毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
アヴィニョン橋
昨日の午前中、私にしては珍しく呑気にTVを見ていた。NHKで「みんなのうた」が始まり、奥華子(息子がファンなのだそうだ)という人の「恋つぼみ」という歌が流れた後、フランス民謡の「アヴィニョンの橋で」が東京放送児童合唱団によって歌われ始めた。
アビニョンの橋で 踊るよ 踊るよ
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
おじさんもくる おばさんもくる
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
坊さんもくる 兵隊さんもくる
アビニョンの橋で 踊るよ 踊るよ
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
「懐かしいなあ」と思いながら聞いていたら、ふっと思い出したことがあった。
「そういえば、昔この歌がフランス語で歌えたぞ」と一緒に見ていた妻に話しかけた。
「そうだったね、フランス語の歌が歌えるぞって自慢げに歌ってたよね・・・思い出した、『スルポン ダビニョン ロニダンセ ロニダンセ スルポン ダビニョン なんとか・・』って歌ってたなあ・・」
「すごいなあ、何で覚えてるの?俺は、全然覚えてない」
「だって、しつこいくらい歌ってたでしょ」
変な奴だ。覚えていて欲しい肝心なことは平気で忘れるくせに、こんなことはしっかり覚えている・・・それにしても、自分に全く記憶がないというのは気持ちが悪い。そこで、フランス語の歌詞を検索してみた。
Sur le pont d'Avignon,
L'on y danse, l'on y danse.
Sur le pont d'Avignon, L'on y danse tout en rond.
Les beaux messieurs font comme ça, Et puis encore comme ça.
Les belles dames font comme ça, Et puis encore comme ça.
(ここでメロディーが聴ける。)
確かに妻が言ったとおりの歌詞だ。すばらしい記憶力だ、驚いた。SMAPと藤原竜也には超人的な記憶力を持っている彼女だが、今回は新たな才能を垣間見せてくれた、などと言ってはほめすぎかな・・・
しかし、いつも思うことだが、google は本当にすごい。フランス語の歌詞を検索すればすぐに見つかる。少し前だったら考えられなかったことだ。しかも、もっとすごいのは、歌詞を検索しただけなのに、それに関連した情報までもザーッと列挙される。アヴィニョン橋の写真は見つかるは、この橋が世界遺産に登録されていることが分かるは、とさまざまな情報が一度に手に入ってしまった。何だか得した気分になったのだが、その中から引っぱってきたのが、このアヴィニョン橋の写真だ。
『12世紀に羊飼いのベネゼが神のお告げで造ったとされ、別名サン・ベネゼ橋とも呼ばれる。元々はローヌ川に架かった全長900mの大きな橋だったが、17世紀の洪水で一部が流され、以後現在に至るまで半壊したままとなっているのだそうだ。もし、無事なままでも、大勢の人がその上で踊れるほど大きな橋ではなかったらしい』
などと注釈があった。
「へえ~~~」と思ってしまう。昨日までまるで知らなかったことが、たまたま見たTV番組のおかげで自分の知識になったのだから、面白いものである。別にアンテナを必死で広げていなくても、情報が相手のほうから勝手に飛んでくることもあるんだな、と不思議な縁を感じずにはいられない出来事だった。
アビニョンの橋で 踊るよ 踊るよ
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
おじさんもくる おばさんもくる
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
坊さんもくる 兵隊さんもくる
アビニョンの橋で 踊るよ 踊るよ
アビニョンの橋で 輪になって 踊る
「懐かしいなあ」と思いながら聞いていたら、ふっと思い出したことがあった。
「そういえば、昔この歌がフランス語で歌えたぞ」と一緒に見ていた妻に話しかけた。
「そうだったね、フランス語の歌が歌えるぞって自慢げに歌ってたよね・・・思い出した、『スルポン ダビニョン ロニダンセ ロニダンセ スルポン ダビニョン なんとか・・』って歌ってたなあ・・」
「すごいなあ、何で覚えてるの?俺は、全然覚えてない」
「だって、しつこいくらい歌ってたでしょ」
変な奴だ。覚えていて欲しい肝心なことは平気で忘れるくせに、こんなことはしっかり覚えている・・・それにしても、自分に全く記憶がないというのは気持ちが悪い。そこで、フランス語の歌詞を検索してみた。
Sur le pont d'Avignon,
L'on y danse, l'on y danse.
Sur le pont d'Avignon, L'on y danse tout en rond.
Les beaux messieurs font comme ça, Et puis encore comme ça.
Les belles dames font comme ça, Et puis encore comme ça.
(ここでメロディーが聴ける。)
確かに妻が言ったとおりの歌詞だ。すばらしい記憶力だ、驚いた。SMAPと藤原竜也には超人的な記憶力を持っている彼女だが、今回は新たな才能を垣間見せてくれた、などと言ってはほめすぎかな・・・
しかし、いつも思うことだが、google は本当にすごい。フランス語の歌詞を検索すればすぐに見つかる。少し前だったら考えられなかったことだ。しかも、もっとすごいのは、歌詞を検索しただけなのに、それに関連した情報までもザーッと列挙される。アヴィニョン橋の写真は見つかるは、この橋が世界遺産に登録されていることが分かるは、とさまざまな情報が一度に手に入ってしまった。何だか得した気分になったのだが、その中から引っぱってきたのが、このアヴィニョン橋の写真だ。
『12世紀に羊飼いのベネゼが神のお告げで造ったとされ、別名サン・ベネゼ橋とも呼ばれる。元々はローヌ川に架かった全長900mの大きな橋だったが、17世紀の洪水で一部が流され、以後現在に至るまで半壊したままとなっているのだそうだ。もし、無事なままでも、大勢の人がその上で踊れるほど大きな橋ではなかったらしい』
などと注釈があった。
「へえ~~~」と思ってしまう。昨日までまるで知らなかったことが、たまたま見たTV番組のおかげで自分の知識になったのだから、面白いものである。別にアンテナを必死で広げていなくても、情報が相手のほうから勝手に飛んでくることもあるんだな、と不思議な縁を感じずにはいられない出来事だった。
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思い出の曲
秋になると思い出す歌がある。吉田拓郎の『旅の宿』。1972年に発表されたときには私はまだ中学生だった。当然この歌の持つ情緒などというものを理解することはできなかったが、年をとるにつれこの歌のような一夜をすごしてみたいものだという思いが年々募ってきた。
「旅の宿」 作詞・岡本おさみ
浴衣のきみは尾花(すすき)の簪(かんざし)
熱燗徳利の首つまんで、
もういっぱいいかがなんて
みょうに色っぽいね
ぼくはぼくで跌坐(あぐら)をかいて
きみの頬と耳はまっかっか
あヽ風流だなんて
ひとつ俳句でもひねって
部屋の灯りをすっかり消して
ふろあがりの髪いい香り
上弦の月だったっけ
久しぶりだね 月見るなんて
ぼくはすっかり酔っちまって
きみの膝枕にうっとり
もう飲みすぎちまって
きみを抱く気にもなれないみたい
私が想像できるもっとも風流な一場面がこの歌の中にある。「これくらいの詞で風流を論ずるな、余りに想像力が貧困だ」などと叱責を受けるかもしれないが、そんなことは気にしないでおこう。
吉田拓郎と言えば、23日土曜日に静岡県掛川市にある「つま恋」多目的広場で、かぐや姫と31年ぶりに「つま恋コンサート」を開催した。その模様がNHKハイビジョンで生中継されることは、少し前にゴジ健さんに教えていただいた。土曜日は一日中塾でライブ放送を見ることはできないから、忘れずに録画して後から楽しもうと思った。DVDのRAMも買い込んで準備万端整えておいた。
しかし、前日の22日、塾に少しの空き時間ができたため自宅に戻ったところ、居間のTVからサザンの桑田佳祐の声が流れてきた。「おお、サザンじゃないか、何の番組?」とTVを見ていた妻に話しかけたら、「Mステ」と教えてくれたが、桑田がいったい何を歌ってるのかすぐには分からなかった。「聞いたことはあるけど、何だろう?」と思いながら耳を済ませていたら、
♪Sugar, sugar, Ya Ya, petit chou.
美しすぎるほど
Pleasure, pleasure, La La voulez-vous.
忘られぬ日々よ ♪
という歌詞が聞こえてきた。「えっ?これ 『Ya Ya』なの?嘘だろう・・・」と思いながらもさらに聞いていたら、やっぱり『Ya Ya』だった。その瞬間、本当にがっかりした。
「何でこんなだるい歌い方するんだよ、こんな歌じゃなかっただろう。過ぎ去った美しい日々へのオマージュではなかったのか。少なくとも俺はこんな歌い方許さないぞ」
などと歯軋りをしたのだが、そんな私の思いが届くわけもなく、桑田はそのまま歌い続けていた。私は途中で聞くに堪えなくなって家を出たのだが、その後ずっと気分が落ち込んでしまった。私にとって、サザンの数ある楽曲の中でこの『Ya Ya (あのときを忘れない)』が一番好きな歌なのだ。
♪互いにギター鳴らすだけで
わかりあえてた奴もいたよ
もどれるなら In my life again
目にうかぶのは better days ♪
CDで、この辺りを聞くともう目頭が熱くなってしまう。「ああ、あの頃は」などと一瞬で昔にワープしてしまうこともたびたびだ。桑田もきっとこの歌には強い思い入れがあるはずだ(勝手な想像だけど)、なのにどうしてあんなに、だら~と伸ばしたスローテンポな歌い方をするのか・・・・
本当にがっかりした。そのがっかりのせいで、あれほど意気込んでいた「つま恋コンサート」の録画もする気がなくなってしまった。今現在の吉田拓郎やかぐや姫に私は興味はないのだから、思い出は思い出のまま残しておいたほうがいい、そんな気がしたのだ。
でも、録画くらいはしておけばよかったかな・・・
「旅の宿」 作詞・岡本おさみ
浴衣のきみは尾花(すすき)の簪(かんざし)
熱燗徳利の首つまんで、
もういっぱいいかがなんて
みょうに色っぽいね
ぼくはぼくで跌坐(あぐら)をかいて
きみの頬と耳はまっかっか
あヽ風流だなんて
ひとつ俳句でもひねって
部屋の灯りをすっかり消して
ふろあがりの髪いい香り
上弦の月だったっけ
久しぶりだね 月見るなんて
ぼくはすっかり酔っちまって
きみの膝枕にうっとり
もう飲みすぎちまって
きみを抱く気にもなれないみたい
私が想像できるもっとも風流な一場面がこの歌の中にある。「これくらいの詞で風流を論ずるな、余りに想像力が貧困だ」などと叱責を受けるかもしれないが、そんなことは気にしないでおこう。
吉田拓郎と言えば、23日土曜日に静岡県掛川市にある「つま恋」多目的広場で、かぐや姫と31年ぶりに「つま恋コンサート」を開催した。その模様がNHKハイビジョンで生中継されることは、少し前にゴジ健さんに教えていただいた。土曜日は一日中塾でライブ放送を見ることはできないから、忘れずに録画して後から楽しもうと思った。DVDのRAMも買い込んで準備万端整えておいた。
しかし、前日の22日、塾に少しの空き時間ができたため自宅に戻ったところ、居間のTVからサザンの桑田佳祐の声が流れてきた。「おお、サザンじゃないか、何の番組?」とTVを見ていた妻に話しかけたら、「Mステ」と教えてくれたが、桑田がいったい何を歌ってるのかすぐには分からなかった。「聞いたことはあるけど、何だろう?」と思いながら耳を済ませていたら、
♪Sugar, sugar, Ya Ya, petit chou.
美しすぎるほど
Pleasure, pleasure, La La voulez-vous.
忘られぬ日々よ ♪
という歌詞が聞こえてきた。「えっ?これ 『Ya Ya』なの?嘘だろう・・・」と思いながらもさらに聞いていたら、やっぱり『Ya Ya』だった。その瞬間、本当にがっかりした。
「何でこんなだるい歌い方するんだよ、こんな歌じゃなかっただろう。過ぎ去った美しい日々へのオマージュではなかったのか。少なくとも俺はこんな歌い方許さないぞ」
などと歯軋りをしたのだが、そんな私の思いが届くわけもなく、桑田はそのまま歌い続けていた。私は途中で聞くに堪えなくなって家を出たのだが、その後ずっと気分が落ち込んでしまった。私にとって、サザンの数ある楽曲の中でこの『Ya Ya (あのときを忘れない)』が一番好きな歌なのだ。
♪互いにギター鳴らすだけで
わかりあえてた奴もいたよ
もどれるなら In my life again
目にうかぶのは better days ♪
CDで、この辺りを聞くともう目頭が熱くなってしまう。「ああ、あの頃は」などと一瞬で昔にワープしてしまうこともたびたびだ。桑田もきっとこの歌には強い思い入れがあるはずだ(勝手な想像だけど)、なのにどうしてあんなに、だら~と伸ばしたスローテンポな歌い方をするのか・・・・
本当にがっかりした。そのがっかりのせいで、あれほど意気込んでいた「つま恋コンサート」の録画もする気がなくなってしまった。今現在の吉田拓郎やかぐや姫に私は興味はないのだから、思い出は思い出のまま残しておいたほうがいい、そんな気がしたのだ。
でも、録画くらいはしておけばよかったかな・・・
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下宿
京都の大文字の送り火のニュースを新聞で読んだ瞬間に、私が大学生の時ずっと住んでいた下宿についてブログに書こうと思った。あれこれ思い出して、大文字焼きの写真も探し出して、準備を整えていたら、ある事情のため、その日は書く気がなくなってしまった。そんなことを書いて、まったく学生気分の抜けないばか者だ、などと思われるのがいやだったものだから、急遽違う記事を書いて載せておいた。自分の書きたいことを自由に書いているつもりでも結構周りの反応を気にしてしまうのは、記事を公開しコメントを頂いている以上仕方のないことだ。でも、誰の、何のために書いているのか考え直してみれば、そんなこと気にする必要はないはずだ。心に浮かぶことを誰に遠慮するでもなく書き連ねていくこと、それこそが私がブログに記事を書く時に常に思い浮かべるモットーであるが、なかなかそう簡単にはいかないのが現実だ。ブログの性質上、読者を意識しないで文章を書けるはずもないが、読者を意識しすぎると誰のための文章なのか分からなくなってしまう。そのあたりの兼ね合いをうまくやっていかねばならないのだろうが、今はそう細かいことを気にしないで書いていきたいと思っている。
私が大学生の時に暮らしていた下宿は、鉄筋2階建てのしゃれた建物で、当時としては贅沢な部類に入るところであった。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて各自の部屋に行くのだが、いつもしんとしていてちょっとしたホテルのような雰囲気があった。管理人の老夫婦が私の親戚の知り合いだったという関係で、私は大学の合格発表を見終えたその足で、母と契約のためその下宿を訪ねた。大学からはかなり遠い場所にあったが、高野川のほとりで周りは林に囲まれた、とても閑静な所にあった。一応は勉強するために大学に通うわけだから、学生には絶好のロケーションだった。遠くても、自転車に乗っていけばさほど遠くないよ、などという説明を受けて自分の入る部屋もここだと紹介され、満足して契約書にサインした。
入学後は毎朝起きてカーテンを開けるたびに、まっすぐ大文字山が見えた。春から夏、夏から秋、さらには冬と季節が移っても、大文字山は変わらぬ姿を見せてくれた。毎朝拝むようにして見ていた大文字山だが、その下宿に住んでいた間に一度も送り火を見たことはなかった。夏休みになって京都でぐずぐずしているよりも実家に帰って、妻と遊んでいるほうがずっと楽しかったから仕方がない。今ではせめて一度くらいは見ておけばよかったのに、と後悔しているのだが、当時はまったくそんな気が起きなかった。本当に長い休みがあるとすぐに帰省していた。だから、どうだろう、一年の4分の3くらいしか下宿で寝泊りしていなかったのではないだろうか。
しかし、下宿はやはり大学に近い所に選ばなければいけない。遠いと、朝起きる気がしない。あんな遠くまでいけるか、などと入学後数日で思ってしまった。高校まで授業をサボるなんてことはしたことがなかったし、授業中に居眠りするなんてことも高3の受験勉強で疲れ果てるようになるまでしたことがなかった私でも、根が怠け者だからなのだろうが、講義をサボることに何の痛痒も感じなくなるにはそう時間はかからなかった。なにせ、自分の中には通学が不便だからという大義名分があったのだから平気なはずだ。しかも、サークルに入って、いつしか昼夜逆転のマージャン生活に入ってしまったのだから、講義に行きたくても行く時間などなくなってしまった・・・
まったくもって、下宿は大学の近くに選ばなけりゃいけない。その轍を踏まないように、娘は大学近くのマンションを選んだ。私のはるか遠くの下宿と比べれば、大学までの距離など半分以下だ。私だったら、欣喜雀躍するだろうに、わがまま娘はそれでも「遠い!」などと文句を言っては、講義をサボる口実にしている。「それはただの怠け者の台詞だろう。俺なんかずっとずっと遠い所に下宿していたんだぞ」などと、娘が1回生の頃はよく文句を言ったものだが、最近では自分の将来の進路を考えて、ある程度講義には出席しているようだ。当たり前のことなのに、「おっ、頑張ってるじゃん」などと馬鹿オヤジはうれしくなってしまう。
まあ、娘の例を出すまでもなく、子どもがちゃんと大学に行くには、本人の自覚が一番大切なものなんだろう・・・当たり前か。
私が大学生の時に暮らしていた下宿は、鉄筋2階建てのしゃれた建物で、当時としては贅沢な部類に入るところであった。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩いて各自の部屋に行くのだが、いつもしんとしていてちょっとしたホテルのような雰囲気があった。管理人の老夫婦が私の親戚の知り合いだったという関係で、私は大学の合格発表を見終えたその足で、母と契約のためその下宿を訪ねた。大学からはかなり遠い場所にあったが、高野川のほとりで周りは林に囲まれた、とても閑静な所にあった。一応は勉強するために大学に通うわけだから、学生には絶好のロケーションだった。遠くても、自転車に乗っていけばさほど遠くないよ、などという説明を受けて自分の入る部屋もここだと紹介され、満足して契約書にサインした。
入学後は毎朝起きてカーテンを開けるたびに、まっすぐ大文字山が見えた。春から夏、夏から秋、さらには冬と季節が移っても、大文字山は変わらぬ姿を見せてくれた。毎朝拝むようにして見ていた大文字山だが、その下宿に住んでいた間に一度も送り火を見たことはなかった。夏休みになって京都でぐずぐずしているよりも実家に帰って、妻と遊んでいるほうがずっと楽しかったから仕方がない。今ではせめて一度くらいは見ておけばよかったのに、と後悔しているのだが、当時はまったくそんな気が起きなかった。本当に長い休みがあるとすぐに帰省していた。だから、どうだろう、一年の4分の3くらいしか下宿で寝泊りしていなかったのではないだろうか。
しかし、下宿はやはり大学に近い所に選ばなければいけない。遠いと、朝起きる気がしない。あんな遠くまでいけるか、などと入学後数日で思ってしまった。高校まで授業をサボるなんてことはしたことがなかったし、授業中に居眠りするなんてことも高3の受験勉強で疲れ果てるようになるまでしたことがなかった私でも、根が怠け者だからなのだろうが、講義をサボることに何の痛痒も感じなくなるにはそう時間はかからなかった。なにせ、自分の中には通学が不便だからという大義名分があったのだから平気なはずだ。しかも、サークルに入って、いつしか昼夜逆転のマージャン生活に入ってしまったのだから、講義に行きたくても行く時間などなくなってしまった・・・
まったくもって、下宿は大学の近くに選ばなけりゃいけない。その轍を踏まないように、娘は大学近くのマンションを選んだ。私のはるか遠くの下宿と比べれば、大学までの距離など半分以下だ。私だったら、欣喜雀躍するだろうに、わがまま娘はそれでも「遠い!」などと文句を言っては、講義をサボる口実にしている。「それはただの怠け者の台詞だろう。俺なんかずっとずっと遠い所に下宿していたんだぞ」などと、娘が1回生の頃はよく文句を言ったものだが、最近では自分の将来の進路を考えて、ある程度講義には出席しているようだ。当たり前のことなのに、「おっ、頑張ってるじゃん」などと馬鹿オヤジはうれしくなってしまう。
まあ、娘の例を出すまでもなく、子どもがちゃんと大学に行くには、本人の自覚が一番大切なものなんだろう・・・当たり前か。
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六月の子守唄
先週の土曜日、ラジオから懐かしい曲が流れてきた。ウィッシュという姉妹デュオの「六月の子守唄」という曲だ。
六月の子守唄
詞:あだちあかね
星がひとつ空から落ちてきた
六月の子守唄 うたう母のもとへ
さわるとすぐにこわれそう
ガラスのようなおまえだから
風がわるさせぬように
悪魔がさらって行かぬよう
そしておまえが
目をさましたならば
一番はじめに私が見えるよう
母はこうしていつまでも いつまでも
おまえのそばにいてあげるから
大きくおなり優しくおなり
母はこうしていつまでも
おまえのそばにいてあげよう
私の愛を忘れずに
星がひとつ空から落ちてきた
六月の子守唄をうたう母のもとへ
この曲は、1973年に発表された。ウィッシュというグループの曲は、「御案内」という曲も記憶に残っている。
♪今日、お葬式をします
私の愛が死んだのです
同情も今はいりません
ただ見守っていてください♪
「六月の子守唄」もそうだが、きれいな歌声とは少しばかり違和感のある歌詞が当時の私には新鮮だった。久しぶりに聞いてみたいと思ってちょっと調べた。他にも、「私が昔好きだった人」という曲などと共にベストアルバムが発売されたが、あいにく今は廃盤となっていて入手できないようだ。残念だ。
ウィッシュが活躍していた当時、YAMAHAの主催したヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポップコン)出場者の曲が1つの音楽シーンを形成していた。その数々の名曲は、大石吾朗が司会をする深夜のラジオ番組「コッキーポップ」で流されていた。私はほとんど毎日聞いていたように思うが、ざっと思い出しただけでも、素晴らしい歌手と曲がすぐに頭に浮かんでくる。
中島みゆき『時代』
八神純子『思い出は美しすぎて』
谷山浩子『河のほとりに』
長渕剛『巡恋歌』
CHAGE & ASKA『万里の河』
円広志『夢想花』
小坂明子『あなた』
高木麻早『想い出が多すぎて』
因幡晃『わかって下さい』
世良公則&ツイスト『あんたのバラード』
あみん『待つわ』
ディアゴスティー二が隔週で発売している「青春のうた」シリーズの中にも彼らの曲が何曲か収められている。私は今まで出たものをすべて買っているが、そのCDを聴くたびに懐かしさとともに当時の思い出がよみがえってきて、思わず涙ぐんでしまうこともある。昔を振り返ったところで何もなりはしないと分かっていても、ただただ懐かしい。
六月の子守唄
詞:あだちあかね
星がひとつ空から落ちてきた
六月の子守唄 うたう母のもとへ
さわるとすぐにこわれそう
ガラスのようなおまえだから
風がわるさせぬように
悪魔がさらって行かぬよう
そしておまえが
目をさましたならば
一番はじめに私が見えるよう
母はこうしていつまでも いつまでも
おまえのそばにいてあげるから
大きくおなり優しくおなり
母はこうしていつまでも
おまえのそばにいてあげよう
私の愛を忘れずに
星がひとつ空から落ちてきた
六月の子守唄をうたう母のもとへ
この曲は、1973年に発表された。ウィッシュというグループの曲は、「御案内」という曲も記憶に残っている。
♪今日、お葬式をします
私の愛が死んだのです
同情も今はいりません
ただ見守っていてください♪
「六月の子守唄」もそうだが、きれいな歌声とは少しばかり違和感のある歌詞が当時の私には新鮮だった。久しぶりに聞いてみたいと思ってちょっと調べた。他にも、「私が昔好きだった人」という曲などと共にベストアルバムが発売されたが、あいにく今は廃盤となっていて入手できないようだ。残念だ。
ウィッシュが活躍していた当時、YAMAHAの主催したヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポップコン)出場者の曲が1つの音楽シーンを形成していた。その数々の名曲は、大石吾朗が司会をする深夜のラジオ番組「コッキーポップ」で流されていた。私はほとんど毎日聞いていたように思うが、ざっと思い出しただけでも、素晴らしい歌手と曲がすぐに頭に浮かんでくる。
中島みゆき『時代』
八神純子『思い出は美しすぎて』
谷山浩子『河のほとりに』
長渕剛『巡恋歌』
CHAGE & ASKA『万里の河』
円広志『夢想花』
小坂明子『あなた』
高木麻早『想い出が多すぎて』
因幡晃『わかって下さい』
世良公則&ツイスト『あんたのバラード』
あみん『待つわ』
ディアゴスティー二が隔週で発売している「青春のうた」シリーズの中にも彼らの曲が何曲か収められている。私は今まで出たものをすべて買っているが、そのCDを聴くたびに懐かしさとともに当時の思い出がよみがえってきて、思わず涙ぐんでしまうこともある。昔を振り返ったところで何もなりはしないと分かっていても、ただただ懐かしい。
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ブルー
フランスの詩人ランボオに「母音 Voyelles」という詩がある。
A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ」
母音のイメージを色で表現したものだが、私は高校生のときにこれを読んだ瞬間に、自分は到底詩人にはなれないと直感した。私には母音を色と結びつける発想などありえない。アルファベットという文字=記号を色で表現する、そんなことはとても思い付けない。百歩譲って、何かの拍子にそんな思いがひらめいたとしても、それならAは何色だと問われたら何も答えられない。それなら、日本語の「あいうえお」で考えればどうだろうと試してみても、「あ」は「あか」の「あ」だけれど「あお」の「あ」でもあるから、どちらにしようなどと、全くイマジネーションが広がらない。残念だが、才能がないものはどうしようもない。
しかし、上の「黒・白・赤・緑・青」の中で何色が一番好きかと問われたなら、即座に「青」と答えることぐらいならできる。ただ、私の好きな「青」は、濃い「青」ではなく、快晴の空のように透き通った「みずいろ」に近い「青」だ。何故か昔から淡い色が好きで、一時はマリー・ローランサンの絵に心ひかれたこともある。美術展などあまり行ったことがなかった私が、1985年に愛知県美術館で開かれた彼女の美術展に出かけたほどであった。今、久しぶりにその時に買った図版を取り出して眺めてみたが、淡いとばかり思っていたローランサン独自の世界が案外力強いものであるように思えたのは、私が年を取ったせいであろうか。写真に収めた絵は「青」の使い方がきれいで好きな作品のひとつである。
空の次に私が「青」から連想するものは、海である。海の青さは空を映したものだと聞いたことがあるが、この2つの「青」を歌った若山牧水の印象深い短歌がある。
白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ
青い空と青い海、その境界が判然としないあたりの波間に漂う白鳥。周囲と迎合せず、確固とした自己を確立した孤高の存在を象徴するものとして歌いあげたこの歌は、視覚的にも美しいイメージをもたらす。青い空に浮かぶ真っ白な雲にも似て、青い海に漂う白鳥の鮮やかな姿が目に浮かぶ。そう言えば、長い間海を見ていない。海を見に行きたいな、春になったら・・・
日本語で「青」と言えば、「青二才」などのように未熟なものを指す意味も持っているが、英語などでは「憂鬱だ、悲観して」と言う意味の形容詞としても使われ、それは日本語にも取り入れられている。「今日はなんか気分がブルー」などと若い子が言ったりするのをよく耳にする。メランコリックな気持ちを端的に表すには便利な言葉だ。そうした意味合いの「ブルー」を題名にもった渡辺真知子の楽曲があるが、今でも古さを失っていないと私は思う。
「ブルー」 作詞 渡辺真知子
あなたは優しい目
だけど とてもブルー
凍りついてしまうほど
抱きしめて だけど とてもブルー
あの娘のかわりとわかっているから
呼び出したのに 黙ったままね
気になるけど 知らぬふり
とりとめのない心
人はどういやしてるの
あなたと私いつも 背中合わせのブルー
1978年の曲だが、渡辺真知子の曲の中ではこれが一番好きだ。「背中合わせのブルー」が抽象的で、何を表しているのかよく分からないが、「悲しい心のすれちがい」を表していると思えばいいのだろうか。渡辺真知子も今では立派なボーカリストとしか思えないが、デビュー当時はシンガーソングライターだった。久しぶりに思い出した。そういえば、「迷い道」も好きだなあ。
♪現在・過去・未来、あの人にあったなら・・・
A noir, E blanc, I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ」
母音のイメージを色で表現したものだが、私は高校生のときにこれを読んだ瞬間に、自分は到底詩人にはなれないと直感した。私には母音を色と結びつける発想などありえない。アルファベットという文字=記号を色で表現する、そんなことはとても思い付けない。百歩譲って、何かの拍子にそんな思いがひらめいたとしても、それならAは何色だと問われたら何も答えられない。それなら、日本語の「あいうえお」で考えればどうだろうと試してみても、「あ」は「あか」の「あ」だけれど「あお」の「あ」でもあるから、どちらにしようなどと、全くイマジネーションが広がらない。残念だが、才能がないものはどうしようもない。
しかし、上の「黒・白・赤・緑・青」の中で何色が一番好きかと問われたなら、即座に「青」と答えることぐらいならできる。ただ、私の好きな「青」は、濃い「青」ではなく、快晴の空のように透き通った「みずいろ」に近い「青」だ。何故か昔から淡い色が好きで、一時はマリー・ローランサンの絵に心ひかれたこともある。美術展などあまり行ったことがなかった私が、1985年に愛知県美術館で開かれた彼女の美術展に出かけたほどであった。今、久しぶりにその時に買った図版を取り出して眺めてみたが、淡いとばかり思っていたローランサン独自の世界が案外力強いものであるように思えたのは、私が年を取ったせいであろうか。写真に収めた絵は「青」の使い方がきれいで好きな作品のひとつである。
空の次に私が「青」から連想するものは、海である。海の青さは空を映したものだと聞いたことがあるが、この2つの「青」を歌った若山牧水の印象深い短歌がある。
白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ
青い空と青い海、その境界が判然としないあたりの波間に漂う白鳥。周囲と迎合せず、確固とした自己を確立した孤高の存在を象徴するものとして歌いあげたこの歌は、視覚的にも美しいイメージをもたらす。青い空に浮かぶ真っ白な雲にも似て、青い海に漂う白鳥の鮮やかな姿が目に浮かぶ。そう言えば、長い間海を見ていない。海を見に行きたいな、春になったら・・・
日本語で「青」と言えば、「青二才」などのように未熟なものを指す意味も持っているが、英語などでは「憂鬱だ、悲観して」と言う意味の形容詞としても使われ、それは日本語にも取り入れられている。「今日はなんか気分がブルー」などと若い子が言ったりするのをよく耳にする。メランコリックな気持ちを端的に表すには便利な言葉だ。そうした意味合いの「ブルー」を題名にもった渡辺真知子の楽曲があるが、今でも古さを失っていないと私は思う。
「ブルー」 作詞 渡辺真知子
あなたは優しい目
だけど とてもブルー
凍りついてしまうほど
抱きしめて だけど とてもブルー
あの娘のかわりとわかっているから
呼び出したのに 黙ったままね
気になるけど 知らぬふり
とりとめのない心
人はどういやしてるの
あなたと私いつも 背中合わせのブルー
1978年の曲だが、渡辺真知子の曲の中ではこれが一番好きだ。「背中合わせのブルー」が抽象的で、何を表しているのかよく分からないが、「悲しい心のすれちがい」を表していると思えばいいのだろうか。渡辺真知子も今では立派なボーカリストとしか思えないが、デビュー当時はシンガーソングライターだった。久しぶりに思い出した。そういえば、「迷い道」も好きだなあ。
♪現在・過去・未来、あの人にあったなら・・・
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さようなら
フランス語で「さようなら」を表わす語は、2つある。Au revoir と Adieu である。辞書を引いてみると、Au revoir は「ではまた、さようなら」とある。英悟の See you. に当たる言葉なのだろう。中国語の「再見(サイチェン)」という語が私たちには見ただけで一番よく理解できる訳語だと思う。来生たかおの「夢の途中」という歌の歌詞が Au revoir の意味を上手く表わしている。
さよならは別れの 言葉じゃなくて
再び逢うまでの 遠い約束
現在を嘆いても 胸を痛めても
ほんの夢の途中
またすぐに会える相手に向かって言う「さようなら」は Au revoir なのだ。それが時間的に遠いものであっても、必ず会えると思う場合に使う言葉なのであろう。Au revoir と互いに挨拶を交わすとき、次に会うことを互いに心に思い描いているはずだ。何かはっきりといえない理由で別れるとしても、必ず再び会うつもりであるならば、Au revoir で別れるはずだ。
しかし、Adieu の場合は違う。辞書によれば、「長期間あるいは永久に別れる相手に対して言う」とある。永久の別れというのは、読むだけで悲しい言葉だが、死に逝く者がこの世に別れを告げる時には Adieu と言うのであろう。Adieu を分析してみれば、A と Dieu に分けられ、A は「~に対して」、Dieu は「神」のことだから、Adieu というのは神に対する誓いの言葉ということになる。「神に誓ってさようなら」という意味ならば、永遠の別れを告げる言葉だと理解できるだろう。
Adieu という言葉で私が思い出すのは、京大の生田耕作教授のことだ。先生は発禁本の訴訟など物議を醸す教授として内外に有名な方であったが、学内では誰でもフランス語の単位を取れる有難い先生として有名であった。なにせ、授業に先生が現れない。私も最初の講義だけはと思い出席してみたのだが、いくら待っても先生がやってこない。とうとうそれで授業時間が過ぎてしまったのだが、それに味をしめた私は二度と出席をしなかった。授業がまともに開かれたとも聞いたことがなかったから、ひょっとすると一年間何も講義などなかったのかもしれない。今思えばそんないい加減な人間に我々の税金から給料を与えるなどもってのほかだと思うが、学生から見ればこれほど素晴らしい先生はいなかった。それでも、単位認定のための試験はあったようで、受験したのを覚えている。その時に初めて先生のご尊顔を拝したのだが、長髪で大柄な先生は、私の目からは至極かっこよく見えた。その時教室にいた一人の生徒が、「先生は今年で大学を辞められると聞きましたが、何故ですか」と不遜にもたずねた。すると先生は「もう嫌なんだ」とだけ答えられた。私はそれを聞いて、「ああ、これこそ京大の教授だ」とえらく感動したのを覚えている。私のいた頃の京大は本当に自由で、学生が何をやろうが大学はまったく関知せず、やりたい放題だった。それは教授にも言えたことで、いい加減な教授がたくさんいたように思う。生田教授はその最たるもので、その試験の答案用紙に私は「Adieu, prof. Ikuta」とだけ書いたのだが、ちゃんと単位がもらえた。独立法人となった今ではとても考えられないことだが、古きよき時代の語り草としてはなかなかのものだろう。
生田教授はその後程なくして亡くなってしまったから、文字通りの Adieu となってしまったが、普段の我々にとって Au revoir と Adieu を区別することは難しい。Au revoir のつもりで言っても Adieu になってしまったことはこの年齢になるといくらでもある。会いたいけれど会えない、そんな友がたくさんいる。逆に、Adieu を告げたつもりなのにいつの間にかまた顔を会わせているものもいる。会いたくないのに何故だか会ってしまう。そんなことはよくある。会いたい人にはいつでも会え、会いたくない人とは二度と会わなくてすむ、そんなことが可能だったら、誰もが楽しく生きていけるだろうが、そんなことがありえないのが人生だ。
辛くても、何とか頑張っていくしかない。
さよならは別れの 言葉じゃなくて
再び逢うまでの 遠い約束
現在を嘆いても 胸を痛めても
ほんの夢の途中
またすぐに会える相手に向かって言う「さようなら」は Au revoir なのだ。それが時間的に遠いものであっても、必ず会えると思う場合に使う言葉なのであろう。Au revoir と互いに挨拶を交わすとき、次に会うことを互いに心に思い描いているはずだ。何かはっきりといえない理由で別れるとしても、必ず再び会うつもりであるならば、Au revoir で別れるはずだ。
しかし、Adieu の場合は違う。辞書によれば、「長期間あるいは永久に別れる相手に対して言う」とある。永久の別れというのは、読むだけで悲しい言葉だが、死に逝く者がこの世に別れを告げる時には Adieu と言うのであろう。Adieu を分析してみれば、A と Dieu に分けられ、A は「~に対して」、Dieu は「神」のことだから、Adieu というのは神に対する誓いの言葉ということになる。「神に誓ってさようなら」という意味ならば、永遠の別れを告げる言葉だと理解できるだろう。
Adieu という言葉で私が思い出すのは、京大の生田耕作教授のことだ。先生は発禁本の訴訟など物議を醸す教授として内外に有名な方であったが、学内では誰でもフランス語の単位を取れる有難い先生として有名であった。なにせ、授業に先生が現れない。私も最初の講義だけはと思い出席してみたのだが、いくら待っても先生がやってこない。とうとうそれで授業時間が過ぎてしまったのだが、それに味をしめた私は二度と出席をしなかった。授業がまともに開かれたとも聞いたことがなかったから、ひょっとすると一年間何も講義などなかったのかもしれない。今思えばそんないい加減な人間に我々の税金から給料を与えるなどもってのほかだと思うが、学生から見ればこれほど素晴らしい先生はいなかった。それでも、単位認定のための試験はあったようで、受験したのを覚えている。その時に初めて先生のご尊顔を拝したのだが、長髪で大柄な先生は、私の目からは至極かっこよく見えた。その時教室にいた一人の生徒が、「先生は今年で大学を辞められると聞きましたが、何故ですか」と不遜にもたずねた。すると先生は「もう嫌なんだ」とだけ答えられた。私はそれを聞いて、「ああ、これこそ京大の教授だ」とえらく感動したのを覚えている。私のいた頃の京大は本当に自由で、学生が何をやろうが大学はまったく関知せず、やりたい放題だった。それは教授にも言えたことで、いい加減な教授がたくさんいたように思う。生田教授はその最たるもので、その試験の答案用紙に私は「Adieu, prof. Ikuta」とだけ書いたのだが、ちゃんと単位がもらえた。独立法人となった今ではとても考えられないことだが、古きよき時代の語り草としてはなかなかのものだろう。
生田教授はその後程なくして亡くなってしまったから、文字通りの Adieu となってしまったが、普段の我々にとって Au revoir と Adieu を区別することは難しい。Au revoir のつもりで言っても Adieu になってしまったことはこの年齢になるといくらでもある。会いたいけれど会えない、そんな友がたくさんいる。逆に、Adieu を告げたつもりなのにいつの間にかまた顔を会わせているものもいる。会いたくないのに何故だか会ってしまう。そんなことはよくある。会いたい人にはいつでも会え、会いたくない人とは二度と会わなくてすむ、そんなことが可能だったら、誰もが楽しく生きていけるだろうが、そんなことがありえないのが人生だ。
辛くても、何とか頑張っていくしかない。
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三綱領
私の卒業した中学・高校には、三綱領という、いわば校訓のようなものがあり、折あるたびに復唱させられた。今ではウロ覚えになってしまった箇所もあるが、大体は唱えることができる。
・明照殿を敬い、信念ある人となりましょう。
・勤倹誠実の校風を尊重して、よい個性を養いましょう。
・平和日本の有要な社会人となりましょう。
卒業後30年近く経った現在、果たして私は三綱領の掲げる人間に一歩でも近づくことができたであろうか。1つ1つ検証してみる。
>明照殿を敬い、信念ある人となりましょう
明照殿とは浄土宗系の学園の象徴であり、阿弥陀仏を中心に同窓先輩や関係物故者
の霊を祀る殿堂のことである。しかし、振り返ってみて、私はどこにその建物があったのか判然としない。宗教という授業が毎週1回あったが、かったるくて真面目に聞いていなかったためほとんど記憶に残っていない。したがって、明照殿どころか何らかの偶像崇拝はもとより宗教とは全く縁のない衆生として生きてきた。さらには、何か一つの特定の考えに縛られることなく、常に自由な心を持ち多面的な物の見方をするように心がけてきた。勿論これが実践できてきたかは非常に心もとないが、1つの信念に囚われることなく生きていこうとという考えを自らのバックボーンとしてきたことは、逆説的に綱領に従ってきたと言えなくもないだろう。
>勤倹誠実の校風を尊重して、よい個性を養いましょう。
勤倹誠実とは、「あらゆるものを無駄なく生かしつつ真剣に精進すること」であるが、これには全く外れている。見栄ばかり気にして無駄を重ねて生きてきたようなものだから、教えには完全に背いている。しかし、時間やお金を浪費して来たおからこそ、それを取り戻そうと、それどころかもっと無駄ができるようにと日々真剣に精進してきた、と言うこともできるから、これこそ人生のアイロニーだ、などと軽口の一つも叩きたくなる。まさしくこのチャランポランさが私の本質であり、これでよくもまあやって来れたものだと自分でも不思議に思える。これを個性と呼べば呼べなくもないだろうが、決してよい個性などではないから、この綱領からは完全に逸脱してしまったようだ。
>平和日本の有要な社会人となりましょう。
有要な社会人とは、「優れた個性を持ち固い信念を貫き、報恩感謝の念をもって社会のために貢献できる人」のことだそうだ。そこまでの聖人君子しか有要な社会人と呼べないならば、私などにはとてもそんな資格はない。先にも書いたように、優れた個性など持ち合わせていない。固い信念を貫くことも逆説的にしかできない。しかし、報恩感謝の念をもってというのには自信がある。妻は「あなたなんか他人に何でもやってもらって当然だと思っている人だ」などと私を非難するが、そんなことは決してない。彼女は、私が10の善行を施したとしても、ただ1度だけの過ちで全てをご破算にして、ずっとその過ちを非難し続ける女だから、私の謙虚な心を全く理解していない。人から受けた恩は決して忘れることなく、その恩に報いるため最大限の努力をするよう常に心掛けている。しかし、なにせ私はいい加減さが人間の姿をしているような男であるから、他人には私の真情をなかなか理解してもらえない。それもまた己の不徳の致すところであるから甘受しなければならないだろう。
結局、三綱領に掲げられた理念とも言うべき目標を、この年になってまだ半分も達成できていないようだ。全く情けない話である。しかし、このまま生きていってもとても到達できるような目標でもない。少しレベルを下げて身の丈に合った、私家版三綱領を下に掲げ、これからの指針とすることにする。
・奥様を敬い、信頼される夫となりましょう。
・謹厳実直の生き方を体現し、優秀な塾生を育てましょう。
・平和日本の安全な運転手となりましょう。
・明照殿を敬い、信念ある人となりましょう。
・勤倹誠実の校風を尊重して、よい個性を養いましょう。
・平和日本の有要な社会人となりましょう。
卒業後30年近く経った現在、果たして私は三綱領の掲げる人間に一歩でも近づくことができたであろうか。1つ1つ検証してみる。
>明照殿を敬い、信念ある人となりましょう
明照殿とは浄土宗系の学園の象徴であり、阿弥陀仏を中心に同窓先輩や関係物故者
の霊を祀る殿堂のことである。しかし、振り返ってみて、私はどこにその建物があったのか判然としない。宗教という授業が毎週1回あったが、かったるくて真面目に聞いていなかったためほとんど記憶に残っていない。したがって、明照殿どころか何らかの偶像崇拝はもとより宗教とは全く縁のない衆生として生きてきた。さらには、何か一つの特定の考えに縛られることなく、常に自由な心を持ち多面的な物の見方をするように心がけてきた。勿論これが実践できてきたかは非常に心もとないが、1つの信念に囚われることなく生きていこうとという考えを自らのバックボーンとしてきたことは、逆説的に綱領に従ってきたと言えなくもないだろう。
>勤倹誠実の校風を尊重して、よい個性を養いましょう。
勤倹誠実とは、「あらゆるものを無駄なく生かしつつ真剣に精進すること」であるが、これには全く外れている。見栄ばかり気にして無駄を重ねて生きてきたようなものだから、教えには完全に背いている。しかし、時間やお金を浪費して来たおからこそ、それを取り戻そうと、それどころかもっと無駄ができるようにと日々真剣に精進してきた、と言うこともできるから、これこそ人生のアイロニーだ、などと軽口の一つも叩きたくなる。まさしくこのチャランポランさが私の本質であり、これでよくもまあやって来れたものだと自分でも不思議に思える。これを個性と呼べば呼べなくもないだろうが、決してよい個性などではないから、この綱領からは完全に逸脱してしまったようだ。
>平和日本の有要な社会人となりましょう。
有要な社会人とは、「優れた個性を持ち固い信念を貫き、報恩感謝の念をもって社会のために貢献できる人」のことだそうだ。そこまでの聖人君子しか有要な社会人と呼べないならば、私などにはとてもそんな資格はない。先にも書いたように、優れた個性など持ち合わせていない。固い信念を貫くことも逆説的にしかできない。しかし、報恩感謝の念をもってというのには自信がある。妻は「あなたなんか他人に何でもやってもらって当然だと思っている人だ」などと私を非難するが、そんなことは決してない。彼女は、私が10の善行を施したとしても、ただ1度だけの過ちで全てをご破算にして、ずっとその過ちを非難し続ける女だから、私の謙虚な心を全く理解していない。人から受けた恩は決して忘れることなく、その恩に報いるため最大限の努力をするよう常に心掛けている。しかし、なにせ私はいい加減さが人間の姿をしているような男であるから、他人には私の真情をなかなか理解してもらえない。それもまた己の不徳の致すところであるから甘受しなければならないだろう。
結局、三綱領に掲げられた理念とも言うべき目標を、この年になってまだ半分も達成できていないようだ。全く情けない話である。しかし、このまま生きていってもとても到達できるような目標でもない。少しレベルを下げて身の丈に合った、私家版三綱領を下に掲げ、これからの指針とすることにする。
・奥様を敬い、信頼される夫となりましょう。
・謹厳実直の生き方を体現し、優秀な塾生を育てましょう。
・平和日本の安全な運転手となりましょう。
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流しそうめん
問題集を作るためには、事務室にこんなに物が散乱していたら、とても気合を入れて取り組むことができない、まず掃除をして気分を一新することから始めようと思い立った。問題集やら塾の書類やら、自分なりにどこに何があるかは分かっているつもりだが、いざとなるとなかなか取り出せないで困ることが多い。常に整理しておくに越したことはないと、10分ほど動いていたら、戸棚から大学時代の写真が一枚出てきた。それは入学してまだ間もない頃、「野草を食べる会」の新歓ハイクなる催しで、貴船川で流しそうめんを行ったときの写真だった。大学にいた頃の写真はほとんどなく、この写真ともう一枚、同じ日に鞍馬神社の山門前で皆と並んでとった写真があったがはずだが、見当たらない。見つかったのは、私と女子会員が二人で取った写真だから、いくらなんでもこんな写真を載せるわけにはいかない。集合写真があれば、載せたのにと少し残念である。代わりに山門の写真を載せておく。
もう30年近くも前のことなので記憶も定かではないが、「野草を食べる会」という名にふさわしい活動を私がしたのはこれ一度きりなので、思い出すことを少し記してみる。
京福叡山線に出町柳から乗って、終点鞍馬で降りた私たち総勢15人ほどの「野草を食べる会」会員は、手に手に流しそうめんをするための道具を持っていた。そうめん、醤油、箸、お椀はもちろんのこと、そうめんを茹でるための大鍋を抱えた者もいた。傍目から見れば異様な集団であったことだろうが、大学生と言うのは集団でいれば他人のことなど何も気にしない、困った奴らであるのは今も昔も変わらない。ワイワイがやがや騒ぎながら、他の参拝客の迷惑も顧みず、山門の階段に全員で並んで、ハイポーズ。今なら酔っ払っていなけりゃできない愚行が、当時は平気でできたのは、懐かしいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。それからは鞍馬山の山道を貴船まで登ったり降りたりしていくのだが、これがかなりきつい。ゆっくり時間をかけて行けばさほどでもないかもしれないが、若い奴らは気がせいて半分競走のようにしながら行くものだから、いくら若いと言っても終いにはしんどくてたまらなくなる。枕草子に、
近くて遠きもの 宮のべの祭。 思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。 師走のつごもり、正月のついたちのほど。
(百七十段)
と書かれているように、かなりの道のりだ。確かに、大晦日と元日ではただの一日だけの違いに過ぎないのに、全くかけ離れた日に思えてしまう。情愛のない親戚兄弟も近くて遠い存在だ。直線距離にすればそれ程でないにしても、山道の幾重にも迂曲した道は、歩くにはかなりの体力が要る。しかしそれがいい運動になって、貴船につく頃にはかなりお腹がすいていた。
そうめん流しと風流な名前を冠していても、実体はさっと茹でたそうめんを流れの細い傍流に流し込んで、競争のようにして箸でつかまえて食べるだけのことだ。若い女の子が何人かいれば当然のようにキャーキャー騒ぎ立てるから、風流などとは全くかけ離れたもになってしまう。箸でつかまえきれずに下流に流れていくそうめんやら、慌ててこぼしたおツユなどで川はもうぐちゃぐちゃ、心ある人に見られたらきっと怒鳴られたことだろう。それとも馬鹿な大学生がやる狂乱にまともに相手しても損だと思われたのかもしれないが、なんとか叱られずに済んだのは、今思えば冷や汗物だ。一応終了してから、後片付けはしたと思うから、周囲の美観をそれ程は損なわずに帰って来たと思うが、それにしても大学生でなくてはとてもできない乱行だった。
この行事の後で、女性会員は潮が引くようにいなくなってしまったから、「野草を食べる会」は単なる麻雀サークルになってしまった。それも当然のことかもしれないが、こんな馬鹿を今は自分の娘が毎日やっているかと思うと心配になってくる。でも、それも後しばらくの間しかできないことだから、大いに楽しめばいいと思っている。
もう30年近くも前のことなので記憶も定かではないが、「野草を食べる会」という名にふさわしい活動を私がしたのはこれ一度きりなので、思い出すことを少し記してみる。
京福叡山線に出町柳から乗って、終点鞍馬で降りた私たち総勢15人ほどの「野草を食べる会」会員は、手に手に流しそうめんをするための道具を持っていた。そうめん、醤油、箸、お椀はもちろんのこと、そうめんを茹でるための大鍋を抱えた者もいた。傍目から見れば異様な集団であったことだろうが、大学生と言うのは集団でいれば他人のことなど何も気にしない、困った奴らであるのは今も昔も変わらない。ワイワイがやがや騒ぎながら、他の参拝客の迷惑も顧みず、山門の階段に全員で並んで、ハイポーズ。今なら酔っ払っていなけりゃできない愚行が、当時は平気でできたのは、懐かしいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。それからは鞍馬山の山道を貴船まで登ったり降りたりしていくのだが、これがかなりきつい。ゆっくり時間をかけて行けばさほどでもないかもしれないが、若い奴らは気がせいて半分競走のようにしながら行くものだから、いくら若いと言っても終いにはしんどくてたまらなくなる。枕草子に、
近くて遠きもの 宮のべの祭。 思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。 師走のつごもり、正月のついたちのほど。
(百七十段)
と書かれているように、かなりの道のりだ。確かに、大晦日と元日ではただの一日だけの違いに過ぎないのに、全くかけ離れた日に思えてしまう。情愛のない親戚兄弟も近くて遠い存在だ。直線距離にすればそれ程でないにしても、山道の幾重にも迂曲した道は、歩くにはかなりの体力が要る。しかしそれがいい運動になって、貴船につく頃にはかなりお腹がすいていた。
そうめん流しと風流な名前を冠していても、実体はさっと茹でたそうめんを流れの細い傍流に流し込んで、競争のようにして箸でつかまえて食べるだけのことだ。若い女の子が何人かいれば当然のようにキャーキャー騒ぎ立てるから、風流などとは全くかけ離れたもになってしまう。箸でつかまえきれずに下流に流れていくそうめんやら、慌ててこぼしたおツユなどで川はもうぐちゃぐちゃ、心ある人に見られたらきっと怒鳴られたことだろう。それとも馬鹿な大学生がやる狂乱にまともに相手しても損だと思われたのかもしれないが、なんとか叱られずに済んだのは、今思えば冷や汗物だ。一応終了してから、後片付けはしたと思うから、周囲の美観をそれ程は損なわずに帰って来たと思うが、それにしても大学生でなくてはとてもできない乱行だった。
この行事の後で、女性会員は潮が引くようにいなくなってしまったから、「野草を食べる会」は単なる麻雀サークルになってしまった。それも当然のことかもしれないが、こんな馬鹿を今は自分の娘が毎日やっているかと思うと心配になってくる。でも、それも後しばらくの間しかできないことだから、大いに楽しめばいいと思っている。
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本当のことを言おうか!
大江健三郎に「万延元年のフットボール」という小説がある。ずいぶん昔に読んだきりなので、内容はほとんど忘れている。ただ、語り手「蜜」の弟であり、物語における主人公である「鷹」がたった一度だけ発する「本当のことを言おうか!」というあの呪文のような言葉だけは、強烈な印象を残したものとしてはっきりと覚えている。この言葉に続いて彼がどんなことを述べたのかは覚えていないだけに、なんでまた、と思わないでもないが、突然発せられた「本当のことを言おうか!」という言葉の重さが、否応なく私の心に鳴り響いたのであろう。
私は、妻と18歳の時から付き合っているが、その前に一人の女性と一年近く付き合ったことがある。子供の癖に、大人のような付き合い方をして、私の両親にも色々迷惑をかけた挙句、にっちもさっちもいかなくなって別れてしまった。まあ、その頃は遊びたい盛りで、大して心に深手を負ったわけではなかったが、それでも、妻と付き合いだして、時が過ぎていくにつれて、何故か後ろめたい思いが募り始めた。自分はこういうことをして、こんな風に別れた女性がいる、と彼女に告白しなければ、この先付き合っていけないような気がした。今なら、そんな余分なことを言わずとも、平気な顔をするぐらいの厚顔さは身につけてしまったが、18の若造で、確かその頃ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み終えたばかりのだったのも影響したのだろう。「イワンの告白」にえらく心酔して、自分も彼女に洗いざらい告白しなければならない、と半ば強迫観念に襲われて、付き合い始めて1ヶ月くらいで「本当のことを言おうか!」とすべてを話してしまった。
そのときは妻もまだまだ純粋な乙女だったのだろう、「よく教えてくれました」と涙を流してくれた。ああ、正直に話してよかった、とそのときは本当に嬉しく思ったものだが、それから1年もしないうちに、その女性のことでねちねちと攻められ続けた。ああ、言わなけりゃよかったと思うと同時に、乙女もある時期を過ぎると、古狸にも猫又にも変身して行くものだと知った。それ以来、正直に話すばかりが能じゃないぞと、妙な世間知が私を毒してしまった。
言いたいこと、言わねばならぬことがあっても、どうしても言えぬことは誰にでもあるだろう。「本当のことを言おうか!」と言い出せたらどれだけ楽になるか。それを我慢するのが相手のためになるのか、きっぱりと言った方がいいのかは、相手次第だろう。相手を観察して、言うべきか、言わざるべきかを判断しなければならないが、その見極めは至難の業だ。言うべき人には黙っていて、言わないほうがいい人に思わず話してしまう、そんな間違いを犯した経験は誰にでもあるだろう。相手のためを思ってやっても、空回りすることはしばしばだ。
「物言はぬは腹ふくるる業なり」と徒然草にはあるが、確かに包み隠さず思ったことをずけずけと言えたなら、これほどストレスを解消するのにうってつけのものはあるまい。だが、普通の人間にはそんなことは許されない。言いたいことをじっと心に秘めて、行き着くところまで行くしかないだろう。まあ、限界前に爆発することの方が多いんだろうけど。自戒しようっと。
私は、妻と18歳の時から付き合っているが、その前に一人の女性と一年近く付き合ったことがある。子供の癖に、大人のような付き合い方をして、私の両親にも色々迷惑をかけた挙句、にっちもさっちもいかなくなって別れてしまった。まあ、その頃は遊びたい盛りで、大して心に深手を負ったわけではなかったが、それでも、妻と付き合いだして、時が過ぎていくにつれて、何故か後ろめたい思いが募り始めた。自分はこういうことをして、こんな風に別れた女性がいる、と彼女に告白しなければ、この先付き合っていけないような気がした。今なら、そんな余分なことを言わずとも、平気な顔をするぐらいの厚顔さは身につけてしまったが、18の若造で、確かその頃ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み終えたばかりのだったのも影響したのだろう。「イワンの告白」にえらく心酔して、自分も彼女に洗いざらい告白しなければならない、と半ば強迫観念に襲われて、付き合い始めて1ヶ月くらいで「本当のことを言おうか!」とすべてを話してしまった。
そのときは妻もまだまだ純粋な乙女だったのだろう、「よく教えてくれました」と涙を流してくれた。ああ、正直に話してよかった、とそのときは本当に嬉しく思ったものだが、それから1年もしないうちに、その女性のことでねちねちと攻められ続けた。ああ、言わなけりゃよかったと思うと同時に、乙女もある時期を過ぎると、古狸にも猫又にも変身して行くものだと知った。それ以来、正直に話すばかりが能じゃないぞと、妙な世間知が私を毒してしまった。
言いたいこと、言わねばならぬことがあっても、どうしても言えぬことは誰にでもあるだろう。「本当のことを言おうか!」と言い出せたらどれだけ楽になるか。それを我慢するのが相手のためになるのか、きっぱりと言った方がいいのかは、相手次第だろう。相手を観察して、言うべきか、言わざるべきかを判断しなければならないが、その見極めは至難の業だ。言うべき人には黙っていて、言わないほうがいい人に思わず話してしまう、そんな間違いを犯した経験は誰にでもあるだろう。相手のためを思ってやっても、空回りすることはしばしばだ。
「物言はぬは腹ふくるる業なり」と徒然草にはあるが、確かに包み隠さず思ったことをずけずけと言えたなら、これほどストレスを解消するのにうってつけのものはあるまい。だが、普通の人間にはそんなことは許されない。言いたいことをじっと心に秘めて、行き着くところまで行くしかないだろう。まあ、限界前に爆発することの方が多いんだろうけど。自戒しようっと。
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ノンポリ
私が入学した30年ほど前の京大には、まだまだ学生運動の残り火が学内にくすぶっていて、赤いヘルメットを被った集団が堂々と闊歩していた。入学するに当たって、親や親戚の者たちから、「ヘルメットだけは被るなよ」と固く釘をさされていた私は、時計台の前でスピーカーを使ったアジテイションを繰り返す一団を、横目で見ながら無関心を装っていた。『二十歳の原点』『されどわれらが日々』など、当時の若者が一度は感化される書物もしっかり読んでいたが、いざヘルメットを被った人々を目にすると、私との時代感覚のずれが感じられ、何を今頃と思わずにいられなかった。
学内のそんな様子も冷静に見始められるようになったある日、授業の開始を待って雑談していた私達の教室へ赤ヘルの集団が入ってきて、何か叫びながらビラを配り始めた。私の前に体格のいいひげ面で熊のような男がやって来て、私にビラを差し出した。『いらない。』と返す私を遮って、『受け取れ』と押し返してきたのに一瞬ムッとなった私は『受け取らないのも自由だろ。』と、怖いもの知らずの勢いで応戦した。すると、その熊男がいきなり私の胸ぐらをつかんで、『お前は******』と意味不明の言葉を大声でがなりたて始めた。その迫力に気おされて、生来小心者の私は、何も言えずに立ち尽くすだけだったが、様子に気付いた熊男の仲間が飛んできて、彼を押さえて私から引き離してくれた。私はといえば、カッコ悪いやらびっくりするやらで、ただ目を白黒させていただけだった。それ以来、こんなファナティックな人物がいる集団には絶対に近づくまいと心に誓って、いたって軟派な学生になってしまったが、大学生活で初めて受けた洗礼として、今でも鮮明に記憶に残っている。
何故こんなことを持ち出したかといえば、8月30日に衆議院議員選挙が公示されたからである。私は今まで一度も特定の政党を支持したことのない、ただのノンポリオヤジだが、私がこうなった原点として、上に述べた体験がトラウマのようになって、政治に関心を持てなくなったと言ったら、ムシのいい言い分けになってしまうだろうか。今回の選挙が、郵政民営化の是非を問う国民投票的な選挙であることくらいは、いかな私でも知っているし、地元の選挙区で誰と誰が立候補したかくらいはちゃんと把握している。勿論、投票にはいくつもりだし、今までだって棄権したことはほとんどない、権利を主張するためには義務を果たさなければならないことは分かっているから。
でも、でもなんだよなあ。投票したい、応援したいと思える候補者がいない。選挙公約を見れば立派なことを言っているし、それなりの努力もしてくれているのだろう。でも、魅力ある候補者がいない。ならば、今の私にとって魅力ある候補者とはどんな人なんだろう・・・
それは、この夏休みに朝から深夜まで必死になって働いて納めさせていただく、文字通りの私の血税を、大事に無駄なく、有効に使うことを約束してくれる人物に決まっている。『ほんとうに、税金がきつくて・・・』などと愚痴を言っても始まらない。ただ、少しでも私達のためになる政治をしてくれる人が、一人でも多く当選することを願うのみである。
学内のそんな様子も冷静に見始められるようになったある日、授業の開始を待って雑談していた私達の教室へ赤ヘルの集団が入ってきて、何か叫びながらビラを配り始めた。私の前に体格のいいひげ面で熊のような男がやって来て、私にビラを差し出した。『いらない。』と返す私を遮って、『受け取れ』と押し返してきたのに一瞬ムッとなった私は『受け取らないのも自由だろ。』と、怖いもの知らずの勢いで応戦した。すると、その熊男がいきなり私の胸ぐらをつかんで、『お前は******』と意味不明の言葉を大声でがなりたて始めた。その迫力に気おされて、生来小心者の私は、何も言えずに立ち尽くすだけだったが、様子に気付いた熊男の仲間が飛んできて、彼を押さえて私から引き離してくれた。私はといえば、カッコ悪いやらびっくりするやらで、ただ目を白黒させていただけだった。それ以来、こんなファナティックな人物がいる集団には絶対に近づくまいと心に誓って、いたって軟派な学生になってしまったが、大学生活で初めて受けた洗礼として、今でも鮮明に記憶に残っている。
何故こんなことを持ち出したかといえば、8月30日に衆議院議員選挙が公示されたからである。私は今まで一度も特定の政党を支持したことのない、ただのノンポリオヤジだが、私がこうなった原点として、上に述べた体験がトラウマのようになって、政治に関心を持てなくなったと言ったら、ムシのいい言い分けになってしまうだろうか。今回の選挙が、郵政民営化の是非を問う国民投票的な選挙であることくらいは、いかな私でも知っているし、地元の選挙区で誰と誰が立候補したかくらいはちゃんと把握している。勿論、投票にはいくつもりだし、今までだって棄権したことはほとんどない、権利を主張するためには義務を果たさなければならないことは分かっているから。
でも、でもなんだよなあ。投票したい、応援したいと思える候補者がいない。選挙公約を見れば立派なことを言っているし、それなりの努力もしてくれているのだろう。でも、魅力ある候補者がいない。ならば、今の私にとって魅力ある候補者とはどんな人なんだろう・・・
それは、この夏休みに朝から深夜まで必死になって働いて納めさせていただく、文字通りの私の血税を、大事に無駄なく、有効に使うことを約束してくれる人物に決まっている。『ほんとうに、税金がきつくて・・・』などと愚痴を言っても始まらない。ただ、少しでも私達のためになる政治をしてくれる人が、一人でも多く当選することを願うのみである。
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