がない。私は親を迎えたように頼りにしている。どうか親心を以て天皇陛下を御助け下さい」と淡々と御話があって、鈴木さんは痛く感激し、これでは、身を以て御護(おまも)りせねばならぬと決心したと述懐された。
ここには巷間囁かれるような貞明皇后が昭和天皇を疎(うと)んじていたとか、敗色濃厚となった情勢の責任を天皇に求めたために確執が生まれていた、などとする雰囲気はまったく窺えませんね。
【保阪】この話にふれて私自身は感傷的な気持ちになりました。鈴木貫太郎夫人のたかさんが、昭和天皇の幼年期の教育掛だったことなどを考えると、天皇は鈴木夫妻にはとくべつの感情を持っていたと思う。貞明皇后はそんなことも知っていたから、親のような気持ちで助けてくれないかと心底から頼んだと思うんです。
陸海軍は徹底抗戦・本土決戦を主張していたが…
【半藤】貞明皇后がいみじくも「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる」と言ったとおり、陸海軍はいずれも徹底抗戦を叫び、本土決戦へと舵(かじ)をとっています。じつはその勢いに抗(あらが)うのは並大抵のことではなかった。左近司が語ったつぎのエピソードを読めば、その趨勢(すうせい)がどういうものであったかがわかります。
段々本土の空襲がはげしくなると、陸軍はさかんに大本営を信州松代(まつしろ)の防空壕に移して本土決戦をせんと呼号したが、総理[鈴木貫太郎]はあんな通信連絡の不便な所に行って戦争など出来るものではないし、戦争終結も出来ないといって同意されなかった。また軍令部参謀が屢々閣僚を集めて、本土邀撃決戦の構想などを説明した。敵の予想上陸地点は九十九里浜、駿河湾、九州南部、土佐沿岸などで、敵上陸軍に対しては温存してある数千台の飛行機を以てこれを沖合に邀撃し、愈々陸岸に近接すれば特攻兵機で必殺的の攻撃を加える。国内にはなお何十万の精鋭がおる。これが敵の上陸地点に応じて随所に機動要撃するなどと、虫のよいことを長々としゃべり立てる。鈴木総理は「馬鹿馬鹿しい、どうしてそんなことができるか」と最早最後の一撃にも期待をもたれないようになった。
鈴木首相はポーカーフェイスを貫いた
【半藤】このときもし総理が東條英機であったなら、本土決戦を国策として採用していたであろうことは、まず間違いありません。鈴木の、戦争終結に向かうその姿勢がぶれることはありませんでしたが、徹底抗戦派から殺されてしまってはおしまいですからねえ。外部に対しては飽くまでポーカーフェイスで通しました。それを抗戦派とみる人も多かった。なかなかの狸でした(笑)。
【保阪】その様子を左近司が語っています。
鈴木さんは、最初から講和に決め込んでいたが、陸軍や新聞記者などに対しては時々強気のゼスチャーを示されるので、我々閣僚の中でも、総理は果たして和平を望んでいるのかどうか疑いを抱かせるようなこともあった。時々米内[光政]と私は、総理と膝を交えて講和の真剣な話になると、諄々(じゅんじゅん)とその本心を打ち明けられるのでその度毎に安心して帰った。
下村海南(かいなん)(情報局総裁)なども時々不安に思って、総理の本音を聴こうじゃないかなどと言い出して、関宿の自宅まで押しかけたこともある。しかし、総理はいつも名誉ある講和をと明言されるので、その都度(つど)安心して帰った。
鈴木に信頼を寄せる側近さえ、ときに不安になるほど徹底したポーカーフェイスだったのですね。
軍部の悪あがき、国民を道連れに玉砕に向かっていた
【半藤】そうなんです。昭和二十年六月に沖縄で敗れると、いよいよ軍部は本土決戦を決心します。それを受けて鈴木内閣は「戦時緊急措置法」と「国民義勇兵法」を議会に提出しているのですよ。この法律は、いや、もう法律なんていうようなシロモノではありません。一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権利を政治に一任するという白紙委任状そのものでした。
「秦の始皇帝の政治に似たり」と悪評さくさくで、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科に行って診てもらいましょう」と、とぼけてみせているのです。そりゃあ、まわりは不安にもなりますよ(笑)。
そして政府はこの法案を、強引に六月二十三日に通過させている。これによって、女子も含めて、十五歳から四十歳までの日本人はすべて必要に応じて義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成しなくてはならなくなるわけです。軍部の悪あがきは、まさに国民を道連れに玉砕に向かおうとしていました。私は十五歳でしたから、いざとなれば義勇戦闘隊の一員として……いまになれば、夢みたいな話ですがね。
ポツダム宣言を「黙殺」した本当の理由
【保阪】そうこうしているうちに七月二十六日にポツダム宣言が発表されました。二十八日に新聞記者からどうするつもりか問われた鈴木が、「そんなものは黙殺するよ」とコメントして、それが翌日の新聞に大きく取り上げられてしまった。世界のメディアによって「日本政府はリジェクト(拒否)した」と訳され全世界に伝わって、ソ連に参戦の口実を与えてしまう。この点について批判する人はいるのですが……。
【半藤】ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議は八月九日夜から十日未明にかけて開かれました。国体護持の確認を条件に受諾すべきだという東郷茂徳外相案と、国体護持のほか自主的武装解除、占領は東京を除外するなど四条件が認められないかぎり徹底抗戦すべしという阿南惟幾陸相ら軍部が対立します。そこで鈴木首相が最終判断を天皇に求めた。天皇は外相案に賛成して受諾が決まりました。ところが、まだ戦争を終わらせることはできなかったわけですね。
日本政府が国体護持を条件にしたポツダム宣言受諾を十日、連合国側に通告すると、これに対して届いた回答には、冒頭、「天皇及び日本政府の国家統治の大権は連合軍最高司令官の下に置かれる」とあって、さらに「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」という一文があったからです。軍部は前者について「国体を否定するもの」と断乎反対。後者も共和制を導くものとして反対しました。でもここで、天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました。
「本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」
【保阪】御前会議から玉音放送までの道のりが、これまた平坦ではないのですが、そのあたりは、半藤さんの『日本のいちばん長い日』を読んでいただくことをお奨めします(笑)。
【半藤】ありがとうございます(笑)。ひとことだけ付け加えておくと、八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。鈴木と天皇、まさに二人三脚でゴール・テープを切りました。
【保阪】そのあと鈴木は官邸でただひとり泣いていたそうです。御子息の一(はじめ)さんの証言です。ところで、左近司も鈴木をこう評しつつ、自分の談話を締めています。
鈴木さんは、生前自ら「大勇院殿盡忠日貫居士」と戒名を作っておられたそうだが、まさにその通りの鈴木さんであった。私は、鈴木さんの知遇を受け、親しくその偉大なる人格に接し、自らを啓発したことを深く光栄とし、個人を追懐敬慕して止まないものである。
ここからは、心からの賛辞であることがしみじみと伝わってきますね。
【保阪】さて、昭和天皇です。戦争中の天皇のことについてはなにも語らない、というのが、あたかも全員の了解事項でもあるような徹底ぶりでした。
【半藤】司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』みたいですね。あれにも天皇はまったく出てこないのです。
【保阪】明治天皇はまったく出てきませんか。
【半藤】出てきません。開戦のときに御前会議をやるのですが、その御前会議の場面が出てこない。乃木と明治天皇の関わりにもまったく触れていませんしね。
鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」
【保阪】司馬さんは意図的にそうされたのでしょうか。
【半藤】意図的にそうしたのではないでしょうか。エッセイのなかで、天皇を抜きに眺めると日本史はよく見える、というようなことを書いておられる。私なんかは、天皇抜きの明治などあり得ないのではないかと思いますけども、いずれにしても出てきませんよ。
【保阪】さすがに侍従武官をつとめた中村俊久だけは、しっかり語っていました。これが唯一です。中村はしかも昭和十七年十月から二十年十一月まで、つまり戦中から戦後までの大事な期間にその職にあって、近くで天皇を見ていたのです。まず、自分の仕事がどういうものであったかを、わかりやすく説明しているところを引きます。
侍従武官長は蓮沼[蕃(しげる)]陸軍大将、侍従武官は陸軍からは四名海軍からは三名で、私の外城英一郎、佐藤治三郎がいた。以上を以て武官府が出来ていた。その頃、侍従長は海軍から侍従武官長は陸軍から出るのが慣例になっていた。……海軍の侍従武官は一口に云うと、陛下と海軍の連絡係と云ってよかろう。軍部から拝謁の願出があれば、武官府を経て侍従から陛下の御都合を伺いお許しを頂く。軍部から允裁(いんさい)を要する書類は武官府からお手許に差し上げる。また、侍従武官は屢々お使いとして方々に派遣される。
鈴木内閣の陸相阿南惟幾も、侍従武官として天皇の近くにあった経験をもつ人物でした。しかもそのときの侍従長が鈴木貫太郎。左近司が鈴木内閣を「軍人内閣」と評したのはさきほど触れたとおりですが、それに倣えば鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」と言い換えてもいいかもしれませんね。
もし阿南惟幾が陸相ではなかったら…
【半藤】たしかに。八月十五日の朝、阿南は玉音放送を聴く前に責任をとって自刃(じじん)しましたが、もし陸相が阿南でなかったら……。大事件や騒乱を起こさせることなく、粛々と戦争を終わらせることができたかどうかは、難しいところだと思います。
【半藤】中村自身、武官府勤めをした士官たちと、天皇のあいだにあった浅からぬ交流についてはこんなエピソードを紹介しています。
かつての侍従や侍従武官のことに就いては、今日なお昔通りにお目を掛けさせられており、まことに有難い次第である。当時の縁故者は、毎年一月二日宮中においてお祝膳を頂くことになっている。陛下もわざわざお出ましになって、共に御席に就かれ、一同は陛下の万歳を三唱して御歓談申し上げる。その他年末厳寒酷暑には参内して記帳する慣わしになっている。なお、私が鎌倉に住っていることは御存知なので、葉山においでの節は必ず御機嫌伺いに参上することにしている。いつも平服のまま参上し四方山(よもやま)のお話が出て三、四時間もお邪魔することが珍しくない。帰りには皇后陛下より必ず温かい御下がりものを頂戴するのが例になっている。まことに有難い極みである。
天皇の苦しみを理解できた将官はわずかだった
では、談話を締める中村の結語を紹介します。テーマは引き続き天皇です。
下村(定(さだむ))陸軍大臣[最後の陸相]は、昭和二十年一一月進駐軍最高指揮官から軍人恩給を停止されると、責を負って単独辞職をした、拝謁の際陛下は「こんどの敗戦は皇祖皇宗(こうそこうそう)に対しまことに申し訳がない。また朕(ちん)が信頼していた陸海軍は消滅し、沢山の将兵は戦没し、その遺族や生き残りの軍人を困窮させ、その上一般国民にまで多大の迷惑を掛けた。これを思うとまことに断腸の思いである」との意味のことを沁々(しみじみ)と語られ、下村大将は感泣(かんきゅう)して引き退ったと聴いているが、陛下の現在の御心境もその通りであろうと拝察し、恐れ多いことである。臣下は辞職や自決でもすれば一応責任をとったように見えるが、陛下御責任の御自覚は絶対無限である。しかし、その苦衷を誰に語ることも出来ないで、じっと御胸の中に忍んでおられるその御苦衷こそ、我々国民は深く御推量申し上げなければならないと思う。
【保阪】中村のこの発言はまことに象徴的なのですが、ここに登場した将官たちの発言からは、国民に対して重い責任を負うべき立場に自分たちはある、という認識のようなものがまったく見えてこない。もしかしたら、天皇をタブー視していることと、何らかの関係があるのかもしれない、そんなふうにも僕には思えるのです。半藤さんは、これを読んでいかがお感じになりましたでしょうか。
【半藤】まさに「終戦の詔勅」のなかにある「戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク」という言葉そのものです。天皇の苦衷は身体がばらばらに裂けるほど深いものであったのでしょう。それにくらべると、将官たちは……まこと不忠の臣ばかりでした。そして私たち国民のことなど念頭になかったのでしょうね。思えば、われら国民にとっても、このような指導者ばかりであったこと、不幸の極みというしかありません。
---------- 半藤 一利(はんどう・かずとし) 作家 1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。 ----------
---------- 保阪 正康(ほさか・まさやす) ノンフィクション作家 1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。 --