【5月5日投稿分】
今月(5月)の13日は、拙僧爺様の祥月命日(立ち日)、当年で34回忌。この日は、拙僧兄の誕生日、1年365日もあるのに、何故、ピンポイントでその日に。檀家の中にも結構、この様な『月、日(家族の誕生日に、家族の立ち日など)の偶然』って、結構あるんですよね。「私の事を、忘れてくれるなよ」という事なのかな、家族に所縁の日に旅立って逝かれたは。
第二次世界大戦中、満州に渡り、事業(土建業)をしていた拙僧爺様(明治41年生まれ)。満州国政府奉職時代の三原朝雄(明治42年生まれ。文部大臣、防衛庁長官など)さんとはその頃からの縁で、日本に帰ってからも度々、福岡県遠賀の事務所に足を。拙僧が車の免許を取ってからは、拙僧の運転で何度か、三原朝雄さんの事務所へ。2人(三原さん、爺様)並んで座っていると『えっ、ここって、怖い事務所なの』という感じでしたね。爺様は満州より帰国後、北九州で起業した『山本工作所』を横で支え、その配下で『三友工業』を起業。伴侶の婆様は、満州時代から爺様に散々苦労(金銭に加え、飲む、打つ、買う)を強いられ、晩年は『江戸の仇は長崎で』と言わんばかりに、爺様を痛ぶり倒しておりましたね。
因みに、徳川慶喜公が、大正2年にご他界された時、拙僧爺様は5歳。自分の爺様が子供時代に、慶喜公(徳川15代将軍)が生存されていたなんて、何とも不思議な感覚ですよね。
さて、その爺様が平成2年、83歳で他界を。病院から戻ると、婆様は爺様の亡骸にしがみ付いて大泣きを。当時27歳だった拙僧は『ほう、あれ程に爺様をいじめ倒していたに、やっぱり夫婦、悲しいんだな』と。葬儀には、600人程の会葬者が。その中には「満州で親方(爺様)に命を助けられました」という中国人の方が3人ほど。葬儀の会葬者数を見ると、その人がどんな生き方をしてきたか、一目瞭然にて。1000人近くの葬儀を勤めてきた拙僧には『会葬者数と故人の生き様は比例する』は、確かなものかな、と。恩を受けた人達は、必ず『有難うございました』と、お礼に足を運んで来られます。通夜、葬儀、初七日の取り上げ法事が終わり、親戚一同がそれぞれ自宅へと帰宅し、いつも通りの家族だけになると、婆様はそそくさと爺様の写真(遺影)を箪笥の中に片付け「迎えに来られちゃ、堪らんわい。これからが、私の人生じゃ」と。拙僧、唖然として『あんた(婆様)、さっきまで泣いてたんとちゃうんか』と心の中で。やっぱ、女性は生き物が違う。檀家さんの中でも、奥様が先立つと、そう時間を待たずに旦那さんが、後を追っていくケースは、少なからず。が、旦那さんが先立つと、奥様は確実に、10年は若返る。世界各国において、平均寿命は例外なく、女性の方が男性よりも長い。わかる様な気がする。
爺様が他界して1年後、お寺のお手伝いさん(爺様の会社の従業員だった女性。お寺での勤務は約30年)の夢の中に爺様が出てきて『婆さんを連れて行く』と。お手伝いさんは咄嗟に『爺ちゃん、3年待って』と嘆願。すると爺様が、生前の時の様な強い口調で『3年やな。二言はないな』と。見事、その3年後、婆様は爺様の住むあの世へ。婆様の葬儀の時、お手伝いさんが「あの時、夢とはいえ、何で私、10年って、言わなかったんだろ」と落ち込んで。対し、拙僧「あなたが口に出した『3年』が、婆さんの寿命だったんじゃないの」と。
余談ですが、爺様と婆様には、山ほど面白いエピソードが。拙僧が書いた『爺様、婆様、おもろ話』の1つ『長崎鼻論争』は、30年程前に、どこぞの出版社に取り上げられ、感動本の片隅に掲載して頂きました。その話が以下の話です。
突然に爺様が大声を張り上げ、玄関の戸が壊れんばかりに開けて外へ。2階にいた拙僧夫婦(当時、拙僧25歳、妻21歳)は、1階へ降りていき「どうしたの。また、喧嘩したんね」と言うと、婆様が「爺さんがな、会社の社員を連れて、鹿児島県の長崎鼻へ社員旅行に行ったと言うんでな、『アホか。長崎にあるから、長崎鼻と言うんじゃ。知識がないから、嘘がバレろうが」と言うと、怒って出ていったわい」と。「婆ちゃん。長崎鼻という地名は、全国に8箇所ほどあって、鹿児島県でも正解なんだよ」と教えると「ほう、そんなこったいかい」と、だけ。夕方になると婆様は、境内地をウロウロと。どうも、出ていった爺様が心配みたいで。しばらくして、そそくさと婆様が家の中へ戻って来る様を見て、拙僧夫婦『爺様が帰ってきたんだな』と。その爺様の手には、何やら大きめの本が。地図帳であるは、容易にわかった。玄関の戸を壊れんばかりに開けたかと思うと、大きな足音を立てて、婆様の居る仏間へ一直線に。地図帳を見開き「見てみい。長崎鼻は、鹿児島じゃろうが」と鼻息荒く大声で爺様、勝ち誇った様に。だが、婆様は、その地図を見ようともせず「あんたがそう思うんなら、思えばいいじゃろ」と一蹴。その婆様の返しに爺様は言葉も出ず、荒い鼻息の音だけが部屋に。その夜、また、下の部屋から「痛い。よく見て切らんか。何度言えばわかるんじゃ」と婆様の声が。覗きに行ってみると、左半身付随(多少は動く)の婆様の爪を、爺様が切ってあげている姿が。
【おまけ】
拙僧爺様は、生涯において、50組以上の仲人を。拙僧に「昔も今も、若者が結婚に尻込みするは、そうは変わらん。不安に思う心は同じ。今と昔の差は、世話する人間の有無。30歳を過ぎても子供が独身は、親が売って回らんと買い手はつかん」と。若い頃は拙僧「凄い言い方だな」と思っていたが、昨今『親活(独身の子供の代理で、子供の結婚相手を見つける会)』が方々で立ち上がってる様を見ると、爺様が言ってた事だ、と。
次回の投稿法話は、5月10日です。投稿写真の達磨大師は、金剛寺の客殿に置かれていますが、我が爺様にそっくりにて。亡き人の悪口言うも、また、供養。忘れ去るが、1番あかん。年忌法要(3回忌、7回忌など)は、故人への御礼報謝にて。