つれないネ、西日さん。 赤々と日は難面(つれなく)秋の風 芭蕉(おくのほそ道・金沢)
句郎 「赤々と日は難面(つれなく)も秋の風」。この句の前書きに「途中唫(ぎん)」とある。唫は吟でいいと思う。難しい字を書いているね。間違ったのかな。
華女 漢和辞典を調べてみたら「唫」という字はあったわ。
句郎 でも「途中唫(ぎん)」という熟語はどうなの。
華女 漢和辞典にはそのような熟語は無かったわ。「途中吟」でいいんじゃないかなと思うわ。
句郎 「途中吟」とあるからどこからどこへ行く途中で詠んだのか、いろいろ議論があったみたいだ。
華女 どこからどこへの途中で詠んだのかしら。
句郎 途中吟という点では「那古の浦」から「金沢」への途中なのか、それとも「金沢」から「小松」への途中かということだと思う。途中吟でなく、「金沢」で詠んだという主張もあるようだ。
華女 「金沢」で詠んだという主張は金沢に至る途中で句が出来て、金沢で書きとめたということかしら。
句郎 そうじゃなく、金沢の「立意庵」で秋の納涼俳諧を捲いた。その発句が「赤々と日は難面(つれなく)秋の風」であったという主張のようだ。
華女 曾良の「俳諧書留」に記録されているの。
句郎 この「赤々と日は難面(つれなく)秋の風」と言う句は曾良の「俳諧書留」に記載されていない。
華女 どうしてこの句が金沢の「立意庵」で秋の納涼俳諧を捲いた際の発句だということが分かるの。
句郎 文化年間というから芭蕉が亡くなっておよそ百年後、豊島由誓が筆記した『俳諧秋扇録』にこの句が載っているからのようだ。
華女 句郎君、詳しいわね。
句郎 そんなことないよ。図書館で借りてきた金森敦子著の『「曾良旅日記」を読む』の中に書いてあるんだ。
華女 街道をテクテク歩いている時に感じたことを詠んだ句のように思うわ。
句郎 そうだよね。「赤々と日は難面(つれなく)も」というのは西日に照り付けられて歩いている時に芭蕉が感じたことじゃないかと思うよね。
華女 そうね。晩夏の夕日、赤い夕陽でなく、煌々と照る夕日よね。照り輝く西日よ。
句郎 暑いあつい夕陽の中を歩いていると突然一筋の風に涼しさを感じる。この涼風に秋を感じるという句だと思う。
華女 古今集にあったわね。
句郎 藤原敏行の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という歌の事かな。
華女 そうよ。この歌よ。芭蕉はこの歌が頭にあったのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな。今の暦で立秋の頃はとても暑いからね。
華女 表現されていることは同じね。
句郎 表現されていることは同じあっても、俳句と和歌の違いがあるように思う。
華女 どんな違いがあるの。
句郎 「赤々と日は難面(つれなく)も」と芭蕉は表現している。この言葉の特に中七の「難面(つれなく)も」という言葉に俳句の味わいある。人情がないなぁーと、いう気持ちが表現されている。ここに俳句があるように思うんだけれどね。
華女 泣き言をいう自分を笑っているということね。
句郎 そうだよ。愚痴っているんだ。愚痴を言う自分を笑う。これが俳句というものなんじゃないかと思う。
華女 私もそう思うわ。和歌と俳句は違うわね。