カラオケや酔いを楽しむ春の宵 聖海
「北の漁場はよぉー╍╍」トンちゃんが北島三郎の歌を唄い始めた。隣りで話をして、トンちゃんの唄を聞かないでいると「黙って聞け」と怒る。話を止めて聞いているふりをしているとトンちゃんは気持ちよくいつまでも唄い続ける。
「トンちゃん、うまくなったね」
「これ、かけてっからよ」
トンちゃんは人差し指の先と親指の先を結び、円を作る。トンちゃんとセイちゃんがこの居酒屋でカラオケ好きの双璧をなしている。どんな唄でも唄う。どの唄を唄っても同じ節である。歌詞が違うだけである。
トンちゃんが居酒屋に入ってくるなり、ママにお土産を渡す。畑でとれたナスであったり、トマトであったり、枝豆であったりする。
「いつも悪いわね」
ママは感謝の言葉を返す。
「いや、いいんだよ。どうせ、余ったものは腐っちゃうんだから。食べてもらった方がいいんだよ。オヤジも悦んでいるんだから」
「もう、ご主人さんは定年になってどのくらいになるの」
「三年だよ。何の趣味もない人、唯一の楽しみが野菜作りなんだから。息子も娘も家じゃ、ほとんどご飯食べないんだから、私とオヤジの二人じゃ、余っちゃうんだよ」
「いいご主人じゃないの」
「酒も飲まない堅物でね、面白味が何もない人なんだから」
トンちゃんはママと話をしている。カラオケの厚い本のページを繰りながら、また新しい唄を唄い始める。トンちゃんはコンビニに卸すおにぎりや惣菜を作っている会社で働いている。深夜の勤務も若い頃はしていたが今は午後四時には仕事を終える。
「主婦だからよ、オヤジのご飯作らなくちゃなんねーからよ、買い物してきたんだ」
一時間半ぐらい、慌ただしく大ジョッキでビールを飲み、ウーロンハイを飲む。ツマミにお刺身を一皿食べる。その間にカラオケをする。三・四曲を唄う。
化粧っ気が何もないトンちゃんの顔を見ると眉毛が美しい。
「トンちゃん、眉毛、綺麗だね」と言うと、トンちゃんは顔を隠してしまった。
「オレ、恥ずかしってよ」ときまり悪そうな笑い声をあげた。
「何が恥ずかしいのよ、もう、眉毛、描かなくっていいんだから、良かったじゃないの」。ママが声をかけた。
ママが生真面目な顔をする。
「眉毛を彫ってもらったんだよ、ママが行くべ、と言うからサァー、オレもいいかなと思ってママと一緒に昨日、行って来たんだよ」
「良い形に彫れているでしょ、トンちゃん、ほとんど眉毛無かったんだから、ちょうど良かったじゃない」
何が良かったのか、サッパリ分からないような顔をトンちゃんはしたが頷いていた。トンちゃんは唄い、食べ、飲むと慌ただしく夕餉の材料を抱え、帰っていく。後姿を見るとズボンがパンパンに膨れている。コンクリートの床の上を絶えず冷たい水が流れている処で作業をしている。「股引は二枚穿かないと冷えちゃうんだよ」と言っていたトンちゃんを思い出した。
禿げ上がった頭にいつも手拭を巻いているカシラと一緒になるとトンちゃんのメートルは上がる。いつも一時間半を超えることないトンちゃんがカシラと一緒だと時間を忘れてしまう。カシラは焼酎一本を空ける。裕次郎の唄を情緒一杯、想いをこめて唄う。飲み仲間からアンコールの声がかかる。トンちゃんは一所懸命手を叩き、カシラと一緒に酔いを楽しむ。