酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★2000年10月某日・・・店舗移転、、、内装業者の見積もり

2015-03-06 20:32:19 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年10月某日・・・

店舗の契約を済ますとすぐに見積もりを取るために別の内装業者に来てもらった。

契約前に見積もりを取った業者は15万Bとのことだった。

これを基準にすればいいわけだ。

内装工事中も家賃は発生している。

1日も早く開業しなければならない。

その内装業者にはトンローの治療院に来てもらった。

そして業者の車でスクンビット39の店舗に向かった。

彼の名はサムリス・ソンジャイ。

 

 

↑何故か名刺を保管してあった。

 

サムリスは1階から5階まで、ざっと見渡すと後日見積もりを持ってくると言い残して帰った。

 

2日後、サムリスが見積もりを持って来た。

現在治療院で使用しているベッドだけでは足りないので、ベッドを4台追加で製作することや

仕切りカーテン、中古エアコン5台等々含んで見積もりを出させた。

正確な金額は覚えていないが18万B前後だったと思う。

契約書にサインすると、最初に3万B支払ってくれと言ってきた。

何やら材料を買うのに必要だとか・・・・・

3万B支払うと、ご丁寧に仰々しい領収書を寄越してきた。

嫁はこの時から違和感を覚えていたとのことだ・・・・

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年10月某日・・・店舗移転を真剣に悩む

2015-03-05 19:54:43 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年10月某日・・・治療院を開業して3ヶ月が経とうとしている頃

タイ人スタッフはヌイさん以外は定着せず、複数人の来客があっても対応できない日が続いていた。

だが、同時にタイ人マッサージ師による日本式マッサージの需要があるのだと実感する時でもあった。

タイ人スタッフを3人定着させるというのがそもそも無理なことなのだと、この頃気づいた。

ベッドが10台置ける店ならば10人のスタッフを雇っていれば、常時最低5人はキープしていくことが可能だろう。

ベッド3台で3人のスタッフでは病欠で一人休み、急に誰か退職すれば今のようなスタッフ一人状態になるわけだ。

そんなことを考えていたが、俺のほうは忙しかったこともあり特に何かを変えようとすることも無く過ごしていた。

そんなある日・・・・スクンビット39をタクシーでこの建物の前を通ったとき「FOR RENT」の看板を見てしまった。

 

 

以前にも書いたことがあるが、それが光って見えたのだよ・・・ガラスのドアが反射しただけか?

その時はそのまま走り去ったが、その夜その時のことが気になってしまい眠れなくなってしまった。

翌日、再度この建物の前まで行き「FOR RENT」の看板に書かれていた番号に電話した。

家賃次第ということで、開口一番家賃を尋ねた。

相手の答えは、まずは見に来てくださいとのことだ。

建物の前に居ることを伝えると今すぐに行くから待っててといわれた。

上の画像では分からないが当時は向かって右側の店舗はブティックで大家が経営していた。

そのブティックを任されていた人がテナントの管理もしていたというわけで

少し待っているとブティックからタイ人女性が現れた。

シャッターの鍵を開け内部を見せてもらった。

基本的にショップハウス1スパン5階建てなのだが、3階部分だけは3スパンあり総面積80坪近くあった。

長い間、空き家だったのか埃まみれだった。

最上階の5階は2部屋にシャワー、トイレがありここで暮らすことも可能なようだ。

1階を受付と待合室、2階をマッサージ師の控え室、3,4階を施術室にすればベッド25台くらいは置けそうだ。

どうせ家賃は高いのだろうな~と思いながら尋ねると・・・・なんとも微妙な金額だった。

1日20人の来客があればやっていけるぞ!・・・と瞬時に計算できたのは、この頃はまだアルコールで頭がやられていなかったのだな。

しかし、1日20人の来客がある保証もなく、その場で即決することはできなかった。

それと、内装費用が幾ら必要か不明なこともあった。

早速、内装業者に見積もりに来てもらった。

内装業者はザックリ上から下まで見渡して、15万Bと言ってきた。

またまた、なんとも微妙な金額だな。

まっ、とりあえずこの規模の店舗でも15万Bの内装費用で済むってことだな。

それなら何とかなるということで、店舗を契約することにした。

ここの最上階に住めばトンローのアパートの家賃も必要なくなる。

現在のホームプレイスの店舗+トンローのアパート+αの家賃で、現在の治療院の6倍以上のベッド台数にできるわけだ。

これはやらないわけにはいかないだろう・・・・・・

 

つづく

 

 

 

 

 

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☆★2000年9月某日・・・キティポン氏と出会う

2015-03-04 19:38:56 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年9月某日・・・

オリエント治療院を開業して2ヶ月以上経っていた。

オープニングスタッフのジャキット氏は1ヶ月ほど経った時、辞めたいと言ってきた。

理由はマッサージ師をやることをご両親があまり良く思っていないとのことだ。

確かに大学まで出した息子がマッサージ師になるなんて・・・・この辺の事情は日本とは全く違う。

日本では大卒のマッサージ師なんかいくらでもいるが、タイでは珍しいというかまず居ないだろう。

マッサージ=売春と混同されていることもある・・・・そのような店が多いのだから仕方が無い。

実際に・・・この頃から数年後だが、常連のタイ人のお客様がマッサージを受けている時に

その奥様が店に乗り込んできたことがあった。

「うちの旦那がしょっちゅう来てるみたいだけど、旦那に会わせて!」

何もやましいことはないので、部屋まで案内した。

施術中の様子を一目見ていただき、その奥様にも安心して頂けたようだ。

お帰りの時は何か安堵したような恥ずかしいような表情をされていた。

話が逸れたが・・・・・・そういうわけで、ジャキット氏が辞めてしまいスタッフはヌイさんだけとなってしまった。

俺は相変わらず忙しかったから、こんな状況でもやっていけた。

 

そんなある日・・・・

電話が鳴る。

「キティポンと申します・・・・キティちゃんじゃないですよ、、、ヘヘヘ」

電話での第一印象は、何だ?この怪しいタイ人!・・だった。

話を聞くと・・・この治療院のことを知り合いの日本人から聞いたとのこと。

日本ヘレンケラー財団の奨学生として日本の鍼灸学校に留学したとのことだ。

大阪の学校で学び鍼灸マッサージ師の国家試験にも合格しタイに帰ってきてからはタイの盲学校で教員をしているそうだ。

記憶が曖昧だが・・・・学校が休みの土曜日曜に仕事をさせて欲しいということだったと思う。

早速、その週に来てもらった。

直接会って話をすると日本語はかなり流暢だ。

日本語検定1級取得しているとのことだ。

鍼灸マッサージ師の資格は俺と同時期に取得したらしい。

早速、土日のみ来てもらうことになった・・・・・

 

これがキティポン氏と出会ったときの話だ。

キティポン氏は昨年訪タイした時にYAOさんから聞いた話では、もう店には来ていないらしい。

土日仕事をすると疲れて本業の盲学校の仕事に差し支えるからとのことだった。

・・・・・歳だからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年8月・・・さよなら、ピタックコート・・・アパートを引越した。

2015-03-03 19:54:49 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

またまた少し遡って2000年8月。

開業1ヶ月経ち少し慣れてきた頃・・・・・

毎朝サトーンのアパートからタクシーで通っていたが、

往復のタクシー代、時間や労力を考えると治療院の近所に引っ越してきたほうが良いのではと思い始めた。

隣の本屋でタイの賃貸住宅情報誌を購入して探してみた。

治療院から徒歩圏内が希望だ。

情報誌はエリア別に別れているので探しやすかった。

トンローにしては家賃が手頃なタウンハウスを見つけた。

治療院の入っているホームプレイスビルの隣のソイだった。十分徒歩圏内だ。

早速、仲介業者にアポを取り現地へ向かった。

仲介業者とオーナーが現地で待っていた。

内部を見せてもらい、2人で住むのには少々広すぎるかとも思ったが借りることにした・・・

・・・契約は後日ということで、その場で内金を数千B支払った。

2日後、仲介業者から電話がかかってきた。

「あのオーナー貸せないって言ってます!ニサイマイディー!!(性格悪い)」と電話口で叫んでいる。

早く借り手を見つけたいために相場より少し安い賃貸料で広告を載せたが、

思ったより早く借り手が見つかり、その途端に相場より安い家賃では貸すのが惜しくなったのだろう。

まっ、そんなところだろうな。

こういう家主から借りても後々ろくなことはない・・・借りる前に分かって良かったと思うことにした。

支払った内金も回収して、さっさと他の物件を当たることにした。

そして徒歩圏内にアパートを見つけた。

 

 

トンロータワー。

ここはアパート(1オーナー)ではなくコンドミニアム形式だ。

日本でいう分譲マンションってところだな。

それぞれの部屋にオーナーが居て貸し出したりオーナー自身が住んでいたりする。

部屋を見せてもらった。

現在2戸空きがあるとのことだ。

50平米と100平米の2タイプあった。

犬がいるので100平米の方を借りることにした。

広さが倍なら家賃も倍というわけではなく3割り増し程度だったからな。

犬も飼育可とのことだ。

保証金2か月分を支払い契約した。

その日から夜になるとサトーンのアパートへ行き少しづつ荷物を運び出した・・・夜逃げではない

大きなものは洗濯機だったか。これはトゥクトゥクで運んだ。

トゥクトゥクの最後尾には折り畳みの荷台があり、ここにかなり大きなものでも載せられる。

アパートの大家のオバサマには8月一杯で退去する旨は伝えていた。

「どこへ行くの?」と聞かれたので、トンローと答えると「ビジネス上手くいってるのね」と言われた。

メバーンの女性には最後にチップとして数千Bほど余計に渡した・・・会社設立の時には助かったし

1年近く住んだわけだが、ピタックコートは大変居心地良かった。

窓が部屋の両面にあるので風通しが良く冷房を殆ど使用することなく過ごせた。

入り口にある初老のファラン(欧米人)が経営する洋食レストランも味は?だったが店の雰囲気は最高だった。

 

 

もし、またタイで生活することがあるとしたら迷わずここに来るだろう・・・・その時は無くなってるか。建物古かったからな。

そういうことで、引越しは完了した。

 

※現在ピタックコートは犬禁止のようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年・・・・労働許可証取得顛末記!!!・・・その3

2015-03-02 21:29:28 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

前回からの続き・・・・

 

労働許可証の申請が完了し受け取りにいくことになった。

事前にUさんから受け取り当日はネクタイを締めて行くようにとの指示があった。

受け取りの日、帝国リサーチのNさんが同行してくれることになった。

そして担当の係官の前に行った。

役人は何やら言っているが早口でよく分からない。

話し終えると1枚のA4用紙を差し出した。用紙にはぎっしりとタイ文字で何か書いてある。

労働許可証を受け取れるものとばかり思っていたから少し戸惑った。

そのA4用紙をNさんに渡した。

Nさんが目を通すと困ったような顔をしていた。

何か問題があるのか?と尋ねると・・・・少しと答えた。

今日は一旦帰りましょうとのことだ。

午前中、治療院を休みにして来たのだが無駄足だったのか???

午後、治療院の営業を開始した。

しばらく経ちUさんから電話があった。

ここからは記憶が曖昧だ。

会社の何かが問題で、それを変える必要がある。

変えるのは簡単に出来るから心配要らない。

このような内容だったと思う。

 

そして後日・・・・前回と同じようにネクタイを締めて役所へ労働許可証を受け取りに向かった。

またお茶代渡すようになるのではないか?などと思いながら係官の前に行く。

係官は青い手帳のようなものを手にしていた。

その手帳のようなものを開いて中の写真と俺を交互に見たあとで、それを差し出してきた。

やっと労働許可証を手にすることができた。

この時、開業して既に2ヶ月程経っていた。

 

よく捕まらなかったよな・・・・

 

 

 

 

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☆★2000年・・・・労働許可証取得顛末記!!!・・・その2

2015-03-01 12:45:31 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

前回からの続き・・・・

 

帝国リサーチに労働許可証取得を依頼してからは今までアナカリでは何をしていたのだ?というほどにスムーズに進んだ・・・少々の問題は発生したが・・・

まずはマッサージ店の営業ライセンス申請手続きに入った。

営業ライセンスが取得できたら労働許可証の申請に入るとのことだ。

手続きを開始して数日後・・・・・日本の陸上自衛隊の女性自衛官のような制服姿の女性二人が治療院にやって来た。

イミグレか?何なのか???

「あなたが施術しているの?」

いやいや、こちらの女性が施術しているのですよ・・・・とヌイさんを指差す。

「トイレはどこ?」

トイレは外にあります。そう言って、フロア内のトイレまで連れて行く。

「・・・・・・・・」

トイレを確認すると制服の女性二人は帰っていった。

そして数日後・・・・

帝国リサーチのUさんから電話があった。

「営業ライセンス取るのに少し問題あるよ・・・向こうお金欲しいみたい」

・・・・賄賂ってことだ。

詳しく話を聞くとトイレが治療院内部にないと建物の基準を満たせないのだそうな。

ビル内部にあるのだから問題ないはずなのだが、そのように難癖をつけてお茶代を稼ごうということらしい。

更に数日後、帝国リサーチのスタッフNさん(Uさんのアシスタント)と共にトンローの役所に出向いた。

先日、治療院に制服姿でやって来た女性が本日は私服でデスクに座っている。

Nさんと話を始める。話の内容は殆ど理解できた。

建物の基準を満たしていないのでライセンスは出せないということだ。

そこでNさんがお茶代の話を始めた・・・・・向こうからは金よこせなどとは言ってこない。

Nさんが片手を出し、これでどうかと尋ねている。

すると役人は渋々という表情で首を縦に振った。

Uさんに予め用意しておくように言われていた5000B入った封筒を机上を這わせるように渡した。

役人は仕方ないわね~という表情でそれを受け取った。

・・・「仕方ないわね~じゃねーよ!この業つくババア!!金を貰う時くらいニッコリしろよ!!」と腹の中で思いながら口では「ありがとうございます!」などと言ってしまうのはこの頃からだ。

営業ライセンスはこれで取得完了だ。

実際に紙のライセンスが届くと労働許可証の申請に入った。

するとまたまた問題が・・・・・・

 

つづく

 

 

 

 

 

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☆★2000年・・・・労働許可証取得顛末記!!!

2015-02-27 20:35:14 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

少し遡って2000年5月・・・

会社設立手続きを「アナカリ」に依頼したのは以前書いた通りだ。

その時の日本人スタッフO氏の説明では会社設立後に労働許可証の申請をするとのことだった。

労働許可証はセラピストとして取得可能だろうとのことだった。

・・・で、会社設立は6月には完了した。

それから最初に説明のあった通りに労働許可証の申請を開始したとのことだ。

1週間程経ち、O氏から「ジョニーさん、セラピストとしての申請は却下されました」と連絡があった。

「今度は違うカテゴリーで申請してみます」とのことだ。

そして再び1週間経ち「ジョニーさん、今度も却下されました」・・・・・

「また違う手を考えて、それで申請してみます。」

もう開業日も決めて広告の手配もしてある。

申請するというなら見切り発車するしかないな・・・・というわけで労働許可証無しの状態での開業となった。

そして1ヵ月後・・・・未だ取得できず。

・・・・・・というか、この「アナカリ」という会社がまずかった。

たまたま営業に来た某フリーペーパーのM氏に事の顛末を話すと・・・・

「あの会社ね~・・・うちにも広告載せてもらってるから悪いことは言えないのだけど・・・・クレームが凄いんですよ」

「大々的に宣伝して仕事の依頼をかき集めて、結局捌ききれずにいるから広告載せてるうちなんかにもクレームが来るのですよ」

「労働許可証だったら帝国リサーチに依頼したらどうですか?私から話しておきますよ。」

そういうわけで以前テナント探しで訪問した帝国リサーチに再度行くことに・・・・・・・

オフィスに入ると以前と同じように元駐在員の2人のS氏とマネージャーのUさんが迎えてくれた。

アナカリに依頼したが未だに労働許可証が取得できていないことを話すると、

「セラピストとして労働許可証なんか取れるわけないよ!治療院やる場合にはマッサージ店として営業ライセンスを取得して

そこのマネージングディレクターとして申請するんだよ」

・・・ということで、セラピストとして労働許可証が取れないことを初めて知ることになる。

アナカリは今まで何をしていたのだろう?

後に知ったことだが、タイでは医師でなければ針施術できないらしい。

チャイナタウンで医師ではない中華系タイ人が針治療を行っていることもあるが、あれは合法ではなく黙認されている状態でやっているとのことだ。

・・・・・そういうわけで今度は帝国リサーチに労働許可証取得を依頼することにした。

この時、会社関係書類はアナカリに全て預けてあったので書類を回収しなければならなかった。

マネージャーのUさんが「私、一緒に行くよ・・・」とのことで同行してもらいアナカリのオフィスへ・・・・・

アナカリのオフィスに到着すると以前と何か様子が違う。

オフィスの中は女性の事務員が1人だけ。

会社関係の書類を返却して欲しいことを伝えると1冊のクリアファイルを持ってきた。

このファイルに全て書類が入っているとのことだ。Uさんに中身を確認してもらい書類の回収は終了。

以前は大勢のスタッフが働いていたオフィスに何故一人なのか・・・・・

アナカリは倒産したとのことだ。一応ご丁寧に業務を引き継ぎする会社も決まっているようで、以後この会社に連絡して欲しいと名刺を渡された。

俺のように書類を回収しに来る人がいるとのことで一人事務員を残しているとのことだ。

労働許可証取得のための費用を先払いしていたのだが・・・・・倒産したのではどうしようもないな。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年7月某日・・・オリエント治療院開院!!!

2015-02-26 19:44:39 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年7月10日月曜日・・・

バンコクにて開業初日の朝。

サトーンのアパートで朝食を済ませると嫁とタクシーでトンローの治療院へ向かった。

営業時間は10時~20時だったか。治療院の名は「オリエント治療院」とした。

10時にはタイ人スタッフ3人も揃った。

この日のためにバンコク週報に大きめの枠で広告を掲載した。

翌週には「タイ自由ランド」にも広告の他、体験記事が掲載される予定だ。

当時の嫁の手帳によると、この日の来客は俺の施術が2人とのことだ。

タイ人マッサージ師の施術は2人でジャキット氏とヌイさんがそれぞれ施術したと記憶している。

そういうことで4名の来客があったということだ。

残念ながらダーさんのお客様はいなかった。

新規オープンの店としては、まずまずの出だしだな。

 

2日目・・・・

ダーさんはとうとう出勤せず。

初日にお客が付かなかったのがショックだったか。

 

俺の施術料はタイ人マッサージ師の4倍の料金だったが、

それでもホームプレイスオフィスビルに入っている会社のタイ人の方々に日本人に施術して欲しいと来院していただいたのは嬉しかった。

こんな感じで1週間が過ぎ、タイ自由ランドが発行された日・・・・

体験記事が大きく掲載された。

これが起爆剤になった。

行列が出来るとまではいかないが、朝から晩まで休み無く働くことになった。

タイ人マッサージ師も途端に忙しくなったが、ジャキット氏とヌイさんの2人しかいないから限度がある。

特にジャキット氏は3人マッサージすると親指が痛くてどうしようもないらしい。

ヌイさんは経験が長いだけあり、力の抜き加減が分かっているようだ。

治療院の営業が終了すると出張施術に行く・・・・・この頃が人生の中で一番働いた時だったか。

 

ここまで書くと全て順調のようだが・・・・まだ肝心の労働許可証を取得していなかったのだよ。

いやいや、よく捕まらなかったよな・・・・・

それに関しては次回。

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年6月某日・・・マッサージ師の求人そしてトレーニング・・・その2

2015-02-25 11:23:25 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年6月下旬

本日二人面接に来ることになっている。

この頃には店舗の内装も完成し、あとはカーテン取り付けのみとなっていた。

 

 

↑この画像が多分その頃だな。この時期の画像はこの1枚のみ。

 

来るかどうか半信半疑ながら待っていた。

最初に来たのは30前後のタイ人男性だった。

彼の名はジャキットと言った。

ジャキット氏は何やら沢山のの書類を持参してきた。

大学の卒業証書だったり、タイ式マッサージの修了書だったり・・・・・

話を聞くとマヒドン大学卒業でレントゲン技師をしていたらしい。

マッサージ師の経験は3年だそうだ。

しかし、何故だか自信無さげだな。

学歴より技術の世界なので、まずはマッサージのテストをさせてもらった。

親指に力はあるようだし押さえるツボの位置も正確のようだし・・・・・・

大丈夫だろうということで採用した。

7月の開業前に日本式マッサージの研修を行うからその時に再び来てください・・・ということで面接終了。

 

2人目も時間通りに来てくれた。

名前はヌイだった。

ヌイさんは経験10年以上でテストすると確かに上手だった。

こちらも採用。

その後も求職の電話が数件あり面接をし、もう一人採用した。

 

研修当日・・・・・・

採用したタイ人スタッフ3人とも来てくれた。

さらりと「来てくれた」と書いているが、タイ生活を経験した今では奇跡的なことだったと思っているよ。

ジャキット氏、ヌイさん、ダーさんと3人が揃った。

労働許可証取得のためにはタイ人スタッフを四人雇用する必要があるのだが、もう一人は・・・・

この頃は甘かったと言うことだ。

当初、日本式指圧ということで考えていたのだが、

タイ式マッサージを長らく経験した方々に親指のみで施術しろというのは無理だということに研修を始めて早々に気が付いた。

それでは日本式マッサージということにして、腰部のみ肘を使っても良いということにした。

ジャキット氏はこちらが教えたことを忠実に守った。

ヌイさんはタイ式マッサージの経験が長いだけあり所々タイ式の技が入ってしまう。

ダーさんは特に記憶なし。

こんな感じで5日程研修をしたわけだが、終了時には日本式マッサージとして提供するレベルに十分達していた。

 

いよいよ明日開業だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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☆★2000年6月某日・・・マッサージ師の求人そしてトレーニング・・・その1

2015-02-24 20:47:32 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年6月某日・・・

店舗の内装工事も終わるかという頃に従業員の募集をすることにした。

小さな治療院なので日本だったら俺一人でやるところなのだが、労働許可証を取得するためには

タイ人従業員を4人雇用しなければならない。

タイ人従業員、しかもマッサージ師・・・どうするか。

この時点で考えたのは・・・1:他所の店に行き引き抜く、2:就職情報誌に掲載する・・・

1の引き抜きだが新規オープンの店で、しかも日本式マッサージという彼らからしたら未知のことをやろうとしている店に、

好んで来る奇特なマッサージ師がいるか?ということだ。

・・・・・というわけで2の就職情報誌に広告を掲載することにした。

しかし、就職情報誌なるものがあるのかどうかも知らなかった。

当時、頼りにしていたタイ関係のネット掲示板で質問してみた。

その掲示板では答えは返ってこなかったが、それを見ていた風来坊師匠からメールが届いた。

タイにはワタサンやワタジャックという会社から発行されている就職情報誌があるとのことだ。

それぞれの会社から「ガーン」や「ガーン・ワンニー」などという名前で就職情報誌が発行されている。

開業予定のテナントの隣が本屋だったのでそこでワタサンの就職情報誌を購入した。

記載されていた電話番号に電話する。

「求人広告を掲載したいのだけれど・・・」

相手:「○×△●×▲■□」・・・何言ってるかわからない。

ダメだ・・・・ワタサン社に直接行くことにした。

スクンビットからタクシーで100B超の距離のところだっただろうか、ワタサン社に着いた。

受付で求人広告を掲載したいと伝えると、通じたようで応接室に通された。

すぐに若い女性が来た。営業の女性のようだ。

「こんにちわ!」と日本語で挨拶してきた。

日本語話せるの?と尋ねると「少し!」と答えた。

少し!というのは本当で、その後彼女から日本語を聞いたのは別れ際の「サヨナラ」だけだった。

マッサージ師を募集したい旨を伝えると勤務時間、給料、その他・・・記載すべきことを色々とアドバイスしてくれた。

彼女と打ち合わせをしている間、日本人が珍しいのか次から次へとワタサンのスタッフがやって来ては日本語で話しかけてくる。

日本語と言っても「コンニチハ」「オイシイ」「アリガトウ」とか、その程度だ。

まっ、就職情報誌の会社に日本人が単独で来るなんて滅多に無いだろうからな。

翌週の号から掲載されるようにお願いしてワタサン社を後にした。

これで何とか求人広告を掲載することができた。

 

求人広告が掲載された日。

早速、1件の問い合わせがあった。これを逃すまいと必死だった。

片言のタイ語を話す外人の必死さに恐怖を感じたのか、最初に電話をかけてきた人が面接に来ることはなかった。

それでもその日の内に数件問い合わせがあり、その内の2人が翌日に面接に来るというところまで漕ぎ着けた。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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