かき船工事に反対する緊急市民集会 2015年4月26日12時30分
●その苦しみを忘れるときに
岩見武志(広島電機大学附属高校1年)
川は見ていていた巨大な光をきのこ雲を
その下で何万人もの人たちが苦しんで
死んでいったことを
川は見ていた今その川を
「美しく」しようとしている
川を美しくするとともに
川の見てきた苦しみも忘れようとしている
川の苦しみはひとの苦しみ
ひとの苦しみは川の苦しみ
その苦しみを忘れるときに
あらたな苦しみを
ひとはつくるにちがいない
川を美しくするのはいいが
川の苦しみひとの苦しみを
忘れてはいけない
※この詩は、1981年2月11日に開催された、第4回広島県高校生平和ゼミナール「一日平和学校」のつくる授業②詩作 担当教師宮上周正(山陽高校) 牛尾国和(広島映画サークル協議会)の時間に創作されたものです。
この詩が作られる背景に、広島市が1981年2月に突然、元安川の瓦礫を撤去すると発表したことがありました。川を美しくしなければならないというのです。ところが、この元安川の河原では1978年以来平和ゼミナールの高校生たちを中心とした原爆瓦発掘保存の活動が進んでいました。このような背景の中で冒頭の岩見武志君の詩は生まれたわけです。
次に紹介するのは34年前、原爆瓦の発掘保存に参加した小学生の作文です。
●「ぼくはかわらをすててはいけないと思います」
中野小学校6年 小野村 浩
ぼくが原爆がわらをほりにいって、恩ったことは、なぜあんなにかわらがまがったり、とけたりするようなおそろしいものをつかわなくてはならなかったかということです。あのかわらをじっさいに見て、さわった時は、なんとも原爆のおそろしさをしみじみおもい、人がとけて肉がたれるじょうけいをあたまの中にうかべるだけで、ひやいものがせなかをながれました。たった一ぱつ、一ぱつで広島の町は、はいと化し、人は虫けらのように、ばたばたとたおれていったのだと思います。原爆がわらほりにいこうといわれた時は、ほんとうにあるのだろうかとしんぱいでした。でもいってみればどんどんほれ、たのしかったと思います。ほる時は、たのしくほったものの、あとからじっくり見てみればかわらのひょう面はとけただれて、きもちわるいものでした。市では、この川をきれいにして、うずまっているかわらは、すてるという計画を立てているとききました。ぼくはその時、なぜかわらをすてるのだ、ほんとうにかわわらをすててもいいのかと思いました。
ぼくはかわらをすててはいけないと思います。すてればなんだかあの三十六年前の日のことをゆるし、わすれるようなかんじがするからです。
広島がしなくてはならないのはすてることではなく、もっともっと小学生、中学生に原爆のおそろしさをつたえていくことだと思いました。原爆がわらをほりにいって、ぼくは戦争、原爆のおそろしさを自分の目で見て、手でさわってはだでかんじとれたものがあったような気がしました。
※ヒロシマを継承する意味と、料享で宴会を開くことがどのように結びつくというのでしょうか。灯籠流しをビール片手に眺めるとでも言うのでしょうか。こんな観光行政を子どもたちはどのように受け止めるのでしょうか。被爆70年、ヒロシマを風化させてはなりません。
この場所に水上レストランがあるのは、平和記念都市広島にふさわしい光景ではありません。
●抗議声明「ただちに工事をやめなさい」
みなさん
目の前のクレーン船が元安川に入ってきたのは4月21日(火)の事でした。大きな鉄の爪で川床をさらい、浚渫整地を始めました。4月23日(木)には水上レストラン(かき船)を係留するための杭が2本打ち込まれました。日々この場所の光景は変化しています。
私たちは22日(水)緊急抗議集会を開きました。参加された被爆者や地元町内会の方々が反対の声を表明されました。
私たちはこの光景を認める訳にはいきません。
現在の工事は、整地や船を固定するためのものです。5月2日までには終了し、その後台船が運び込まれ8月6日までには営業を開始する計画です。私たちはこのような計画を認める訳にはいきません。
この場所が、70年前どのような場所であったのか。忘れる訳にはいきません。
爆心地直近のこの場所は、多くの被爆者がその焼け焦げた体を冷やすために残された力を振り絞って入り込んだ水辺です。
1945年8月6日の満潮は午前8時08分、潮位は3.0mでした。多くの方が立つこともままならず、そのまま息絶えたことを忘れてはなりません。
秘密裏に進められたこの工事が明らかになったのは、昨年の11月27日のことでした。広島市長が「水の都ひろしま推進協議会」に、この地点で商業活動を行う業者に「かき船かなわ」を推薦し、協議会がこれを承認したのです。国交省の地方整備局は地域の承認を得たとしてかなわに占用許可を出しました。この承認には周辺町内会や被爆者団体は加わってはいません。事前に広島市観光ビジネス課と「かなわ」が説明に回ったと言います。承認前に広島市が特定業者を連れて行動した事は癒着そのものではないでしょうか。
その後、反対の声が広がり始めました。1月24日に「かき船間題を考える会」が結成されます。世界遺産に関するユネスコの諮間機関、日本イコモス国内委員会は1月29日に「懸念表明」を市長宛に発表しました。世界遺産原爆ドーム周辺のバッファゾーンはそれにふさわしい景観が求められると警告したのです。3月1日には広島弁護士会から十分な検討を求めた会長声明が出されました。しかし、広島市はこれらを無視する姿勢で行動します。
工事の許認可権を持つ、国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所の所長は3月17日に広島市長に工事に関して改めて意見照会を求めました。広島市長は4月16日、「周辺慰霊碑管理団体、被爆者団体、地元町内会に広島市の考え方を説明をしているものである」「市民への理解を深く求めるための手続きを十分に尽くしていると考えている」と回答し、工事の着工許可を求めました。これを受けて翌日の4月17日、太田川河川事務所長は工事を許可しました。
国側の太田川河川事務所は、広島市が工事に問題はないと判断したから工事許可を出したと言います。広島市の側は許認可権は太田川河川事務所にあるのだと責任を押しつけ合っています。
この間2月22日、広島市との公開討論会が150名を超える市民が参加して開かれました。広島市は討論が平行線であることを認めざるを得ませんでした。そして第2回目の公開討論会が約束され、市と目程を調整している最中に工事を一方的に始めたのです。説明は尽くされていません。信義にもとるやり方です。
今回の事態は異常です。まず地元の町内会の同意を得るべきです。
被爆者団体の同意も得る必要があります。周辺の慰霊碑や祈念碑の管理団体からも同意が求められるべきです。いずれの団体からも建設工事への支持が得られていないではありませんか。これで説明をしたと言えるのでしようか。
とても市民の合意の下で進んできた事柄ではありません。工事への慎重な対応を求める署名はおよそ4万筆に達しました。
私たちは次のように要求します。
①私たちはただちに工事の中止と移転新設の撤回を求めます。
②工事前の状態への復元を求めます。
③約束している2回目の公開討論会を早く開くことを求めます。
④この討論会に、松井一實広島市長とかき船かなわの三保二郎社長の出席を求めます。
2015年4月26日
かき船工事に反対する緊急市民集会参加者一同
※21日 工事船 平和大橋の下を通過 クレーン船が杭打ちを始めた
●その苦しみを忘れるときに
岩見武志(広島電機大学附属高校1年)
川は見ていていた巨大な光をきのこ雲を
その下で何万人もの人たちが苦しんで
死んでいったことを
川は見ていた今その川を
「美しく」しようとしている
川を美しくするとともに
川の見てきた苦しみも忘れようとしている
川の苦しみはひとの苦しみ
ひとの苦しみは川の苦しみ
その苦しみを忘れるときに
あらたな苦しみを
ひとはつくるにちがいない
川を美しくするのはいいが
川の苦しみひとの苦しみを
忘れてはいけない
※この詩は、1981年2月11日に開催された、第4回広島県高校生平和ゼミナール「一日平和学校」のつくる授業②詩作 担当教師宮上周正(山陽高校) 牛尾国和(広島映画サークル協議会)の時間に創作されたものです。
この詩が作られる背景に、広島市が1981年2月に突然、元安川の瓦礫を撤去すると発表したことがありました。川を美しくしなければならないというのです。ところが、この元安川の河原では1978年以来平和ゼミナールの高校生たちを中心とした原爆瓦発掘保存の活動が進んでいました。このような背景の中で冒頭の岩見武志君の詩は生まれたわけです。
次に紹介するのは34年前、原爆瓦の発掘保存に参加した小学生の作文です。
●「ぼくはかわらをすててはいけないと思います」
中野小学校6年 小野村 浩
ぼくが原爆がわらをほりにいって、恩ったことは、なぜあんなにかわらがまがったり、とけたりするようなおそろしいものをつかわなくてはならなかったかということです。あのかわらをじっさいに見て、さわった時は、なんとも原爆のおそろしさをしみじみおもい、人がとけて肉がたれるじょうけいをあたまの中にうかべるだけで、ひやいものがせなかをながれました。たった一ぱつ、一ぱつで広島の町は、はいと化し、人は虫けらのように、ばたばたとたおれていったのだと思います。原爆がわらほりにいこうといわれた時は、ほんとうにあるのだろうかとしんぱいでした。でもいってみればどんどんほれ、たのしかったと思います。ほる時は、たのしくほったものの、あとからじっくり見てみればかわらのひょう面はとけただれて、きもちわるいものでした。市では、この川をきれいにして、うずまっているかわらは、すてるという計画を立てているとききました。ぼくはその時、なぜかわらをすてるのだ、ほんとうにかわわらをすててもいいのかと思いました。
ぼくはかわらをすててはいけないと思います。すてればなんだかあの三十六年前の日のことをゆるし、わすれるようなかんじがするからです。
広島がしなくてはならないのはすてることではなく、もっともっと小学生、中学生に原爆のおそろしさをつたえていくことだと思いました。原爆がわらをほりにいって、ぼくは戦争、原爆のおそろしさを自分の目で見て、手でさわってはだでかんじとれたものがあったような気がしました。
※ヒロシマを継承する意味と、料享で宴会を開くことがどのように結びつくというのでしょうか。灯籠流しをビール片手に眺めるとでも言うのでしょうか。こんな観光行政を子どもたちはどのように受け止めるのでしょうか。被爆70年、ヒロシマを風化させてはなりません。
この場所に水上レストランがあるのは、平和記念都市広島にふさわしい光景ではありません。
●抗議声明「ただちに工事をやめなさい」
みなさん
目の前のクレーン船が元安川に入ってきたのは4月21日(火)の事でした。大きな鉄の爪で川床をさらい、浚渫整地を始めました。4月23日(木)には水上レストラン(かき船)を係留するための杭が2本打ち込まれました。日々この場所の光景は変化しています。
私たちは22日(水)緊急抗議集会を開きました。参加された被爆者や地元町内会の方々が反対の声を表明されました。
私たちはこの光景を認める訳にはいきません。
現在の工事は、整地や船を固定するためのものです。5月2日までには終了し、その後台船が運び込まれ8月6日までには営業を開始する計画です。私たちはこのような計画を認める訳にはいきません。
この場所が、70年前どのような場所であったのか。忘れる訳にはいきません。
爆心地直近のこの場所は、多くの被爆者がその焼け焦げた体を冷やすために残された力を振り絞って入り込んだ水辺です。
1945年8月6日の満潮は午前8時08分、潮位は3.0mでした。多くの方が立つこともままならず、そのまま息絶えたことを忘れてはなりません。
秘密裏に進められたこの工事が明らかになったのは、昨年の11月27日のことでした。広島市長が「水の都ひろしま推進協議会」に、この地点で商業活動を行う業者に「かき船かなわ」を推薦し、協議会がこれを承認したのです。国交省の地方整備局は地域の承認を得たとしてかなわに占用許可を出しました。この承認には周辺町内会や被爆者団体は加わってはいません。事前に広島市観光ビジネス課と「かなわ」が説明に回ったと言います。承認前に広島市が特定業者を連れて行動した事は癒着そのものではないでしょうか。
その後、反対の声が広がり始めました。1月24日に「かき船間題を考える会」が結成されます。世界遺産に関するユネスコの諮間機関、日本イコモス国内委員会は1月29日に「懸念表明」を市長宛に発表しました。世界遺産原爆ドーム周辺のバッファゾーンはそれにふさわしい景観が求められると警告したのです。3月1日には広島弁護士会から十分な検討を求めた会長声明が出されました。しかし、広島市はこれらを無視する姿勢で行動します。
工事の許認可権を持つ、国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所の所長は3月17日に広島市長に工事に関して改めて意見照会を求めました。広島市長は4月16日、「周辺慰霊碑管理団体、被爆者団体、地元町内会に広島市の考え方を説明をしているものである」「市民への理解を深く求めるための手続きを十分に尽くしていると考えている」と回答し、工事の着工許可を求めました。これを受けて翌日の4月17日、太田川河川事務所長は工事を許可しました。
国側の太田川河川事務所は、広島市が工事に問題はないと判断したから工事許可を出したと言います。広島市の側は許認可権は太田川河川事務所にあるのだと責任を押しつけ合っています。
この間2月22日、広島市との公開討論会が150名を超える市民が参加して開かれました。広島市は討論が平行線であることを認めざるを得ませんでした。そして第2回目の公開討論会が約束され、市と目程を調整している最中に工事を一方的に始めたのです。説明は尽くされていません。信義にもとるやり方です。
今回の事態は異常です。まず地元の町内会の同意を得るべきです。
被爆者団体の同意も得る必要があります。周辺の慰霊碑や祈念碑の管理団体からも同意が求められるべきです。いずれの団体からも建設工事への支持が得られていないではありませんか。これで説明をしたと言えるのでしようか。
とても市民の合意の下で進んできた事柄ではありません。工事への慎重な対応を求める署名はおよそ4万筆に達しました。
私たちは次のように要求します。
①私たちはただちに工事の中止と移転新設の撤回を求めます。
②工事前の状態への復元を求めます。
③約束している2回目の公開討論会を早く開くことを求めます。
④この討論会に、松井一實広島市長とかき船かなわの三保二郎社長の出席を求めます。
2015年4月26日
かき船工事に反対する緊急市民集会参加者一同
※21日 工事船 平和大橋の下を通過 クレーン船が杭打ちを始めた