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警察庁長官と警視総監、本当に偉いのはどっち?」日本人もよく知らない"警察2トップ"の違い

2024年09月28日 23時05分37秒 | 社会のことなど

警察庁

わたしの見たところ、警察組織全体の階級序列は長官、次長、官房長、そして、警視総監となるのではないか。

 ■長官の月収は117万5000円、総監は110万7000円  給料も長官は指定職(※)では最高の8号俸で、総監は7号俸。 


警視庁

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

日本の警察は、警察庁と都道府県警察という2つの組織に分かれている。例えば警察庁のトップは警察庁長官だが、都道府県警察のトップは警視総監となる。そのほかには一体どんな違いがあるのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが解説する――。 

【図表】警察庁組織図  

※本稿は、野地秩嘉『警察庁長官 知られざる警察トップの仕事と素顔』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■「警察庁」と「都道府県警察」  

日本の警察はふたつの組織に分かれている。  

ひとつは中央官庁である警察庁だ。職員は国家公務員で、霞が関にある合同庁舎内で働いている(図表1)。  

警察の総職員数、約30万人のうちの8000人前後が警察庁の職員で、東京大学卒、京都大学卒を主とするキャリア官僚の組織である。仕事は各県警を束ねる行政管理、政策を作るための企画立案、広域捜査の指導、連絡、調整など。企画立案というのは法律を作ることなのだけれど、憲法では立法は国会議員がやることになっている。そこで、企画立案という表現にしたのだろう。しかし、警察関連の法律は実際のところは警察庁の人間が作っていることは間違いない。  

もうひとつの警察は都道府県警察だ。各都道府県には警察本部があり、地方公務員の職員が働いている。数は28万8000人。そのうち、警視庁(東京都警察本部のこと)に所属するのが4万6000人(図表2)。

 ■「ノンキャリア」と呼ばれる警察の道 

 都道府県警察の職員は高校や大学を出て、各都道府県で採用され、警察学校を出た人たちだ。なかには東京大学、京都大学を出た人もいるけれど、ノンキャリアと呼ばれる。 

 都道府県警察に勤める警察官のうち、一部の人は警察庁に異動することもある。ただし、地方公務員として採用されているので、最終的には採用された都道府県に戻る。都庁や県庁に採用された職員が国の官庁に出向するケースと同じである。

  また、県警本部で長年勤め、警視正となった場合、本人が望めば地方に勤務しながら国家公務員になることができる。この場合、県によっては給料が下がってしまうこともあるのだが、たいていの人は給料より国家公務員になる方を選ぶという。


■巡査部長、警部、警視正…階級は数多い 

 前項で警視正という階級呼称を使ったので、ここで階級とそれに対応する役職について整理しておく。 

 階級は巡査から始まり、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監となっている。 

 ノンキャリアの場合、巡査で入る。巡査から警部までの昇任はすべて筆記試験の成績や勤務成績等の総合評価で決まり、年功序列ではない。ノンキャリアの警察官は仕事と試験に追われる生活だ。

  ただ、警部から上の警視、警視正、警視長に昇任する場合には筆記試験はないが、一方でポストに空きがなければ昇任しない。  

そして、ノンキャリアの昇任は警視長までだ。警視監、警視総監にはならないというか、なれない。たとえ警視長まで昇任したとしても、その時にはすでに定年年齢の60歳に限りなく近くなっている。そこで定年を迎えることになるから警視監、警視総監にはなることはできない。もっとも警視総監は東京都にある警視庁のトップ、たったひとりだけの階級だ。

 ■高学歴卒でも官僚の道を選ばない人間もいる 

 目安で言えば都道府県警察の警視正とは大規模署の署長もしくは本部の部長にあたる。県警本部の部長とは本部長のすぐ下の職位だから、県の治安を預かる大きな権限を持つ。ノンキャリアで入って都道府県本部の部長まで行けば大したものと言えよう(図表3)。 

 なお、東京大学、京都大学を出ても地方採用として警察組織に入る人間がいるのは自分が生まれた町の治安をよくしたい、加えて、現場で犯人を追いかけたいというふたつの気持ちが主ではないかと思われる。 

 警察庁で法律を作ったり、管理職になるよりも「オレは一生、現場の刑事として事件を解決したい」という人の気持ちはよくわかる。刑事は休みも少ないし、大変な仕事だけれど、人のために尽くす仕事だ。やりがいという意味では命を救う医師、消防士に匹敵する。

■県警本部長を経て部長、局長…と上がっていく 

 さて、階級の話に戻る。 

 警察庁に入ったキャリアのスタートは警部補だ。以後の昇任にも試験はない。警察庁内と全国各地の警察本部を異動しながら経験を積んで地位は上がっていく。 

 警察庁に入った後、地方に出て交番や捜査の現場を経験する。その後、警察庁に戻り、係長として行政業務を担当する課長になる。

  30代中ごろになってから現場の警察署長、もしくは県警本部の部長になる。 

 50歳前後で警視長になるので警察庁の課長や小規模県の県警本部長をやり、その後警視監として大きな県の県警本部長になる。  

その後、警察庁に戻ってきたら、警察庁本庁の部長、審議官、局長を務める。  本庁の局長職は5つ。別に長官官房がある。5つとは生活安全、刑事、交通、警備、情報通信の各局だ(図表3)。 

 各県警本部には地域部(交番のおまわりさんや白バイ警官が所属する)、公安部(国家体制を揺るがすような事案に対応する警備警察で、東京都のみにある)があるけれど、警察庁にはそれに該当する局はない。地域部は現場の仕事だから、中央官庁の警察庁には必要ないのだろうし、公安は警備局のなかに含まれている。 

 また、警察庁は2022年から、サイバー攻撃やサイバー犯罪に対処する体制を強化するため、「サイバー局」を新設することにした。警察庁が直轄する「サイバー直轄隊」も設置する。これにより、現場の捜査権限は都道府県が持つ従来の警察のあり方が変わることになる。

 ■警察庁長官と警視総監、本当に偉いのはどっち? 

  テレビのクイズバラエティでは「警察庁長官と警視総監はどちらが偉いのか」といった問いが出る。ためらうことなく、「警視総監」と答える人がいるくらいだから、世の中の大半はどちらが偉いのかよりも、まずは警察庁と警視庁の違いがわからないのではないか。 

 国税庁、資源エネルギー庁、海上保安庁、公安調査庁など、「庁」が付くのは国の組織だ。警察庁もしかりである。そして、「庁」は、府や省の「外局」として置かれているものを言う。 

 ところが、警視「庁」だけは国の組織ではない。東京都に属するのに、庁が付くところが、ややこしい。警視庁は東京都にある都道府県警察のこと。神奈川県警や北海道警と同格だけれど、呼び名が警視庁となっているだけだ。  

どうして? 

と問われたら、明治以来の由緒正しい呼称だから変えられない、と答えるしかない。長官は国税庁にも海上保安庁にもいるけれど、総監と名の付く人物は日本では、たったひとりだ。  「総監の方がいかめしそうだし、偉いんじゃないか」と誤認する人がいても仕方のないことだろう。

■階級序列は「長官、次長、官房長、警視総監」  

だが、事実は警察庁長官がもちろん警察組織全体のトップだ。  

警視総監は東京都の警察組織、警視庁のトップである。警視総監は警察組織全体では序列は2番目と書いてある資料もあるけれど、実際は違うと思う。  

というのは警察庁のナンバー2は警察庁次長だ。ナンバー3は官房長。そして、官房長、次長を務めた人は長官に昇任するのが通例だ。また、次長と警視総監の入庁年次や年齢を見ると、次長の方が警視総監よりも年次が古い。つまり、先輩なのである。 

 ただし、ここにもまた例外がある。95代の三浦正充警視総監(2018~20年)は「24年ぶりに警察庁次長から就任」だった。そして、彼以外の歴代総監の前職を見ると、警備局長、官房長、刑事局長だった人もいる。つまり、警視総監は局長を務めてから就任するポストだ。 

 一方、警察庁長官は前述のように別格の局長とも言える官房長になり、そして次長を経てから就く。年齢にすると、2歳くらい、警察庁長官の方が年上になる。  

わたしの見たところ、警察組織全体の階級序列は長官、次長、官房長、そして、警視総監となるのではないか。

 ■長官の月収は117万5000円、総監は110万7000円  給料も長官は指定職(※)では最高の8号俸で、総監は7号俸。 


 長官は各省の事務次官と同じ額で、事務次官等連絡会議にも出席する。つまり、各省の事務次官と同格だ。

一方、警視総監の給料は内閣府審議官、公正取引委員会事務総長、財務官、外務審議官など、各省の審議官、国税庁長官、海上保安庁長官と同じ俸給である。 

 指定職の年俸とはあくまで本俸で、これに地域手当がつくから本俸の1.2倍くらいにはなる。ただし、フェアな意見としては公務員幹部の給料は民間会社の社長に比べると、安い。 


 総理大臣でさえ年間4049万円だ。総理大臣の責任の重さ、年中無休の24時間営業を考慮すると、総理大臣の俸給は外資系企業エグゼクティブ、外資系金融マンの給料と比べると、不当とも言えるくらい安い。

以下はリンクで


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大宮駅です

2024年09月28日 17時29分06秒 | 日々の出来事


人混み
ですね⭐
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パパ活をやめた女子大生、度重なるトラブル被害で心に深い傷… 「男の4割は金を払わない。避妊しない」

2024年09月28日 15時03分41秒 | 女と男のこと


現在、大学4年生の香織さん(22歳・仮名)は、大学1年生の夏からパパ活を始めた。サークルの活動費や交際費などで出費が増えたためだった。一般的なアルバイトだと、給料が翌月に払われることが多い。すぐに現金が必要だった香織さんは、手っ取り早く稼げる方法をインターネットで調べるうちに、パパ活を知った。

失恋したばかりで、自暴自棄になっていたことも背中を押したという。

(中略)

そして40代の会社員と会うことに。最初は顔合わせとして、お茶をするだけの約束で、その分のお金ももらえる予定だった。だが、喫茶店を出た後にレンタルルームに誘われ、されるがままに性的な関係を持つことになった。

「誘われたとき、『あれ?』と思いましたが、気さくな人だったし、そういうことを求めてくるとは想像がつきませんでした。あと、もしかしたら『お手当』をもらえるかも、という期待もあって、断れませんでした」

だが終わった後、男性が「これ、交通費ね」と差し出したのは、500円だった。ちなみに、香織さんにとっては初めての性体験だった。そのときの気持ちをこう振り返る。

「悲しいというか、ただうつろな感じでした。喪失感がすごく大きかったです。同時に、自分が金銭的な価値を付けられる人間だと知って、体を仕事道具だと割り切って稼ぐしかない、と思うようにもなりました」

(中略)

●「一緒にお金を取りに来て欲しい」40代男性は逃げた
だが、危険とリスクはつきものだ。ある日、40代男性と会うことになった香織さん。「可愛いから10万円あげる」と言った男性とともに、ホテルに行くことになった。しかし男性は、ホテル代を香織さんに支払わせた上、肝心の10万円は「近くのビジネスホテルに滞在していて、そこに置いてある」と言い出したのだ。

「部屋までお金を取りに来てほしい。プレゼントも用意している」と言った男性を信じ、着いて行くことに。一緒に部屋まで行こうとすると、男性は香織さんを振り切ってエレベーターに乗り、逃げてしまった。やり取りしていたサイトでもブロックされ、連絡は取れなくなった。

「パパ活って、最初にお金をもらっておかないと、ほとんどの場合払ってもらえません。でも切り出しにくいし、『信用していないのか!』と怒らせてしまったらどうしよう、みたいな気持ちもあって、なかなか言えないんです」

トラブルは金銭面だけでない。ホテルで性行為中、無断で顔を映され、動画を撮られてしまったこともある。流出しないか、今でも怖いという。

●「約4割の男性とトラブルがあった」
香織さんは、パパ活で出会った約70人の男性の内、約4割の男性と何らかのトラブルがあったと振り返る。

「お金を払わないとか、避妊をしないとか…。でも、そういう人も悪いけど、パパ活をしてる自分にも責任がある。よくないことをしておいて、人に助けてとか、話を聞いてとか言えないこともわかっています」

現在、香織さんはパパ活をやめ、新しい彼氏もいる。しかし、パパ活は気が付かないうちに、香織さん自身に大きなダメージを与えていたようだ。男性との付き合い方、性交渉に対する価値観は大きくブレたままだ。

「彼氏とホテルに行ったら、パパ活のことがフラッシュバックして、泣いてしまったんです。結局、最後までできませんでした。自分が楽しむためじゃなく、誰かに商品として求められてじゃないとできなくなってしまいました。自分にとって、性行為は自傷なのかもしれない」

また幸せで穏やかなときよりも、つらく苦しい状態があるべき自分だという感覚に陥り、その状態を自ら作ろうと、生活も乱れてしまっているという。そのように傷を抱えていることを自覚しながらも、パパ活を再開する可能性はあると、香織さんは話す。

「緊急事態宣言で、アルバイトがなくなってしまったんです。稼ぐための選択肢として知ってしまっているので、『困ったら最悪パパ活すればいいか』みたいな気持ちはあります。もう懲りたからやらない、とは言えないです」

最後に香織さんは、これからパパ活を始めようとしている女性に、こう忠告した。

「SNSには、パパ活をしている女性の『一緒に映画を観に行っただけで何十万円もらえた』とか、派手な話がバズってますよね。でも、そんなのは本当に一握りです。普通の女子大生が危険もなく、たくさん稼げることはあり得ない。変に夢を持たない方がいいです」


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マイナ保険証「今からでも撤回すべき」医療・介護・福祉分野の当事者らが集会 政府に方針転換迫る

2024年09月28日 13時05分33秒 | 医療のこと



マイナ保険証「今からでも撤回すべき」医療・介護・福祉分野の当事者らが集会 政府に方針転換迫る (msn.com) 




労働組合関係者ら、多くの参加者がシュプレヒコールを上げた(弁護士JP編集部)

© 弁護士JPニュース
医療・介護・福祉分野の予算増などを国に求める集会が9月26日、東京・日比谷公園の野外音楽堂で開催された。


集会は全国保険医団体連合会、日本医療労働組合連合会らで構成された「24年『医療・介護・福祉に国の予算を増やせ!9・26いのちまもる総行動』実行委員会」によるもので、2400人が参加(主催者発表)。YouTubeでのライブ配信も行われた。


「社会保障重視の政治」実現訴える
日本医労連の佐々木悦子中央執行委員長は集会の冒頭、「医療・介護・福祉の充実、強化がさらに重要となるなかで、命と暮らし、人権を守る政策が必要だ」と訴えた。


「政府は、財政健全化の名のもとで、高齢者の医療費窓口負担や、国民健康保険料の値上げなど、社会保障の全分野で国民負担増と給付削減を進めてきました。



こうした政府の姿勢を転換させ、医療・介護・福祉従事者の大幅な賃上げや、医療・社会保障費の増額、紙の保険証の維持など、社会保障重視の政治を実現させましょう」(佐々木氏)


野党議員も参加、マイナ保険証巡り厳しい声続々
集会には複数の野党議員も駆け付け、特に岸田政権が推し進める紙の保険証廃止については、登壇した各議員から厳しい声が上がった。


日本共産党の小池晃書記局は、マイナ保険証に関するトラブルが多発していることを挙げ「紙の保険証廃止は百害あって一利なしだ」と政府の方針を問題視。


国会の地方デジタル委員会に所属している杉尾秀哉参議院議員(立憲民主党)も「マイナ保険証によって、医療機関で働く人の負担が増えている」と述べ、以下のように続けた。


「先月(8月)の時点で、マイナ保険証の利用率はたったの12%でした。こんな状況で、12月までに紙の保険証を廃止できるわけがありません。


何としてでも、12月での紙の保険証廃止を延期し、そして、ひとりひとりの命を大事にする政治へと私たちの力で変えていきましょう」





立憲民主党からは医師で衆院議員の吉田恒彦氏(左)も参加した(弁護士JP編集部)

© 弁護士JPニュース
また、自身も障がい当事者である天畠大輔参議院議員(れいわ新選組)は「保険証の廃止は、意思決定や情報管理に他者が介入せざるを得ない重度障害者をも置き去りにする施策だ」と指摘、廃止撤回を訴えた。


「そもそも、紙の保険証廃止の方針転換をした経緯は政府の記録にきちんと残っていません。


保険証廃止の影響は国民全体にも波及するにもかかわらず、誰がどう決めたのかもわからない状態で廃止が決定した。


政府は、国民への説明責任を果たしておらず、今からでも方針を撤回すべきです」(天畠議員)


現場からも予算増や紙の保険証維持求める声
医療や介護現場の当事者らによるリレートークでも、紙の保険証維持や、医療・社会保障費の増額を求める声が相次いだ。



医師の男性は自身の経験から、「私の医院でも、ほとんどの方が紙の保険証を提示していて、これまで何も問題は起きておらず、むしろマイナ保険証に切り替えれば事務的な負担につながります」と訴えた。


また、看護師の女性は、長時間労働や深刻な人手不足解消のため「医療や介護の現場に予算を回してほしい」と語った。


「夜勤で働く看護師は、昼間に働く看護師と違い人数が少なく、みんな疲れ果てている。


さらに、看護師は感染対策や新しい機械の勉強が必要となり、私生活もだいぶ制限される状況が続いている。このような状況下では、新しく入ってきた人が自信を失い、体を壊したりして、辞めたくなるのも本当にわかります。


(国は)大切な医療や社会保障に予算をまわし、時間と余裕があって、患者のそばにいられる看護(環境の整備)を目指してほしいです」


集会では最後に、下記の4つについてあらためて訴えた。


①医療・介護・福祉従事者の大幅増員・大幅賃上げ、診療報酬・介護報酬の再改定を実現すること


②医療・社会保障費を増やし、患者・利用者の負担増を止めること


③紙の保険証維持・保健所増設で地域の医療・介護をまもること


④軍事ではなく外交・社会保障重視の政治に転換すること


シュプレヒコールを上げたのち、参加者らによるパレードも実施された。


自民党の総裁選やその後の総選挙で、マイナ保険証をはじめとする医療や介護、福祉の課題解決に向けた議論が進むことを期待したい。









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昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音

2024年09月28日 11時08分00秒 | 歴史的なできごと
天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました

八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。



昭和天皇が父親のように慕っていた…太平洋戦争を終結に導いた「77歳の老臣」に昭和天皇が打ち明けた本音 (msn.com) 



正装姿の昭和天皇(燕尾服・大勲位菊花大綬章・同副章)と香淳皇后(ローブデコルテ・勳一等宝冠章・同副章)(写真=『天皇家の生活』毎日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)


© PRESIDENT Online
昭和天皇が父親のように慕った「老臣」がいる。太平洋戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相だ。2人はどのような関係だったのか。半藤一利さんと保阪正康さんの著書『失敗の本質 日本海軍と昭和史』(毎日文庫)から一部を紹介する――。
鈴木貫太郎首相と昭和天皇の深い絆
【半藤】中央政府をめぐる情況の経緯としては、昭和十九年七月十八日に「東條幕府」とまで呼ばれた内閣が総辞職。東條のあとを受けて首相となったのは小磯国昭陸軍大将でした。


これまで見て来たとおり絶対国防圏が破られて玉砕がつづき、昭和二十年三月十日の東京大空襲、おなじく三月の硫黄島玉砕、翌四月に沖縄本島にアメリカ軍が上陸を果たすと、四月五日に小磯内閣が総辞職しました。


次期首班をだれにするか。その日の夕刻から重臣会議が開かれた。そして重臣たちの総意として鈴木貫太郎枢密院議長に組閣の大命が降下した。鈴木はこのとき七十七歳でした。鈴木は昭和四年から十一年末まで侍従長として天皇の近くにあり、天皇は鈴木を父親代わりのように信頼していたといわれています。


【保阪】鈴木貫太郎については、鈴木内閣の国務大臣をつとめた左近司政三の話につきますね。鈴木は、左近司が戦艦長門の艦長の任にあったときの連合艦隊司令長官。二人は昔からごく親しい仲でした。ですから左近司は、組閣時から戦争終結にいたる鈴木の本心を、だれよりもよく知る立場にあった。組閣時から左近司には、その真意をはっきりと伝えられていたことがわかります。


鈴木さんは、組閣の当初からこの内閣で戦争に結末を付けたい。それには志を同じうする人を集めねばならない。勢い軍人内閣になるであろう。眞に相談になる軍人仲間を推薦して呉れと岡田[啓介]さんに相談したらしい。それで、米内海相のアシスタントにする積りで、海軍の荒城二郎、八角(やすみ)三郎と私が候補者に上ったようだ。当時私は貴族院議員をしていた。私は、鈴木さんから呼ばれて丸山町の自宅を訪れた。「御互いに相談して講和を促進したいのだ。無任所大臣になってくれ」とのことであった。


「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない」
【半藤】それのみならず鈴木は左近司に、天皇からどのような言葉をもって頼まれたのか、さらに天皇の母である貞明(ていめい)皇后からどう言われたのかについても話していたのです。とりわけ後者は貴重な証言のように思えます。


鈴木総理は大命を拝するに際して、天皇陛下から(侍従を経て)「この難局を収拾し得るものは鈴木の外にはない。ご苦労だが引き受けて呉れ」との御諚(ごじょう)があったよしに承る。また、これは後日郷里関宿(せきやど)で直接鈴木さんから聴いた話だが、貞明皇后に御会いした際「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる。私は陛下が痛々しくて致(いた)し方(かた)がない。私は親を迎えたように頼りにしている。どうか親心を以て天皇陛下を御助け下さい」と淡々と御話があって、鈴木さんは痛く感激し、これでは、身を以て御護(おまも)りせねばならぬと決心したと述懐された。


ここには巷間囁かれるような貞明皇后が昭和天皇を疎(うと)んじていたとか、敗色濃厚となった情勢の責任を天皇に求めたために確執が生まれていた、などとする雰囲気はまったく窺えませんね。


【保阪】この話にふれて私自身は感傷的な気持ちになりました。鈴木貫太郎夫人のたかさんが、昭和天皇の幼年期の教育掛だったことなどを考えると、天皇は鈴木夫妻にはとくべつの感情を持っていたと思う。貞明皇后はそんなことも知っていたから、親のような気持ちで助けてくれないかと心底から頼んだと思うんです。


陸海軍は徹底抗戦・本土決戦を主張していたが…
【半藤】貞明皇后がいみじくも「陛下は、陸軍や海軍からいろいろ無理なことを逼られて悩み抜いておられる」と言ったとおり、陸海軍はいずれも徹底抗戦を叫び、本土決戦へと舵(かじ)をとっています。じつはその勢いに抗(あらが)うのは並大抵のことではなかった。左近司が語ったつぎのエピソードを読めば、その趨勢(すうせい)がどういうものであったかがわかります。


段々本土の空襲がはげしくなると、陸軍はさかんに大本営を信州松代(まつしろ)の防空壕に移して本土決戦をせんと呼号したが、総理[鈴木貫太郎]はあんな通信連絡の不便な所に行って戦争など出来るものではないし、戦争終結も出来ないといって同意されなかった。また軍令部参謀が屢々閣僚を集めて、本土邀撃決戦の構想などを説明した。敵の予想上陸地点は九十九里浜、駿河湾、九州南部、土佐沿岸などで、敵上陸軍に対しては温存してある数千台の飛行機を以てこれを沖合に邀撃し、愈々陸岸に近接すれば特攻兵機で必殺的の攻撃を加える。国内にはなお何十万の精鋭がおる。これが敵の上陸地点に応じて随所に機動要撃するなどと、虫のよいことを長々としゃべり立てる。鈴木総理は「馬鹿馬鹿しい、どうしてそんなことができるか」と最早最後の一撃にも期待をもたれないようになった。


鈴木首相はポーカーフェイスを貫いた
【半藤】このときもし総理が東條英機であったなら、本土決戦を国策として採用していたであろうことは、まず間違いありません。鈴木の、戦争終結に向かうその姿勢がぶれることはありませんでしたが、徹底抗戦派から殺されてしまってはおしまいですからねえ。外部に対しては飽くまでポーカーフェイスで通しました。それを抗戦派とみる人も多かった。なかなかの狸でした(笑)。


【保阪】その様子を左近司が語っています。


鈴木さんは、最初から講和に決め込んでいたが、陸軍や新聞記者などに対しては時々強気のゼスチャーを示されるので、我々閣僚の中でも、総理は果たして和平を望んでいるのかどうか疑いを抱かせるようなこともあった。時々米内[光政]と私は、総理と膝を交えて講和の真剣な話になると、諄々(じゅんじゅん)とその本心を打ち明けられるのでその度毎に安心して帰った。



下村海南(かいなん)(情報局総裁)なども時々不安に思って、総理の本音を聴こうじゃないかなどと言い出して、関宿の自宅まで押しかけたこともある。しかし、総理はいつも名誉ある講和をと明言されるので、その都度(つど)安心して帰った。


鈴木に信頼を寄せる側近さえ、ときに不安になるほど徹底したポーカーフェイスだったのですね。


軍部の悪あがき、国民を道連れに玉砕に向かっていた
【半藤】そうなんです。昭和二十年六月に沖縄で敗れると、いよいよ軍部は本土決戦を決心します。それを受けて鈴木内閣は「戦時緊急措置法」と「国民義勇兵法」を議会に提出しているのですよ。この法律は、いや、もう法律なんていうようなシロモノではありません。一億国民の生命財産をあげて生殺与奪の権利を政治に一任するという白紙委任状そのものでした。


「秦の始皇帝の政治に似たり」と悪評さくさくで、鈴木首相は議員の質問がしつこく、うるさくなると「どうも耳が遠くてよく聞こえません。こんど耳鼻科に行って診てもらいましょう」と、とぼけてみせているのです。そりゃあ、まわりは不安にもなりますよ(笑)。


そして政府はこの法案を、強引に六月二十三日に通過させている。これによって、女子も含めて、十五歳から四十歳までの日本人はすべて必要に応じて義勇召集を受け、国民義勇戦闘隊を編成しなくてはならなくなるわけです。軍部の悪あがきは、まさに国民を道連れに玉砕に向かおうとしていました。私は十五歳でしたから、いざとなれば義勇戦闘隊の一員として……いまになれば、夢みたいな話ですがね。


ポツダム宣言を「黙殺」した本当の理由
【保阪】そうこうしているうちに七月二十六日にポツダム宣言が発表されました。二十八日に新聞記者からどうするつもりか問われた鈴木が、「そんなものは黙殺するよ」とコメントして、それが翌日の新聞に大きく取り上げられてしまった。世界のメディアによって「日本政府はリジェクト(拒否)した」と訳され全世界に伝わって、ソ連に参戦の口実を与えてしまう。この点について批判する人はいるのですが……。


【半藤】ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議は八月九日夜から十日未明にかけて開かれました。国体護持の確認を条件に受諾すべきだという東郷茂徳外相案と、国体護持のほか自主的武装解除、占領は東京を除外するなど四条件が認められないかぎり徹底抗戦すべしという阿南惟幾陸相ら軍部が対立します。そこで鈴木首相が最終判断を天皇に求めた。天皇は外相案に賛成して受諾が決まりました。ところが、まだ戦争を終わらせることはできなかったわけですね。


日本政府が国体護持を条件にしたポツダム宣言受諾を十日、連合国側に通告すると、これに対して届いた回答には、冒頭、「天皇及び日本政府の国家統治の大権は連合軍最高司令官の下に置かれる」とあって、さらに「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」という一文があったからです。軍部は前者について「国体を否定するもの」と断乎反対。後者も共和制を導くものとして反対しました。でもここで、天皇はぶれなかった。「自分はこれで満足であるから、すぐ所要の手続きをとるがいい」と明言した。かくて聖断は下り、ついにポツダム宣言受諾が決定されました


「本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」
【保阪】御前会議から玉音放送までの道のりが、これまた平坦ではないのですが、そのあたりは、半藤さんの『日本のいちばん長い日』を読んでいただくことをお奨めします(笑)。


【半藤】ありがとうございます(笑)。ひとことだけ付け加えておくと、八月十五日、天皇は、辞表を差し出したフロック・コート姿の首相、鈴木貫太郎に「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた。本当によくやってくれたね」と声をかけているんです。鈴木と天皇、まさに二人三脚でゴール・テープを切りました。


【保阪】そのあと鈴木は官邸でただひとり泣いていたそうです。御子息の一(はじめ)さんの証言です。ところで、左近司も鈴木をこう評しつつ、自分の談話を締めています。


鈴木さんは、生前自ら「大勇院殿盡忠日貫居士」と戒名を作っておられたそうだが、まさにその通りの鈴木さんであった。私は、鈴木さんの知遇を受け、親しくその偉大なる人格に接し、自らを啓発したことを深く光栄とし、個人を追懐敬慕して止まないものである。


ここからは、心からの賛辞であることがしみじみと伝わってきますね。


【保阪】さて、昭和天皇です。戦争中の天皇のことについてはなにも語らない、というのが、あたかも全員の了解事項でもあるような徹底ぶりでした。


【半藤】司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』みたいですね。あれにも天皇はまったく出てこないのです。


【保阪】明治天皇はまったく出てきませんか。


【半藤】出てきません。開戦のときに御前会議をやるのですが、その御前会議の場面が出てこない。乃木と明治天皇の関わりにもまったく触れていませんしね。


鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」
【保阪】司馬さんは意図的にそうされたのでしょうか。


【半藤】意図的にそうしたのではないでしょうか。エッセイのなかで、天皇を抜きに眺めると日本史はよく見える、というようなことを書いておられる。私なんかは、天皇抜きの明治などあり得ないのではないかと思いますけども、いずれにしても出てきませんよ。


【保阪】さすがに侍従武官をつとめた中村俊久だけは、しっかり語っていました。これが唯一です。中村はしかも昭和十七年十月から二十年十一月まで、つまり戦中から戦後までの大事な期間にその職にあって、近くで天皇を見ていたのです。まず、自分の仕事がどういうものであったかを、わかりやすく説明しているところを引きます。


侍従武官長は蓮沼[蕃(しげる)]陸軍大将、侍従武官は陸軍からは四名海軍からは三名で、私の外城英一郎、佐藤治三郎がいた。以上を以て武官府が出来ていた。その頃、侍従長は海軍から侍従武官長は陸軍から出るのが慣例になっていた。……海軍の侍従武官は一口に云うと、陛下と海軍の連絡係と云ってよかろう。軍部から拝謁の願出があれば、武官府を経て侍従から陛下の御都合を伺いお許しを頂く。軍部から允裁(いんさい)を要する書類は武官府からお手許に差し上げる。また、侍従武官は屢々お使いとして方々に派遣される。


鈴木内閣の陸相阿南惟幾も、侍従武官として天皇の近くにあった経験をもつ人物でした。しかもそのときの侍従長が鈴木貫太郎。左近司が鈴木内閣を「軍人内閣」と評したのはさきほど触れたとおりですが、それに倣えば鈴木内閣は「天皇から信頼を寄せられた軍人の内閣」と言い換えてもいいかもしれませんね。


もし阿南惟幾が陸相ではなかったら…
【半藤】たしかに。八月十五日の朝、阿南は玉音放送を聴く前に責任をとって自刃(じじん)しましたが、もし陸相が阿南でなかったら……。大事件や騒乱を起こさせることなく、粛々と戦争を終わらせることができたかどうかは、難しいところだと思います。


【半藤】中村自身、武官府勤めをした士官たちと、天皇のあいだにあった浅からぬ交流についてはこんなエピソードを紹介しています。


かつての侍従や侍従武官のことに就いては、今日なお昔通りにお目を掛けさせられており、まことに有難い次第である。当時の縁故者は、毎年一月二日宮中においてお祝膳を頂くことになっている。陛下もわざわざお出ましになって、共に御席に就かれ、一同は陛下の万歳を三唱して御歓談申し上げる。その他年末厳寒酷暑には参内して記帳する慣わしになっている。なお、私が鎌倉に住っていることは御存知なので、葉山においでの節は必ず御機嫌伺いに参上することにしている。いつも平服のまま参上し四方山(よもやま)のお話が出て三、四時間もお邪魔することが珍しくない。帰りには皇后陛下より必ず温かい御下がりものを頂戴するのが例になっている。まことに有難い極みである。


天皇の苦しみを理解できた将官はわずかだった
では、談話を締める中村の結語を紹介します。テーマは引き続き天皇です。


下村(定(さだむ))陸軍大臣[最後の陸相]は、昭和二十年一一月進駐軍最高指揮官から軍人恩給を停止されると、責を負って単独辞職をした、拝謁の際陛下は「こんどの敗戦は皇祖皇宗(こうそこうそう)に対しまことに申し訳がない。また朕(ちん)が信頼していた陸海軍は消滅し、沢山の将兵は戦没し、その遺族や生き残りの軍人を困窮させ、その上一般国民にまで多大の迷惑を掛けた。これを思うとまことに断腸の思いである」との意味のことを沁々(しみじみ)と語られ、下村大将は感泣(かんきゅう)して引き退ったと聴いているが、陛下の現在の御心境もその通りであろうと拝察し、恐れ多いことである。臣下は辞職や自決でもすれば一応責任をとったように見えるが、陛下御責任の御自覚は絶対無限である。しかし、その苦衷を誰に語ることも出来ないで、じっと御胸の中に忍んでおられるその御苦衷こそ、我々国民は深く御推量申し上げなければならないと思う。


【保阪】中村のこの発言はまことに象徴的なのですが、ここに登場した将官たちの発言からは、国民に対して重い責任を負うべき立場に自分たちはある、という認識のようなものがまったく見えてこない。もしかしたら、天皇をタブー視していることと、何らかの関係があるのかもしれない、そんなふうにも僕には思えるのです。半藤さんは、これを読んでいかがお感じになりましたでしょうか。


【半藤】まさに「終戦の詔勅」のなかにある「戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク」という言葉そのものです。天皇の苦衷は身体がばらばらに裂けるほど深いものであったのでしょう。それにくらべると、将官たちは……まこと不忠の臣ばかりでした。そして私たち国民のことなど念頭になかったのでしょうね。思えば、われら国民にとっても、このような指導者ばかりであったこと、不幸の極みというしかありません。


---------- 半藤 一利(はんどう・かずとし) 作家 1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋新社(現・文藝春秋)へ入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役を歴任。著書に『日本のいちばん長い日』、『漱石先生ぞな、もし』(新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞、以上文藝春秋)、『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(毎日出版文化賞特別賞)、『墨子よみがえる』(以上平凡社)など多数。2015年菊池寛賞受賞。2021年1月逝去。 ----------


---------- 保阪 正康(ほさか・まさやす) ノンフィクション作家 1939年北海道生まれ。同志社大学文学部卒業。編集者などを経てノンフィクション作家となる。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで延べ4000人から証言を得ている。著書に『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(角川文庫)、『令和を生きるための昭和史入門』(文春新書)、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『対立軸の昭和史 社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書)などがある。 --











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