ニュースなはなし

気になるニュースをとりあげます

昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音

2024年09月28日 11時08分00秒 | 歴史的なできごと
天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました

八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。



昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音 (msn.com) 



正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)(写真=『天皇家の生活』毎日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)


© PRESIDENT Online
昭和天皇が父親のように慕った「老臣」がいる。太平洋戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相だ。2人はどのような関係だったのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から一部を紹介する――。
鈴木貫太郎首相と昭和天皇の深い絆
【半藤】中央政府をめぐる情況の経緯としては、昭和十九年七月十八日に「東條幕府」とまで呼ばれた内閣が総辞職。東條のあとを受けて首相となったのは小磯国昭陸軍大将でした。


これまで見て来たとおり絶対国防圏が破られて玉砕がつづき、昭和二十年三月十日の東京大空襲、おなじく三月の硫黄島玉砕、翌四月に沖縄本島にアメリカ軍が上陸を果たすと、四月五日に小磯内閣が総辞職しました。


次期首班をだれにするか。その日の夕刻から重臣会議が開かれた。そして重臣たちの総意として鈴木貫太郎枢密院議長に組閣の大命が降下した。鈴木はこのとき七十七歳でした。鈴木は昭和四年から十一年末まで侍従長として天皇の近くにあり、天皇は鈴木を父親代わりのように信頼していたといわれています。


【保阪】鈴木貫太郎については、鈴木内閣の国務大臣をつとめた左近司政三の話につきますね。鈴木は、左近司が戦艦長門の艦長の任にあったときの連合艦隊司令長官。二人は昔からごく親しい仲でした。ですから左近司は、組閣時から戦争終結にいたる鈴木の本心を、だれよりもよく知る立場にあった。組閣時から左近司には、その真意をはっきりと伝えられていたことがわかります。


鈴木さんは、組閣の当初からこの内閣で戦争に結末を付けたい。それには志を同じうする人を集めねばならない。勢い軍人内閣になるであろう。眞に相談になる軍人仲間を推薦して呉れと岡田[啓介]さんに相談したらしい。それで、米内海相のアシスタントにする積りで、海軍の荒城二郎、八角(やすみ)三郎と私が候補者に上ったようだ。当時私は貴族院議員をしていた。私は、鈴木さんから呼ばれて丸山町の自宅を訪れた。「御互いに相談して講和を促進したいのだ。無任所大臣になってくれ」とのことであった。


「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない」
【半藤】それのみならず鈴木は左近司に、天皇からどのような言葉をもって頼まれたのか、さらに天皇の母である貞明(ていめい)皇后からどう言われたのかについても話していたのです。とりわけ後者は貴重な証言のように思えます。


鈴木総理は大命を拝するに際して、天皇陛下から(侍従を経て)「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない。ご苦労だが引き受けて呉れ」との御諚(ごじょう)があったよしに承る。また、これは後日郷里関宿(せきやど)で直接鈴木さんから聴いた話だが、貞明皇后に御会いした際「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる。私は陛下が痛々しくて致(いた)し方(かた)がない。私は親を迎えたように頼りにしている。どうか親心を以て天皇陛下を御助け下さい」と淡々と御話があって、鈴木さんは痛く感激し、これでは、身を以て御護(おまも)りせねばならぬと決心したと述懐された。


ここには巷間囁かれるような貞明皇后が昭和天皇を疎(うと)んじていたとか、敗色濃厚となった情勢の責任を天皇に求めたために確執が生まれていた、などとする雰囲気はまったく窺えませんね。


【保阪】この話にふれて私自身は感傷的な気持ちになりました。鈴木貫太郎夫人のたかさんが、昭和天皇の幼年期の教育掛だったことなどを考えると、天皇は鈴木夫妻にはとくべつの感情を持っていたと思う。貞明皇后はそんなことも知っていたから、親のような気持ちで助けてくれないかと心底から頼んだと思うんです。


陸海軍は徹底抗戦・本土決戦を主張していたが…
【半藤】貞明皇后がいみじくも「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる」と言ったとおり、陸海軍はいずれも徹底抗戦を叫び、本土決戦へと舵(かじ)をとっています。じつはその勢いに抗(あらが)うのは並大抵のことではなかった。左近司が語ったつぎのエピソードを読めば、その趨勢(すうせい)がどういうものであったかがわかります。


段々本土の空襲がはげしくなると、陸軍はさかんに大本営を信州松代(まつしろ)の防空壕に移して本土決戦をせんと呼号したが、総理[鈴木貫太郎]はあんな通信連絡の不便な所に行って戦争など出来るものではないし、戦争終結も出来ないといって同意されなかった。また軍令部参謀が屢々閣僚を集めて、本土邀撃決戦の構想などを説明した。敵の予想上陸地点は九十九里浜、駿河湾、九州南部、土佐沿岸などで、敵上陸軍に対しては温存してある数千台の飛行機を以てこれを沖合に邀撃し、愈々陸岸に近接すれば特攻兵機で必殺的の攻撃を加える。国内にはなお何十万の精鋭がおる。これが敵の上陸地点に応じて随所に機動要撃するなどと、虫のよいことを長々としゃべり立てる。鈴木総理は「馬鹿馬鹿しい、どうしてそんなことができるか」と最早最後の一撃にも期待をもたれないようになった。


鈴木首相はポーカーフェイスを貫いた
【半藤】このときもし総理が東條英機であったなら、本土決戦を国策として採用していたであろうことは、まず間違いありません。鈴木の、戦争終結に向かうその姿勢がぶれることはありませんでしたが、徹底抗戦派から殺されてしまってはおしまいですからねえ。外部に対しては飽くまでポーカーフェイスで通しました。それを抗戦派とみる人も多かった。なかなかの狸でした(笑)。


【保阪】その様子を左近司が語っています。


鈴木さんは、最初から講和に決め込んでいたが、陸軍や新聞記者などに対しては時々強気のゼスチャーを示されるので、我々閣僚の中でも、総理は果たして和平を望んでいるのかどうか疑いを抱かせるようなこともあった。時々米内[光政]と私は、総理と膝を交えて講和の真剣な話になると、諄々(じゅんじゅん)とその本心を打ち明けられるのでその度毎に安心して帰った。



下村海南(かいなん)(情報局総裁)なども時々不安に思って、総理の本音を聴こうじゃないかなどと言い出して、関宿の自宅まで押しかけたこともある。しかし、総理はいつも名誉ある講和をと明言されるので、その都度(つど)安心して帰った。


鈴木に信頼を寄せる側近さえ、ときに不安になるほど徹底したポーカーフェイスだったのですね。


軍部の悪あがき、国民を道連れに玉砕に向かっていた
【半藤】そうなんです。昭和二十年六月に沖縄で敗れると、いよいよ軍部は本土決戦を決心します。それを受けて鈴木内閣は「戦時緊急措置法」と「国民義勇兵法」を議会に提出しているのですよ。この法律は、いや、もう法律なんていうようなシロモノではありません。一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権利を政治に一任するという白紙委任状そのものでした。


「秦の始皇帝の政治に似たり」と悪評さくさくで、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科に行って診てもらいましょう」と、とぼけてみせているのです。そりゃあ、まわりは不安にもなりますよ(笑)。


そして政府はこの法案を、強引に六月二十三日に通過させている。これによって、女子も含めて、十五歳から四十歳までの日本人はすべて必要に応じて義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成しなくてはならなくなるわけです。軍部の悪あがきは、まさに国民を道連れに玉砕に向かおうとしていました。私は十五歳でしたから、いざとなれば義勇戦闘隊の一員として……いまになれば、夢みたいな話ですがね。


ポツダム宣言を「黙殺」した本当の理由
【保阪】そうこうしているうちに七月二十六日にポツダム宣言が発表されました。二十八日に新聞記者からどうするつもりか問われた鈴木が、「そんなものは黙殺するよ」とコメントして、それが翌日の新聞に大きく取り上げられてしまった。世界のメディアによって「日本政府はリジェクト(拒否)した」と訳され全世界に伝わって、ソ連に参戦の口実を与えてしまう。この点について批判する人はいるのですが……。


【半藤】ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議は八月九日夜から十日未明にかけて開かれました。国体護持の確認を条件に受諾すべきだという東郷茂徳外相案と、国体護持のほか自主的武装解除、占領は東京を除外するなど四条件が認められないかぎり徹底抗戦すべしという阿南惟幾陸相ら軍部が対立します。そこで鈴木首相が最終判断を天皇に求めた。天皇は外相案に賛成して受諾が決まりました。ところが、まだ戦争を終わらせることはできなかったわけですね。


日本政府が国体護持を条件にしたポツダム宣言受諾を十日、連合国側に通告すると、これに対して届いた回答には、冒頭、「天皇及び日本政府の国家統治の大権は連合軍最高司令官の下に置かれる」とあって、さらに「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」という一文があったからです。軍部は前者について「国体を否定するもの」と断乎反対。後者も共和制を導くものとして反対しました。でもここで、天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました


「本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」
【保阪】御前会議から玉音放送までの道のりが、これまた平坦ではないのですが、そのあたりは、半藤さんの『日本のいちばん長い日』を読んでいただくことをお奨めします(笑)。


【半藤】ありがとうございます(笑)。ひとことだけ付け加えておくと、八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。鈴木と天皇、まさに二人三脚でゴール・テープを切りました。


【保阪】そのあと鈴木は官邸でただひとり泣いていたそうです。御子息の一(はじめ)さんの証言です。ところで、左近司も鈴木をこう評しつつ、自分の談話を締めています。


鈴木さんは、生前自ら「大勇院殿盡忠日貫居士」と戒名を作っておられたそうだが、まさにその通りの鈴木さんであった。私は、鈴木さんの知遇を受け、親しくその偉大なる人格に接し、自らを啓発したことを深く光栄とし、個人を追懐敬慕して止まないものである。


ここからは、心からの賛辞であることがしみじみと伝わってきますね。


【保阪】さて、昭和天皇です。戦争中の天皇のことについてはなにも語らない、というのが、あたかも全員の了解事項でもあるような徹底ぶりでした。


【半藤】司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』みたいですね。あれにも天皇はまったく出てこないのです。


【保阪】明治天皇はまったく出てきませんか。


【半藤】出てきません。開戦のときに御前会議をやるのですが、その御前会議の場面が出てこない。乃木と明治天皇の関わりにもまったく触れていませんしね。


鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」
【保阪】司馬さんは意図的にそうされたのでしょうか。


【半藤】意図的にそうしたのではないでしょうか。エッセイのなかで、天皇を抜きに眺めると日本史はよく見える、というようなことを書いておられる。私なんかは、天皇抜きの明治などあり得ないのではないかと思いますけども、いずれにしても出てきませんよ。


【保阪】さすがに侍従武官をつとめた中村俊久だけは、しっかり語っていました。これが唯一です。中村はしかも昭和十七年十月から二十年十一月まで、つまり戦中から戦後までの大事な期間にその職にあって、近くで天皇を見ていたのです。まず、自分の仕事がどういうものであったかを、わかりやすく説明しているところを引きます。


侍従武官長は蓮沼[蕃(しげる)]陸軍大将、侍従武官は陸軍からは四名海軍からは三名で、私の外城英一郎、佐藤治三郎がいた。以上を以て武官府が出来ていた。その頃、侍従長は海軍から侍従武官長は陸軍から出るのが慣例になっていた。……海軍の侍従武官は一口に云うと、陛下と海軍の連絡係と云ってよかろう。軍部から拝謁の願出があれば、武官府を経て侍従から陛下の御都合を伺いお許しを頂く。軍部から允裁(いんさい)を要する書類は武官府からお手許に差し上げる。また、侍従武官は屢々お使いとして方々に派遣される。


鈴木内閣の陸相阿南惟幾も、侍従武官として天皇の近くにあった経験をもつ人物でした。しかもそのときの侍従長が鈴木貫太郎。左近司が鈴木内閣を「軍人内閣」と評したのはさきほど触れたとおりですが、それに倣えば鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」と言い換えてもいいかもしれませんね。


もし阿南惟幾が陸相ではなかったら…
【半藤】たしかに。八月十五日の朝、阿南は玉音放送を聴く前に責任をとって自刃(じじん)しましたが、もし陸相が阿南でなかったら……。大事件や騒乱を起こさせることなく、粛々と戦争を終わらせることができたかどうかは、難しいところだと思います。


【半藤】中村自身、武官府勤めをした士官たちと、天皇のあいだにあった浅からぬ交流についてはこんなエピソードを紹介しています。


かつての侍従や侍従武官のことに就いては、今日なお昔通りにお目を掛けさせられており、まことに有難い次第である。当時の縁故者は、毎年一月二日宮中においてお祝膳を頂くことになっている。陛下もわざわざお出ましになって、共に御席に就かれ、一同は陛下の万歳を三唱して御歓談申し上げる。その他年末厳寒酷暑には参内して記帳する慣わしになっている。なお、私が鎌倉に住っていることは御存知なので、葉山においでの節は必ず御機嫌伺いに参上することにしている。いつも平服のまま参上し四方山(よもやま)のお話が出て三、四時間もお邪魔することが珍しくない。帰りには皇后陛下より必ず温かい御下がりものを頂戴するのが例になっている。まことに有難い極みである。


天皇の苦しみを理解できた将官はわずかだった
では、談話を締める中村の結語を紹介します。テーマは引き続き天皇です。


下村(定(さだむ))陸軍大臣[最後の陸相]は、昭和二十年一一月進駐軍最高指揮官から軍人恩給を停止されると、責を負って単独辞職をした、拝謁の際陛下は「こんどの敗戦は皇祖皇宗(こうそこうそう)に対しまことに申し訳がない。また朕(ちん)が信頼していた陸海軍は消滅し、沢山の将兵は戦没し、その遺族や生き残りの軍人を困窮させ、その上一般国民にまで多大の迷惑を掛けた。これを思うとまことに断腸の思いである」との意味のことを沁々(しみじみ)と語られ、下村大将は感泣(かんきゅう)して引き退ったと聴いているが、陛下の現在の御心境もその通りであろうと拝察し、恐れ多いことである。臣下は辞職や自決でもすれば一応責任をとったように見えるが、陛下御責任の御自覚は絶対無限である。しかし、その苦衷を誰に語ることも出来ないで、じっと御胸の中に忍んでおられるその御苦衷こそ、我々国民は深く御推量申し上げなければならないと思う。


【保阪】中村のこの発言はまことに象徴的なのですが、ここに登場した将官たちの発言からは、国民に対して重い責任を負うべき立場に自分たちはある、という認識のようなものがまったく見えてこない。もしかしたら、天皇をタブー視していることと、何らかの関係があるのかもしれない、そんなふうにも僕には思えるのです。半藤さんは、これを読んでいかがお感じになりましたでしょうか。


【半藤】まさに「終戦の詔勅」のなかにある「戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク」という言葉そのものです。天皇の苦衷は身体がばらばらに裂けるほど深いものであったのでしょう。それにくらべると、将官たちは……まこと不忠の臣ばかりでした。そして私たち国民のことなど念頭になかったのでしょうね。思えば、われら国民にとっても、このような指導者ばかりであったこと、不幸の極みというしかありません。


---------- 半藤 一利(はんどう・かずとし) 作家 1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。 ----------


---------- 保阪 正康(ほさか・まさやす) ノンフィクション作家 1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。 --











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻生派の高市氏支援が逆効果?石破氏“大逆転”で涙の議員も…小泉氏陣営や旧岸田派が石破氏支持に流れたか

2024年09月28日 08時05分23秒 | 政治のこと

麻生派の高市氏支援が逆効果?石破氏“大逆転”で涙の議員も…小泉氏陣営や旧岸田派が石破氏支持に流れたか(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース 




麻生派の高市氏支援が逆効果?石破氏“大逆転”で涙の議員も…小泉氏陣営や旧岸田派が石破氏支持に流れたか
9/27(金) 16:03配信




4606
コメント4606件




FNNプライムオンライン(フジテレビ系)


FNNプライムオンライン


自民党総裁選の結果と党内の反応について、最新情報を国会記者会館の瀬島記者がお伝えします。


一回目の結果が大きく覆る大逆転劇ともいえる展開に、会場内からは大きなどよめきが起こり、涙を流す議員の姿もみられました。


あるベテラン議員は「アメリカ、中国との外交関係を考えても良い結果になった」と話している他、岸田総理周辺は、「ギリギリの戦いだった。皆、衆議院選挙でどちらが勝てるかを考えたのではないか」と話しています。


一方、高市陣営からは「党員票の結果を覆すことになり、ありえない」との声もあがっています。


一回目では、予想より差を付けて高市氏が勝利していたため、一時、高市氏優勢との見方も出ていたため、これを覆す結果に驚きの声も多く上がっています。


逆転の要因については、高市氏を麻生派などが支援したものの、「これが逆効果だったのでは」との見方もあがっていて、決選投票では、3位となった小泉氏陣営や旧岸田派が大きな塊として、石破氏に流れたものとみられます。


石破氏はこの後週末にかけて、人事構想を練る見通しで、ライバル候補を起用するのかなどが焦点となります。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天気予報=「軍事情報」 米軍の超重要組織JTWCとは “日本の予報より正確”は本当か

2024年09月28日 06時05分43秒 | 天候のこと
Joint Typhoon Warning Center(合同台風警報センター)JTWC

link: https://www.metoc.navy.mil/jtwc/jtwc.html


天気予報=「軍事情報」 米軍の超重要組織JTWCとは “日本の予報より正確”は本当か

9/6(火) 7:12配信2022



四半世紀前、日本に襲来した台風がカタカナ名なワケ


JTWCの建物前に整列したスタッフ。白い制服を着ているのがアメリカ海軍所属で、中央のブルーの制服を着ているのがアメリカ空軍所属。そして向かって左側の私服姿が民間人。まさに合同組織といった趣である(画像:JTWC)。


 今から75年前の1947(昭和22)年9月8日、関東地方や東北地方に甚大な浸水被害をもたらした台風が南太平洋のマリアナ諸島沖で発生しました。「カスリーン」と名付けられたこの台風は、最低気圧960ヘクトパスカル。最大風速は中央気象台(現気象庁)の解析で45m/秒と、大抵の木造家屋が倒壊するとされる風速50m/秒に迫る勢いをもつ非常に強力なものでした。

 【まるでデイトレーダーのよう】JTWCスタッフの作業スペースほか 

 カスリーン台風は日本列島に接近すると、各地で大量の雨を降らし猛威を振るいます。結果、河川の氾濫や堤防の決壊により、全国で死者1077人、行方不明者853人、負傷者1547人、罹災者40万人というという甚大な被害をもたらしました。  

そのため、発生から四半世紀経っても、いまだに「カスリーン台風」という名は昭和史に名を轟かせていますが、そもそもなぜ、日本を襲った台風なのにカタカナ名称なのでしょうか。気象庁などは「台風〇号」と数字で呼ぶのに、数字でないのは何故なのか、それは当時の時代背景が大きく関係していたのです。  

カスリーン台風が発生した当時、日本は敗戦直後であり、アメリカの占領下にありました。そのため、日本に襲来した台風もアメリカが付与した名称で報道されていました。よって「カスリーン」とはアメリカが名付けた名称だからこそ、日本の呼び方とは異なっていたのです。 

 ただ、日本も独自に台風観測をしていたため、日本側が台風と解析したのにアメリカがそれを解析せず、逆にアメリカが台風と解析したのに日本が台風と解析しないといった、統一基準がないゆえの弊害もありました。たとえば、カスリーン台風が襲来した1947(昭和22)年の台風の数を日米で見比べた場合、日本側は17個の台風を解析した一方、アメリカ側は27個の台風を解析するといった差が生じています。

ハワイ所在のアメリカ軍組織「JTWC」


1947年のカスリーン台風災害で冠水した葛飾区の空撮写真。23区内とは思えない(画像:国土交通省)。

 
台風解析を含む天気の情報は、第2次世界大戦当時は軍事機密として扱われていたことから、日本では一時的に天気予報が世の中から消滅していました。一方、アメリカ軍は作戦遂行上、極めて重要な情報として重視しており、大戦末期には気象観測の専門部署として「艦隊気象センター/台風追跡センター」という組織をグアム島に設立しています。 

 このセクションが、太平洋で発生する台風を発見・追跡することで、陸海空軍や海兵隊はもちろん、戦後は民間にも情報を流すことで船舶や航空機を安全に運航できるようにしたといえるでしょう。

  その後、このセクションは海軍と空軍の合同組織となり、ハワイを拠点に全世界へ気象情報を発信しています。それが「Joint Typhoon Warning Center(合同台風警報センター)」、通称「JTWC」です。  JTWCが公開している気象情報はインターネットでリアルタイムに見ることができますが、利用にはいくつかの注意点があります。たとえば、通常6時間ごとに発生した台風の情報が発表されていますが、表示時刻は協定世界時になっているため、日本時間で読み取るためには9時間を加算する必要があります。 

 他にも注意事項があり、平均風速の計測方法が日本の気象庁では10分平均なのに対して、JTWCは1分平均の風速となっている点です。そのため、気象庁の発表よりJTWCが発表する数値の方が大きくなりがちです。また、JTWCでは最大風速のみを発表しているため、中心気圧で強さを判断している気象庁の方法とは異なる表示となっています。  

そのため、気象庁とJTWCが発表するデータを併用することができれば、より正確な台風情報を得ることができるといえるでしょう。

気象庁とJTWCの天気、比べてみたら?


 また、日本に定着している中心気圧と、JTWCが発表する最大風速の両方を見れば、その台風が過去に発生したどの台風と似ているのかを判断する基準にできるともいえます。  

なお、SNSなどでは天気予報に関して、日本の気象庁よりもアメリカ海軍/JTWCの方が正確だといった噂も耳にすることがありますが、それは誤りであり正しいともいえます。 

 あくまでも、天気予報は「予報」、すなわち予測でしかありません。そのため、単一の情報源だけに頼るのではなく、同じ事象を解析している複数の情報から、予測される情報を得た方が、結果的には精度が高まります。  

気象庁とJTWCの情報は一致する時もあればそうでない時もあります。ゆえに、どちらが優れているかではなく、両者を組み合わせることで正しい情報判断をするのが、災害防止の観点からは重要なことだといえるでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストレスが脳を壊す!脳神経内科医が教える脳の健康とストレスの意外な関係性

2024年09月28日 00時03分03秒 | メンタルヘルスのこと>心の健康

ストレスが脳を壊す!脳神経内科医が教える脳の健康とストレスの意外な関係性 (msn.com) 

さらに米国フロリダ州立大学の研究によれば、認知症の発症リスクをもっとも下げるのは「責任感」だとしています。責任感が強い人は認知症の発症リスクが約35%低下していました。また、「自制心」と「勤勉さ」も認知症の予防に関係していたのです。



いつまでも健康な脳でいたいですよね。それなら、ストレスのない生活をしましょう。脳神経内科医の米山公啓氏の著書『医師が教える元気脳の作り方』によると、脳の健康とストレスは大いに関係しているそうです。本書からその理由を紹介します。


ストレスに脳は非常に弱い
コロナ禍で、私もさすがに極度のストレスにさらされました。開業医というものが、リスクの高い仕事とはあまり思っていませんでしたが、コロナ禍でまだ治療法もわからない時期、それに向かっていかなければならないのは、かなりのストレスでした。

むろん病院に勤務する医者はもっと極限状態にいたと思いますが、感染のリスクという意味では、開業医もあったのです。そもそも、感染症に対する対策など、ほとんど知らないのが現状でしたし、そんな訓練も受けていなかったのです


感染症という病気は、現代医学では、王道ではなく、むしろ隅に追いやられていた病気とも言えます。とくに先進国の医者はすっかり感染症のリスクからは遠ざかっていたのが現実でした。そこに突然新型コロナウイルスが出現したのです。日本の防疫システムも弱いですし、それ以上に感染症の専門家はごくわずかしかいませんでした。



開業医にしてみれば、まったく未知の話であり、どう対処していっていいのかわかりませんし、十分に情報も入ってきません。だから患者さんにどう接していけばいいのかもわからないまま、診療を続けたわけです。無論医師会などからサポートやアドバイスが十分にあったわけではなく、試行錯誤状態でした。


そのときのストレスは、想像以上のもので、コロナワクチンを接種するだけで、打っている医者のほうも実は非常に緊張して、疲れ果てていました。なので、コロナ禍の2年目には私自身かなりまいっていました。こんなストレスの中でどう仕事をしていけばいいのかよくわかりませんでした。医者の仕事がこれほどストレスの多いものとは思ってもいなかったのです。


そういったストレスに脳は非常に弱いのです。その象徴的な例が心的外傷後ストレス障害(PTSD)です。PTSDはベトナム戦争後の退役軍人の研究によってよく知られるようになりました。極限状態のストレスによって、不眠や小さな物音にもビクッとするような過覚醒状態、茫然自失、再体験、回避などの症状が出てきます。


そのPTSDの人の海馬に萎縮が見られたという報告が複数あります。海馬というのは、脳の中で記憶の保持、強化を司る場所です。海馬が萎縮するということは、記憶に関する機能不全が起こる可能性があることを意味します。つまりストレスによって脳の一部が壊れてしまうということです、海馬は記憶に関係するところですから、常にストレスがかかるような状況では、強いストレスでなくとも脳にいい影響が出ないことになります。




心配事や不安を抱えた人にMCI(軽度認知障害)が多いという研究もあります。MCIは認知症の一歩手前ですから、ストレス回避によって脳を守ることが、認知症の発症を抑えることになります。ストレスを受けると、体内ではそれに対抗するために、副腎からコルチゾールというホルモンが分泌されます。コルチゾールはからだに必要なものですが、慢性的なストレスによってコルチゾールが過剰に分泌されると、海馬の神経細胞が破壊され、萎縮してしまうのです。






さらにストレスは脳の大脳皮質前頭前野というもっとも人間にとって高度な機能を持つ場所に影響を与え、精神機能を奪う可能性があることもわかっています。前頭前野の感情を抑制する機能が作用しなくなり、強いストレスを感じると抑制できていた感情や衝動が爆発して、急な不安に襲われたりするようになります


海馬同様に、前頭前野にある神経回路は日常のストレスや不安で刺激を受けやすく、前頭前野でストレスホルモンなどの神経伝達物質の濃度が上がると、神経細胞間の活動が低下して機能不全に陥るのです。原因であるストレス自体が減れば神経伝達物質の分解酵素が働くので、前頭前野の神経回路は元に戻ります。ただ、慢性的に長期間ストレスを受けていると、前頭前野の神経細胞は壊れてしまうので、元にはもどらなくなります。いかにストレスから解放されるかが重要な意味を持ってくるわけです。


私の場合、コロナ禍のストレスの多い時期、偶然時代小説の依頼が来たのです。今まで医学ミステリーは10冊以上、本を出していますが、時代小説はまったく書いたこともないものでした。有能で大ベテランの編集者のYさんのおかげで、1年掛かってようやく『看取り医 独庵』が完成しました。1750年前後を想定した江戸の医者が活躍する時代小説です。


昼間はコロナのワクチンをたくさん打って、疲労困憊でしたが、それでも深夜まで小説を書くことで、精神的なバランスを保っていたのです。ストレスを発散する方法は人それぞれです。自分なりのストレス発散法を持っていることが結局は自分の脳を守っていくことになります。


ストレス回避の方法
心配や不安といったことは、からだや心に負担をかけます。それをストレスと一般的には呼んでいます。ストレスは生きている限りなくなることはありません。私たちはストレスとうまくつきあっていくしかないのです。心的外傷後ストレス症候群(PTSD)で海馬が障害を受けることは前述しました。


うつ病でも重症になってくると、海馬が障害され、治ってくると海馬の神経細胞が新生されることがわかっています。いかに脳がストレスの影響を受けるかわかります。楽観的で前向きな性格の人に認知症が少ないのは、ストレス回避が上手で、脳のストレス負担を減らせるからです。


一方で、軽度のストレスはむしろ脳を活性化させることができるメリットもあります。つまり、仕事の締め切りがあるから、がんばろうとしますから、いつも以上の能力を発揮することができます。つまり、ストレスをうまく利用していけば、脳は活性化していくはずです。



それには、達成可能な目標設定が必要になります。あまりその目標が高ければストレスになりますし、低すぎれば、意欲がなくなってしまいます。つまり仕事ができる人は、その目標設定が上手なのです。脳にとって悪いストレスというのは、長く続くストレスです。自分で解決できない問題、例えば職場にいやな上司がいるというような場合は、なかなか短期間に解決する方法がありません。


持続するストレスこそが、脳をだめにしていくのです。決断が下せない状態が長引くことが、脳への負担を増やすことにもなります。早く決断して答えを出すことが、ストレス回避の第一歩です。自分でどうにもならなければ、やはり友人、第三者など外からの力を借りるべきでしょう。そうすることをためらってはいけないのです。


ストレスをむしろうまく利用していくことが重要なのです。つまり、どうして自分だけこんなことになるのだと思うのではなく、それには何か理由があるからこうなったのだと問題解決に思考していくべきなのです。それも、ストレスを乗り越えるひとつの方法なのです。


性格とストレス
私の友人となると、やはり医局にいた仲間ということになります。開業医というのは狭い世界にいて、なかなか医療関係者以外の人間関係が作れないものです。私は作家業を30年くらいやってきたので、医療以外のいろいろな世界を見てきました。だから仲間の医者よりは、広い人間関係を持てていると思っています


というのも、昔の医局の仲間、ほとんど開業医になっていますが、年に数回会うとき、そこでの話は医療関係以外の話にはまずならないのです。ストレス回避の一番簡単な方法は、話をする、あるいは愚痴を言うことです。つまり愚痴を言えたり、本音を語れる仲間をどれだけ持っているかで、ストレス発散ができるかどうかになるのです。



医者の仲間では、自分の子供を医者にしたこと、インフルエンザワクチンをいくらで打っているとか、昔の教授は今何をしているとか、あくまで医療がらみの話になります。新しい趣味を始めて、こんな面白い経験をしたとか、今こんな音楽を聴いているとか、なかなか趣味を徹底的にやっている医者の仲間は少ないのです。


だから、会っても新しい情報を手に入れることが少なく、私にとっては面白くないのです。医者は自分の子供を医者にすることが多いのですが、医者になれば、収入も増えて社会的に安定していると信じているからではないでしょうか。


ところが、勤務医で定年を迎えると、次の就職先を探すことが大変な時代になってきています。高校の同級生で、自分より成績の悪かった人が、大手の企業に就職して、同じように定年を迎えたとき、大きな逆転が起こることを、医者のほとんどはわかっていません。大手企業で出世しなくて定年になったとしても、企業年金、退職金があり、完全にリタイアしても優雅な老後を過ごせるのです。


ところが勤務医は、病院からの退職金は驚くほど少なく、年金も特別に多いわけではありません。結局、どこかの病院で働き続けるしかないのです。開業医に定年はありませんが、退職金はありません。あくまで健康であれば、70歳を過ぎても働くしかありません。優雅な老後というものを、ほとんどの開業医は考えません。定年がないので老後の計画を考えることはないのです。


仲間と話していても、そんな心配をしている連中はいないのです。私立の医学部へいけば、1人最低5000万円はかかります。だから開業医は稼ぐことはできますが、子供を私立医大へいかせれば、決して優雅な老後はなく、働き続けるしかないのです


長い人生の計画などまったく考えてもいません。本当は医者仲間と会ったとき、そんな話をするべきでしょうが、目先の話で終わってしまうのです。会話でストレス回避をするには、どうも同僚やもとの研究仲間ではだめなようです。本音や愚痴を言える友人を、どれだけ持っているかが重要なのです。


一般的に神経症傾向が強い人は認知症のリスクが上がると考えられています。なぜでしょうか。神経症傾向であるとストレスを受けやすくなり、長期にストレスを感じやすくなるので認知症の発症率が上がってしまうのです。神経症傾向の特徴として、傷つきやすさや自意識の強さというものがあります。それは、人との交流を回避しがちになり、人間関係も希薄になり社会的に孤立しやすくなります。


そのために、うまくストレス回避ができないのです。友人の少ないことが、脳に悪影響を及ぼすのです。さらに認知症を発症していても、周囲の人に、気が付いてもらうチャンスが少ないので、認知症は進行してしまう危険があります。


また、協調性がない人、イライラしやすい、気にしやすい人は、認知機能障害の発症リスクに関係性があるという報告があります。前述したように、社会的孤立が認知症の大きな危険因子です。周囲との人間関係をうまく築きにくいことで、社会的孤立を招きやすく、相談相手、話し相手もいないことでストレスを溜めてしまうことになります。


また、認知機能の低下により、日常生活や社会生活に支障が出ている状態が認知症です。何か困ったことがあったとしても、人間関係が希薄なため、周囲からの助けがなかなか得られず、そのまま困った状態に置かれやすいのです。


さらに米国フロリダ州立大学の研究によれば、認知症の発症リスクをもっとも下げるのは「責任感」だとしています。責任感が強い人は認知症の発症リスクが約35%低下していました。また、「自制心」と「勤勉さ」も認知症の予防に関係していたのです。


責任感があって、自分をコントロールでき、勤勉に働く人をひと言でいえば、誠実な人です。誠実な性格の人は認知症になりにくいということでしょう。長寿にとってもっとも重要なことが勤勉性という研究もあります。性格によってリスクにもなりますし、病気の予防にもなるわけです。性格自体はなかなか変えることは難かしく、周囲がサポートしていくしかないでしょう。だからこそ、周囲の人との人間関係を作っていくこと、昔の仲間を大切にして、定期的に会食や宴会をすべきなのです。


米山公啓


脳神経内科医









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする