酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

2021-09-27 18:54:02 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

こんにちは、酔っぱらいです。

1990年

高3の3学期は登校する必要が無かった。

そういうわけでアルバイトをすることにした。

土木作業員、、土管を地中に配管する作業だ。

1月の寒い時から始めたわけだがキツかったね~

地面を2メートルくらい掘ると水が出てくるんだよね。

冬だから冷たいわけだ。

でも、日当が良かったんだよね

高校生で1万円もらえたからね。

現場の雰囲気も良かったんだよね。

監督が元本職(893)の方でで話が面白かったね~

・・・学生のバイトが6人いたんだけど帰りが一緒になると途中の鯛焼屋で毎回奢ってくれたよ。

昼休みはチンチロリンなんかやって楽しかった・・・金巻き上げられたけど

でも、このチンチロリンは一番勝った人が3時休憩に全員に缶コーヒーを奢るってルールがあったから

勝っても小勝ちだとマイナスになるんだよね。

社長は医師免許持ってて専門は産婦人科らしいんだけど、

この会社を継ぐために医者辞めたらしいんだよね。

職人のオジサン達は東北からの出稼ぎで、俺の両親も東北出身だから馴染みやすかったね。

1人中国人の方が居たんだけど「大宮」って呼ばれてたんだよね。

本当は「呂」っていうらしいんだけど、当時大宮に住んでたから社長に「大宮」って名前を付けられたんだよね。

今だったら大問題だよね。

呂さんは留学生だった。

中国の大学を卒業していて日本の大学院に入学するとのことだ。

どこの大学院か尋ねたら東京大学と横浜大学、、両方受かってるけど、どちらにするか考え中とのことだった。

えっ?東大と国立横浜大だったら考えるまでもなく東大でしょう???

しかし、暫くして呂さんは国立横浜大学の大学院に入学すると言った。

これには皆、え~!!何で???って反応だったが・・・

詳しく話を聞くと、もう一方は東京大学ではなく東京都立大学だった。

こんな感じで寒くて辛いこともあったが楽しい現場だった。

現場は竹ノ塚だったから17時過ぎまで仕事して一駅先の谷塚の有沢ジムには18時過ぎくらいに入れた。

18時過ぎは一番賑わっている時だった。

相変わらずねスパーリング恐怖症だったんだよね。

終いには胃が痛くなり始めたんだよね。

いつ、スパーリングの指名があるかって思うと胃が痛くなったね。

まあ、それでもやりましたよ。

大抵ボコられてましたね・・・初めてスパーリングやる練習生に、、

少し変われたきっかけは須田先生に「ガード固めて頭下げて相手の胸に頭つけてボディだけ狙っていけ」ってアドバイス頂いてからだな。

変われたといっても激的に強くなったわけじゃないけどね・・

そうこうしているうちに、高校卒業し専門学校に入学した。

専門学校は都内にあった。ジムは自宅と学校の途中にあった。

その専門学校は週6のうち4日は午前中までの授業だった。

ジムは17時からだったので学校が午前中で終わってしまう時は一度家に帰ってからジムに行っていた。

そのうちそれがすごく無駄なことをしているように感じた。

・・というわけで、西新井でバイトすることにした、、マクドナルド

マクドナルドでバイトしてから家に帰る途中にジムに寄れば無駄がない。

しかしね~マクドナルドは俺には馴染めなかった。

職場の雰囲気は良かったんだけどね~・・女子大生大勢居たし

あっ、今女子大生云々言ってたら気持ち悪いオッサンだけど当時、俺は18歳だからな

・・で、そのマクドナルドは1ヵ月で辞めた。

マクドナルド辞めたと同時にジムにも行かなくなった

一度帰ってから再びジムに行くのは効率悪すぎるとか言ってね

いやね~ジム行かなくなったらストレスなくなって身体が楽になったのを今でも覚えているよ。

本当にヘタレだね・・・

話はこれで終わりではないからね

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

2021-09-26 09:52:03 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

1990年

草加有沢ジムに入門して5カ月ほど経っていた。

初めてスパーリングを体験した後も週に1度、多い時は2度、、スパーリングをやった。

何故か初めてスパーリングを体験する相手に俺が指名されることが多かった。

指名するのは当時マネージャーだった有沢先生だ・・現在は会長

・・・で、俺はこの頃スパーリング恐怖症だった。

初めてスパーリングやる練習生にボコられることがあった。

恐怖症となる決定的なことはボディ一発で悶絶させられたことだ。

余裕でプロテスト合格するって自信はどこへ行った???

まあ、しかしね、、半年も経たずに辞めるなんてオヤジに言えないわけよ

無理矢理続けましたよ。

練習中は出来るだけ目立たないようにしていた・・・有沢先生の視界に入らないように

サンドバック打ってると目立つから端の方でダラダラと筋トレばかりしてたよ。

俺がそんな状態の時、ジムにはニックネームを付けるなら「王子様」というのがピッタリの雰囲気の選手がいた。

イケメンで顔が小さく王子様の衣装着たら絶対似合ってたね。

いや、当時はジムの選手ではなかったかな。

後のカズ有沢氏だ。

俺の記憶ではカズ有沢氏は小さなサンドバックばかり打ってた印象がある。

俺と同学年のカズ有沢氏のことは知っていた。

同級生のO川君の話で聞いていた。

H高校のボクシング部でインターハイか国体チャンピオン・・両方のチャンピオンだったか?

地元でボクシングに興味のある人なら大抵知っていただろう。

会話させていただくこともあったが、当然敬語ですよ。

同学年でも俺は「さん」付けで呼んでいましたよ。

ある日、練習していてマジで驚愕したことが・・・

カズ有沢氏が二人いたんですよ。

しかも二人で並びのサンドバックを叩いていたんですよ。

O川君の話で双子という話は出てきたことが無かったから、そういうことは知らなかった。

もう一人は後のコウジ有沢氏ですよ。

いやいや、マジで驚きましたね~

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

2021-09-25 16:17:44 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

こんにちは、酔っぱらいです。

今回は私が入門した頃、1989年の草加有沢ボクシングジムの様子を交えて書いていきます。

1989年

初めてスパーリングをやった翌朝、顔面も痛いし頭も痛い。

頭の痛みは深刻だ。脳細胞がかなり破壊されたのだろうな。

夕方までには治まったので練習に行くことにした、

当時まだ高校生だったので夕方17時の練習開始時間に合わせて通っていた。

ジムが練習生で賑わうのは18時以降なので17時だと人が少なく落ち着いて練習できた。

17時に来るメンバーは大体決まっていた。

その中に飯泉健二さんがいた。

頭にタオルを巻いていたか記憶が定かではないがイメージ的にはそのような感じだった。

その頃の飯泉さんは最後の試合から半年以上たち、すでに引退勧告を受けていた。

引退勧告を受けたがカムバックの道を模索していたようで練習は続けていたようだ。

飯泉さんの練習光景で記憶にあるのはサンドバックを叩いているシーンだけだ。

ジムに現れては黙々とサンドバックを打ち続けていた。

ジムで一番大きなサンドバックばかりを打っていた。

眼疾患で引退勧告受けたわけだからスパーリングをやることは無かった。

俺からは畏れ多くて話しかけることはできなかったが、時々飯泉さんから話しかけてくれた。

はっきり覚えているのはバンテージの巻き方だったり、練習方法だったり・・・

試合をするためにアメリカに行こうか考えてるという話もしていた。

それから10年以上(20年?)経ちある日ネットで飯泉さんのことを検索すると戦績が出てきた。

あの時(89年)から9年後の1998年にIBFアジアライト級王座を獲得したようだ。

その試合後に引退を表明とウィキペディアに出ている。

ウィキペディアのそれを目にしたときは大変嬉しかった。

話は変わり・・・

当時の有沢ジムには菊崎英二氏、小山豊氏、平岩伸一郎氏、3人の日本ランカーが在籍していた。

小山豊氏はこの時日本ランカーだったかは記憶が曖昧だが後にランカーになるのは間違いない。

平岩氏は草加有沢ジムで練習していたがアポロジム所属ということになっていた。

どのような理由でそうなっていたかは知らない。

特に印象に残っているのは菊崎英二氏だ。

試合前、減量中の菊崎さんは怖かった。

剃刀のようだったね。

減量はきつそうだった。

試合後にジムに挨拶に来た時にサングラスを取ると瞼が腫れてるのを見た時には驚いたものだ。

試合後のボクサーの顔を見たのは初めてだった。

ランカー以外でも当時、座嘉比さんや中村公一さん、込山さん、康さんが在籍していたのは記憶がある。

皆さん、後に6回戦や8回戦、日本ランカーになった。

まあ、しかし短い間しか有沢ジムで練習してなかった俺が何故こんなに選手の名前とか憶えているのって?

有沢ジムを辞めた後もボクシングマガジンで選手のランキングをチェックしていたからだ。

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

2021-09-25 10:32:39 | 昔の思い出

前回の話からの続き

1989年

見学に行った翌日、早速練習を開始することにした。

入門したばかりの練習生は辻本先生が指導していた・・30年以上前の記憶だから名前合ってるか怪しい

辻本先生は近くのD大学の学生とのことだった・・・だから同世代だ。

一番最初にやったことはオーソドックスかサウスポーか決めることだった。

剣道経験者はサウスポーになるといわれている。

剣道の構えが右足が前になるからだ。

実は俺も剣道経験者だった・・・小学生の時。

だから中学の時遊びでやってたスケボーなんかはグーフィーで右足が前のスタイルだった。

それなら当然サウスポーかというとそうではなく、

構えた時にオーソドックスの方がしっくりときた。

しかし、ボクシング辞めた後に数回やったスノボーはグーフィーだった。

構えが決まり最初にやった練習はピョンピョンとジャンプすることだった。

鏡の前で構えたまま・・ではなく、腰に手を当ててピョンピョンとジャンプする。

この時、足の位置や顎が引けてるかとか色々と注意される。

この次はファイティングスタイルのままピョンピョンとジャンプする。

初日はここまでだったかな。縄跳びの飛び方も教えてもらったか。

ボクサーの縄跳びは延々見てても飽きない。

タンタンタンとリズムよく飛び途中ダッシュを入れたり最後にスパート掛けたり・・・

初めてのスパーリング

入門して3カ月近く経った。

それまで休むことなく毎日練習に通った。

そんなある日、荻野先生に声を掛けられた・・・「スパーリングやるよ」

相手は同時期に入門した練習生だ。

彼も初めてのスパーリングだった。

相手は練習生、、、余裕だな。

だって俺、今プロテスト受けても余裕で合格する自信あるんだもん・・・だったよな?

初めてスパーリング用のグローブを着けた。

16オンスのFSだかFPタイプというもので、今だとソフトタイプというのだろうか。

大きいし重いし・・・

タイマーのブザーが鳴る。

頭にパンチが入った・・・俺が打たれたってことね

ゴツッと石を当てられたような感覚だ。

何発当てて何発当てられたかなんて数えている余裕は当然ない。

確実に言えることは俺の方が遥かに貰ってるってことだな。

グローブの紐を解きながら荻野先生か有沢先生か須田先生か覚えていないが

「井岡はこれの1000倍強いよ!」と言われた。

ヒョロヒョロだと舐めてた井岡弘樹氏の偉大さを実感したね。

自分のレベルがどの程度か知らされた17の夜・・・

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

2021-09-24 13:51:05 | 昔の思い出

こんにちは、酔っぱらいです。

最初に書いておくけど、、、

チャンピオン目指していたとか、そういうレベルのボクサーの話じゃないからね・・・

1987年

今思えばプロボクサーに憧れたのはこの頃くらいからだったか・・

井岡弘樹氏がミニマム級世界王者になった試合をテレビで観ていた。

こんなヒョロヒョロが世界チャンピオン??俺でもなれるんじゃねーの???

いや、絶対なれるよ。

何故そう思ったかは???だが、

まあ、根拠のない自信があったのと無知だったのは事実だな。

同級生のO川君が草加有沢ジムに通っていた。

休み時間に溜まり場になっていた外階段の踊り場で

O川君のジムでの話を熱心に聞いたものだ。

昨日スパーリングやったとか、出欠票の横に体重を書き込むようになったとか

彼の話の中でよく出てきたワードが「飯泉健二」だ。

1987年だと飯泉健二氏は初めて日本タイトルに挑戦した頃だった。

O川君が草加有沢ジムに通っていたころの飯泉健二氏は最も日本タイトルに近く正に絶頂期の頃だろう。

いや、絶頂期と書くと失礼だな。飯泉健二氏はその後、眼疾患により引退勧告を受ける。

チャンピオンに最も近い所に居たにも関わらず、、登っている途中だったわけだ。

・・で、以前書いたが俺はその頃漕艇部に在籍していて草加有沢ジムに入門するのは後のことだ・・・

1989年

夏休みまでは大学進学を考えていた。

予備校の夏期講習なんかにも通ったわけだ。

しかし、その頃の俺はフワフワしてたね~

勉強に身が入らないし、何考えてたんだろう?って今になっても思うよ。

それでも秋に進路を決めた。進路が決まってしまうとやること無いんだよね。

そこで暇だからってわけではないがボクシングジムに通うことにした。

まあ、その頃もね、、根拠のない自信ってのがあって、俺ならこの時点でも余裕でプロテスト受かるって思ってたんだよね。

本当に若いって馬鹿だよね~素晴らしい!!

自宅から一番近いジムが草加有沢ジムだった。

オヤジにボクシングを始めたいと伝えると、まずは見学に行って来いと

草加有沢ジムは自宅からは4駅先にあった。

谷塚駅のホームと同じ高さにありホームからもジム内の様子が何となく見える。

初めてジム内に入ると練習生で賑わっていたから6時ごろだったのだと思う。

ボクシングジムのトレーナーというと丹下段平のイメージしかなかったが

それに近いと言ったら失礼だが俺がイメージしていたトレーナー像に近い人が応対してくれた。

荻野先生だ。

見学させてほしい旨伝えると、そこに座って自由に見ててとベンチを指差した。

ボクシングの試合をテレビで観たことはあっても練習風景を生で見るのは初めてだった。

サンドバックを打つ者、パンチングボールを叩く者、鏡の前でシャドーボクシングをしてる者

1時間ほど見学して入門することに決めた。

最初に応対してくれた荻野先生にその旨伝えると次来るときに持ってくるものを指示された。

トレーニングウェア、底の平らなシューズ、タオル・・・くらいだったかな

この時、ジム内の練習生を見て、、、こいつ等になら余裕で勝てる!って本気で思ってたんだよね。

本当に馬鹿だよね~若いって素晴らしいよね

つづく

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☆★オリンピックを夢見た一瞬・・・その4 完

2018-07-16 17:00:39 | 昔の思い出

 

コックスとしてのデビュー戦を迎えた。

他のクルーは俺がシングルスカルで新人戦に出場したときにナックルフォアでデビューしているから初めてではない。

戸田の漕艇場に出漕するのは3回目になる。

軽く試漕してからスタート位置につけた。

6艇でのレースだ。スターターが「●●高校用意はいいか?」と6艇に順に問いかける。

「K高校用意はいいか?」と言われたときに横風で俺の艇の向きが変わった。

「オー!」と返事をしている時に向きが変わった。

すぐにスタート。

スタートダッシュのときに舵を切るのは厳禁だ。しかし切らなければ隣のレーンに侵入してしまう。

少しづつ舵を切りなるべくスピードを殺さないようにピークに持って行った。

中間地点でミドルスパートを仕掛ける。「ミドスパ行くぞ!足蹴り行こう!さー行こう!」

足蹴りに力が入っているのかグングンと伸びていく。

先頭に立った!勝てるんじゃね?俺の頭はインターハイ超えて翌年行われるソウルオリンピックだった。

「オリンピック行くぞ!行けるぞ!バウ気合いだ!2番気合いだ!3番気合いだ!整調気合いだ!」

俺の頭の中はオリンピック。このまま逃げ切るぞ!・・・オリンピックにはナックルフォアなんて競技は無いのだけどww

ラスト100m 。「ラストスパート行くぞ!さー行こう!」

しかし、ラストが伸びない。皆バテていた。ラスト100M位からどんどん抜かれた。

最終的にケツから2番目でゴール。

「オリンピックを夢見た」なんて大きなタイトル付けているがこのレースは県大会予選だ。

予選も突破できなかったってことだww

しかし中間地点で先頭に立った一瞬オリンピックを夢見たのは事実だ・・・実力が伴わなくても夢見るのは自由だからねW

こうして俺のコックスデビュー戦は終わった。後日1試合くらい戸田でレースをした記憶はある。

しかし2年生になる頃、、新入部員が入る頃退部した。

腰痛が治らなかったこととインターハイはどうやっても無理だろうと悟ったからだ・・・そもそも他力本願なんだよな

デブクルー達がその後どうなったかは記憶にない・・・

 

 

明日は会社の健康診断で胃カメラだ。休みだから飲んでるけどなww

 

 

 


☆★オリンピックを夢見た一瞬・・・その3

2018-07-13 21:15:51 | 昔の思い出

つづき

 

ナックルフォアのコックスをやるようになってから数週間経ったある日

たまたまだか前もって予定していたのか今となっては知る由もないが練習場所(中川)が同じだったY高校の漕艇部と

競漕することになった。相手も同じ1年生クルーだ。

中川の橋から橋間のおよそ1キロ。2艇並んでから先輩の合図でスタートした。

「1本、2本、3本、、キャッチ!ソー!キャッチ!ソー・・・」スタートの掛け声はこんな感じだ。

スタート時にスパートし流れに乗ったらパドル(漕ぐ強さ)で漕ぎ続ける。

中間地点でミドルスパート・・・「ミドスパ行くぞ!足蹴り行こう!さー行こう!」という掛け声でミドルスパートをかける。

「ピッチ36、ピッチ36・・2枚上げよう!さー行こう」・・・ピッチ36は適当だww

この時点で俺の艇が先行していた。ラスト100M程になりラストスパートをかける。

スパートしなくても余裕で勝てたのだが俺はインターハイを目指している。

ここは大差で勝たなければならない。

「ラストスパート行くぞ!足蹴り行こう!さー行こう!」・・・と言った途端、他のクルー皆えっ?!という顔をしたww

えっ?!・・じゃなくて、はあ~?何言ってるんだコイツ、、、って顔だったかなww

皆真面目に足蹴りしたかどうかは覚えていないが、その競漕は余裕で勝った。

それまで競争して勝ったという経験がなかった俺の初めての勝ち体験だった。

・・・俺が漕いだわけじゃないけどなww

競漕後トクニョウに文句言われたのは覚えているよww

 

 

 

 

 

 

 

 

 


☆★オリンピックを夢見た一瞬・・・その2

2018-07-11 12:34:28 | 昔の思い出

 

つづき

 

コックスとして初乗艇した。

他のクルーは俺がシングルスカルを始める前からこのナックルフォアを漕いでいるわけで経験値は俺よりも上なわけだ。

掛け声は大体分かっていた。

覚えなければならないのはピッチ計の使い方だ。

シングルスカルは一人で漕いでいるわけだからピッチ計なんか使用することは無い。

1分間に何回漕いでいるかピッチを計ってそれを「ピッチ35」などと伝える。

ピッチを37にしたいときは「2枚上げよう、さー行こう」

33に下げたいときは「2枚下げよう、さー行こう」と声を掛ける。

しかし、俺が真面目にピッチ計を使用したのは最初の頃だけだったww

こんなの意味ないじゃん!って思ってしまったからだ。

1分間に漕いでいる回数なんか感覚で分かるだろ・・・遅いと思ったら上げるように声かければ良いし

早いと思ったら下げるように声を掛ければいい。

漕ぎ手4人の乗艇位置も決まっている。

船首からバウ、2番、3番、整調、船尾にコックスが進行方向を向いて座る。

漕ぎ手は皆後ろを向いて漕ぐことになる。

バウがトクニョウ、2か3番にトダ、整調がオカダ君だった。

コックスの俺はオカダ君と向かい合うことになる。

困ったことに箸が転がっても可笑しくて仕方ない年頃の俺はオカダ君が苦しそうな顔で漕いでいるのを見ると吹き出してしまう。

なるべくオカダ君の顔を見ないようにしていたが目の前にいるのだからどうしても視界に入ってしまう。

まっ、それも時期に慣れたけど・・・

 

クルーの中で一人だけインターハイ目指していた俺が指示した練習メニューは少々きつかったのかトクニョウが時々ブチギレたww

その度に「お前が漕げよ!!」と言われるのだが「腰痛で漕げねーんだよ!ボケ!!」というやり取りは変わらなかったな。

 

つづく

 

 

 

 


☆★オリンピックを夢見た一瞬・・・その1

2018-07-08 18:42:40 | 昔の思い出

 

一応最初に書いておくが・・・オリンピックを夢見たというのは

実績が伴って夢見た場合と何の実績も根拠も無く単に夢見た場合があるわけだが

この話は言うまでも無く後者だ・・・

 

ボート部に入部

俺が入学した高校はボート部の強豪校というイメージがあった。

それは以前に書いた通り昭和30年代に国体優勝したからであって俺が入学した昭和60年代は県大会の決勝にも進めないようなレベルだった。

入部したのはいいのだが体の小さな俺はナックルフォアのコックス(舵手)にさせられるところだった。

ナックルフォアとはクルー5人で漕ぎ手4人舵手1人という日本独自の規格のボートだ。

コックスになりたくてボート部に入部したわけではない。

・・ってことで、入部早々シングルスカルを希望し練習を開始した。

シングルスカルとは一人乗のボートだ。

夏には試合に出場できるようになった。

新人戦で関東大会に出場した

競技人口少ないから最初から関東大会だったwww

秋になり腰痛を発症した。

ボート競技者にとって腰痛は致命傷だ。その頃の腰痛は結構深刻で授業中座っているだけでも辛い時があった。

 

コックスに転向

腰痛が治癒するまでということでコックスをやることになった。

どのような事情だったかは記憶にないが丁度コックスの席が空いていたのだろう。

通称デブクルーと呼ばれていた肥満野郎たちが集まっていたクルーのコックスをやることになった。

コックスは練習時には練習メニューを考え指示する。

試合の時は舵を取り&ペース配分を考え声を掛け指示し気合を入れるwww

腰痛を発症したときは退部しようかと考えていたがモノは考えようだ。

自分は漕がなくていい。声を出してれば良いんだ・・・こんな楽なことはないなww

デブクルーはオカダ君、トダ、トクニョウ・・・もう一人が誰だったか思い出せない。

 

コックスをやるからにはインターハイ、国体を目指すぞ!・・・と俺一人だけ思っていた。

 

つづく

 

 

 


☆★初めてビールを美味いと思った日・・・

2018-07-05 19:47:40 | 昔の思い出

 

高1の時、ボート部の練習帰りにババ屋だかジジ屋と呼ばれていた駄菓子屋でチェリオを飲むのが楽しみだった。

緑だったり赤だったり毒々しい色をしていたチェリオ。

キンキンに冷えた瓶入りのチェリオの蓋を栓抜きで開ける時は正に至福の時だった。

チェリオを飲んでいた間は良かったが・・・

ある日、駄菓子屋の先にある酒屋の前の自動販売機で缶ビールを買ってしまった。

 

俺の実家は飲酒に関しては大変寛容だった。

両親共に東北出身ということもあり、子供のころから酒を飲む機会があったとのことで

俺が夕食時に日本酒やビールを飲むことは止められたことは無かった。

・・・と言っても精々ビールをグラス1杯、日本酒なら御猪口1杯くらいなものだ。

 

話を戻して・・・部活後に初めて買った缶ビールは最高に美味かった。

それまでビールは何度も飲んでいるわけだが、運動して大量に汗をかいた後の冷えたビールは初めてだった。

それ以来チェリオがビールに変わってしまったww

帰宅時(下校時)のビールがクセになっていた。

しかしそんな至福の時も終わりがやって来た。

自転車に乗りながら缶ビールを飲んでいたところを先輩に見られたようだ。

放課後いつものようにボート部の艇庫に行くと3年生の部長がこっちへ来いと手招きしていた。

「お前、帰りにビール飲んでるんだってな~?!警察に捕まったらどうなるか分かってるのか?

お前が停学になるだけじゃ済まないんだぞ!俺たちが毎日必死に練習しているのに試合に出場できなくなるんだよ!!

一人の部員が悪いことをすると全員に迷惑がかかるんだよ!出場停止になったらお前どう責任とるの??」

一応神妙な面持ちで部長のお説教を聞いていた。

でも内心は・・・センパ~イ、試合に出場したってどーせ予選も突破できねーくせに!!、、、と、思ってたことは誰にも話してないww