今日は6月30日、前半が終了し、これから後半が始まる。地元の三輪神社が昨日と今日、夏越の大祓を行っているので、用意された人形の半紙に自分の名前を書き、さらに古くなったお札等を持って出かけた。外は生憎の大ぶりと平日の昼間とあって、お参りも私の他には一人だけだった。そして茅の輪くぐり、今年は新型コロナの収束を願い、早くから設置してあったが、本来はこの日のためのもの。茅の輪を8の字に3回ほどくぐり、今年は終了。子どもの頃は歳の数だけ回ったが、今やそんなことはできない。三輪神社は地区の中核となる施設である。元旦祭に始まり、節分までは良かったが、コロナのため今まで経験したことのない春の大祭の中止があった。伝統的な行事ができないと地域の活性化や住民同士のつながりの確認といったことも厳しくなってくる。
お参りがいない!!
神社から配られたチラシ
少し話題を変える。新聞によるとコロナのため、生活保護受給申請が増えているらしい。災害や疫病は、貧しくなっている日本の国民に大きな影響を及ぼすことは容易に想像できる。生活保護の受給は、本来受給できるはずの国民の2割しかされていない。本来、最後のより所(最近、高齢者にとって最後のより所は刑務所だと言われている。また、働ける女性にとっての最後のより所は風俗営業という人もいる。)であるはずの制度であるのだが、行政による受給させないための水際作戦と受給者側にある烙印(英語で言うとスティグマ)を押してしまうような制度となっているため、不正受給者を除くと簡単には申請できない。そして、日本では「自己責任」を強調するような世間、それをうまく利用する政府があるので、受給者への風当たりは強い。
例えば、不安定な就労状態にあった国民が、コロナによって失職したとしよう。もし、彼か彼女が失業手当がもらえるならば、それで食いつなぎながら、新しい職を探すが、現状では簡単には見つからない。貯金もなくなれば、もう万事休すである。これを誰も自己責任だと言う人はいないだろう。しかし、その前の不安定就労を自己責任だと言う人は結構多いかもしれない。本人の低学歴、あるいはコミュニケーションスキルが十分でないなど。しかし、本人の育った家庭が貧困で、親等との愛情ある関係が作れなかったとしたらどうであろうか。このように考えれば考えるほど、安易に「自己責任」だと片付けることはできなくなる。もちろん、社会が悪いのだと一方的に考えるの問題で、その答えはその両極端の合い間の膨大な領域にあると考えるべきだろう(これではほとんど答えにはならないが)。
ヤシャ・モンク著「自己責任の時代」を読んだ。抽象的な議論にはほとんどついていけなかったが、具体的な話になると少し理解できた。自己責任ということが盛んに言われるようになったのは、福祉国家の見直しが進んだ頃で、右派だけでなく左派も自己責任ということを言い出した。以前左派は福祉受給者を完全に弱い立場にあるものと見なす傾向が強く、人間が生きる上で大切な責任を無視することが多かったという。
本文中から引用する。
レーガンは、「私たちは法が破られたとき、罪を問われるべきは法を破ったものでなく社会なのだという考えを捨てなければなりません。今こそ誰もが彼の行動の結果に責任を負うという米国流の原則を蘇らせるときなのです」
英国労働党は、何十年にもわたり貧困の除去を犯罪減少に向けた最重要の政策提言とみなしてきたが、トニー・ブレアは「犯罪に屈せず、犯罪の原因にも屈しない」と約束した
バラク・オバマは、全黒人の子どもの半数以上が一人親家庭で生活していると述べ、父親に「責任は妊娠とともに終わるのではないことを認識する」よう求めた
運平等主義者によると、政治は市民が道徳的責任を負わない事柄、すなわち差異の影響から市民を保護すべきである。しかし、差異を生み出す運の影響はいたるところに存在する。それゆえ、政治は全時間と全労力を奪われかねない課題に直面している。
訳者解説から 近年の平等主義的リベラリズム派の言論活動や研究が、自己責任論の促す援助からの撤退を食い止めようとするあまり、窮状に陥った人々の自律の能力そのものを低く見積もろうとする戦略をとってきたを著者は手厳しく批判している。
何でも自己責任という風潮に無性に腹が立つので、読んでみたのだが、難しすぎて未消化のまま終わってしまった。自分の頭の悪さ、これも自己責任か?
お参りがいない!!
神社から配られたチラシ
少し話題を変える。新聞によるとコロナのため、生活保護受給申請が増えているらしい。災害や疫病は、貧しくなっている日本の国民に大きな影響を及ぼすことは容易に想像できる。生活保護の受給は、本来受給できるはずの国民の2割しかされていない。本来、最後のより所(最近、高齢者にとって最後のより所は刑務所だと言われている。また、働ける女性にとっての最後のより所は風俗営業という人もいる。)であるはずの制度であるのだが、行政による受給させないための水際作戦と受給者側にある烙印(英語で言うとスティグマ)を押してしまうような制度となっているため、不正受給者を除くと簡単には申請できない。そして、日本では「自己責任」を強調するような世間、それをうまく利用する政府があるので、受給者への風当たりは強い。
例えば、不安定な就労状態にあった国民が、コロナによって失職したとしよう。もし、彼か彼女が失業手当がもらえるならば、それで食いつなぎながら、新しい職を探すが、現状では簡単には見つからない。貯金もなくなれば、もう万事休すである。これを誰も自己責任だと言う人はいないだろう。しかし、その前の不安定就労を自己責任だと言う人は結構多いかもしれない。本人の低学歴、あるいはコミュニケーションスキルが十分でないなど。しかし、本人の育った家庭が貧困で、親等との愛情ある関係が作れなかったとしたらどうであろうか。このように考えれば考えるほど、安易に「自己責任」だと片付けることはできなくなる。もちろん、社会が悪いのだと一方的に考えるの問題で、その答えはその両極端の合い間の膨大な領域にあると考えるべきだろう(これではほとんど答えにはならないが)。
ヤシャ・モンク著「自己責任の時代」を読んだ。抽象的な議論にはほとんどついていけなかったが、具体的な話になると少し理解できた。自己責任ということが盛んに言われるようになったのは、福祉国家の見直しが進んだ頃で、右派だけでなく左派も自己責任ということを言い出した。以前左派は福祉受給者を完全に弱い立場にあるものと見なす傾向が強く、人間が生きる上で大切な責任を無視することが多かったという。
本文中から引用する。
レーガンは、「私たちは法が破られたとき、罪を問われるべきは法を破ったものでなく社会なのだという考えを捨てなければなりません。今こそ誰もが彼の行動の結果に責任を負うという米国流の原則を蘇らせるときなのです」
英国労働党は、何十年にもわたり貧困の除去を犯罪減少に向けた最重要の政策提言とみなしてきたが、トニー・ブレアは「犯罪に屈せず、犯罪の原因にも屈しない」と約束した
バラク・オバマは、全黒人の子どもの半数以上が一人親家庭で生活していると述べ、父親に「責任は妊娠とともに終わるのではないことを認識する」よう求めた
運平等主義者によると、政治は市民が道徳的責任を負わない事柄、すなわち差異の影響から市民を保護すべきである。しかし、差異を生み出す運の影響はいたるところに存在する。それゆえ、政治は全時間と全労力を奪われかねない課題に直面している。
訳者解説から 近年の平等主義的リベラリズム派の言論活動や研究が、自己責任論の促す援助からの撤退を食い止めようとするあまり、窮状に陥った人々の自律の能力そのものを低く見積もろうとする戦略をとってきたを著者は手厳しく批判している。
何でも自己責任という風潮に無性に腹が立つので、読んでみたのだが、難しすぎて未消化のまま終わってしまった。自分の頭の悪さ、これも自己責任か?