■■■■■■■■記憶と忘却の相克(2)■■■■■■■■
■■「苦々しい想い出」
⚫️去る23年前の2000年に産声をあげた日タイロングステイの
試みは、やがて来る2007年の団塊世代700万人が 一斉に定年
退職する予備的な日本政府通産省の発案が、きっかけだった。
誰もが経験したことない就業人口激減の事態の到来である。
民間企業も政府の要請を受けて、定年を55歳から60歳に繰り延
べしてきた。既に長寿化の傾向があり,少子高齢化が危惧されていた。
⚫️敗戦から約40年, 戦後昭和の経済再興でGDP世界第2位まで昇り
つめた日本が,成熟化した世界経済の中でまさに真の実力を試される
時でもあった。
当時の自由世界は,あらゆる面で日本との協業を,心から望んでいたよ
うに思う。
無資源国の日本は,本来、資源を海外から輸入して,独自のアイデアで
付加価値商品を創り,海外にくまなく輸出して,国際的な評価と地位を
築いてきた。
所がその後の世界経済は,2008年の世界金融危機を契機に市場の様相
が一変した。当然「団塊世代2007年問題」も先送りされた。
国内経済は,長引く円高不況で,工作機械の部品や繊維製品の縫製加工
など,人手を要する部分を工賃が安い中国など海外へ全面移管する,い
わゆる日本主導の「サプライチェンの移行」が始まる。
出所:ニッセイ経済研究所
当初,円高のもとでの海外での下請け生産は,後進国支援という意味あ
る仕組みだった。2000年以降,円高による日本の中国への海外生産移
行が本格化し,サプライチェン移行が実現した。中国は,それを基盤に
して国内経済の充実化に努めた。
主な主眼項目はーーーー
・日本をはじめ外資系企業との提携
・製造業主体の態勢整備
・輸出主導の態勢
・労働集約的な歳入政策(労働力を使った経済の活性化)
この20年間の中国の台頭は著しい。
その結果,GDP(国内総生)では,日本を抜いて第2位に浮上する。
2000年来の円高に伴う中国へのサプライチェンの移行は,ひいては
中国経済,共産国中国を強固にして,残念ながら米中問題や世界の分断を
もたらす動機になったという認識に変わりはない。
⚫️歴史とは,その時々の記憶の集積である。後に当事者として振り返
る事で価値が生まれてくることが多い。だからこそ,歴史の中に 生息
した者としては,その活動の事実を決して忘れてはならない。
「多くの人間が口には出さないが、何処か無理に耐えて生きている。
そうでなければ資源も何もないこの小さな島国日本で,1億もの人間が
生きられるはずがない」 勇者は語らず」城山三郎著より
■■「初めての出会い」
⚫️2000年6月、JR大阪駅前の渡辺病院に隣接する旧いビルにある
JTIROのオフイスを一人の男性が 訪ねて来た。天理市に住む65歳の
む玉永浩一さんだつた。
大阪で事業活動をしていたが,老後を好きな常夏のタイチェンマイで
ロングステイしながら社会貢献活動をして暮らしたいという。
何度かお会いして協議し,公式の先発隊として,現地チェンマイに赴い
てもらうことにした。
現地チェンマイの旅行社ランベルツアー社長の ランシーさんが,
JTIROの現地活動に特別,協力してくれる事になった。
まず繪画の指導免許を持つ玉永さんが、チェンマイ周辺の小学校で
ボランティアの繪画教室を開講、多くの小学生に油絵を教える事に
なった。
チェンマイにおける日本の定年退職者ロングステイヤーによる社会
貢献活動の第1号となった。地元日刊紙にも取材記事が載り,JTIRO
の存在が、地元に紹介される貴重な機会になった。
⚫️2000年当時(約23年前)まだ携帯電話(モバイル)はなかった。
通常の業務連絡は固定電話か、FAXが唯一の交信手段だった。当時の
企業では,事務処理や業務には,ワープロ(ワードプロフェサー)が重用さ
れ、後にFAXによる文字交信が可能だった。
PC(パソコン)が普及し始めたのは,2001年頃から,その足跡を辿ると、
(年次) (インターネット普及率)(備考)
・1996年 3, 0%
・1998年 13,4%(Windows98発売開始)
・2000年 37,1%(内閣にIT戦略本部開設)
・2003年 64,3%(個人情報保護法成立)(郵政民営化)
・2005年 70,8%、
・2008年 iphone 発売開始、JTIROが広報ブログを開始、
・2010年 78,2%
・2011年 「iPad」日本で発売開始、
いまにして思えば、デジタルの世界は日ごと,長足の進歩を遂げて
きたと言っていい。
🔵私のデジタルとの出会いは1998年の春、いまを去る25年前、
66歳の時だった。私的な業務の記録に,シャープが開発して話題を
呼んだ「ザウルスM1-C1A」を使い始めた。その便利さが病みつきに
なり、新機種が出るたびに買い替えて累計3台に及んだ。
🔵国際交流の仕事は2国間の業務連絡が多い。当初はワープロで書
類を作成し郵送していた。2001年からは,ほぼFAXで海外伝送した記
憶がある。2003年6月、初めてのPC(パソコン)を導入した。富士通だ
った。一瞬にして文書が電送でき,驚きの連続だった。
🔵携帯電話は、日進月歩の技術進歩に添い,毎年のように新型の機種
が発売された。ドコモやauなどの通信各社に、PCや家電メーカーが
新規参入し,まさに百花繚乱の様相を呈した。
但しインターネットの普及と海外との接続など通信の高度化で, 毎年
のように新機軸の新機種が売り出される事になる。海外ビジネスを
やるものにとっては, 致し方なく新機種高機能のスマホに移行せざる
を得ないという苦労が続いた。
●私が使った初期の携帯電話
ここにある初期スマホの多くは,まさに毎年変容する情報通信に対応
した時代の確証と言える貴重な機種と言えるだろう。
20年後の今を一瞥すると、2008年の米国Apple社iphone
の新規参入で、世界の携帯メーカーは、ほぼ3社に集約された。
そして殆どの携帯機器メーカーは、撤退を余儀なくされた。
併せて2000年以降の日本による中国へのサプライチェンの移行
と、日本の半導体メーカーの市場撤退に伴う台湾、韓国メーカーの
台頭によるところが大きい。
日本は政府も民間も,来るべきデジタルなネクスト社会の到来の市場
予測が遅れた。
■■「伝統のコラボ」
🔵話を本論(NPO日タイ国際交流活動)に戻そう。
2001年には,タイ政府商務省(当時のロングステイに所轄省)が推奨
するOTOP(タイの伝統的な商品)の海外, 特に 日本での拡販を進め
るに際し,パタイ大阪事務所長(のちのタイ国日本駐在公使)が、中核で
推進することに決まった。
OTOPのタイの伝統的な商品の多くは、タイ北部のチェンマイ周辺で
生産されており、
・自然の感触を織り込んだテキスタイルや織物など,
・籠など至極の竹製品や、
・ハーブなど世界的な香料製品や
・既に評価が高いシルク製品や、
・チェンマイ周辺の歴史的な陶器など
・既に欧州で極上の評価高いジュエリー、
・現代薬学が認めるハーブ、
・特にヨーロッパや日本で人気のタイ料理など,
未知なタイとの出会いの機会を作り,戦略的に売り込んでいくという。
🔵早速、私どもが提案したのは,日本の古都京都の数千年に及ぶ伝統
商品のモノずくりと、タイ北部の伝統商品の作者とのコラボを実現し
ようという試みだった。
早速,京都の伝統的な織物や染の公的な組合「京都織物工業組合」に
出向き、若手の織物作家や染色技能士や 和装デザイナーなど有能な
伝統工芸士を,チェンマイに派遣いただく事にした。現地ではタイの
技能者との技能交流や懇談などの交流を行うことを決めた。
京都新聞朝刊には,チェンマイで両国の技能士が,タイ国政府の要請で
渡航し,チェンマイで作品発表会の開催が報道され話題をよんだ。
2002年秋のタイ政府商務省主催の日タイ伝統商品合同発表会は,
代表的な技能士など約70人が参加し、チェンマイ事務所の展示会
場を舞台にして京都の西陣織の着物や浴衣のショウと、日本とタイ
北部地方の伝統商品(織物や陶器や伝統工芸)のが展示され大盛
況に終わった。
チェンマイロングスティヤー第1号会員の玉永さんは,浴衣モデルと
して舞台出演し好評だった。
その後,タイ北部地方のOTOP関連生産企業の技能士のリストを作成し、
商務省チェンマイ事務所が中心になりJTIROが協働して,年1回,チェン
マイと京都と作家や技能士が交互に交流して,作品や商品のコラボの
実現を目指す事になった.
■■「引継ぎなき世界」
🔵2001年,タイの政体が変わった。タイ北部地方の農民票を背景
に勝利したタクシン政権が発足, 2002年タクシン政権の省庁再編
でタイロングスティの所轄が, 商務省から タイ観光庁に移行された。
あっという間の出来事だった。
ロングスティは「暮らしのかたち」であり「観光ではない」とい
うのが私ども不変の主張である。タイ観光庁への所轄変更に伴う現地
の態勢や考え方を立て直すのに一苦労した。したというより大きく後
退せざるを得なかったと言っていい。
🔵タイでは,人事異動を含めて一切、業務の引継ぎをしない。
というより業務引継ぎというルールが存在しない。
新任の部長や所長が着任すると、継続中の仕事はストップし 全て一
からの再スタートとなる。ことによれば,執務室の様相が大きく変わ
ったり、ホームページのデザインが更新されたりする事もある。
受けて手側からすると関連する仕事は,新任部長のもとで1から再ス
タートするか中止となる。結果「1歩後退、1歩前進」となっても
結果、全然進行しないのと同様と判り愕然とする。
これは官庁に限つた事ではない,伝統的なタイの悪習と言っていい。
🔵タイロングステイの日本における窓口は、タイ観光庁大阪事務所
に移った。全てが一からの再スタートである。この時ほど疲れた事
はなかった。
にも拘らず2002年8月の事、タイ観光庁長官が来日し、急遽お会
いしたいという。早速,大阪帝国ホテルに出向くと女性長官は「来る
2007年問題、日本の団塊世代700万人同時定年退職という 異
例の事態を前提に,この人たちをいかにタイロングスティに取り込む
か、知恵と手を貸して欲しい」という。
そこで総裁の予測(心ずもり)を打診すると, 最低3%の20万人の団塊
世代が、タイロングスティに参加可能ではないかという。
日本政府の立場からすすると 一挙にこれだけの就業者が減退するのは
初めてという事で, 既に就業延長や再雇用の検討が始まったところ。
お互いよく検証して対処しようという事で話を終えた。
翌日、大阪帝国ホテルでのタイ観光庁長官主催の懇親パーティに出
席したところ,長官挨拶の後、200人程の参加者との交歓に先立ち、
JTIROに対する「MOU」相互協力協定書)の交歓式が行われた。
極めて手際いい。
さすが王国だけに業務推進の進め方は、いたって素早く超一流である。
しかしこの試みは、日本政府による「2007年問題」の政策的な無
期延期により、なきものに化した。
🔵2015年のクデターの翌年、タイ政府観光庁主催の業界セミナ
ーがチェンマイのホテルで開催され、講師として招かれた。
タイの観光業界は、既に2008年のリーマンショックから立ち直
り年間4000万人近い観光客を集めて世界第4位の観光国の地位
を誇っていた。
日本はじめアジア各地から関係企業のプロが集結した。総括会議と
分科会に分かれて、2日にわたり講師の話を聞き,その後集団討議を
行い,集約して結論をまとめるという。
第1日目にはこんな事がおこった。私が主題を図示したボードを手
にして全ての論旨を説明し終わった頃、一番前の席の30代女性が、
通訳を伴い笑顔で近寄って来た。
「お願いです。セミナー終了後,私の家にお招きしたいのですが、聞
き及んでいただけませんか」いぶかる私が事情を求めると、実はいま
国勢選挙のまっただ中で,兄が再選目指して立候補中だと言う。
その兄と激励の握手をお願いしたい」という。
まだ訝っていると,私の左手の手相がいわゆる「ますかけ」でタイ
では非常に珍しく勝利を呼びこむと言う。
こんな話は,生涯初めての事なので, 比較的運を担ぐ性格の私は, 喜ん
で訪問を引き受けた。2日後,チェンマイ山手の住宅地のお宅を訪ね
兄の議員と念願の握手、夕食を御馳走になりホテルに戻つた。
帰国後,喜びの当選メールが届いた。何はともあれ人助けは楽しい。
タイ国の変った運担ぎの習慣と,不思議なご縁の出会いに,改めて
タイの民間活力の凄さを感じた。タイは,どこまでも面白い国である。
■■「利便の効用」
⚫️国際交流の仕事は、2国間にまたがるだけに、さまざまな出会い
があったり、珍しい習慣に出くわしたりする。但し公的な色合いが
薄く、忘れることが多い。
メモを取っておけばよかったと悔やまれることしきりである。
スマホのカメラ撮影は、膨大な量の画像が、日時ともに記録できる。
簡便で最適の記録法だと最近になってきずいたが、時すでに遅し。
ChatGPTなどAIツールを含め、デジタル世界は、超スピードで人間
利便の世界へと向かいつつある。
忘却という人間の欠陥さえも、AIの利便がカバーしてくれる時代がや
って来るかもしれない。年寄りなどといって、あまえている時ではな
い。いささかも乗り遅れないようにしたい。
⚫️時代の利便のために選んだ有為なことば、
・極上の選択、
・伝統と革新の狭間、
・不作為の一年、
・分断と混迷の世界、
・亡国の危機、
・常在戦場
・沈黙の共有、
・濃密な時間、
・孤立を恐れない、
・失意泰然、
・伝える言葉
・民間活力、
・世間の耳目、
・余録と余話、
・有事の発見、
・自助、共助, 公助、
・アジアの未来、
「一人では何もできぬ。
しかしまず ひとりが動かなければ何もできぬ」
「人生の流儀」城山三郎著より)
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