酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★2000年・・・・労働許可証取得顛末記!!!

2015-02-27 20:35:14 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

少し遡って2000年5月・・・

会社設立手続きを「アナカリ」に依頼したのは以前書いた通りだ。

その時の日本人スタッフO氏の説明では会社設立後に労働許可証の申請をするとのことだった。

労働許可証はセラピストとして取得可能だろうとのことだった。

・・・で、会社設立は6月には完了した。

それから最初に説明のあった通りに労働許可証の申請を開始したとのことだ。

1週間程経ち、O氏から「ジョニーさん、セラピストとしての申請は却下されました」と連絡があった。

「今度は違うカテゴリーで申請してみます」とのことだ。

そして再び1週間経ち「ジョニーさん、今度も却下されました」・・・・・

「また違う手を考えて、それで申請してみます。」

もう開業日も決めて広告の手配もしてある。

申請するというなら見切り発車するしかないな・・・・というわけで労働許可証無しの状態での開業となった。

そして1ヵ月後・・・・未だ取得できず。

・・・・・・というか、この「アナカリ」という会社がまずかった。

たまたま営業に来た某フリーペーパーのM氏に事の顛末を話すと・・・・

「あの会社ね~・・・うちにも広告載せてもらってるから悪いことは言えないのだけど・・・・クレームが凄いんですよ」

「大々的に宣伝して仕事の依頼をかき集めて、結局捌ききれずにいるから広告載せてるうちなんかにもクレームが来るのですよ」

「労働許可証だったら帝国リサーチに依頼したらどうですか?私から話しておきますよ。」

そういうわけで以前テナント探しで訪問した帝国リサーチに再度行くことに・・・・・・・

オフィスに入ると以前と同じように元駐在員の2人のS氏とマネージャーのUさんが迎えてくれた。

アナカリに依頼したが未だに労働許可証が取得できていないことを話すると、

「セラピストとして労働許可証なんか取れるわけないよ!治療院やる場合にはマッサージ店として営業ライセンスを取得して

そこのマネージングディレクターとして申請するんだよ」

・・・ということで、セラピストとして労働許可証が取れないことを初めて知ることになる。

アナカリは今まで何をしていたのだろう?

後に知ったことだが、タイでは医師でなければ針施術できないらしい。

チャイナタウンで医師ではない中華系タイ人が針治療を行っていることもあるが、あれは合法ではなく黙認されている状態でやっているとのことだ。

・・・・・そういうわけで今度は帝国リサーチに労働許可証取得を依頼することにした。

この時、会社関係書類はアナカリに全て預けてあったので書類を回収しなければならなかった。

マネージャーのUさんが「私、一緒に行くよ・・・」とのことで同行してもらいアナカリのオフィスへ・・・・・

アナカリのオフィスに到着すると以前と何か様子が違う。

オフィスの中は女性の事務員が1人だけ。

会社関係の書類を返却して欲しいことを伝えると1冊のクリアファイルを持ってきた。

このファイルに全て書類が入っているとのことだ。Uさんに中身を確認してもらい書類の回収は終了。

以前は大勢のスタッフが働いていたオフィスに何故一人なのか・・・・・

アナカリは倒産したとのことだ。一応ご丁寧に業務を引き継ぎする会社も決まっているようで、以後この会社に連絡して欲しいと名刺を渡された。

俺のように書類を回収しに来る人がいるとのことで一人事務員を残しているとのことだ。

労働許可証取得のための費用を先払いしていたのだが・・・・・倒産したのではどうしようもないな。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています。 

↓1クリックよろしく!!!

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村


☆★2000年7月某日・・・オリエント治療院開院!!!

2015-02-26 19:44:39 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年7月10日月曜日・・・

バンコクにて開業初日の朝。

サトーンのアパートで朝食を済ませると嫁とタクシーでトンローの治療院へ向かった。

営業時間は10時~20時だったか。治療院の名は「オリエント治療院」とした。

10時にはタイ人スタッフ3人も揃った。

この日のためにバンコク週報に大きめの枠で広告を掲載した。

翌週には「タイ自由ランド」にも広告の他、体験記事が掲載される予定だ。

当時の嫁の手帳によると、この日の来客は俺の施術が2人とのことだ。

タイ人マッサージ師の施術は2人でジャキット氏とヌイさんがそれぞれ施術したと記憶している。

そういうことで4名の来客があったということだ。

残念ながらダーさんのお客様はいなかった。

新規オープンの店としては、まずまずの出だしだな。

 

2日目・・・・

ダーさんはとうとう出勤せず。

初日にお客が付かなかったのがショックだったか。

 

俺の施術料はタイ人マッサージ師の4倍の料金だったが、

それでもホームプレイスオフィスビルに入っている会社のタイ人の方々に日本人に施術して欲しいと来院していただいたのは嬉しかった。

こんな感じで1週間が過ぎ、タイ自由ランドが発行された日・・・・

体験記事が大きく掲載された。

これが起爆剤になった。

行列が出来るとまではいかないが、朝から晩まで休み無く働くことになった。

タイ人マッサージ師も途端に忙しくなったが、ジャキット氏とヌイさんの2人しかいないから限度がある。

特にジャキット氏は3人マッサージすると親指が痛くてどうしようもないらしい。

ヌイさんは経験が長いだけあり、力の抜き加減が分かっているようだ。

治療院の営業が終了すると出張施術に行く・・・・・この頃が人生の中で一番働いた時だったか。

 

ここまで書くと全て順調のようだが・・・・まだ肝心の労働許可証を取得していなかったのだよ。

いやいや、よく捕まらなかったよな・・・・・

それに関しては次回。

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています。 

↓1クリックよろしく!!! 

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村

☆★2000年6月某日・・・マッサージ師の求人そしてトレーニング・・・その2

2015-02-25 11:23:25 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年6月下旬

本日二人面接に来ることになっている。

この頃には店舗の内装も完成し、あとはカーテン取り付けのみとなっていた。

 

 

↑この画像が多分その頃だな。この時期の画像はこの1枚のみ。

 

来るかどうか半信半疑ながら待っていた。

最初に来たのは30前後のタイ人男性だった。

彼の名はジャキットと言った。

ジャキット氏は何やら沢山のの書類を持参してきた。

大学の卒業証書だったり、タイ式マッサージの修了書だったり・・・・・

話を聞くとマヒドン大学卒業でレントゲン技師をしていたらしい。

マッサージ師の経験は3年だそうだ。

しかし、何故だか自信無さげだな。

学歴より技術の世界なので、まずはマッサージのテストをさせてもらった。

親指に力はあるようだし押さえるツボの位置も正確のようだし・・・・・・

大丈夫だろうということで採用した。

7月の開業前に日本式マッサージの研修を行うからその時に再び来てください・・・ということで面接終了。

 

2人目も時間通りに来てくれた。

名前はヌイだった。

ヌイさんは経験10年以上でテストすると確かに上手だった。

こちらも採用。

その後も求職の電話が数件あり面接をし、もう一人採用した。

 

研修当日・・・・・・

採用したタイ人スタッフ3人とも来てくれた。

さらりと「来てくれた」と書いているが、タイ生活を経験した今では奇跡的なことだったと思っているよ。

ジャキット氏、ヌイさん、ダーさんと3人が揃った。

労働許可証取得のためにはタイ人スタッフを四人雇用する必要があるのだが、もう一人は・・・・

この頃は甘かったと言うことだ。

当初、日本式指圧ということで考えていたのだが、

タイ式マッサージを長らく経験した方々に親指のみで施術しろというのは無理だということに研修を始めて早々に気が付いた。

それでは日本式マッサージということにして、腰部のみ肘を使っても良いということにした。

ジャキット氏はこちらが教えたことを忠実に守った。

ヌイさんはタイ式マッサージの経験が長いだけあり所々タイ式の技が入ってしまう。

ダーさんは特に記憶なし。

こんな感じで5日程研修をしたわけだが、終了時には日本式マッサージとして提供するレベルに十分達していた。

 

いよいよ明日開業だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています。 

↓1クリックよろしく!!! 

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村


☆★2000年6月某日・・・マッサージ師の求人そしてトレーニング・・・その1

2015-02-24 20:47:32 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年6月某日・・・

店舗の内装工事も終わるかという頃に従業員の募集をすることにした。

小さな治療院なので日本だったら俺一人でやるところなのだが、労働許可証を取得するためには

タイ人従業員を4人雇用しなければならない。

タイ人従業員、しかもマッサージ師・・・どうするか。

この時点で考えたのは・・・1:他所の店に行き引き抜く、2:就職情報誌に掲載する・・・

1の引き抜きだが新規オープンの店で、しかも日本式マッサージという彼らからしたら未知のことをやろうとしている店に、

好んで来る奇特なマッサージ師がいるか?ということだ。

・・・・・というわけで2の就職情報誌に広告を掲載することにした。

しかし、就職情報誌なるものがあるのかどうかも知らなかった。

当時、頼りにしていたタイ関係のネット掲示板で質問してみた。

その掲示板では答えは返ってこなかったが、それを見ていた風来坊師匠からメールが届いた。

タイにはワタサンやワタジャックという会社から発行されている就職情報誌があるとのことだ。

それぞれの会社から「ガーン」や「ガーン・ワンニー」などという名前で就職情報誌が発行されている。

開業予定のテナントの隣が本屋だったのでそこでワタサンの就職情報誌を購入した。

記載されていた電話番号に電話する。

「求人広告を掲載したいのだけれど・・・」

相手:「○×△●×▲■□」・・・何言ってるかわからない。

ダメだ・・・・ワタサン社に直接行くことにした。

スクンビットからタクシーで100B超の距離のところだっただろうか、ワタサン社に着いた。

受付で求人広告を掲載したいと伝えると、通じたようで応接室に通された。

すぐに若い女性が来た。営業の女性のようだ。

「こんにちわ!」と日本語で挨拶してきた。

日本語話せるの?と尋ねると「少し!」と答えた。

少し!というのは本当で、その後彼女から日本語を聞いたのは別れ際の「サヨナラ」だけだった。

マッサージ師を募集したい旨を伝えると勤務時間、給料、その他・・・記載すべきことを色々とアドバイスしてくれた。

彼女と打ち合わせをしている間、日本人が珍しいのか次から次へとワタサンのスタッフがやって来ては日本語で話しかけてくる。

日本語と言っても「コンニチハ」「オイシイ」「アリガトウ」とか、その程度だ。

まっ、就職情報誌の会社に日本人が単独で来るなんて滅多に無いだろうからな。

翌週の号から掲載されるようにお願いしてワタサン社を後にした。

これで何とか求人広告を掲載することができた。

 

求人広告が掲載された日。

早速、1件の問い合わせがあった。これを逃すまいと必死だった。

片言のタイ語を話す外人の必死さに恐怖を感じたのか、最初に電話をかけてきた人が面接に来ることはなかった。

それでもその日の内に数件問い合わせがあり、その内の2人が翌日に面接に来るというところまで漕ぎ着けた。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ↓1クリックよろしく!!!

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村

☆★2000年5月某日・・・トンローのテナントを本契約そして内装工事開始!!!

2015-02-23 20:03:26 | 1999年バンコクで起業した回想記


 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

ホームプレイス社でテナントの本契約をした。

契約といっても保証金2か月分を支払い契約書にサインするだけなのですぐに済んだ。

そのままピヤワンさんとテナントに行き内装工事の打ち合わせをした。

壁紙張替え、天井の塗装、施術室と待合室の間にパーテーションの取り付け

その他・・・手洗い用シンクの設置、ベッドの仕切りカーテン取り付け等々軽微な工事で済む予定だ。

施術用ベッドは日本ではポピュラーな顔面部分に穴が開いているものを使用したいと考えていたが

このベッドはタイには無かった。

ピヤワンさんに写真を見せると提携している家具屋でオーダー可能だろうとのことだ。

2,3日で見積もりを作成しておくとのことだった。

それからラチャダーのアナカリへ向かった。会社設立手続きを進めるためだ。

揃えておいた書類を全て渡して、後は全てお任せすることになった。

大体1週間ほどで完了するとのことだ。

 

帰宅し部屋で休んでいると携帯電話が鳴った。

電話に出ると先日面接に行った就職斡旋会社からだった。

面接から2週間くらい経っていただろうか。

紹介できる就職先が見つかったとのことだ。

治療院を開業する旨を伝えると・・・

「その方がいいですよ。絶対間違いないと思いますよ・・・」と温かいお言葉を頂いた。

ちなみにその時紹介してもらう予定だった会社はローカルの家具メーカーだった。

 

2日後、ピヤワンさんから電話があった。

見積もりが完了したからオフィスに来て欲しいとの事だ。

ホームプレイスのオフィスに行くとピヤワンさんが見積書を持って来た。

見積もりの正確な金額は覚えていないが、ベッド製作込みで8万B以下だったと思う。

ベッドが1台5000Bだったと記憶している。

その他、壁紙張替えやカーテンなども日本の半値以下だった。

大体2週間ほどで完了するだろうとのことだ。

この時点でオープンは7月初旬と決めていた。

それまでにタイ人マッサージ師の募集及びトレーニングをしなければならない。

ここからが大変だった・・・・

 

 

 

 

 

 

 ブログランキングに参加しています。

↓1クリックよろしく!!! 

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村

☆★2000年5月某日・・・会社設立手続き・・・発起人の名義を借りる

2015-02-20 22:22:10 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

前回からの続き・・・・・

アナカリで会社設立の説明を受けてタイ人の発起人が4名以上必要なことがわかった・・・いや、日本を出る前から知ってたけどね。

俺の身近なタイ人といえばアパートのメバーンしか居ない。

アパートに帰ると早速メバーンの部屋に向かった。

ドアをノックするとメバーンが出てきた。

今まで部屋まで来たことのない人間が来たからか少し驚いた表情だ。

開口一番「会社を設立するから発起人名簿に名前を使わせて欲しいのだけど・・」

メバーン:「???・・・」

IDカードとタビアンバーン(住居登録証)のコピーを用意してくれると助かるんだけど・・・・・

メバーン:「え~・・・それは何だか怖いわね・・・」

そりゃそうだ、逆の立場で考えれば知り合い程度の外人に名義を貸すなんてありえないよな。

そんなやり取りをしているところにアパートの管理室のスタッフ(大家のオバサマではない)が通りがかった。

「会社設立するから名義を貸して欲しいって言われてるんだけど・・・何だか怖くって」

すると管理人の男性は「借金の保証人じゃないんだから大丈夫だよ。会社設立でしょ、何も心配要らないよ」・・と、言ってくれた。

間を置かずに「勿論お礼はするから、、、お願い!」と言いながら指二本出した。

それならばということでOKして頂いた・・・・良かった~

更に「旦那にも聞いてあげるよ」と言い部屋の中に入っていった。

少しして戻ってくると「旦那もOKだって」・・・やった~!!!

気が変わらないうちにとIDカードとタビアンバーンを借りるとすぐにアパートの管理室のコピー機を使わせてもらいコピーした。

コピーにサインも貰いこれで完了。

お礼にと4000Bを渡すと驚いた表情だ。どうやら指2本は200Bと思っていたらしい。

こちらとしては法律事務所に名義使用料を毎月支払うことを考えれば安いものだ。

それに法律事務所では名義を貸すのは1年位までと期限がある。

本当に助かった。

そしてホームプレイス社に明日本契約に行く旨のアポをとり、この日は終了。

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています。 

 1クリックよろしく!!!

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村

☆★2000年5月某日・・・テナント契約そして会社設立手続きを開始!!

2015-02-19 20:44:01 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

 

 

前回からの続き・・・・

 

ホームプレイス社のオフィスに入ると応接室に通された。

 

ピヤワンさんがファイルから1枚の紙を取り出した。

 

その紙に賃料が記載してある。1階、2階とそれぞれのテナントの賃料が記載されていた。

 

先程内部を見た店舗は500B/㎡と記載してある。

 

37平米だと18500Bということになる。場所を考えれば高くはない。

 

しかしそのような思いとは裏腹に口からは「ペーン!(高い)」という言葉が咄嗟に出てしまうのはこの頃からだったのだろう。

 

「ロットダイマイ?(マケテ)」と続けて言ってしまうのもこの頃からだったのだな・・・(いや、親父が亡くなって仏壇買う時にも値切ってお袋さんが呆れてたな。)

 

・・・・するとピヤワンさんは450B/㎡ではどうかと言ってきた。

 

えっ、値切れるの???自分で値切っておいてなんだがダメ元で言ったのに・・・・これはもっと値切れるな

 

400B/平米なら今すぐ契約するのだけどなあ・・・・と言うと

 

ピヤワンさんは450B/㎡より下げるのは無理と言う

 

じゃあ他の場所も見てから決めるよと言うと、ピヤワンさんは少し考えて400B/㎡でOKと・・・・

 

保証金2ヶ月、フリーレント期間1ヶ月ということで話がまとまった。賃料は14800B+VATで16000B弱ということだ。

 

内装工事があるのでフリーレント期間1ヶ月というのは大変ありがたい。

 

手持ちの数千Bを内金として支払い、明日以降に本契約することにした。

 

それまでに正式な契約書を作成しておくとのことだ。

 

これで店舗は決まった。アパートの時もそうだがアッサリと決まってしまうものだな。

 

 

 

さて翌日、今度は会社設立のための手続きを始めなければならない。

 

これは個人で行うのは困難というか不可能なので法律事務所に依頼することになる。

 

当時フリーペーパーなどで盛んに宣伝していた「アナカリ」という会社に依頼することにした。

 

ここを選択した理由は日本人スタッフ常駐ということと会社設立、労働許可証取得の料金が広告に記載されていたからだった。

 

日本人スタッフにアポを取りラチャダーの事務所に向かった。

 

日本人スタッフはO氏という。他にも日本人女性スタッフが居たがこちらは最後まで話す機会はなかった。

 

まずは会社設立までの流れを説明してもらった。

 

細かいことは記憶に無いが一番困ったのは7名以上の発起人が必要なことだ。

 

7名のうち日本人3名、タイ人4名とする必要があった。

 

日本人は問題ないがタイ人4名をどうするか・・・・・・・

 

アナカリでも名義貸しは行っているそうだが1人あたり1000B/月だったかな・・・500B/月だったかも

 

ここで4人全員の名義を借りるのは金銭的な問題と「乗っ取り」というリスクがある。

 

そういうわけでタイ人のうち2人はこちらで用意したかった。

 

さあ、どうしよう・・・・・と、この時アパートのメバーンの顔が頭に浮かんだ。

 

そうだ、メバーンに頼んでみよう。

 

・・・ってわけでこの日は帰宅することに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキングに参加しています。

 

↓1クリックよろしく!!!


にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村


☆★2000年5月某日・・・治療院開業のためのテナント探し

2015-02-18 20:06:52 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年5月某日・・・

バンコク週報に広告を掲載してから出張施術は1週間で数件の依頼があった。

数件とは少ないようだが日本でやってた時よりは多いペースだ。

日本ではこれを1年以上続けて毎日コンスタントに仕事が入るようになり本業の病院勤務の収入を上回ることができた。

広告を出してすぐに施術の依頼が殺到するなんていうのは名のあるカリスマ治療家以外にはありえない。

俺のような名もない平凡な治療師はリピートして頂いて時間をかけて顧客を増やしていかなければならない。

誰でも広告を出せば依頼は来るけど、要するにリピートが無ければダメということだな。

 

最初の1週間で数件依頼があったことで治療院を開業してもやっていけるのでは・・・と思った。

・・・・というわけで、早速店舗探しを開始した。

この時、来タイして約7ヶ月。日本人が多く住んでいる地域がスクンビットということは分かっていた。

日本人相手に開業するのであればアソークからトンローの間だろうと考えていた。

店舗探しを開始して最初に訪れたのは帝国リサーチ。

ここに訪れた理由は記憶に無いのだが、店舗の紹介もやっていたからなのだろう。

帝国リサーチのオフィスに入ると2人の日本人スタッフとタイ人マネージャーのUさんが出迎えてくれた。

日本人スタッフは2人ともSさんというイニシャルで2人とも元駐在員だったそうだ・・・・・・・だったそうだ、ということで2人とも既にリタイヤされた方々だ。

この時の帝国リサーチでのやり取りは記憶に無いが、帰り道モトサイでトンロー通りまで出てから店舗探しのため歩いた。

炎天下の中散々歩いて涼もうと思って入ったオフィスビル。

 

 

ホームプレイスオフィスビル。

1,2階がテナントで上部階はオフィスフロア。

近代的な建物だ。

 

 

↑1階この部分が空き店舗だった。

ドアに貼られていた電話番号に電話をかけた。

出たのは女性だった。

「今ホームプレイスの1階の空き店舗の前に居る。この店舗の中を見たい・・・」

・・・・と、英語で言ったかタイ語で言ったか記憶にないが、この位は話せたってことだな。

「今からそちらに行きますから少々お待ち下さい・・・・」

数分後、タイ人女性が鍵を持ってきた。

「ピヤワンです。よろしくお願いします・・・」と挨拶しながら名刺を渡された。

鍵を開けてもらい中を見せてもらった。

広さは35平米。10坪強って所だ。

小さな待合室を作ってもベッド4台は置ける。

労働許可証を取得するのにタイ人スタッフを4人雇わなければならないから本当はベッド5台置けるスペースの所が良かったのだが

4台でもいいか!って即座に妥協した。

あとは賃料次第だな・・・・・ということで、ホームプレイス社のオフィスへ向かった。

 

 

ブログランキングに参加しています。 

↓1クリックよろしく!!! 

にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へ
にほんブログ村


☆★2000年4月下旬・・・バンコク週報に広告掲載・・・出張施術開始 その2

2015-02-17 20:57:25 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

前回からの続き・・・・・

出張施術の広告が掲載されたバンコク週報が発行された。

確か金曜日だったと思う・・・バンコク週報の発行日が毎週金曜なのだから間違いない。

バンコクの日本人社会に受け入れて頂けるかどうか不安だった。

そんな不安に反して依頼の電話が鳴り止まなかった・・・・・

・・・・・・・と、書きたいところだが世の中そんなに甘くないことは十分に分かっていた。

それでも夕方までに1件依頼の電話があった。

ご自宅はスクンビットだが少々分かりづらいので近所のホテルまで迎えに来ていただけるとのことだった。

指定されたホテルのロビーで待っていると、ジョニーさんですか?と声をかけられた。

電話で依頼していただいたHさんだった。

エントランスにBMWが停めてあり後部座席を勧められた。車は眩しいくらいに光り輝いて見えた。

助手席には奥様であろう女性が座っていた。

スクンビットの路地を数分走ると大きな門の前で停止した。

クラクションを鳴らすと若い女性が出てきて門を開けた・・・・奥様の遠縁で住み込みでメバーン(メイド)をしているとのことだ。

庭には大型犬が3頭いた。スクンビットの庭付き1戸建て・・・・豪邸。

このような所に住んでいる日本人がいる事に驚いた。

家にお邪魔し早速部屋で施術開始した。

Hさんは在住10年とのことだった。

在タイ年数を尋ねられた時、在タイ年数長い方の殆どが「恥ずかしながら・・・・」と頭に付けて言う。

Hさんも、やはり「恥ずかしながら・・・」と仰ってた。

駐在員として来タイし現在の奥様と結婚して帰国命令が下った時に退職して独立したとのことだ。

色々な話をしているうちに1時間の施術が終了した。

タイに来て初めての施術だったので緊張した・・・ってことは全く無かったが、

久々に施術したので、ぎこちなさが出ていなかったか心配だった。

帰りは車でBTSの駅まで送って頂いた。

その後、俺がHさん宅に訪問することはなかったが治療院開院後やマッサージ店開業後に何度も来店して頂いた。

 

・・・・・・・以上バンコクで初めて収入を得た時の話。

 

 

ブログランキングに参加しています。

1クリックよろしく!!! 

にほんブログ村 海外生活ブログ タイ情報へ
にほんブログ村


☆★2000年4月下旬・・・バンコク週報に広告掲載・・・出張施術開始

2015-02-17 11:08:26 | 1999年バンコクで起業した回想記

 

 

印象に残っている出来事を時系列に沿って書いている。

 

2000年4月下旬・・・

就職斡旋会社に登録したので、あとは就職先を紹介されるのを待つだけとなった。

但し紹介されるまで数日から数ヶ月と幅があり気長に待つ必要がある。

この時はタイ語学校にも行っていなかったので日中ブラブラして夜飲みに出かけるという生活だった。

こんな生活を送っていたら堕落するのは目に見えているし、金も続かない。

何かしなければということで鍼・指圧の出張をすることにした。

することにした・・・・と、この時思いついたわけではなく

現地採用で会社で働きながら終業後に副業でやろうということを来タイする時から考えていた。

出張施術は日本で資格を取った直後の21歳から本業の病院勤務の傍ら行ってきたことだ。

日本では新聞の地域版に3行広告を掲載していた。

3行広告でも結構反響があり本業の収入を上回る月もあった。

同じことをバンコクでもやろうというわけだ。

就職斡旋会社での面接以降、治療院開業に半分以上は心が傾いていたので、

日本の鍼・指圧の需要がどの程度あるのか計る意味でもこれはやらなければと思った。

この出張施術がダメなら治療院開業してもやっていくことは困難だろう。

日本でやった時と同じく広告を掲載しようと思った時に真っ先に頭に浮かんだのはバンコク週報だった。

早速バンコク週報にアポを取りオフィスに向かった。

オフィスで出迎えてくれたのはH氏だった。H氏は同世代で感じの良い話しやすい方という印象だ。

広告は一番小さなマスで1500Bとのことだ・・・1200Bだったかな?

バンコク週報はその名の通り週刊なのだが、毎週載せるのは金銭的な問題もあったので2週に一度掲載してもらうことにした。

翌週発行の新聞に掲載されるとのことなので、あとは待つのみだ・・・・

 

さて、どうなるか・・・・・・・

 

 

ブログランキングに参加しています。

↓1クリックよろしく!!


にほんブログ村 海外生活ブログ バンコク情報へにほんブログ村