酔っぱらい一人旅

オール電化キャンプを推進します・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

2024-08-22 16:22:41 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

こんにちは、酔っぱらいです。

1991年9月

プロテストの数日前に指定病院に健康診断を受けに行った。

日大病院と大同病院が指定されていた。

日大病院で受けようと、板橋だったと思うが直接向かった。

病院の受付でボクシングのプロテストのための健康診断を受けたいと伝えると

すぐに理解してもらえたが、CT検査があるので事前の予約が必要だとのことだった。

今日この場で予約しても早くて1週間後と言われた。

テストに間に合わないな~・・・今だったら、事前に予約が必要か?とか予め問い合わせるのだが

この頃はそんなことにも気が回らなかったのだな。

困ってしまい、プロテストの主催団体の日本ボクシングコミッションに電話を掛けた。

電話口の女性の職員が、大同病院なら空いていれば即日受けてくれると教えてくれた。

そのまま高田馬場の大同病院へ・・・CT検査も完了し、無事終了。

プロテスト当日

宮田ジムに集合と指示されていた。

会長の車に同乗し連れて行ってもらった。

この当時、会長は真っ赤なセリカに乗っていた。

T川君が同行してくれた。会長が誘ったようだ。

T川君もプロ志望だったからね。

俺より強かったT川君はこの数か月前に病気になったらしく、暫くジムには来ていなかった。

それで、本来だったら俺と同時期にプロテストを受けるはずだったが、少し遅れることとなった。

後楽園ホールに到着した。

実はホールに来るのは初めてだった。

初めての後楽園ホール・・・意外と狭いのだな~というのが第一印象だ。

リングに上がって感触を確かめてみな、、と、会長に言われ、初めてホールのリングに上がった。

フカフカではないが、リングのフロアーは少し柔らかい感じがした。

プロテストは筆記試験の後でスパーリングを2ラウンド行うという内容だった。

受験者は何人居たか覚えていない。

筆記試験はルールに関するもので、これで落ちる人は居ない程度の内容だ。

受験者の中で満点が一人だけ・・・俺ですよ

ジムの壁の隅に貼ってあったパンチの絵と名称が共に記載していたものだけど・・・

それをタマタマ目にしていたわけですよ。

皆が正答できなかったパンチの名称・・・「スイング」

ジャブ、ストレート、フック、アッパー・・・これは皆分かるが、「スイング」はあの張り紙を目にした人じゃないと名称が出てこないだろうね。

次に体重の軽い順にスパーリングを行った。

俺は軽い方なので早い順番だった。

会長とT川君にグローブを着けてもらった。

グローブを着けてもらっている間に心臓がバクバクしてきた。

後にも先にも人生で一番緊張した時だ。この後のデビュー戦なんか問題にならないくらい緊張した。

本当に人生で一番だよ。

名前を呼ばれてリングに上がった。

2ラウンドのスパーリングが開始された。

スパーリングが始まっても心臓はバクバクしていた。

緊張しながらも俺の方が優勢だった。

1ラウンド終了しインターバル。リング下の会長が何かアドバイスくれたはずだが、何を言われたのか記憶が無い。

2ラウンド開始・・・最後の30秒くらい相手に一方的に攻め込まれ亀状態だった。

スパーリング終了しレフェリーに挨拶しリングを降りた。

降りるときに会長に「大丈夫ですかね?」と尋ねた。

会長は何も言わない。

リングを完全に降りて、リングから離れてから初めて会長が「大丈夫だよ、合格だよ」と言ってくれた。

「最後はどうしたの?スタミナ切れたの?」とも言っていた。

俺が尋ねた時にすぐに答えなかったのは、審査員が近くに居たからのようだ。

俺自身は合格と思えるほど優勢ではなかった印象だ。

最後に一方的に攻められて亀になっていたこともある。

この日は夜にボクシングの試合があり、その試合を観戦させてもらえることになった。

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

2024-08-21 11:28:36 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

こんにちは、酔っぱらいです。

1991年7月

宮田ジムに入門して10カ月ほど経っていた。

ここまで変わらず学校帰りの昼間の時間帯に練習していた。

練習終わって家に帰り、夕方から工場にバイトに行くという生活だった。

スパーリングは3回やる内の2回はT川君とだったと思う。

3回に1回は他の練習生とやっていたが、その中に獨協大学ボクシング部の部員も居た。

当時、獨協大学のトレーニング場が工事中でリングが使えないために、宮田ジムまで練習に来ていた・・という理由だったと思う。

いや、違うかな、、獨協大学にはリングが無いからスパーリングやる時だけ宮田ジムに来ていた・・だったかな。

部員は5人位来ていただろうか。

その中の一人とスパーリングをすることになった。

2ラウンドの予定で始まったスパーリングだが、1ラウンド途中、ボディーアッパー1発で悶絶させた。

相手は余程悔しかったのか、またスパーリングして欲しいとお願いしてきた。

嫌だよ嫌だよ・・・俺だってマグレだと思っていたからね。

次やったら、こっちがボコられるかもしれないからね。

悔しさもあって120%の力出してくるかもしれないしね。

そんな人を相手にするのは絶対に嫌だよ。

俺が勝手に相手決められないから会長に話してねってことで、その場は逃げたよ。

この頃、会長からプロテスト受験の話を頂いた。

受験が決まると、練習内容的には変わらなかったが、朝ロードワークを行うように指示された。

この頃はロードワークは朝っていうのがお決まりだった・・・走る前に生卵は飲まなかったけどね

起床したばかりで完全覚醒しないうちに走るのは身体に良くない説が出始めたのも、この頃だったかな・・・

プロテストまでは真面目に早起きしてロードワークしましたよ。距離は5キロ位だ。

あっ、でもね、ボクシングやっているって他人に話した時に、朝走るんでしょ?何キロ走るの?って尋ねられると、、10キロって答えていたよ。

5キロではね、、普通過ぎるでしょ。

それと、もう一つ指示されたのはリングシューズを購入することだった。

当時は普通に購入可能なものはアシックスかランバード(ミズノ)の2択だったと思う。

今はハイカットやローカットが選択できるみたいだけど、当時はハイカット一択だった。

それと当時はゴム底と革底の2種類あってボクサータイプは革底、ファイタータイプはゴム底を選択することが多かったかな。

俺はランバードのゴム底のシューズを選択した。

それまで普通のランニングシューズを使用していたが、リングシューズは足にフィットして軽いし、リングマットにしっかりグリップするため格段に動きやすくなったのを覚えている。

9月に入りプロテストが近くなると指定病院に健康診断に行くこととなった・・・

つづく・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

2024-08-19 14:58:39 | 昔の思い出

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

こんにちは、酔っぱらいです。

見学の翌日から宮田ジムで練習開始した。

会長がジム専業ということもあり13時だったか13時30分が開始時間だった。

練習初日に一番最初にやったのは、バンテージの巻き方を教えてもらうことだった。

有沢ジムで練習してたのにバンテージの巻き方って???

有沢ジムでは練習生は伸縮バンテージを使用していた。伸縮性のある包帯のようなものだ。

宮田ジムでは練習生も最初からバンテージとして綿包帯を使用していた・・・有沢ジムでは選手になると綿包帯を使っていた。

こちらは伸縮バンテージとは巻き方が少々異なる、、というか全長が倍くらい長いので、その分余計に巻くことになる。

有沢ジムで半年ほど経験しているということで、スパーリング開始するまでは早かったと思う。

昼間は練習生が少なかった。

昼に来るメンバーは決まっていた。

その中の同じくらいの体格のT川君とスパーリングをやるようになった。

T川君は同年代で板前の修業をしていた。昼に練習して夕方から出勤していたようだ。

T川君は俺より少し強かった。だから俺の方がパンチを貰う数が多かった。

俺より少し強い相手だったのが、俺にとっては良かったのかもしれない。

まあ、この頃はスパーリング恐怖症は治まっていたよ。一方的にボコられることは無くなっていたね。

この頃(1990年)の宮田ジムでは3人の選手が新人王トーナメントに残っていた。

阿部健一氏(後の日本ランカー)、真部豊氏(後の日本チャンピオン)、笠島氏・・

このお三方は12月の東日本新人王決勝まで進んだ。

結局、阿部さんだけが東日本決勝を勝ち進み全日本新人王決勝も勝利し全日本新人王となった。

阿部さんは昼間に練習していることもあった。

元々シュートボクシングの選手でボクシングに転向したようだ。

試合前の阿部さんは減量がきつそうだった。ライト級だったと思う。

最後の試合の前の練習中に次の試合からは階級上げたいと会長に訴えていたのが印象的だ。

デビューから9連勝していたが10戦目で有沢ジムの小山豊氏と対戦し初黒星・・・これがボクシングでは最後の試合となった。

その後、どのような経緯でそのようになったかは知らないが、空手の大会で佐竹 雅昭氏と対戦し破れる。

空手の大会に出場したからなのか、空手の大会に出場するために、、どちらかは不明だがボクシングは引退した。

真部氏や笠島氏は俺が夜練習に行くようになるまで会うことはなかった。

宮田ジムでは逃げ出すことなく続けることが出来た。

何故かってね・・・宮田会長はとにかく些細な事でも長所を見つけては褒めるんだよね。

例えばミット打ちしてる時なんかに「酔っぱらい君!パンチ強いね~。パンチの強さだけなら世界チャンピオン並みだね~」・・・こんな感じでね。

そういう風に褒められると、その気になるんだよね。

まあ、しかし、、、同じように褒められている練習生が大勢いたけどね。

宮田会長はどの練習生にも分け隔てなく話しかけていましたよ。

この時から何年も経った時、夜のニュース番組で宮田ジムの特集が放送され、久米宏氏か古館一郎氏だったかと思うが

「この会長は褒めて伸ばすタイプの指導者なのですね~」ってコメントしていたのを覚えている。

宮田ジムに入門してから丁度1年後にプロテストを受検することになった。

その話は次回・・・

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

2024-08-15 11:21:02 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

こんにちは、酔っぱらいです。

最後にUPした「☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!」から3年近く経ってしまったが続きを書いていくよ・・・

1990年9月

宮田ジムに見学に行ったのは多分この頃だと思う・・・

草加有沢ジムを辞めて数か月経ちスパーリング恐怖症だったことなんか忘れかけたころ、再びボクシングをやりたくなった。

通っていた鍼灸学校の近くにボクシングジムがあった。

立石の宮田ボクシングジムだ。

午後の開始時間に訪問した。

挨拶して入室すると若い小柄な男性がこれ以上ないウェルカムな雰囲気で迎えてくれた・・・宮田会長だ。

当時、俺は18歳、宮田会長は24歳だったと思う。

机の上には会長の記事が載っている雑誌が何冊か置いてあった。

それぞれの雑誌の表紙に●●ページに会長登場!!ってマジックで書いてあったのが印象的だ。

その雑誌の中に高校生で全日本新人王を獲ったことを書いてあったものがあった。

その時にピンときた。高校1年のときのO川君の話の中で初めて高校生で全日本新人王を獲ったボクサーが云々という話があった。

あれは宮田会長の事を話していたのだなと・・・(戦績を確認すると、O川君の話に出た時は丁度引退する頃だ)

草加有沢ジムに在籍していたことを話すと、、「どうして辞めたの?またボクシングやろうと思うなら、有沢ジムに戻ったらいいのに。戻ったら先生たちも喜ぶと思うよ。」

まあ、俺としては学校から近く、昼から営業しているこのジムの方が都合が良かったわけだ。

もう一人、見学者ではなく遊びに(話に)来ていた練習生だと思うが、「何で再びボクシングやろうと思ったわけ??」と尋ねてきた。

俺が返答に窮している間に宮田会長が間髪入れずに「暇だからだよね?」・・と

暇ではないが他にやることが無いからってところだな。

ジムの規模は有沢ジムの半分位だ。雰囲気は有沢ジムとは真逆だな。

有沢ジムが硬派な体育会系とすれば宮田ジムは(言葉が適当ではないかもしれないが)カジュアルな雰囲気だ。

インターバルの間に笑い声も聞こえている。

有沢ジムとは真逆の雰囲気の宮田ジムに入門することにした。

つづく・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

2021-09-27 18:54:02 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

こんにちは、酔っぱらいです。

1990年

高3の3学期は登校する必要が無かった。

そういうわけでアルバイトをすることにした。

土木作業員、、土管を地中に配管する作業だ。

1月の寒い時から始めたわけだがキツかったね~

地面を2メートルくらい掘ると水が出てくるんだよね。

冬だから冷たいわけだ。

でも、日当が良かったんだよね

高校生で1万円もらえたからね。

現場の雰囲気も良かったんだよね。

監督が元本職(893)の方でで話が面白かったね~

・・・学生のバイトが6人いたんだけど帰りが一緒になると途中の鯛焼屋で毎回奢ってくれたよ。

昼休みはチンチロリンなんかやって楽しかった・・・金巻き上げられたけど

でも、このチンチロリンは一番勝った人が3時休憩に全員に缶コーヒーを奢るってルールがあったから

勝っても小勝ちだとマイナスになるんだよね。

社長は医師免許持ってて専門は産婦人科らしいんだけど、

この会社を継ぐために医者辞めたらしいんだよね。

職人のオジサン達は東北からの出稼ぎで、俺の両親も東北出身だから馴染みやすかったね。

1人中国人の方が居たんだけど「大宮」って呼ばれてたんだよね。

本当は「呂」っていうらしいんだけど、当時大宮に住んでたから社長に「大宮」って名前を付けられたんだよね。

今だったら大問題だよね。

呂さんは留学生だった。

中国の大学を卒業していて日本の大学院に入学するとのことだ。

どこの大学院か尋ねたら東京大学と横浜大学、、両方受かってるけど、どちらにするか考え中とのことだった。

えっ?東大と国立横浜大だったら考えるまでもなく東大でしょう???

しかし、暫くして呂さんは国立横浜大学の大学院に入学すると言った。

これには皆、え~!!何で???って反応だったが・・・

詳しく話を聞くと、もう一方は東京大学ではなく東京都立大学だった。

こんな感じで寒くて辛いこともあったが楽しい現場だった。

現場は竹ノ塚だったから17時過ぎまで仕事して一駅先の谷塚の有沢ジムには18時過ぎくらいに入れた。

18時過ぎは一番賑わっている時だった。

相変わらずねスパーリング恐怖症だったんだよね。

終いには胃が痛くなり始めたんだよね。

いつ、スパーリングの指名があるかって思うと胃が痛くなったね。

まあ、それでもやりましたよ。

大抵ボコられてましたね・・・初めてスパーリングやる練習生に、、

少し変われたきっかけは須田先生に「ガード固めて頭下げて相手の胸に頭つけてボディだけ狙っていけ」ってアドバイス頂いてからだな。

変われたといっても激的に強くなったわけじゃないけどね・・

そうこうしているうちに、高校卒業し専門学校に入学した。

専門学校は都内にあった。ジムは自宅と学校の途中にあった。

その専門学校は週6のうち4日は午前中までの授業だった。

ジムは17時からだったので学校が午前中で終わってしまう時は一度家に帰ってからジムに行っていた。

そのうちそれがすごく無駄なことをしているように感じた。

・・というわけで、西新井でバイトすることにした、、マクドナルド

マクドナルドでバイトしてから家に帰る途中にジムに寄れば無駄がない。

しかしね~マクドナルドは俺には馴染めなかった。

職場の雰囲気は良かったんだけどね~・・女子大生大勢居たし

あっ、今女子大生云々言ってたら気持ち悪いオッサンだけど当時、俺は18歳だからな

・・で、そのマクドナルドは1ヵ月で辞めた。

マクドナルド辞めたと同時にジムにも行かなくなった

一度帰ってから再びジムに行くのは効率悪すぎるとか言ってね

いやね~ジム行かなくなったらストレスなくなって身体が楽になったのを今でも覚えているよ。

本当にヘタレだね・・・

話はこれで終わりではないからね

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その16 賭けに勝った瞬間・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その17 ロードワークをやらないと決めた日・・・

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

2021-09-26 09:52:03 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

1990年

草加有沢ジムに入門して5カ月ほど経っていた。

初めてスパーリングを体験した後も週に1度、多い時は2度、、スパーリングをやった。

何故か初めてスパーリングを体験する相手に俺が指名されることが多かった。

指名するのは当時マネージャーだった有沢先生だ・・現在は会長

・・・で、俺はこの頃スパーリング恐怖症だった。

初めてスパーリングやる練習生にボコられることがあった。

恐怖症となる決定的なことはボディ一発で悶絶させられたことだ。

余裕でプロテスト合格するって自信はどこへ行った???

まあ、しかしね、、半年も経たずに辞めるなんてオヤジに言えないわけよ

無理矢理続けましたよ。

練習中は出来るだけ目立たないようにしていた・・・有沢先生の視界に入らないように

サンドバック打ってると目立つから端の方でダラダラと筋トレばかりしてたよ。

俺がそんな状態の時、ジムにはニックネームを付けるなら「王子様」というのがピッタリの雰囲気の選手がいた。

イケメンで顔が小さく王子様の衣装着たら絶対似合ってたね。

いや、当時はジムの選手ではなかったかな。

後のカズ有沢氏だ。

俺の記憶ではカズ有沢氏は小さなサンドバックばかり打ってた印象がある。

俺と同学年のカズ有沢氏のことは知っていた。

同級生のO川君の話で聞いていた。

H高校のボクシング部でインターハイか国体チャンピオン・・両方のチャンピオンだったか?

地元でボクシングに興味のある人なら大抵知っていただろう。

会話させていただくこともあったが、当然敬語ですよ。

同学年でも俺は「さん」付けで呼んでいましたよ。

ある日、練習していてマジで驚愕したことが・・・

カズ有沢氏が二人いたんですよ。

しかも二人で並びのサンドバックを叩いていたんですよ。

O川君の話で双子という話は出てきたことが無かったから、そういうことは知らなかった。

もう一人は後のコウジ有沢氏ですよ。

いやいや、マジで驚きましたね~

つづく

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

2021-09-25 16:17:44 | 昔の思い出

☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

こんにちは、酔っぱらいです。

今回は私が入門した頃、1989年の草加有沢ボクシングジムの様子を交えて書いていきます。

1989年

初めてスパーリングをやった翌朝、顔面も痛いし頭も痛い。

頭の痛みは深刻だ。脳細胞がかなり破壊されたのだろうな。

夕方までには治まったので練習に行くことにした、

当時まだ高校生だったので夕方17時の練習開始時間に合わせて通っていた。

ジムが練習生で賑わうのは18時以降なので17時だと人が少なく落ち着いて練習できた。

17時に来るメンバーは大体決まっていた。

その中に飯泉健二さんがいた。

頭にタオルを巻いていたか記憶が定かではないがイメージ的にはそのような感じだった。

その頃の飯泉さんは最後の試合から半年以上たち、すでに引退勧告を受けていた。

引退勧告を受けたがカムバックの道を模索していたようで練習は続けていたようだ。

飯泉さんの練習光景で記憶にあるのはサンドバックを叩いているシーンだけだ。

ジムに現れては黙々とサンドバックを打ち続けていた。

ジムで一番大きなサンドバックばかりを打っていた。

眼疾患で引退勧告受けたわけだからスパーリングをやることは無かった。

俺からは畏れ多くて話しかけることはできなかったが、時々飯泉さんから話しかけてくれた。

はっきり覚えているのはバンテージの巻き方だったり、練習方法だったり・・・

試合をするためにアメリカに行こうか考えてるという話もしていた。

それから10年以上(20年?)経ちある日ネットで飯泉さんのことを検索すると戦績が出てきた。

あの時(89年)から9年後の1998年にIBFアジアライト級王座を獲得したようだ。

その試合後に引退を表明とウィキペディアに出ている。

ウィキペディアのそれを目にしたときは大変嬉しかった。

話は変わり・・・

当時の有沢ジムには菊崎英二氏、小山豊氏、平岩伸一郎氏、3人の日本ランカーが在籍していた。

小山豊氏はこの時日本ランカーだったかは記憶が曖昧だが後にランカーになるのは間違いない。

平岩氏は草加有沢ジムで練習していたがアポロジム所属ということになっていた。

どのような理由でそうなっていたかは知らない。

特に印象に残っているのは菊崎英二氏だ。

試合前、減量中の菊崎さんは怖かった。

剃刀のようだったね。

減量はきつそうだった。

試合後にジムに挨拶に来た時にサングラスを取ると瞼が腫れてるのを見た時には驚いたものだ。

試合後のボクサーの顔を見たのは初めてだった。

ランカー以外でも当時、座嘉比さんや中村公一さん、込山さん、康さんが在籍していたのは記憶がある。

皆さん、後に6回戦や8回戦、日本ランカーになった。

まあ、しかし短い間しか有沢ジムで練習してなかった俺が何故こんなに選手の名前とか憶えているのって?

有沢ジムを辞めた後もボクシングマガジンで選手のランキングをチェックしていたからだ。

つづく

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その16 賭けに勝った瞬間・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その17 ロードワークをやらないと決めた日・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その18 新人王予選・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その19 新人王予選・・その2

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

2021-09-25 10:32:39 | 昔の思い出

前回の話からの続き

1989年

見学に行った翌日、早速練習を開始することにした。

入門したばかりの練習生は辻本先生が指導していた・・30年以上前の記憶だから名前合ってるか怪しい

辻本先生は近くのD大学の学生とのことだった・・・だから同世代だ。

一番最初にやったことはオーソドックスかサウスポーか決めることだった。

剣道経験者はサウスポーになるといわれている。

剣道の構えが右足が前になるからだ。

実は俺も剣道経験者だった・・・小学生の時。

だから中学の時遊びでやってたスケボーなんかはグーフィーで右足が前のスタイルだった。

それなら当然サウスポーかというとそうではなく、

構えた時にオーソドックスの方がしっくりときた。

しかし、ボクシング辞めた後に数回やったスノボーはグーフィーだった。

構えが決まり最初にやった練習はピョンピョンとジャンプすることだった。

鏡の前で構えたまま・・ではなく、腰に手を当ててピョンピョンとジャンプする。

この時、足の位置や顎が引けてるかとか色々と注意される。

この次はファイティングスタイルのままピョンピョンとジャンプする。

初日はここまでだったかな。縄跳びの飛び方も教えてもらったか。

ボクサーの縄跳びは延々見てても飽きない。

タンタンタンとリズムよく飛び途中ダッシュを入れたり最後にスパート掛けたり・・・

初めてのスパーリング

入門して3カ月近く経った。

それまで休むことなく毎日練習に通った。

そんなある日、荻野先生に声を掛けられた・・・「スパーリングやるよ」

相手は同時期に入門した練習生だ。

彼も初めてのスパーリングだった。

相手は練習生、、、余裕だな。

だって俺、今プロテスト受けても余裕で合格する自信あるんだもん・・・だったよな?

初めてスパーリング用のグローブを着けた。

16オンスのFSだかFPタイプというもので、今だとソフトタイプというのだろうか。

大きいし重いし・・・

タイマーのブザーが鳴る。

頭にパンチが入った・・・俺が打たれたってことね

ゴツッと石を当てられたような感覚だ。

何発当てて何発当てられたかなんて数えている余裕は当然ない。

確実に言えることは俺の方が遥かに貰ってるってことだな。

グローブの紐を解きながら荻野先生か有沢先生か須田先生か覚えていないが

「井岡はこれの1000倍強いよ!」と言われた。

ヒョロヒョロだと舐めてた井岡弘樹氏の偉大さを実感したね。

自分のレベルがどの程度か知らされた17の夜・・・

つづく

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その16 賭けに勝った瞬間・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その17 ロードワークをやらないと決めた日・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その18 新人王予選・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その19 新人王予選・・その2

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☆★プロボクサーに憧れて・・・その1 草加有沢ボクシングジムに入門

2021-09-24 13:51:05 | 昔の思い出

こんにちは、酔っぱらいです。

最初に書いておくけど、、、

チャンピオン目指していたとか、そういうレベルのボクサーの話じゃないからね・・・

1987年

今思えばプロボクサーに憧れたのはこの頃くらいからだったか・・

井岡弘樹氏がミニマム級世界王者になった試合をテレビで観ていた。

こんなヒョロヒョロが世界チャンピオン??俺でもなれるんじゃねーの???

いや、絶対なれるよ。

何故そう思ったかは???だが、

まあ、根拠のない自信があったのと無知だったのは事実だな。

同級生のO川君が草加有沢ジムに通っていた。

休み時間に溜まり場になっていた外階段の踊り場で

O川君のジムでの話を熱心に聞いたものだ。

昨日スパーリングやったとか、出欠票の横に体重を書き込むようになったとか

彼の話の中でよく出てきたワードが「飯泉健二」だ。

1987年だと飯泉健二氏は初めて日本タイトルに挑戦した頃だった。

O川君が草加有沢ジムに通っていたころの飯泉健二氏は最も日本タイトルに近く正に絶頂期の頃だろう。

いや、絶頂期と書くと失礼だな。飯泉健二氏はその後、眼疾患により引退勧告を受ける。

チャンピオンに最も近い所に居たにも関わらず、、登っている途中だったわけだ。

・・で、以前書いたが俺はその頃漕艇部に在籍していて草加有沢ジムに入門するのは後のことだ・・・

1989年

夏休みまでは大学進学を考えていた。

予備校の夏期講習なんかにも通ったわけだ。

しかし、その頃の俺はフワフワしてたね~

勉強に身が入らないし、何考えてたんだろう?って今になっても思うよ。

それでも秋に進路を決めた。進路が決まってしまうとやること無いんだよね。

そこで暇だからってわけではないがボクシングジムに通うことにした。

まあ、その頃もね、、根拠のない自信ってのがあって、俺ならこの時点でも余裕でプロテスト受かるって思ってたんだよね。

本当に若いって馬鹿だよね~素晴らしい!!

自宅から一番近いジムが草加有沢ジムだった。

オヤジにボクシングを始めたいと伝えると、まずは見学に行って来いと

草加有沢ジムは自宅からは4駅先にあった。

谷塚駅のホームと同じ高さにありホームからもジム内の様子が何となく見える。

初めてジム内に入ると練習生で賑わっていたから6時ごろだったのだと思う。

ボクシングジムのトレーナーというと丹下段平のイメージしかなかったが

それに近いと言ったら失礼だが俺がイメージしていたトレーナー像に近い人が応対してくれた。

荻野先生だ。

見学させてほしい旨伝えると、そこに座って自由に見ててとベンチを指差した。

ボクシングの試合をテレビで観たことはあっても練習風景を生で見るのは初めてだった。

サンドバックを打つ者、パンチングボールを叩く者、鏡の前でシャドーボクシングをしてる者

1時間ほど見学して入門することに決めた。

最初に応対してくれた荻野先生にその旨伝えると次来るときに持ってくるものを指示された。

トレーニングウェア、底の平らなシューズ、タオル・・・くらいだったかな

この時、ジム内の練習生を見て、、、こいつ等になら余裕で勝てる!って本気で思ってたんだよね。

本当に馬鹿だよね~若いって素晴らしいよね

つづく

☆★プロボクサーに憧れて・・・その2 初めてのスパーリング

☆★プロボクサーに憧れて・・・その3 1989年の草加有沢ボクシングジム

☆★プロボクサーに憧れて・・・その4 双子の有沢兄弟を目にして驚愕した17歳のあの日

☆★プロボクサーに憧れて・・・その5 スパーリング恐怖症でジムからランナウェイ!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その6 宮田ボクシングジムに入門!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その7 1990年の宮田ボクシングジム・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その8 プロテスト受験が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その9 プロテスト受験・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その10 プロテスト受験・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その11 デビュー戦が決まる・・・初めての減量

☆★プロボクサーに憧れて・・・その12 いよいよデビュー戦!!!

☆★プロボクサーに憧れて・・・その13 いよいよデビュー戦!!!・・その2

☆★プロボクサーに憧れて・・・その14 いよいよデビュー戦!!!・・その3

☆★プロボクサーに憧れて・・・その15 2戦目が決まる・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その16 賭けに勝った瞬間・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その17 ロードワークをやらないと決めた日・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その18 新人王予選・・・

☆★プロボクサーに憧れて・・・その19 新人王予選・・その2

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☆★オリンピックを夢見た一瞬・・・その4 完

2018-07-16 17:00:39 | 昔の思い出

 

コックスとしてのデビュー戦を迎えた。

他のクルーは俺がシングルスカルで新人戦に出場したときにナックルフォアでデビューしているから初めてではない。

戸田の漕艇場に出漕するのは3回目になる。

軽く試漕してからスタート位置につけた。

6艇でのレースだ。スターターが「●●高校用意はいいか?」と6艇に順に問いかける。

「K高校用意はいいか?」と言われたときに横風で俺の艇の向きが変わった。

「オー!」と返事をしている時に向きが変わった。

すぐにスタート。

スタートダッシュのときに舵を切るのは厳禁だ。しかし切らなければ隣のレーンに侵入してしまう。

少しづつ舵を切りなるべくスピードを殺さないようにピークに持って行った。

中間地点でミドルスパートを仕掛ける。「ミドスパ行くぞ!足蹴り行こう!さー行こう!」

足蹴りに力が入っているのかグングンと伸びていく。

先頭に立った!勝てるんじゃね?俺の頭はインターハイ超えて翌年行われるソウルオリンピックだった。

「オリンピック行くぞ!行けるぞ!バウ気合いだ!2番気合いだ!3番気合いだ!整調気合いだ!」

俺の頭の中はオリンピック。このまま逃げ切るぞ!・・・オリンピックにはナックルフォアなんて競技は無いのだけどww

ラスト100m 。「ラストスパート行くぞ!さー行こう!」

しかし、ラストが伸びない。皆バテていた。ラスト100M位からどんどん抜かれた。

最終的にケツから2番目でゴール。

「オリンピックを夢見た」なんて大きなタイトル付けているがこのレースは県大会予選だ。

予選も突破できなかったってことだww

しかし中間地点で先頭に立った一瞬オリンピックを夢見たのは事実だ・・・実力が伴わなくても夢見るのは自由だからねW

こうして俺のコックスデビュー戦は終わった。後日1試合くらい戸田でレースをした記憶はある。

しかし2年生になる頃、、新入部員が入る頃退部した。

腰痛が治らなかったこととインターハイはどうやっても無理だろうと悟ったからだ・・・そもそも他力本願なんだよな

デブクルー達がその後どうなったかは記憶にない・・・

 

 

明日は会社の健康診断で胃カメラだ。休みだから飲んでるけどなww