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■チェンマイ慕情(2)

2017-09-22 | ●チェンマイ慕情

■■■チェンマイ慕情 (2)■■■■■■■■■■■■■■■■

■「小さな国際都市チェンマイ
●古都チェンマイは、今も20年前も、街の表情はさして変わらない。建築
規制があり、高い建物は少ない。

チェンマイ市は、人口約15万人、周辺農村部をいれたチェンマイ県全体
の人口が、約160万人と言われる.

特筆すべきは、在住外国人が多い事である
聞くところでは在住外国人、いわゆる海外ロングスティヤーの数は、
西欧系    約5千人(北欧系西欧人が多い)
米国系    約5千人
中国はじめアジア系  約5千人
日本人、約4千人
人口わずか15万の街に、約2万人近い世界様々の国のロングスティヤーが
在住している事になる。このデータを見る限り、世界的に珍しい国際都市と
言っていいだろう

   
  
■「
北欧の人たちのリゾート暮らし
●ここチェンマイには、毎年11月から2月まで、避寒のために、 ここの山
岳リゾートで暮らす北欧の人達がいる。
彼らにとってチェンマイでの集団生活は、最高の贅沢であり、最善の暮ら
しの知恵といえる。その決め手は、チェンマイの緑なす山々の環境と、温
泉とエステと,伝統的なマッサージにある。
ご婦人たちは、連日手ずくりのタイクラフトに専念して余暇を過ごす。夫婦
は、読書をしたり、ゴルフをしたり、ハイキングをしたり、プールで泳いで1日
を過ごす。

●私たちは、2002年のある日、日本のロングスティヤーを伴い 北欧の先
人たちを見習うべく、チェンマイのSuanBua リゾートで生活滞在を試みた。
ころがご婦人には好評だつたが、男性の皆さんには、全く評判がよろしく
ない。
夜のとばりが下りると、男の人たちは、そわそわし始めるが、街の紅灯どころ
か、山岳ホテルの外は、全くの暗闇の世界、一歩も外に出ることはできない。
一泊しただけで、翌日から市中のホテルに移動を余儀なくされた。

●日本の男性は、異国での静寂とか寂寞を、味わうゆとり心を持ち合わせな
いのか。日本の男は、なぜ異邦人になれないのか ‽
同行
のご婦人たちからは、日本の男たちには浪漫がないとの嘆き節がもれた。
異国に赴くと、女性はロマンティックに、男性は現実的になるものらしい。
 
■「
古都チェンマイ今昔

もともとチェンマイは、標高350メートルの高原都市で名門ゴルフ場や山
岳リゾートが数多く散在する。
常夏のバンコクで過ごすタイの経済人にとって チェンマイは日本の軽井沢
のような存在である。週末
をチェンマイで過ごす人たちが多い。
しかし2000年当時のチェンマイには、まだまだ在住する日本人は 少なか
ったとみていい。

●人類学者の梅棹忠夫さんは、戦後1967年(昭和32年)に大阪市立大
学の東南アジア学術調査隊の探検に参加して、ジープでタイを南北に縦
走した。
その時の模様を、著書「東南アジア紀行(上)」(中公新書)に詳しく記して
る。歴史に残る紀行の名作である。
その第10
章「ランナータイ王国の首都」には、初めて訪れたチェンマイの
様子が詳しく描かれている。 今から約50年前のチェンマイの実像である。
  
(梅棹忠夫博士)
 「いかにも旧都あるいは古都という感じである。日本でいえば奈良に似てい
る。大きさもそれぐらいではないだろうか。やたらに寺が多いところも同じで
ある。人口は、8万ともいうし10万くらいともいう。きれいでバンコクについで、
タイ国第2の大都会だ。
(中略)
戦争中はこの町に、3万の日本軍が駐留していたという。それがいまは 日
本人たった3人になってしまった。ひとりは国連職員の生駒さんで、あとの
ふたりは田中写真館の田中盛之助さんと、その娘むこの波多野さんである。
近年まで、も
うひとり歯医者さんがいた。この人は死んでしまった」
(中略)
戦争中は、チェンマイは日本軍の一大基地だったようだ。ここからビルマ
戦線へ
の大補給路をつくろうという意図があったのだろう。」

●古都チェンマイの周辺の都市機能が大きく変貌したのは、1990年以降
である、日本のODAの資金援助で、周辺への環状道路や、地方へ伸びる
基幹道
路が建設され、急速に整備され、名実ともにタイ北部地方の要衝と
なった。
市中から東へ伸びる大型道路は、俗に「タクシン道路」と呼ばれる。 この建
設に貢献したチェンマイ出身のタクシン前首相をたたえる.人々の敬意が伝
わってくる。
  
●当時チェンマイの道路建設や都市計画を担当したのがゼネコンやJICAの
人たちである。まだ定住日本人の少ないチェンマイに滞在し、長期にわたり,
チェンマイのインフラ整備に当たった。
JICAの倉又孝さん(鎌倉市)もその一人である。
数少ない在住日本人の住宅事情や、食生活の実態、医療や情報収集など、
まだパソコンも、形態電話もない
時に 足と手で実態調査に挑み、貴重な調
査資料をまとめ、そのデーターを、私どもにも提供
いただいた。
チェンマイ・ロングスティ、に関係する最初の貴重な市場データといえるもの
だった。
昨年高齢で亡くなられたが、気骨のあるチェンマイ大好きの国際人だった
ご冥福をお祈りしたい。
 
●ここで、古都チェンマイと日本人の長きにわたる足跡を、その滞在実績で
たどってみたい。
■「チェンマイ在住日本人の足跡
 (年次)         (在住人口)人          (摘要)

・戦争中            約30,000
・昭和32年(1967)         3    ●東南アジア調査隊 訪問時

平成12年(2000)               タイ政府ロングステイ開始         
・平成13年(2001)
・平成14年(2002)        ●外務省統計 50位以下のため数値が未計上
・平成15年(2003)      (2000年~2006年まで)
・平成16年(2004)
・平成17年(2005)      
・平成18年(2006)      1,965   
クーデター) タクシン首相退陣
・平成19年(2007)      1,733 (-11,8%)
・平成20年(2008)      1,970
・平成21年(2009)      2,247
・平成22年(2010)      2,407
・平成23年(2011)      2,616    ●タイ大水害発生)
・平成24年(2012)      3,573
・平成25年(2013)      3,867   
・平成26年(2014)      3,843 (ー 1,0) ●クーデター)
・平成27年(2015)      3,733 (-  2,9
・平成28年(2016)  
     3,318 -11,1
(出所:日本外務省、「海外在留邦人数調査統計」)

●(注)平成25年(2013)のDataを例にとれば、
在留邦人数3867人には1144人の業務滞在の在留邦人が含まれる
そのため、ロングスティヤーの実数は、2733人になる

2014年のクーデター後、2000年以来、上昇傾向にあったチェンマイ
ロングスティヤーの実数が、初めて後退を始める。
円安による生活費の高騰やロングスティヤーの高齢化や、タイの政局不安
など、いろいろな要因が考えられるが、ロングスティという生活形式の成熟
化も要因の一つといえる。

●このチェンマイ・ロングスティの実数が、多いか、少ないかは、いろいろ
議論の分かれるところだが、対象世代が団塊にシフトしたいま、10年前の
ロングスティのニーズが、そのまま推移するとは考えにくい。

チェンマイの街の魅力は不変だし、チェンマイロングスティの妙味も、変
る事はない、またロングスティのユーザーニーズも衰えるとは考え難くい。。
しかし、15年前のロングスティの形式(タイ政府による長期滞在ロング
ステイVISAによる滞在)が後退して、1ヶ月から3ヶ月のごく短期で手軽な
リピート滞在が、主流になると考えられる。
ロングスティの大きな変化とみていい。

●ここで、アジア主要国の「ロングスティ査証取得条件」を列記しておきたい。
■「ロングスティ査証の取得条件一覧
(国名)    (ロングステイ査証名)       (主な取得条件)
タイ     「ロングステイ・ビザ  」     80万BT(約250万円)の預金照明
・マレーシア 「長期滞在ビザMM2H]  約1650万円の財産証明(期間10年間)
・豪州     「投資退職者ビザ405      75万豪ドル〈約6600万円)と
                                 年間6,5万豪ドルの不労所得

●このビザ取得条件を見ると、タイが他国に比べて取得条件が極めて安易な
条件であることがわかる。
多くの中間階層の人たちに参加してもらいたいという、
タイ政府の善意が伝わ
ってくる。 
しかし20年経過したいま、これが理由とは思いたくないが、タイに限
って経済的
に困窮した事例が多発していることに、注目せざるを得ない。


   
  
■「日本企業のタイ進出と経済への貢献」 
●2000年、チェンマイで活動を始めたころ、ナイトバザールに近い「チェン
マイプラザ」という由緒あるホテルが、私どもの活動拠点だつた。
このチェンマイプラザの近くに、1軒の日本居酒屋があり、大変繁盛していた。
現地スタッフを伴い よくその居酒屋の暖簾をくぐったものだ。
その店の常連は、チェンマイ近郊の大型工場団地に進出した日本企業村田
製作所や日本電産の社員の人たちだった。現地の情報交換と交流をかねて、
毎日のようにここに立ち寄っていたのである。


●当時、豊
富なタイの生産労働力を求めて、日本の自動車やITの先駆的な
電子部品メーカーが、タイ北部チェンマイの工場団地に進出した。
自動車関連企業などの国際分業や、円高に備えての海外進出だった。
それから17年、日本企業のタイ国への進出は、目をみはるばかり。
今では、タイをハブにして、ベトナム、マレーシア、ラオス、ミヤンマー、インド
ネシアへと、生産のネットワークは、果てしなく広がる。

特に基幹産業といえる自動車分野では、トヨタ、日産、ホンダ、いすゞ、三菱
などn日本の
大手企業が全てが進出し、現地一貫生産が進む。そしてタイの
車の国内販売と輸出と、タイの経済のGDPを支えている。
■「タイ進出の日本企業数
  (項目)         (2014年)
・タイ活動日本企業総数    4,567
・その内(製造業)      2,147
・その内(サービス業)     2,261

■「タイ自動車生産&販売台数」(2016) (出所FTI)
  (項目)    (2016年)台   
生産台数  1、944、417   
・国内販売    768,788
・海外輸出  1,188,515

いまや、タイは新興国から中進国に発展し、ASEANのハブとして、またアジア
の先進工業国として、アジアの地域経済を牽引する。
今年は、期せずして日タイ修好130年だが、改めてチェンマイ交流の足跡を
様々な視点から、より深く探っていきたいと考えている。  (次に続く
   

 

 


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