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本当に危険なのは「高齢者の運転」なのか…和田秀樹が「うっかり免許返納をしないほうがいい」と訴える理由>高齢者が特に事故を起こしやすいというデータはなく、

2024年09月24日 15時03分57秒 | 医療のこと


高齢者は運転免許を返納したほうがいいのか。精神科医の和田秀樹さんは「高齢者が特に事故を起こしやすいというデータはなく、免許返納を求める根拠はない。高齢者から免許を奪うことは老いを一気に加速させ、生きる楽しみも奪ってしまうことになる」という――。 

【この記事の画像を見る】  ※本稿は、和田秀樹『老人入門 いまさら聞けない必須知識20講』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。

 ■高齢者にとって免許更新のハードルは高くなっている 

 70歳を過ぎると、運転免許の更新のたびに高齢者講習を受けなければいけません。 

74歳までの前期高齢者で普通自動車免許所持の方は実車ありの2時間の講習ですが、75歳を過ぎた後期高齢者になると、この講習にくわえ、運転技能検査と認知機能検査が必要になります。  

認知機能検査ではっきりと認知機能の低下が認められれば医師の診断書の提出や臨時適性検査を義務付けられ、そこでもし認知症と判断されれば本人がいくら希望しても免許は取り消しあるいは停止となります。 

 ところが現状はどうかといえば、まず高齢者講習は居住地に近い自動車教習所か試験場で受けることになります。膨大な層をなす団塊世代が該当しますから、この予約がなかなか取れません。後期高齢者に義務付けられている認知機能検査も予約制ですが、これもなかなか取れません。

  コロナのせいもあって予約人数を制限している教習所もかなり多いといいます。高齢者にとって免許更新のハードルはだんだん高くなっているのです。 ■「返納したほうが…」と弱気になってはいけない  

「何だか面倒くさくなってきたな」ついそんな気持ちになってしまう人もいるでしょう。  

「あちこちの教習所に電話してもなかなか都合の合う日の予約が取れない。最近はたまにしか運転しないんだから、免許なんかなければないでやっていけるかな」 

ふとそう考えてしまいます。  

しかも講習通知書の裏面には免許返納の手続きの説明が印刷されてあります。

  「そうか、身分証明書代わりの『運転経歴証明書』というのがあるのか」  あれこれ迷ってしまい、家族に「返納したほうが安心だよ」と言われると、つい弱気になってしまうかもしれません。



でも、都会暮らしでふだん運転することがないとしても、ここで弱気になってはいけません。ふと車で長い旅行に出たくなったり、旅行先でレンタカーを借りたりすることもあるからです。自由な時間を楽しみ尽くすというのが、これからの人生のテーマです。そのためにも、移動手段の選択肢を減らしてはいけません。  

まして地方に住んでいて、週に1度の買い物や通院に車を使っているような人は、免許返納をしてはいけません。不便になるだけでなく、生活の自由度が大きく低下して、老いを一気に加速させる可能性があるからです。

 ■ブレーキとアクセルの踏み間違いの原因  

高齢者の運転は危険だというイメージがあります。暴走して事故を起こすたびにマスコミに大きく報道されます。高速道路での逆走、交差点や駐車場でのブレーキとアクセルの踏み間違いなど、たしかに不自然で認知症が原因だと思われてしまいます。  

でも私は、こういった普段はしないような不自然な事故の原因のほとんどが薬による意識障害ではないかと考えています。というのは、こういう事故を起こした人のほとんどは普段は暴走や逆走をしていないからです。  

いっぽう、高齢になると複数の薬を常用している人が多く、代謝も落ちていますから副作用が出やすくなっているのです。低血圧や低血糖、低ナトリウム血症などになると意識障害も起こしやすくなります。  

事故を起こしたドライバーがそのときの状況を「よく覚えていない」と言うことがありますが、これも認知症より意識障害を疑っていい証言でしょう。 

■「高齢者は事故を起こしやすい」は本当か  

そもそも、高齢になれば事故を起こす確率が高くなるというデータなどありません。  

警察庁交通局が発表する交通事故状況(平成30年版)によれば、原付以上の免許を持っている人口10万人当たりの年齢層別事故件数でいちばん多いのは16歳から19歳の年齢層でおよそ1500件、次いで20歳から24歳が876件です。  25歳から29歳でも624件です。

高齢者はといえば、70代で500件前後、80代前半でも604件です。その他の年齢層の30代から60代が概ね450件前後ですから高齢者が特別、事故率が高いとは言えません。

以下はリンクで


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僕自身は空っぽの容れ物」――世の中の空気を歌に込め続ける桑田佳祐の今

2024年09月24日 11時03分23秒 | 文化と芸能
桑田の中で歌はどのように生まれてくるのか。

 「まずメロディー、歌の世界が浮かんで、それにあわせて全体のアレンジを進めていく。歌詞はそれをなるべく広く、意外性を持って聴いてもらうためにマネジメントしているような感覚というか。僕は天性の作詞家でもなければボブ・ディランみたいな吟遊詩人でもない。誤解を恐れずに言えば、クライアントやスタッフから依頼されてようやく『さあ、詞を書かなくちゃ』とエンジンがかかる。



歌は空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティー」。昭和、平成、そして令和と、桑田佳祐は40年以上にわたって自作のポップスを音楽シーンの第一線で歌ってきた。サザンオールスターズの一員としてデビューしたのは、1978年。当時とは世間も様変わりした。時代とともにヒット曲を世に送り出し、世相もエロもナンセンスも描いてきた桑田は今、世の中をどう見つめ、歌にしているのだろうか。(取材・文:内田正樹/撮影:倭田宏樹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

9/21/2021

「これ大丈夫かなお化け」が出る

(撮影:倭田宏樹)

「僕自身は空っぽな容れ物みたいなものでね。空気とか情報とか、市井に浮遊しているものをキャッチしては、自分という空っぽの容れ物にポンポンと詰め込んで、それをシャッフルしたり、色付けしたりして吐き出してきた。『世の中を呼吸』しながら作品を紡いできたという感じ。そこに多少のエゴや性格もあぶり出されているのだろうけど、僕自身にあまり強い自我のような感覚はないんですよ」 気付けば「コンプライアンス」という言葉が普及していた。時には過激な表現で世相やエロやナンセンスを描いてきた桑田も、近年はしばしば「歌詞の行方」を時代と照らし合わせるという。
(撮影:倭田宏樹)


「制作中には『これ大丈夫かなお化け』がよく出ます(笑)。

『この言い回し、大丈夫かな?』と、僕からレコード会社やマネジメントの若いスタッフに尋ねるんです。昔はセクハラやパワハラという概念すらなかった。映画やバラエティー番組にもエロの要素が散りばめられていた頃は、サザンで『女呼んでブギ』や『マンピーのG★SPOT』も書いていましたけど、今の基準と照らし合わせたらアウトと言われちゃうかもしれないからね(笑)」 「コンプライアンスという概念のおかげで、泣き寝入りをせず、救われた人たちもいっぱいいると思う。

でも一方で、表現に対する視線もきつくなった。視野が狭くなったというか、よく言われる『寛容でない』意見も増えた気がします。ありがたいことに、僕もその『洗礼』は受けました」 過去には、歌詞に対する曲解やデマをネット上で拡散されてしまった経験もある。





かつてはなかったSNSという存在が大きな影響力を持つ社会になった。 「『他人の不幸は蜜の味』というか、特定の人にとってはある種の快感みたいなものなんでしょうね。僕は(SNSを)やっていないけど、『じゃあおまえはどうなんだ?』と問われたら、やっぱり自分の中にもそうした意識が眠っていると思います」 「日々のニュースを見ていると、もう少し物事を俯瞰から見れば、何も全て『ノー』と斬って捨てなくてもいいのに、と感じることもあります。

議論するのは大事だと思うけど、善悪の判断が簡単につかないことも多いはずだし。断罪や糾弾をすれば世の中がよくなって、弱い立場の人が救われるのかといえば、そういうわけではないだろうし。そんな元気やエネルギーがあるなら、ちゃんと選挙にでも行って世の中を変えるべく行動するとか、もっと違うやり方もあるんじゃないかと思うんです」

歌の世界の「男と女」にこだわりたい



(撮影:倭田宏樹)

現実の世界を思えば「これ大丈夫かなお化け」が時折顔を出すが、歌の世界では昔と変わらず大切にしたい詩情もある。 

「最近、改めて自分が慣れ親しんだ昭和歌謡について考えてみると、歌の物語の中で、男は自分を『俺』と言い、相手の女性のことを『おまえ』と呼んでみたりする。そういう歌詞を見ても、最近はつい、『今の世の中で、女性をいきなり“おまえ”なんて呼ぶのはアウトなんじゃないか?』とか、『差別表現に当たらないだろうか?』とか、相変わらず『これ大丈夫かなお化け』がわずらわしい。もはや僕自身がお化けなんじゃないか? とさえ思えてしまう(笑)」

 「現代社会は男女平等でも、歌の世界では『女だてらに~』とか、男女の違い、差異があるからこそ成り立つ物語がある。例えば『唇を奪う』『馬鹿な女の怨み節』『妻という字にゃ勝てやせぬ』とか、『あなたの膝に絡みつく子犬のように』などの表現を伴う恋物語にも、やっぱり僕はこれからもずっとこだわっていきたい。

『昭和の遺物』と言われようと、人の気持ちの揺らぎや機微、大切な思いや恋心の構造というのは100年前も今も変わらない気がするんですよ」 

桑田の中で歌はどのように生まれてくるのか。 「まずメロディー、歌の世界が浮かんで、それにあわせて全体のアレンジを進めていく。歌詞はそれをなるべく広く、意外性を持って聴いてもらうためにマネジメントしているような感覚というか。僕は天性の作詞家でもなければボブ・ディランみたいな吟遊詩人でもない。

誤解を恐れずに言えば、クライアントやスタッフから依頼されてようやく『さあ、詞を書かなくちゃ』とエンジンがかかる。もはや『職業作家』そのものじゃないかな(笑)。求めてくれる人や聴いてくれるファンの皆さんがいてこその生業(なりわい)なんです」


<中略>

がん闘病後、音楽活動を続けるうえでの難敵は

(撮影:倭田宏樹)

40年以上にわたる活動のなかで、歌の本質に気付かされたのが、2011年9月に宮城で行ったライブだったと振り返る。

 「僕も前年に食道がんで活動を休止していたから病みあがりでね。会場となったアリーナは、震災直後、ご遺体の安置所だった。いざステージに立つと、あまり深刻な言葉が出てこない。『このたびはいろいろ大変でしたね』なんて言うのも変だし、そもそも苦手だし。

でもいざ実際に『音を鳴らす』と空気が変わった。ステージが始まり、さとう宗幸さんの『青葉城恋唄』を歌った瞬間、会場の皆さんとつながることができたと思った」 「歌の語源とは『訴える』なのだと言うけれど、歌とはどんなにつらく悲しい状況でも人の心の奥底を温め、時間の経過とともに少なからず『求めてもらえる』『呼ばれる』ものなんでしょうね。災害に見舞われた場合も、差別や虐待といった苦境の中にいる場合でも。それこそが歌の正体というか本質なのだろうと感じます」 このライブが基点となって、その後も桑田はたびたび宮城を訪れている。コロナ以降初の有観客全国ツアーも宮城からスタートする。

 「言わずもがな、東北の復興は道半ば。どんなお役に立てるかは分からないが、現役世代の音楽人として自分なりにやれる形で関わっていきたい」



ひとたびステージに立てば65歳とは思えないパワフルなパフォーマンスを見せる。しかし実は2010年の食道がん以降、人知れず続いてきた闘いがあった。 

「手術の直後から、強烈な逆流性食道炎のような症状を頻繁に繰り返すようになってしまった。の近くまで引っ張り上げた胃の入り口が開きっ放しの状態。その日僕の場合は胃の一部と食道を切除したんですが、その時に胃の弁も取っちゃったんで、喉の体調やメンタルも含め、何かのきっかけで、胃や大腸の動きが悪くなって逆流が起きてしまう。

そういう日は高熱が出たり、嘔吐したり、咳が出たりして。それが3日間くらい続くこともある。悪化させると肺炎にもなりかねないので、夜間はベッドで寝ることもあるけど、ここ数年はほとんどリクライニング・チェアで頭の位置を高くした状態で寝ています。

ハンデと言うほど大袈裟なことでもないけれど、これが音楽活動を続けるうえでの最大の難敵。でも、もっとつらい状況で闘っている方々はいっぱいいるし、これも自分の実力のうちだと思って背負っていくしかないんです」
(撮影:倭田宏樹)

時代は流れ、年齢を重ね、ついにはコロナ禍までやってきた。不安はたくさんあるけれど、うつむいてばかりじゃいられない。 

「原さん(原由子)と家で話すのはコロナのことや、社会のことを憂いてみるとかごくごく普通の話題です。たいていはネガティブになって眉間に皺も寄りがちになる。でも、先日のオリンピックで金メダルを獲られた10代のスケートボードの選手が『楽しかった!』『参加できてよかった!』というふうに、目を輝かせていたでしょ? 

深刻な状況での開催でしたけど、こんな不安でうつむきがちな世の中で、明るい未来をイメージできる人たちの、純粋な前向きさに勝るものはないと脱帽でした。『われわれが挫けてしまい、若い世代に落胆した表情ばかりを見せるのはよくないね』とも話し合いました」 そう語る桑田の目もまた光を帯びていた。 

「いつかアイデアは枯渇してしまうかもしれないけれど、歌は、空っぽの自分がバランスを取るためのアイデンティティーみたいなもの。これがないと生きる楽しみがなくなっちゃう。身体が許す限り、待っている人たちがいてくれる限り、歌い続けたいと思います」

以下はリンクで

https://news.yahoo.co.jp/articles/1a6ada5ec5b9058c5b5906883d6704c75a0ee9d0
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税務調査官の「趣味は何ですか?」という質問に、うかつに答えてはいけないワケ

2024年09月24日 09時03分10秒 | お金のこと

税務調査官の「趣味は何ですか?」という質問に、うかつに答えてはいけないワケ 

税務調査官の「趣味は何ですか?」という質問に、うかつに答えてはいけないワケ

9/24(金) 9:01配信


税務調査官から投げかけられる一見何気ない質問には、調査対象者の「所得隠し」を探る意図があります。税務調査官の質問に対する適切な答え方を見ていきましょう。※本連載は、石川博正氏の著書『税務調査で泣きをみないとっておきの知恵 ―税金を合法的に逃れる方法あります』(さくら舎)より一部を抜粋・再編集したものです。

税務調査官の「趣味は何ですか」という質問の真意

「趣味は何ですか」と税務調査官が質問をしてくることがあります。これを単に時間つぶしや間合いを埋めるための世間話だと思ったら大間違い。

じつは生活費を把握するための質問です。同じ意図の質問には次のようなバリエーションがあります。



「ふだん、どこで飲んでいるんですか?」

「休みの日は何をされていますか?」

「取引先と趣味で遊んだりしますか?」

「お子さんの小学校は私立ですか?」

これらの質問にストレートに答えたら、税務調査官の罠にハマってしまっています。



「趣味ですか?旅行が結構好きであちこち行ってるんですよ」

「ご家族で行かれるんですか?」

「毎月一回、家族全員で国内旅行にいくんですよ」

「ほー、どのあたりに?」

「温泉旅館が好きですね。露天風呂の後の地酒が最高で……」

4人家族で国内旅行をしてちょっといい旅館に1泊すると、ガソリン代やおみやげ代なども含めれば、1回に20万~30万円くらいはかかります。毎月だとすると、12倍すれば年間の旅行費は300万円くらいでしょうか。それだけの金額を趣味に使える所得があるということですよね。

売り上げ=経費+所得(生活費)です。売り上げと経費があいまいな場合は、生活費から所得がどのくらいあるかを見ます。つまり「高額な趣味があれば、所得も当然高い」と把握されてしまうのです。

「趣味はヨットです」「キャバクラが好きで入れ込んじゃってね」「取引先とよく銀座のクラブに行くよ」「最近、車を買い換えたんですよ」「子供は二人とも私立だから授業料が大変で」「妻がブランドもののバッグを買いあさって……」

などなど、本人としては税金とはあまり関係ない話のつもりかもしれませんが「高額所得がありますよ」と自白しているようなものです。

「収入がある」と誤解を与えるようなものは見せない
本人が口を滑らせなくても、家に置いてあるものが動かぬ証拠になってしまうこともあります。高価な趣味のコレクションなど、収入があると誤解を持たれるようなものは、調査官の目につくところに置いておかないことです。



「ほー、これは素晴らしいコレクションですね」

「いいでしょう」

「このシリーズ、私も欲しかったんですよ」

「10年前は儲かっていたから買えたんですよ」

「あれっ? でもこれ、去年出た復刻版じゃないですか」

「あっ」

「10年前に買ったっていうのは嘘ですね? もしかして、所得を隠していたのでは?」

「…………(しまった!)」

もし部屋を見せろ、金庫を見せろと言われたら
自宅に商売のお金を一時的に保管している人もいると思いますが、あまり高額なお金を保管していると「所得隠しだろう」と疑われてしまいます。

税務調査官からいきなり「部屋を見せてくれ」「金庫を見せてほしい」と言われたら「なぜですか? 見せたくありません」と言うことはできます。しかし、次のような会話の流れがあったら、見せるのを拒否するのは難しいでしょう。



「現金商売なんですよね?」

「銀行のATMでたまに100万円とかまとまった金額をおろして、そのお金でお客さんに払ってます」

「現金は、いつもどこに保管してますか?」

「私の寝室に金庫があって、そこで」

「じゃ、ちょっと保管状況を確認させてもらっていいですか?」

税務調査官が金庫を見る正当な理由を与えてしまっています。

税務調査官がPCを見たがるときの最適な返答
「いつもどうやって受注していますか?」

「知り合いの紹介からが多いですね」

「得意先がいるということは、請求書を発行していますよね」

 以下はソース元 


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知床の名画>地の涯に生きるもの>森繁久彌 主演:1960

2024年09月24日 03時06分00秒 | 文化と芸能

この映画のラストで森繁扮する彦一が知床の海に転落して、亡くなるという衝撃のシーンがありました。

>森繁プロダクションを立ち上げて初めての作品。ラストで氷塊から落ちて死ぬシーンで久松監督は森繁をスタジオのプールに4メートルの雪の上から実際に落ちる指示を出したという。

今回の知床観光船の被害者の方の状況を拝察するに余りある場面でした。
ご冥福をお祈りしたいと思います。



地の涯に生きるもの
1960年10月16日公開,125分









[Drama]
製作滝村和男
監督久松静児
脚本久松静児
原作戸川幸夫
撮影遠藤精一
美術北猛夫
音楽團伊玖磨
出演森繁久彌 / 草笛光子 / 織田政雄 / 船戸順 / 司葉子 / 西村晃 / 山崎努 / 由利徹 / 浜村純 / 稲葉義男 / 左卜全

厳冬のオホーツク海。知床半島の先端にある漁師小屋でたった一人留守を守る老人・村田彦一(森繁)が過去を追想する。今やソ連の占領地となってしまった第二のふるさと国後での青春、最愛の妻(草笛光子)との出会い、息子達のこと…。 動物文学者戸川幸夫の原作「オホーツク老人」に感激した森繁が自ら制作に乗り出し映画化。監督は久松静児。現地人との交流の中から森繁自身が作詞作曲した主題歌「知床旅情」はベストセラーを記録。 

<東宝=森繁プロ/125分/カラー/スコープ>


ストーリー

オホーツク海は秋になると荒れ始める。九月に入ると、まず昆布採りの漁師たちが知床半島から去っていく。次に、漁期を終えた鱒漁師たちが引揚げる。十月の末になると、最後に残った鮭漁の人たちも帰ってしまう。その原始の世界の中に、たった一人残っている人物がいた。留守番さん--というのがこの老人村田彦市に与えられた名前だった。人々の去ったあとの番小屋の中には、漁網が残されるが、それが飢えた鼠を呼んだ。その網を鼠から守るために猫が必要とされ、猫に飯をくわせろために人間が必要なのである。言葉では言えない孤独は、彦市に過ぎ去った人々を回想させる。--彦市はオホーツク海に直面するウトロ港に近いオシンコシン岬の番屋で生まれた。三十のとき、小さくて古くはあったが一艘の船を買って独立した。飯たきの娘おかつと、他の若者と決対のあげく、強奪する形で結婚した。おかつは、次々と三人の子供を生んだ。しかし、長男の与作は流氷にさらわれて死に、二男の弥吉は戦争で倒れた。おかつも、急性肺炎で死んだ。彦市は東京の工場で働いていた三男の謙三を呼びよせて船を与えた。その船で漁に出て行った謙三は、嵐に会ってそのまま帰ってこなかった。彦市は謙三の死を信じることができなかった。エトロフ島の見える番小屋の留守番さんを志願したのも、謙三の帰りを待つためでもあった。ある夏、都会の娘がこの地の涯を訪れた。謙三という恋人が死んだ場所を一度見たかったという。--彦市にとっては、こうした思い出と猫だけが無聊を慰めるものであった。猫たちはそれを知ってか、彦市に甘えた。だが、その猫さえもが大鷲にさらわれることもあった。彦市は老いた身に鉄砲をかまえて後を追った。たくましかった若き日のように。




最後に、森繁が出演した監督とのコンビで忘れてはいけないのが冬のオホーツクで撮影した『地の涯に生きるもの』だ。森繁プロダクションを立ち上げて初めての作品。ラストで氷塊から落ちて死ぬシーンで久松監督は森繁をスタジオのプールに4メートルの雪の上から実際に落ちる指示を出したという。「主役兼プロデューサーは、この監督に遂に命まで取られるのか」と、思ったそうだ。ちなみに、森繁のヒット曲“知床旅情”が生まれたきっかけとなった(撮影の合間に口ずさみながら作った地元の人々との思い出の歌なのだ)のがこの作品なのだ。
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