【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】 いよいよ、令和5年の船出となりましたね。今年こそは、どこもかしこも、納まってくれると有り難いですね。人類は分相応に生きるを基本に。
【 明けまして、おめでとうございます。本年も拙い法話ですが、お許し頂けますれば、どうか、お付き合いの程、宜しくお願い申し上げます。正月三ヶ日は、お盆三ヶ日と同義(先祖さんの帰郷)にて、元日はそれに因んだお話をば 、一席 】
年始(今日、1月1日の早朝6時頃)に訪れた檀家若者(男性20代)が「昨今、前世って、あるのか、ないのか、の話題が時折出てきますが、住職はこれを聞かれた時、どの様に答えてるんですか」と。「まずは『知らんがな、前世にも還った事ないし、あの世にも逝った事がないから』と。が、それでは余りにも無責任な回答なんで『じゃ、自然の理屈から、考えてみることにしようかね』とお話を。
続けて、この若者に「オギャーと生まれた時が、全くの『0』から始まるとするならば、皆、生まれた時点は平等で、環境が同じでなければ『この差はいったい何なのよ』と当然、文句を言いたくなりますわな。平和な国、戦争の国。五体満足、五体不満足。優しい親、虐待する親。裕福家庭、貧困家庭と、生まれた途端に『はい、これが、あなたがこれから背負っていく荷物』と目の前に身に覚えのない、地獄、極楽が」と。
更に、若者に「思えば、自分の人生を振り返ってみた時、してきた事、やってきた事、の結果(答え)が今、ここにあるだけ。病気、災害、については『そうかな』と疑問に思う事もあるが。まあ、大半は、この理(ことわり)が目を閉じるまで続くかな。それを考えると『前世でやってきた事の答えが、オギャーと生まれた目の前にある』と考える方が自然なのかな。と、なれば『この世でやった事の精算場所(地獄、極楽)もある』と考える方が、これまた、自然なのかな、と。これが、嘘か誠か、なんて事は、人間は前世にも後世にも行けないのでわかりませんが、この方便を子供達に話すと、見事に生活態度に変化が出てきますもんね。勿論、拙僧の檀家の子供達に限っての事、ですがね」と。
更に、この若者に拙僧「檀家の子供達に『閻魔って、ほんとにいるの』と度々聞かれるが、対し『いたら、どうするや。死んだ後、もし本当に閻魔がいたら。その時はもう、間に合わんぞ。死んだ後、本当に閻魔がいても慌てない様に、この世におる内に、親や祖父母、友達や色んな人に対し、親切にしてたらどうや。嘘をつかず、誤魔化しなどせず、正直に、懸命に、生きていったらどうや。されば、死んだ後、もし、閻魔がいたとしても、堂々と会えるだろ』と。この言葉は結構に影響が大きい。子供だけでなく、閻魔など信じない大人にも。これも一種の危機管理能力の育成かな」と。
最後に、この若者に「この閻魔の話を15年程前、年忌法要に参拝していた中学生の男の子に話した事が。その子供は中学2年の3学期まで、学校でシンナーやるは、先生に注意されると暴れ回るは、と。ところが、この地獄極楽の話を聞いた後、徐々に生活態度が改善を。中2まで全く勉強してないので、その時点では当然、行く高校などないと言われていたが、1年間、懸命に勉強し、私立の進学校に。その後は、東京の有名大学へ。就職が決まった時、1人でお寺にやって来て『住職。あの日の、あのたった1日のご縁がなかったら、私は恐らく、とんでもない人間に。今考えてもゾッとします。お礼が遅れましたが、有難うございました』と御礼報謝に」「そっか。そうなんだよな。前世に、地獄、極楽、か。あるとか、ないとか、そんな事にとらわれる話じゃないんだよね。この話、方便としては、最高に面白い話ですよね。今年の計が決まりました」と。
わが寺の境内から見た、令和5年の初日の出。