(2024年訪問)
洞爺湖温泉街からやや離れた居住エリアの奥に、1977年火山遺構公園がある。
これまで見てきた西山火口と金比羅火口は有珠山の2000年噴火の遺構であったが、こちらは1977年噴火の遺構。地殻変動で倒壊した旧・三恵病院の廃墟が保存されている。
77年8月6日に起きた噴火は2000年に比べ規模が大きく、高度1万2000メートルまで上がった噴煙は道内119市町村に火山灰を降らせた。
農作物に多大な被害をもたらしたのに加え、火山灰への降雨による泥流が頻発し死者2人、行方不明者1人が出た。
また、噴火による地震と地殻変動は1982年まで続いた。
この病院は、有珠山北東麓の主要な断層の上に建っていた。
77年噴火では北山麓の地盤が25メートルも洞爺湖側に動いたといい、病院は噴火開始後数日でひび割れが始まり、右横ずれの動きで2~3か月で徐々に倒壊していった。
噴火当時、この病院には230人の入院患者がいたという。
前兆地震を受けた院長のいち早い避難想定、役場と連携したピストン輸送などにより、約12キロ離れた旧小学校校舎へ無事に緊急避難となった。
廃墟は柵で囲われているので入ることは出来ないが、それでも倒壊した箇所や黒ずんだ病棟を間近に見られるので迫力がある。
77年噴火の遺構といえば、かつて温泉街の観光情報センターに入っていた旧・火山科学館で、火山弾で凹んだ旧車(公用車のクジラクラウンや寄贈された日産チェリー等)や流されたピアノなどの実物展示が見ごたえたっぷりだったのだが、残念ながら現在はリニューアルされ「洞爺湖サミット記念館」となっている。
火山科学館はすぐ近くのビジターセンターに移設され、現在はシアター上映などによる2000年噴火の展示がメインだ。
【有珠山噴火遺構】昭和新山鉄橋遺構公園編に続く。
洞爺湖温泉街からやや離れた居住エリアの奥に、1977年火山遺構公園がある。
これまで見てきた西山火口と金比羅火口は有珠山の2000年噴火の遺構であったが、こちらは1977年噴火の遺構。地殻変動で倒壊した旧・三恵病院の廃墟が保存されている。
77年8月6日に起きた噴火は2000年に比べ規模が大きく、高度1万2000メートルまで上がった噴煙は道内119市町村に火山灰を降らせた。
農作物に多大な被害をもたらしたのに加え、火山灰への降雨による泥流が頻発し死者2人、行方不明者1人が出た。
また、噴火による地震と地殻変動は1982年まで続いた。
この病院は、有珠山北東麓の主要な断層の上に建っていた。
77年噴火では北山麓の地盤が25メートルも洞爺湖側に動いたといい、病院は噴火開始後数日でひび割れが始まり、右横ずれの動きで2~3か月で徐々に倒壊していった。
噴火当時、この病院には230人の入院患者がいたという。
前兆地震を受けた院長のいち早い避難想定、役場と連携したピストン輸送などにより、約12キロ離れた旧小学校校舎へ無事に緊急避難となった。
廃墟は柵で囲われているので入ることは出来ないが、それでも倒壊した箇所や黒ずんだ病棟を間近に見られるので迫力がある。
77年噴火の遺構といえば、かつて温泉街の観光情報センターに入っていた旧・火山科学館で、火山弾で凹んだ旧車(公用車のクジラクラウンや寄贈された日産チェリー等)や流されたピアノなどの実物展示が見ごたえたっぷりだったのだが、残念ながら現在はリニューアルされ「洞爺湖サミット記念館」となっている。
火山科学館はすぐ近くのビジターセンターに移設され、現在はシアター上映などによる2000年噴火の展示がメインだ。
【有珠山噴火遺構】昭和新山鉄橋遺構公園編に続く。
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