三河聖人寂照入唐往生事
參河の聖と云は大江定基と云博士是也。參河守
に成たりける時、もとの妻を捨て、たぐひなく覚へける
女を相具してくだりける程に、國にて女病を受てついに
はかなく成にければ、なげき悲しむ事限なし。戀慕のあま
りに取すつるわざもせず、日比ふるまゝに、成行さまをみ
るに、いとゞうき世のいとはしさ思しられて心を發たりけ
る也。かしらをろして後乞食しありきけるに、我道心は實
に發たるやと心見とて、妻のもとへ行て物をこひけ
れば、女是を見て我にうきめみせし報にかゝれとこそは思
しかとて、うらみをして向たりけるが、何ともをぼへざりけ
れば御とくに佛になりなむする事とて手をすり悦て出に
けり。さて彼内記の聖の弟子に成て、東山如意輪
寺にすむ。其後横川に上りて源信僧都にあひ奉てぞ
深き法をば習ける。かくて終に唐へ渡ていひしらぬ驗
ともあらはしたりければ大師の名を得て圓通大師と申
ける。往生しけるに佛の御迎の樂を聞て詩を作歌を讀
れたりける由唐より注をくりて侍り。
笙歌遥聞孤雲上 聖衆來迎落日前
雲の上にはるかに樂のをとすなり 人や聞らんひが耳かもし
※寂照(応和二年(962年)頃? - 景祐元年(1034年)) 平安時代中期の天台宗の入宋僧・文人。参議大江斉光の子。俗名は大江定基。寂昭・入空・三河入道・三河聖・円通大師とも称される。三河守として赴任する際、元の妻と離縁し、別の女性を任国に連れて行ったが、任国でこの女性が亡くなったことから、永延二年(988年)、寂心(出家後の慶滋保胤)のもとで出家し、叡山三千坊の一つ如意輪寺に住んだ。その後横川で源信に天台教学を、仁海に密教を学んだ。
※三河聖人寂照入唐往生事 今昔物語集巻第十九「参河守大江定基出家語第二」、宇治拾遺物語巻第四「三河入道、遁世の事」などに同話がある。いつも拝見している雅工房樣より、リンク許可を頂きました。 今昔物語集巻第十九三河の入道伝 (1) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 )
※東山如意輪寺 東山如意輪岳にあった園城寺の別院。
※いひしらぬ驗ともあらはしたり 上記今昔物語集や宇治拾遺物語第十三「寂昭上人、鉢を飛ばす事」などにある。雅工房樣より、入唐後の験の話の許可を頂きました。三河の入道伝 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 2 )