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■■■■■チェンマイから始まったタイとの交流■■■■■ NPO法人・日タイ国際交流推進機構(JTIRO)理事
阪南大学大学院企業情報研究科兼経済学部教授 石井雄二
■「突然の出会い」
●私の場合、タイとの出会いは突然であった。
京都大学東南アジア研究センターの相互研究者交換招聘制度を利用して、
チェンマイ大学に出張に行くことになっていた東京時代の先輩教授が 他の
公務のために参加できず その代役として急遽、私が行く羽目になった。
したがって、今日まで続くタイとのかかわりは、チェンマイ大学での在外研究
が、その出発点である。
それは、たしか1991年の暮れも押し迫った12月の年の瀬の時期であった。
(チェンマイの象徴ドイステーブ寺院)
●現在 日本とタイ特にチェンマイを舞台に社会貢献活動をしているNPO法人
日タイ国際交流推進機構(JTIRO)の理事の任にあることは、人生の巡り巡る
時間が紡ぎだすご縁と言う以上の不思議な妙味を感じないわけにはいかない。
そんな訳で、「タイに吹く風」シリーズは、チェンマイから始めることにしたい。
(チェンマイはタイの一番上の、北の方にある)
●これから始まる「タイに吹く風」シーズは、私がタイと出会った20年以上前
の時期を起点に、それ以降のタイの経済社会の軌跡を私の経験やその時々
感じたことと考えたことを クロスさせながらたどり、その「変化」と「不変化」の
両面を見据えて、タイにどのような「風」が吹き、どこに自らを運び、また運ばれ
ていくのか、タイの国柄や特質を検討する素材を エッセイ風に徒然に提供す
ることにしたい。
■「当時の日本とタイ」
●思い起こせば日本では、まさに1991年12月は、1990年3月から政府・大蔵
省の行政指導で続いた総量規制 (不動産融資の貸出抑制)が解除された時
で、バブル崩壊が決定的となり、その後日本経済は、長期低迷の20年を経験
する事になる。
日本の閉塞的な状況は現在でも続いており、かつての隆々とした成長の輝き
を取り戻すことは、もはや不可能であると日本の誰しもが思っている。
●一方タイでは、1980年代の後半以降の外資の流入ラッシュ状況で、日本と
のかかわりでいえば、1985年のプラザ合意による超円高基調のもとで、産業
の空洞化という言葉が象徴的に語られるように、日本の企業進出の太い流れ
の道筋が、つけられることになった。
その当時タイは、新興工業経済群=NIES (韓国・台湾・シンガポール・香港)
に続く、第5番目のドラゴン(龍)ともてはやされる アジアの成長国家にまでに
なっていた。
●その当時タイには成長の活力源から沸騰する熱風が吹き荒れており、首都・
バンコクから遠く離れた周辺の古都チェンマイも、いくぶん穏やかながらも中心
地から成長の波及効果が力強く及んでいたことは、今でも鮮明に覚えている。
(日本の昔同様のタイ北部地方の稲作風景)
■「新鮮な印象」
●しかし、まったく白紙の状態でタイ、しかもチェンマイからミャンマー国境の
山村地域を初めて訪れた私にとって稲作=水田を基調とした山間の景観は、
改めて新鮮な驚きを感じた。
それは、日本の山村では、ごく普通の景観が、タイの北部の山間で同じように
見られたことの懐かしさと親近感によってである。
●「稲作の国」タイというイメージが、初回のタイ訪問で強烈に印象づけられ、
タイの異質性よりは、日本と同じような稲作文化をもつという共通項の方に目
が向けられることになった。
タイ・チェンマイでの体験を起点に、それ以降私がタイに専心・没頭するように
なった事情や経緯について、次号では、さらに思索を深めることにしたい。
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