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■■■チェンマイ慕情 (1)■■■■■■■■■■■■■■■■
■ちかじか前国王の喪があけ、1年ぶりに 古都チェンマイにも明るさ
が戻ってくる。
そこで,これを機に,ロングスティの創成期から約17年に及ぶ,チェン
マイ交流活動にまつわる様々な話題を系譜的に書き綴って、 タイ
大好きの皆さんに、広く読んでいただきたいと、願っている。
■「チェンマイに明るさが戻って来る」
●10月には、チェンマイに乾季がやってくる。 常夏の国タイとは言え
雨季の後に来る乾季は、さわやかで過ごしやすい。
標高差が350米を超える 高原都市チェンマイは、四方を緑なす低い
山々に囲まれ街の真中を南北に大きなピン川が流れる。 それは古都
京都の趣きによく似ている。
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(城壁に囲まれたチェンマイの市街地地図)
●チェンマイは、タイ王国の首都バンコクから 北へ約720kmにある
タイ第2の古都である。13世紀後半、タイ北部を支配したランナータ
イ王国の都として栄えた。その後、ビルマ、アユタヤ王朝や、バンコク
王朝の政争に巻き込まれるが、1939年にタイ王国に編入され、今日
の栄華を築いたと言はれる。 古都の随所には、その面影を忍ばす
300を超える旧跡の仏閣が覇を競う。
●来る10月には、日タイ修好130周年の本格的な祝賀行事が始ま
る。タイを知るものにとって、やっと本格の明るさが蘇ってくる感じだ。
しかし、クデターや軍部暫定政権というと、いささか平和ボケの日本
人には、あまり評判がよろしくないが、ここに至って会心の話題が飛
び込んできた。
10年来待望の「バンコク、チェンマイ新幹線構想」が日本に決った。
そして2018年の着工を目指すという。
■「日本のチェンマイ新幹線構想と中国の黒い影」
●しかし この新幹線構想事業は、ここに至るまでに、あまりにも紆余
曲折がありすぎた。
事のはじまりは、日本政府の提案に始まり、ほぼ決まりかけたところへ
中国政府挙げての猛烈な巻き返しにあって、中国の新幹線に決まっ
たという現地報道があった。 万事休すである。
ところが先行して決まっていた中国のインドネシア新幹線工事が さま
ざまな経緯を経て工事が頓挫したという。
それが理由かどうか定かではないが、「日本のバンコク、チェンマイ新
幹線構想」が息を吹き返した。そして折衝を再開するという タイ政府の
公式報道があった。
これは政府の駆け引きなのか。はたまた天秤にかけることを好む国民
性のか、一時は理由がつかめず、タイの人たちまでも疑った事もある.。
●自他ともにアジアの自由陣営のトップを標榜するタイが、南沙や西
沙で不法支配を繰り返す中国と組みして、日本を天秤にかけるとは、
一時は理解に苦しんだものだ。
おりしも潜水艦3隻を中国から買い取ることが決まり、米国との間が険
悪な状況になった。
その後 軍事政権ながら貿易や経済に注力する姿勢が明確になり、輸
出先の米国と中国に 独自のバランス外交を展開する事で、米国との
友好関係が復活することになる。
●去る大東亜戦争当時、アジアの国々が、次々と欧米列強の植民地の
餌食となったにも拘わらず、タイは毅然として孤高を保ち,独立を守った
輝かしい歴史を持つ。
いまもその独自の外交力が、タイの人たちの中に脈々と受け継がれて
いるとみていい。
●以上が、日本の新幹線構想が正式に決まるまでの、紆余曲折の顛末
だが、中国メディアは「日本が、タイ新幹線を奪取した」と報じた。
それだけに、まだ成約をいぶかる人も多い。
しかし、今年は日タイ修好130年のおめでたい年でもある事だし、タイ政
府の姿勢は変わらないと信じたい。
やがて時速300キロのチェンマイ新幹線が タイの中央平野をひた走り、
約3時間で、バンコクとチェンマイの間を快適に結ぶ事を夢見ている。
■「チェンマイロングスティの夢」
●正式にチェンマイ・ロングスティが始まって、すでに17年が経つ。
当時の日本の高齢者人口は、約2000万人だった。
本来ロングスティ計画は、日本政府が 欧州のコロンビア計画を模して、
定年退職者のために考えた「ゆとりプラン」だった。
●タイ政府のチェンマイロングスティ構想は「生活費が安い過ごし易い」
をキャッチフレーズにして、多くの日本の定年退職者の夢を誘った。
当時は、まだ固定電話時代で ラジオとテレビ全盛時代だった。
そこにパソコンが普及し始め 携帯電が誕生、あっという間にガラケー、
次いでスマートホーンが登場。 瞬く間に古都チェンマイがロングスティ・
のメッかとなった。2010年の事である。
●15年前のタイ、特にチェンマイのある北部地方は、農村地帯で首都
圏のバンコクと違い、まだまだ貧しかった。
2004年当時、私どもJTIROのロングスティヤーは、国際ボランティア活
動の一環として、チェンマイ周辺小学校の絵の先生を買って出て、週4
回子供たちに絵を教え、大変感謝された。
その時のロングスティヤーの主役が玉永浩一さんで、後に長らくJTIRO
の現地理事を務め、大変お世話になった。素晴らしいチェンマイの友人
の一人である。
また、チェンマイ周辺の小学校の折衝打診や、絵画スタッフの移動などを
快く引き受けてくれたのが、チェンマイでランベルツアーという旅行業を
営む、社長のランシーさんだ。
市内3ヶ所の営業所には、ベテランの日本人所長を配し日本人ツーリスト
が後を絶たない。大変お人柄がよく、いまもおつきあいが続く。
(JTIRO ロングスティヤーによる小学校絵画指導の実情)
●2001年、貧しいタイ北部農村地帯の救済を目指して登板したのが、
タクシン・チナワット首相だった。
彼は数々の農村救済政策を打ち出し、バンコク都心部のタックスぺイヤ
ーの富裕層と、ことごとく対立した。
(南部の富裕層の人達は、自分たちが払った税金が、首相地元の北部
農村に使われることに、すべからく反感を持ったというわけ)
●そして2006年、反対派によるクーデターによってタクシン首相は政権
の座を追われる。 その後復権し、妹のチナワットが首相の座に就く。
しかし再び起きた2014年のクーデターで,チナワット首相は解任され、
軍部が政権を握る。
その軍部暫定政権と北部農村地帯の暗黙の対立は、いまも果てしなく
続く。
静かな古都チェンマイに住む多くの識者は、いまも多くを語ろうとしない。、
今後タイに民主化政権が復活することで、本当の微笑みがもどってくる
と思えてならない。
■「タイ国軍によるクーデターの顛末」
●私どもは、2000年以降 2回の大きなクーデターと2011年のタイ中央
部を襲ったった未曽有の大水害に遭遇した。
クーデターといえば、首都では、大型戦車が砲列を連ね主要道路が閉鎖
される。そして国際空港はじめ全国の主要官庁は、機銃を持った兵士によ
って取り囲まれ、国の全権は全て陸軍に移管される。一瞬の出来事である。
●安全が前提となる海外の生活支援活動では、このようなクーデタが一度
おきると、その後解決したからと言って、国の安全イメージがすぐに回復す
る事は難しい。
予期しない活動の誤算と、国際活動の運営の厳しさが、またしても私たちを
苦しめる事になる。
●因みにタイ国では、近代になってから、たびたびクデターが起きている。
タイのクーデターは,軍隊が政権を獲得する手段として、1932年来今までに
既に12回起きており、全て成功している。
1932年 (立憲クデター)を皮切りに成功したものを列挙すると、
1933年
1947年
1951年
1957年
1958年
1971年
1976年
1077年
1091年
2006年 ・タクシン首相の解任
2014年 ・シナワット首相の解任
●過去12回のクーデターは、陸海空3軍の陸軍が主力で行われた。
まず国王の裁可を得て、
・首相の解任、
・内閣の更迭、
・国会の解散、
・憲法の破棄
が行われる。
その後、文民による暫定政権で新憲法を起草し、総選挙を行う。そして新
しい首相を選び、新しい政権が発足する事になる。
●ところが2014年に起きた最新のクデターは、従来と異なり、民政移管が
なされないまま国軍による暫定政権が続いている。既に3年を超えた。
今回のクーデターの背景には、国民を2分したタクシン派を掃討するという
極めて難しい政治課題が潜むと言われている。
●本来 国防にあたるべき国軍が、軍事政権として政治に介入するのは、新
興国に多いケースだが 中進国タイで常套化しているのは、全く特異なケー
スと言える。
そして、国民もまた平然とその成り行きを見守っている節があるし 国内の治
安は何ら問題ない。経済もそこそこに動いているから不思議である。
但し、70年間平和な環境にある日本人からすると、武力抗争のイメージは、
やはり恐怖に映り 、安全安心が前提になる海外生活滞在のロングスティは、
後退する事になる。
■「マイペンライ」
●私は、タイ語が全くしゃべれない。
忙しいこともあったが、難しくて学ぶ事さえしなかった。 現地では、いつも
通訳のお世話になった。
そんな典型的なタイ語音痴だが、大好きなタイ語がある。「マイペンライ」で
ある。タイの人達は「ごめんなさい」という時に使うらしい。
ところがこの言葉にはもう一つ「何とかなるさ」という 日本語の意味がある。
窮地の時に、ひたむきに自分に言い聞かせる静かな激励の言葉のように
思えた。
そして、「何とかなるさ」よりも「マイペンライ」の方が、格別、語感がよろしい。
私にとって「マイペンライ」とは、ーーーーーー
ある時は「大丈夫、大丈夫、このままで」
ある時は「また、次があるじゃん」
ある時は「嫌な事、忘れて、今日も一日笑顔で」
ある時は「物事、乗り越えられないことはない」
いつも激励奮起の言葉として、心地よく心に響いていた。
予期しないクーデターはもとより、海外との仕事は、何かと誤算が生じ易い。
その都度、「マイペンライ」は、国際活動の窮地を救い、道を拓いてくれた。
(次に続く)
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