城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

思い出語るムクの樹 20.7.3

2020-07-03 17:52:16 | 地域のこと他
 将来のことを書くのが段々と難しくなった。誰もが将来に不安を抱き、明るい夢を描くのが難しくなってきたからである。そこで、新聞に出た一つの記事をきっかけにして、以下の話をすることにした。7月1日付け中日新聞の西濃版にあった「枯死から守れ子ら奮闘」。揖斐小学校卒業生ならだれでも知っている校内にあるムクの樹(親しみを込めて木ではなく「樹」と書く)についての話だ。記事によると、ムクの樹が老木となり、弱った姿を見せていた。そのことに心を痛めた当時6年生の生徒が募金のためテレビ番組の30人31脚競走に優勝賞金目指して挑んだが、惜しくも3位となり優勝を逃した。その後PTAなども動き、集まったお金で樹木医などによる治療の結果、再び元気な姿を見ることができるようになった。この話地元に住んでいたにもかかわらず、治療の話は聞いていたが、募金の話は知らなかったことを白状しよう。

 中日新聞西濃版の記事 最近コロナのせいかこのようなご当地記事が多くなったような気がする
 新聞そのものを若者は読まなくなった。読む層は中高年齢者が多い。中にはすみからすみまで読む人もあると聞くが、おじさんは忙しい?のでさっと見るだけ
 若者はもっぱらネットニュースだそうだが、そこにある記事の多くが、新聞記事の転載。新聞がなくなると、あとは検証が難しい記事ばかりにならないか?


 今日のムクの樹と校舎 その奥に毎日登る城台山

 1962年撮影のムクの樹(小学校アルバムから) 当時樹のまわりの囲いはない
 木造の校舎このあと鉄筋(おじさんの子ども達が通った)そして現在の校舎
 撮影の時期は冬(葉がない、後方に見える山々は白くなっている)真ん中の樹木があるところは三輪神社  

 おじさんが一年生 教室をしょっちゅう抜け出すような手がかかる子であった
 当時の担任の先生の娘さんが今ご近所に住んでみえる(お母さんからおじさんのことを聞いていたらしい!!)
 当時子どもの中には青ばなをたれていた者もいた(栄養事情も悪かった) 

 おじさんが四年生 場所はおじさんがいつも登っている男坂
 この坂も含めて、城台山一帯はおじさん達の遊び場で、当時まだ煮炊きにシバや枯れ葉などが使われ、山の中は自由に歩くことができた
 やがて、人の手が入らなくなり、松も枯れ、灌木が茂り、今や自由に歩くことはできなくなった

 最後に校歌 二番にある歌詞「思い出語るむくの木よ」

 おじさんは、1949年の生まれ。家は貧しかった(まわりも貧しかったので相対的貧困ではない。今は6人に一人が相対的貧困状態!)が、未来は明るかったと言えるだろう。高度成長、東京オリンピックを経て、いつのまにか先進国の仲間入り。確かに親世代よりも豊かになった。さて、これからどうなるのであろうか?

 毎週金曜日城台山で会うKさん、Oさん、Mさんいつもブログを見てくれてありがとう。感想が何よりも有難い。これからもよろしくお願いします。
  

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3 コメント

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懐かしい~ (せいちゃん)
2020-07-05 06:52:14
涙が出そうになるくらい懐かしい!
祖母も親父も私も子供たちも揖斐小出身です
城台山の山腹で中井先生と撮った写真
あの頃 君も僕も幼かったね~
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Unknown (ブン太)
2020-07-04 08:51:29
拝読しています💦
返信する
Unknown (ブン太)
2020-07-04 08:48:49
おはようございます。
いつも楽しみに拝見しています。
よろしくお願いします。(M)
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