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■■■チェンマイ慕情 (2)■■■■■■■■■■■■■■■■
■「小さな国際都市チェンマイ」
●古都チェンマイは、今も20年前も、街の表情はさして変わらない。建築
規制があり、高い建物は少ない。
チェンマイ市は、人口約15万人、周辺農村部をいれたチェンマイ県全体
の人口が、約160万人と言われる.
●特筆すべきは、在住外国人が多い事である。
聞くところでは在住外国人、いわゆる海外ロングスティヤーの数は、
・西欧系 約5千人(北欧系西欧人が多い)
・米国系 約5千人、
・中国はじめアジア系 約5千人
・日本人、約4千人
人口わずか15万の街に、約2万人近い世界様々の国のロングスティヤーが
在住している事になる。このデータを見る限り、世界的に珍しい国際都市と
言っていいだろう。
■「北欧の人たちのリゾート暮らし」
●ここチェンマイには、毎年11月から2月まで、避寒のために、 ここの山
岳リゾートで暮らす北欧の人達がいる。
彼らにとってチェンマイでの集団生活は、最高の贅沢であり、最善の暮ら
しの知恵といえる。その決め手は、チェンマイの緑なす山々の環境と、温
泉とエステと,伝統的なマッサージにある。
ご婦人たちは、連日手ずくりのタイクラフトに専念して余暇を過ごす。夫婦
は、読書をしたり、ゴルフをしたり、ハイキングをしたり、プールで泳いで1日
を過ごす。
●私たちは、2002年のある日、日本のロングスティヤーを伴い 北欧の先
人たちを見習うべく、チェンマイのSuanBua リゾートで生活滞在を試みた。
ところがご婦人には好評だつたが、男性の皆さんには、全く評判がよろしく
ない。
夜のとばりが下りると、男の人たちは、そわそわし始めるが、街の紅灯どころ
か、山岳ホテルの外は、全くの暗闇の世界、一歩も外に出ることはできない。
一泊しただけで、翌日から市中のホテルに移動を余儀なくされた。
●日本の男性は、異国での静寂とか寂寞を、味わうゆとり心を持ち合わせな
いのか。日本の男は、なぜ異邦人になれないのか ‽
同行のご婦人たちからは、日本の男たちには浪漫がないとの嘆き節がもれた。
異国に赴くと、女性はロマンティックに、男性は現実的になるものらしい。
■「古都チェンマイ今昔」
●もともとチェンマイは、標高350メートルの高原都市で名門ゴルフ場や山
岳リゾートが数多く散在する。
常夏のバンコクで過ごすタイの経済人にとって チェンマイは日本の軽井沢
のような存在である。週末をチェンマイで過ごす人たちが多い。
しかし2000年当時のチェンマイには、まだまだ在住する日本人は 少なか
ったとみていい。
●人類学者の梅棹忠夫さんは、戦後1967年(昭和32年)に大阪市立大
学の東南アジア学術調査隊の探検に参加して、ジープでタイを南北に縦
走した。
その時の模様を、著書「東南アジア紀行(上)」(中公新書)に詳しく記して
いる。歴史に残る紀行の名作である。
その第10章「ランナータイ王国の首都」には、初めて訪れたチェンマイの
様子が詳しく描かれている。 今から約50年前のチェンマイの実像である。
(梅棹忠夫博士)
「いかにも旧都あるいは古都という感じである。日本でいえば奈良に似てい
る。大きさもそれぐらいではないだろうか。やたらに寺が多いところも同じで
ある。人口は、8万ともいうし10万くらいともいう。きれいでバンコクについで、
タイ国第2の大都会だ。
(中略)
戦争中はこの町に、3万の日本軍が駐留していたという。それがいまは 日
本人たった3人になってしまった。ひとりは国連職員の生駒さんで、あとの
ふたりは田中写真館の田中盛之助さんと、その娘むこの波多野さんである。
近年まで、もうひとり歯医者さんがいた。この人は死んでしまった」
(中略)
「戦争中は、チェンマイは日本軍の一大基地だったようだ。ここからビルマ
戦線への大補給路をつくろうという意図があったのだろう。」
●古都チェンマイの周辺の都市機能が大きく変貌したのは、1990年以降
である、日本のODAの資金援助で、周辺への環状道路や、地方へ伸びる
基幹道路が建設され、急速に整備され、名実ともにタイ北部地方の要衝と
なった。
市中から東へ伸びる大型道路は、俗に「タクシン道路」と呼ばれる。 この建
設に貢献したチェンマイ出身のタクシン前首相をたたえる.人々の敬意が伝
わってくる。
●当時チェンマイの道路建設や都市計画を担当したのがゼネコンやJICAの
人たちである。まだ定住日本人の少ないチェンマイに滞在し、長期にわたり,
チェンマイのインフラ整備に当たった。
JICAの倉又孝さん(鎌倉市)もその一人である。
数少ない在住日本人の住宅事情や、食生活の実態、医療や情報収集など、
まだパソコンも、形態電話もない時に 足と手で実態調査に挑み、貴重な調
査資料をまとめ、そのデーターを、私どもにも提供いただいた。
チェンマイ・ロングスティ、に関係する最初の貴重な市場データといえるもの
だった。
昨年高齢で亡くなられたが、気骨のあるチェンマイ大好きの国際人だった。
ご冥福をお祈りしたい。
●ここで、古都チェンマイと日本人の長きにわたる足跡を、その滞在実績で
たどってみたい。
■「チェンマイ在住日本人の足跡」
(年次) (在住人口)人 (摘要)
・戦争中 約30,000
・昭和32年(1967) 3 ●東南アジア調査隊 訪問時
・平成12年(2000) ●タイ政府ロングステイ開始
・平成13年(2001)
・平成14年(2002) ●外務省統計 50位以下のため数値が未計上
・平成15年(2003) (2000年~2006年まで)
・平成16年(2004)
・平成17年(2005)
・平成18年(2006) 1,965 ●クーデター) タクシン首相退陣
・平成19年(2007) 1,733 (-11,8%)
・平成20年(2008) 1,970
・平成21年(2009) 2,247
・平成22年(2010) 2,407
・平成23年(2011) 2,616 ●タイ大水害発生)
・平成24年(2012) 3,573
・平成25年(2013) 3,867
・平成26年(2014) 3,843 (ー 1,0%) ●クーデター)
・平成27年(2015) 3,733 (- 2,9%)
・平成28年(2016) 3,318 (-11,1%)
(出所:日本外務省、「海外在留邦人数調査統計」)
●(注)平成25年(2013)のDataを例にとれば、
在留邦人数3867人には1144人の業務滞在の在留邦人が含まれる
そのため、ロングスティヤーの実数は、2733人になる。
●2014年のクーデター後、2000年以来、上昇傾向にあったチェンマイ
ロングスティヤーの実数が、初めて後退を始める。
円安による生活費の高騰やロングスティヤーの高齢化や、タイの政局不安
など、いろいろな要因が考えられるが、ロングスティという生活形式の成熟
化も要因の一つといえる。
●このチェンマイ・ロングスティの実数が、多いか、少ないかは、いろいろ
議論の分かれるところだが、対象世代が団塊にシフトしたいま、10年前の
ロングスティのニーズが、そのまま推移するとは考えにくい。
●チェンマイの街の魅力は不変だし、チェンマイロングスティの妙味も、変
わる事はない、またロングスティのユーザーニーズも衰えるとは考え難くい。。
しかし、15年前のロングスティの形式(タイ政府による長期滞在ロング
ステイVISAによる滞在)が後退して、1ヶ月から3ヶ月のごく短期で手軽な
リピート滞在が、主流になると考えられる。
ロングスティの大きな変化とみていい。
●ここで、アジア主要国の「ロングスティ査証取得条件」を列記しておきたい。
■「ロングスティ査証の取得条件一覧」
(国名) (ロングステイ査証名) (主な取得条件)
・タイ 「ロングステイ・ビザ 」 80万BT(約250万円)の預金照明
・マレーシア 「長期滞在ビザMM2H] 約1650万円の財産証明(期間10年間)
・豪州 「投資退職者ビザ405 75万豪ドル〈約6600万円)と
年間6,5万豪ドルの不労所得
●このビザ取得条件を見ると、タイが他国に比べて取得条件が極めて安易な
条件であることがわかる。多くの中間階層の人たちに参加してもらいたいという、
タイ政府の善意が伝わってくる。
しかし20年経過したいま、これが理由とは思いたくないが、タイに限って経済的
に困窮した事例が多発していることに、注目せざるを得ない。
■「日本企業のタイ進出と経済への貢献」
●2000年、チェンマイで活動を始めたころ、ナイトバザールに近い「チェン
マイプラザ」という由緒あるホテルが、私どもの活動拠点だつた。
このチェンマイプラザの近くに、1軒の日本居酒屋があり、大変繁盛していた。
現地スタッフを伴い よくその居酒屋の暖簾をくぐったものだ。
その店の常連は、チェンマイ近郊の大型工場団地に進出した日本企業村田
製作所や日本電産の社員の人たちだった。現地の情報交換と交流をかねて、
毎日のようにここに立ち寄っていたのである。
●当時、豊富なタイの生産労働力を求めて、日本の自動車やITの先駆的な
電子部品メーカーが、タイ北部チェンマイの工場団地に進出した。
自動車関連企業などの国際分業や、円高に備えての海外進出だった。
それから17年、日本企業のタイ国への進出は、目をみはるばかり。
今では、タイをハブにして、ベトナム、マレーシア、ラオス、ミヤンマー、インド
ネシアへと、生産のネットワークは、果てしなく広がる。
特に基幹産業といえる自動車分野では、トヨタ、日産、ホンダ、いすゞ、三菱
などn日本の大手企業が全てが進出し、現地一貫生産が進む。そしてタイの
車の国内販売と輸出と、タイの経済のGDPを支えている。
■「タイ進出の日本企業数」
(項目) (2014年)
・タイ活動日本企業総数 4,567社
・その内(製造業) 2,147
・その内(サービス業) 2,261
■「タイ自動車生産&販売台数」(2016) (出所FTI)
(項目) (2016年)台
・生産台数 1、944、417
・国内販売 768,788
・海外輸出 1,188,515
いまや、タイは新興国から中進国に発展し、ASEANのハブとして、またアジア
の先進工業国として、アジアの地域経済を牽引する。
今年は、期せずして日タイ修好130年だが、改めてチェンマイ交流の足跡を
様々な視点から、より深く探っていきたいと考えている。 (次に続く)
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