家内との間で終活が時々話題となる。もちろん、短いし、きちんとした結論が出るわけではない。
わたしは、一人になっても自立できている間は自宅にいたいと言う。これに対し、家内は適当な施設があれば入りたいと言う。
わたしは現在料理をしない(家内が働いていて、わたしが無職だったたった一年間だけ自分と母のために簡単な昼食を作った)。二人の妹の旦那はどちらも料理をするので、家内からたまには作ったらと言われる。
「適当な施設」を見つけることはなかなか難しい。まして、自立が出来ている間に探した方が良いと言われても、どうして探したら良いのか分からない。有料老人ホームだと、入居費が高い上に介護状態になる、あるいは病気になると出て行かなければならない(入居金は戻って来ない)
約3年前に「我が家の介護問題」(21.12.20)と題して記事を書いた。
介護問題は実は自分の問題でもある。ある日、身体が思うように動かなくなり、誰かから介護を受けなければならなくなる。きっと私たち世代の多くは子どもに頼ることはできないであろう。一方、日本の現状は公的な介護に頼ることができなくなりつつある。できれば「ぴんぴんころり」でできるだけ人様のお世話にならずに人生を閉じることができたら最高だろうと思っている。掛け合い漫才のように。連れ合いとは「俺が先だ、いや私が先だ」などと言い合ってはいるが、そんなことわかるはずはないのである。ただし、足腰の鍛錬だけは怠らないようにしようというのが今の心境だ。足が衰えると寝たきりになる、そうすると不本意に長生きしてしまうかもしれない。死ぬ一日前にも歩いていたと言われたい。
それから約3年経ち、母親は特養入所を経て昨年8月に亡くなった。
いよいよ自分たちの番がきたのである。もちろん時期は不明である。だからなかなか真剣な話し合いとはならない。話し合いは夫婦だけでは足りない。離れて暮らす息子や娘との話し合いも必須であろう。
県図書館で何気なく見つけた本が森田洋之著「うらやましい孤独死」である。
著者は一橋大学を出てから宮崎医科大学にすすみ医者になった。研修医を経験し、財政破綻した夕張市で4年間村上智彦医師(破綻前171床の市民病院が19床の診療所となった時の運営責任者)のもとでプライマリーケア(一次医療)について学んだ。
書名から見ると、一体どんなことが書いてあるのかとても興味を惹いた。「孤独死」って「うらやましい」ものなのかってね。
この本のエキスはほとんどまえがきに書かれている。
「孤独を美化するものでない」
「それまでの人生が孤独ではなく、いきいきいした人間の交流がある中での死であれば、たとえ最期の瞬間がいわゆる孤独死であっても、それはうらやましいとも言えるのではないか」
「さらに言えば、孤独死を過度に恐れるあまり、独居高齢者が容易に施設に収容されてしまう風潮にも一石を投じたいとも思っている」
「人間がかかる最も重い病気は「孤独」である
「万一何かあったら心配、一日でも長生きして欲しいといった本人に良かれと思ってだれもがとる行動が、じつは高齢者を孤独に追いやっている」
「好きなものを食べたい、自由に外出したい、死ぬ前にもう一度自宅に帰りたい、そんな人間として当たり前の希望を願っても仕方がないと口に出すことも出来ない、そうした高齢者を数多く見てきた。安全、安心の呪縛から高齢者の生活を解放する、いわば現代の医療システムへのアンチテーゼがうらやましい孤独死」
この本にはうらやましい孤独死を実践した普通の高齢者が大勢いる。その中の一つの例をあげる。夕張市内に住む90歳を超えたおばあちゃんで足腰の衰えはあったが、頭脳は明晰。腎臓が弱ってしまい通常なら人工透析の対象となる。その場合入院しての治療が必要となるが、市内には病院がない。おばあちゃんには、ご主人がやはり人工透析を受けながら次第に寝たきりとなり病院で最期を迎えた経験があった。おばあちゃんは人工透析を拒み、在宅ケアを受けることになった。水分を排出することができないので、次第にむくんできたが、彼女自身苦しんでいる様子はない。食事も少しずつ食べられるし、ゆっくりとしかもにこやかに会話することができた。こうして最期まで自宅で生活しながら2週間後亡くなった。
「医学的正解(人工透析)」と「その人の人生にとっての正解」、この二つをどうすり合わせるかが現場で悩むことと著者は打ち明ける(科学的正解を優先したばかりの失敗例が数多くある)
夕張市では病院がなくなった。その影響で何が起こり、何が起こらなかったか。高齢化率は50%を超えた(破綻とは関係ない)が総死亡率は変わらなかった。病死が減り、その代わり老衰死が増えた(病院に入院すると何らかの病名がつく)。救急出動が半減し、一人当たりの高齢者医療費も減った。夕張市の医療の責任者の村上医師の努力(それまでなかった24時間対応の在宅医療、訪問介護の創設、24時間随時対応の訪問介護などなど)がなされた結果であるが。
著者の医師人生⒉回目の衝撃があった。すなわち多くの研究の結果「病院の存在や非存在」と「住民の死亡率」との間に因果関係はないという事実だった。
病床数にこれだけ違いがあるが、病院が多い県ほど死亡率が低いわけではない。
日本は、人口当たり世界一の病床数(米英の5倍)、CT、MRIの保有数も世界一(米英の5倍)、外来受診も世界2位。ふくれあがる医療費が問題なら、世界一と言われる日本の病院、病床数を減らせばいい。
※世界一の病床数、新型コロナの患者数も少ないのに病床逼迫の危機に陥った。また、高齢者医療が高騰しているからと、75歳以上の患者負担を増やそうとしている。
世界では日本よりも病院、病床が少ない代わりに、地域密着の医療が根付いている。
日本の医療は、在宅医療はもちろん、救急医療でさえ、患者の大半は高齢者であり、もはや医療の大部分は慢性期医療という名の「高齢者ビジネス」となっている。これが本当に高齢者のためになっているのか。
まえがきでも触れたが、日本では社会的孤立度が高く、孤立は喫煙と同じくらい健康リスクがある。日本の高齢者(75~79歳)は、地域の活動に参加する人の割合がドイツ、スウェーデンの半分、同居の家族以外に頼れる友人がドイツ、スウェーデン、アメリカの半分以下となっている。この孤立が健康を阻害するだけでなく、最期の迎え方にも大きな影響を与える。うらやましい老後に続く「理想的な死」を迎えるための必要条件が地域社会とのつながりであると考えている。イギリスの医療では、患者の医療的な問題が孤独や社会的孤立から発生していることが予想された患者を地域のコミュニティにつなぐ処方箋を医師が発行する(日本でも病院ソーシャルワーカーが自宅や社会とつなぐ機能を持っているが、プライマリーケアの医師ではない)
在宅医療は今や日本でもかなり普及してきている。しかし、個々の地域を見ると安心できるような体制にはなっていない。地域医療に懸命に取り組んでいる医師等の例を本やテレビで見るたびに気持ちは揺れている。 地域とのつながりは様々なイベント、老人会などのクラブの活動も減ってきている感じがする。
わたしは、一人になっても自立できている間は自宅にいたいと言う。これに対し、家内は適当な施設があれば入りたいと言う。
わたしは現在料理をしない(家内が働いていて、わたしが無職だったたった一年間だけ自分と母のために簡単な昼食を作った)。二人の妹の旦那はどちらも料理をするので、家内からたまには作ったらと言われる。
「適当な施設」を見つけることはなかなか難しい。まして、自立が出来ている間に探した方が良いと言われても、どうして探したら良いのか分からない。有料老人ホームだと、入居費が高い上に介護状態になる、あるいは病気になると出て行かなければならない(入居金は戻って来ない)
約3年前に「我が家の介護問題」(21.12.20)と題して記事を書いた。
介護問題は実は自分の問題でもある。ある日、身体が思うように動かなくなり、誰かから介護を受けなければならなくなる。きっと私たち世代の多くは子どもに頼ることはできないであろう。一方、日本の現状は公的な介護に頼ることができなくなりつつある。できれば「ぴんぴんころり」でできるだけ人様のお世話にならずに人生を閉じることができたら最高だろうと思っている。掛け合い漫才のように。連れ合いとは「俺が先だ、いや私が先だ」などと言い合ってはいるが、そんなことわかるはずはないのである。ただし、足腰の鍛錬だけは怠らないようにしようというのが今の心境だ。足が衰えると寝たきりになる、そうすると不本意に長生きしてしまうかもしれない。死ぬ一日前にも歩いていたと言われたい。
それから約3年経ち、母親は特養入所を経て昨年8月に亡くなった。
いよいよ自分たちの番がきたのである。もちろん時期は不明である。だからなかなか真剣な話し合いとはならない。話し合いは夫婦だけでは足りない。離れて暮らす息子や娘との話し合いも必須であろう。
県図書館で何気なく見つけた本が森田洋之著「うらやましい孤独死」である。
著者は一橋大学を出てから宮崎医科大学にすすみ医者になった。研修医を経験し、財政破綻した夕張市で4年間村上智彦医師(破綻前171床の市民病院が19床の診療所となった時の運営責任者)のもとでプライマリーケア(一次医療)について学んだ。
書名から見ると、一体どんなことが書いてあるのかとても興味を惹いた。「孤独死」って「うらやましい」ものなのかってね。
この本のエキスはほとんどまえがきに書かれている。
「孤独を美化するものでない」
「それまでの人生が孤独ではなく、いきいきいした人間の交流がある中での死であれば、たとえ最期の瞬間がいわゆる孤独死であっても、それはうらやましいとも言えるのではないか」
「さらに言えば、孤独死を過度に恐れるあまり、独居高齢者が容易に施設に収容されてしまう風潮にも一石を投じたいとも思っている」
「人間がかかる最も重い病気は「孤独」である
「万一何かあったら心配、一日でも長生きして欲しいといった本人に良かれと思ってだれもがとる行動が、じつは高齢者を孤独に追いやっている」
「好きなものを食べたい、自由に外出したい、死ぬ前にもう一度自宅に帰りたい、そんな人間として当たり前の希望を願っても仕方がないと口に出すことも出来ない、そうした高齢者を数多く見てきた。安全、安心の呪縛から高齢者の生活を解放する、いわば現代の医療システムへのアンチテーゼがうらやましい孤独死」
この本にはうらやましい孤独死を実践した普通の高齢者が大勢いる。その中の一つの例をあげる。夕張市内に住む90歳を超えたおばあちゃんで足腰の衰えはあったが、頭脳は明晰。腎臓が弱ってしまい通常なら人工透析の対象となる。その場合入院しての治療が必要となるが、市内には病院がない。おばあちゃんには、ご主人がやはり人工透析を受けながら次第に寝たきりとなり病院で最期を迎えた経験があった。おばあちゃんは人工透析を拒み、在宅ケアを受けることになった。水分を排出することができないので、次第にむくんできたが、彼女自身苦しんでいる様子はない。食事も少しずつ食べられるし、ゆっくりとしかもにこやかに会話することができた。こうして最期まで自宅で生活しながら2週間後亡くなった。
「医学的正解(人工透析)」と「その人の人生にとっての正解」、この二つをどうすり合わせるかが現場で悩むことと著者は打ち明ける(科学的正解を優先したばかりの失敗例が数多くある)
夕張市では病院がなくなった。その影響で何が起こり、何が起こらなかったか。高齢化率は50%を超えた(破綻とは関係ない)が総死亡率は変わらなかった。病死が減り、その代わり老衰死が増えた(病院に入院すると何らかの病名がつく)。救急出動が半減し、一人当たりの高齢者医療費も減った。夕張市の医療の責任者の村上医師の努力(それまでなかった24時間対応の在宅医療、訪問介護の創設、24時間随時対応の訪問介護などなど)がなされた結果であるが。
著者の医師人生⒉回目の衝撃があった。すなわち多くの研究の結果「病院の存在や非存在」と「住民の死亡率」との間に因果関係はないという事実だった。
病床数にこれだけ違いがあるが、病院が多い県ほど死亡率が低いわけではない。
日本は、人口当たり世界一の病床数(米英の5倍)、CT、MRIの保有数も世界一(米英の5倍)、外来受診も世界2位。ふくれあがる医療費が問題なら、世界一と言われる日本の病院、病床数を減らせばいい。
※世界一の病床数、新型コロナの患者数も少ないのに病床逼迫の危機に陥った。また、高齢者医療が高騰しているからと、75歳以上の患者負担を増やそうとしている。
世界では日本よりも病院、病床が少ない代わりに、地域密着の医療が根付いている。
日本の医療は、在宅医療はもちろん、救急医療でさえ、患者の大半は高齢者であり、もはや医療の大部分は慢性期医療という名の「高齢者ビジネス」となっている。これが本当に高齢者のためになっているのか。
まえがきでも触れたが、日本では社会的孤立度が高く、孤立は喫煙と同じくらい健康リスクがある。日本の高齢者(75~79歳)は、地域の活動に参加する人の割合がドイツ、スウェーデンの半分、同居の家族以外に頼れる友人がドイツ、スウェーデン、アメリカの半分以下となっている。この孤立が健康を阻害するだけでなく、最期の迎え方にも大きな影響を与える。うらやましい老後に続く「理想的な死」を迎えるための必要条件が地域社会とのつながりであると考えている。イギリスの医療では、患者の医療的な問題が孤独や社会的孤立から発生していることが予想された患者を地域のコミュニティにつなぐ処方箋を医師が発行する(日本でも病院ソーシャルワーカーが自宅や社会とつなぐ機能を持っているが、プライマリーケアの医師ではない)
在宅医療は今や日本でもかなり普及してきている。しかし、個々の地域を見ると安心できるような体制にはなっていない。地域医療に懸命に取り組んでいる医師等の例を本やテレビで見るたびに気持ちは揺れている。 地域とのつながりは様々なイベント、老人会などのクラブの活動も減ってきている感じがする。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます