醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 118号  聖海

2015-03-13 11:19:17 | 随筆・小説

  酒宴は無礼講。無礼講だから楽しめる。
       無礼講だからそこに新しい文芸が生まれた。
             芭蕉の俳諧は無礼講から生まれた。

「明日はかたきに首送りせん」        重五
「小三太(こそうだ)に盃とらせひとつうたひ」芭蕉
「月は遅かれ牡丹ぬす人」         杜國

 41歳の秋、芭蕉は門人の千里を伴い『野ざらし紀行』に結実する旅をしている。その途上、名古屋に立ち寄り、この地の俳人たちと俳諧・歌仙を捲いた。
 江戸・大坂という大都市の出現は同時に大消費地の出現だった。商品・貨幣経済が隆盛していく時代が元禄時代へと向かう時代である。商人の経済力が大きくなるにしたがって町人の文化が花開いていく。その一つが古今集誹諧歌(はいかいか)に起源をもつ俳諧であった。俳諧の宗匠がやってくるとその地の風流人たちが宗匠を取り巻き、俳諧を捲いた。日本各地を旅して歩く宗匠を囲み俳諧を捲くことは商人たちにとって情報を得る場でもあったし、人脈を築く機会でもある。商人にとって情報はお金である。商人が風流を求めて俳諧の席に連なることは日本各地の情報を得、人脈を築く席でもあった。
 負け戦だ。明日には討死だろう。その時は、わが首を敵に送ってやろうじゃないか。名古屋の風流人、重五は野水が詠んだ五七五の長句に勇士の無念の思いを七七の短句に詠んだ。この句に対して芭蕉は近習の小姓を呼び、杯を取らせ、勇士の無念の思いを主従睦あって詠おうではないかと詠んだ。酒宴での謡とは風流ですな。月が煌々と照るのはまだ早い。今、牡丹が満開じゃないか、なんと豪華で華やかなことか。月の出る前、この牡丹を盗みたい思う人の気持ちが分かるなぁー。
 厳しい身分差別があった江戸時代にあって、主が近習の小姓を同じ座敷に招き入れ、盃を伴にすることがあったのであろうか。芭蕉は伊賀上野藤堂藩に仕えた農民出身の無足人であった。芭蕉に与えられた仕事は台所で調理する職務であった。一切の手当のない賤しいものと蔑まれた者が主の座敷に連なることなんて絶対にない。
 しかし、不思議なことに俳諧の席は別であった。武士と農民、町人が同じ座敷に席を共にするのだ。俳諧という芸能の世界にあっては別なのだ。句の上手な人を認める。能力が身分の差別を乗り越えるのだ。芭蕉は俳諧に生きる希望を見出した。句を上手に詠むことが武士身分の者から敬われることを実感した。芭蕉は古い因習に縛られている京・大坂ではなく、新開地江戸に望みを託した。身分ではなく、能力が意味を持つ俳諧に生きる力が満ちることを実感していた。
 武家社会にあっては主君と臣下の者が座敷を同じくし、睦み合って酒を楽しむことはないが、町人の世界にはあり得る。この町人の世界が武家社会の俳諧の世界に笑いとして実現した。「小三太(こそうだ)に盃とらせひとつうたひ」と芭蕉は詠んだ。ここに今までにない感覚がある。これは笑いである。笑いだからこそ受け入れられた。新しい世界が俳諧、笑いとして出現した。
 元禄時代の町人の文化を表現したのが芭蕉の俳諧であった。