日本ユーラシア協会広島支部ニュース 2017年8月25日
【おことわり】先月号、今月号を一緒に発送いたします。
【日本ユーラシア協会広島県支部連合会理事会】
次の要領で開催されました。
日時 2017年7月1日土曜日13時30分 場所 広島市留学生会館
【ロシア語能力検定公開試験】
2017年5月28日(日) 第69回試験が実施されました。
4級午前、3級午後、広島県内外から19名が受験されました。
次回70回試験は10月7日8日に実施されます。
【2017年9月10日ボルゴグラードの日が開催されます。】
9月10日13時より紙屋町シャレオ中央広場で開催されます。今年は姉妹都市締結45周年記念としてロシア・ボルゴグラードより3名の若手音楽家(ピアノ、フルート、声楽)を迎えてのコンサートが加わります。詳しくは同封のチラシをご覧ください。
当日運営にご参加いただける方は10時~11時に現地におあつまりください。
【日本ユーラシア協会創立60周年祝賀会】
東京都四谷 主婦会館プラザエフで2017年7月8日17時より開催されました。
[写真は上は祝賀会、下は鎌倉、横浜ロシア語教室訪問。]
[湘南の海を前にゆっくり、大仏で瞑想 キルギス、カザフ代表団おもてなし ]
協会創立60周年祝賀会の翌日(7月9日)、カザフスタンのアルマトィにお住いのお医者さんでセミパラチンスクの影響を調査して来られたバヒトゥクルさんとキルギスのビシケクにお住いでキルギス対外友好協力会連合会会長のカディベクさんを神奈川にご招待しました。朝10時に東新宿のホテルにお迎えし、太平洋と大仏を見て貰うためにJRで鎌倉へ、途中の横浜駅でキルギスからの留学生グーリャさんとジャヌィベクさんも加わり総勢7人です。
鎌倉に着いてすぐに、昼食のためにご案内した八倉では、お二人は天ぷら御膳をチョイス。衣は小麦粉を使っているのですか?また紫の野菜が何か?と聞かれ、お店の人に尋ねて紫人参という、珍しい鎌倉野菜であることをお伝えしたら喜んでおられました。お二人ともお箸を上手に使われるので驚きました。食事も気に入られたようで良いお店を選んで下さったと言って頂きました。
江ノ電が1902年にできたことをお話すると、もう100年以上も前に日本人は電車を作ったのですね・・・とカディベクさんが驚いておられました。駅に入って来た電車を見てジャヌィベクさんが「電車も古いのですか」と訊かれましたが、残念ながらそれは新しい車両でした。それで「古い車両もありますが、これは残念ながら新しいですね。でもその代わり、エアコンが効いています」と言いましたら「その方が良いですね」とニッコリ。
湘南の海(太平洋)をお見せするべく、江ノ電で鎌倉高校前まで行ったのですが、なんと、その日はお祭りの日で安全確認のため電車が50分止まり、鎌倉高校前駅で50分待つことになりました。幸い海を眺められるベンチに座ることができ、ヨットの浮かぶ湘南らしい景色を見ながら、正にこれが湘南の海であることや江の島の成り立ち、稲村ケ崎の新田義貞の話などもお伝えしました。
時間が十分あったので、面白い話も必要と思い、言葉遊びではない川柳もいくつか紹介すると、バヒトゥクルさんが「私たちのところにも同じような短い詩で、面白くて風刺のきいたчасту́шкаがありますよ」と教えて下さいました。50分も駅のベンチで過ごさなければいけなかったことをお詫びすると、気持ちの良い風に吹かれて、綺麗な海の景色を眺めて、ゆっくり休めて良かったと言って頂きました。
高徳院で大仏様が1252年に作られたことをお話すると、カディベクさんが「ほおー、そんなに昔に作られたんですか」とびっくりされていました。大仏様のポーズが深い瞑想であることをお伝えするとバヒトゥクルさんが手の組み方を真似されて、ご主人に見せるために大仏様と一緒の写真を撮っておられました。また、バヒトゥクルさんは、お医者様でいらっしゃるからか、庭の松の木を見て、松は人のストレスを取ってくれるから、何かストレスを感じたり心配事があったら、松の幹を抱くといいのよと教えて下さいました。何につけ、バヒトゥクルさんは物事はポジティブに考えるのが一番だし、そのように努力しなければいけないと仰っていました。
お二人ともお疲れのようでしたが、横浜まで戻り、県協会の5階教室での小さな交流会に参加して下さいました。涼しい風が気持ち良い夕暮れ、広島支部の黒川さんに東新宿のホテルまで送っていただきました。お二人には、急に決まった鎌倉見学、交流会にご満足いただけたならば幸いです。(神奈川おもてなし一同)
【サハリン(樺太)旅行 炭本遵さんより戴いた旅行記6回目。】
6日目 2015年6月30日(火) 小雨
ホテル9:00出発、南のコルサコフ(アニア湾の旧大泊港)へ日帰り旅行に行く、男性ガイドはシベリア生まれワシリーさんと専用車で運転手4人見学に出かける、9:10旧真岡通り、アメリカ合弁会社、平和通りに靴屋(100年前の家屋)、大通り交差点、バザール(市場)映画館、レーニン通り、ユージ南のへコルサコフ着(大泊)
小雨が降っていたので港は霞んで見える。港の丘に*ハングルで書いた碑あった。帰る船が来ず、此処の近くに住み着く、今も朝鮮がある、小高い所に旧大泊領事館官舎が残されていた、豊原鉄道(1906年建設、現在は廃線)バス便あり、自由市場へ豊原市役所ピンク色サハリン政府、チェーホフ劇場10;00、ペトログリー海軍将軍の銅像、エブソ公園、コルサコフ(大泊)で昼食。14:00丘陵の草花ルビナスやキンポーゲ他の説明を受ける、郊外の天然ガス液化プラント工場と積出港が霞んで見える、コルサコフの郊外に日本軍上陸跡記念碑(日露戦争の時)は軍艦から大砲で撃ちこみ破壊されていた。日本人に関係のあったところに案内され、日本時代の街、建設された旧拓殖銀行、放置された亜庭神社、小学校の奉安殿や御真影等。
市場は中国人、朝鮮人、ウズベキスタン人、アルメニア人、アゼルバイジャン人等が雑貨商をしていた。石油開発の出稼ぎ労働者もいる。旧ソ連の遅れた地方からの出稼ぎであろうか。
*「日本人がサハリン島南部の海岸から船で去った1940年代後半、20世紀初頭の地政学の結果として生みだされた人種問題が残った。日本にもソ連にも属していなかった多くの人が、南サハリンに取り残された(1905年から1945年まで南サハリンは日本統治下にあった)。朝鮮民族は労働者として南サハリン樺太に連れてこられた。島を去る日本人は朝鮮人を自国民として受け入れることを拒み、さらに朝鮮半島の不安定さがコミュニティを中ぶらりんの状態にした。時が2015年に進むと、石油と天然ガスの豊富な島はその模範的な少数民族を誇っていた。4万人強の朝鮮人コミュニティのほとんどのメンバーは、ロシアの市民権を持ち、島の文化的生活および社会に完全に融合している。サハリンでは朝鮮系の郵便局員、ビジネスマン、官僚、さらには税関員や入国管理官を見ることができる。」(資料抜粋) 夕食はガガーリンホテル内の日本食堂「わさび」で寿司を食べる。