新古今和歌集の部屋

長明発心集 第一 神楽岡清水谷仏種房の事

 

神樂岳清水谷佛種房事

神樂岳の清水谷と云處に佛種房と云て貴き

聖人有き。對面したる事は無りしかども、近き世の

人也しかば終往生人とて人の貴みあひたりしをば傳へきゝ

侍りき。此聖人其かみ水のみと云所に住侍べりけ

る比、木拾に谷へ下ける間に盗人入にけり。僅なる

物ども皆取て遠くにげぬと思ふてかへりみれば本の

處也。いとあやしと思て猶ゆくぞと思程に二時計

彼水のみの湯屋をめぐりて更に外へさらず。其時に聖あや

しみて問ふ。答て云樣我は盗人なり。而るに遠にげざりぬ

と思へども都て行事をえず。是たゞ事に非ず。今に至

りては物を返し侍べらん。願はゆるし給へ。まかり歸り

なむと云。聖の云く。なじかは罪ふかくかゝる物をば取らむと

する。但ほしふ思てこそは取つらん。更に返しうべからず。

其なしとも我事かくまじと云て盗人に猶とらせてやり

ける。大方心に哀み深くぞ有ける。年を經て彼清

水谷に住ける時あひ憑たる壇越あり。深く帰依し

て折節にはをくり物し、事にふれて心ざしをはごびつゝ過

けるに、殊に此聖わざと出て來て云樣、思かけずをぼし

ぬべけれど年來頼奉て侍なり。此程夢の如なる菴

室を造とて巧をつかい侍しが、魚をよげに食ひ侍べり

しが うらやましくて 魚のほしく侍べれば、此殿には多侍

るらむと思ひて わざと参れる也と云。主をろかなる 女

心にあさましと 思の外に覚けれど、能樣にして 取

出たりければ、能々食て残をば瓦器をふたにをほひ

て紙にひきつゝみて、是をばあれにてたべむとて、ふところに

入て出にけり。其後此人ほいなく覚へながら、さすがに

心ぐるしく思やりて、一日の御家づと夢がましく見へ

侍べりしかば、重て奉るなりとて、さま/"\に調して贈たり。

けれど其度はとゞめず。御心ざしは うれし侍べり。され

ども一日の残りにたえあきて今はほしくも侍らねば

是返し奉るとなむ云たりける。是も此世に執をとゞ

めじと思けるにや。此佛種房有時風氣ありて煩けり。

かたの樣なる家あれこぼれてつくろふ事なし。病を見る

人もなければ、ひとりのみ病臥せりけるに、時は八月十五

夜の月いみじくあかゝりける夜、よひより音をあげて念

佛する事あり。まぢかき家々たふとくなむ聞き。集

て見に 板間もあはずあれたる家に月の光心のまゝに

指入たるより外にともなし。夜中うちすぐる程に、あな

うれし。是こそは年來思つる事よと云音かべの外に

聞へけり。其後は念佛の音もせずなりぬ。夜あけて

見ければ西に向ひて 端座し合掌して眠るが如く

にてぞ有ける。此家はすこしも離れずあやしの下臈の

家どもの 軒つゝきになむ在ける。

 

 

※神樂岳の清水谷 左京区の吉田神社の岡。その西北の麓。

※佛種房 不詳。平安末期か?

※水のみ きらら坂の途中。

※風氣 風邪など。

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