醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 134号  聖海

2015-03-28 10:18:56 | 随筆・小説

   心には四月の朝陽満ちにけり  聖海 
             定時制高校に青春があった

 大衆食堂に私の大学があった。毎日、定時制高校の授業が終わり校門を出ると仲間と大衆食堂に行った。そこで政治や哲学、文学の話をした。1960年代はそのような時代だった。革新思想が大衆の心を捉えた時代だった。
 千葉県野田市市議会議員Fさんは昭和36年中学を卒業、K食品株式会社に入社した。当時、中学卒業と同時にK食品株式会社に入社できる人は選ばれた数少ない人だった。隣近所の人から羨ましがられた若者だった。
 K食品会社は中卒の従業員が高卒の資格が得られるよう援助していた。4時に仕事を終え、高校への登校を保証した。Fさんは4時半には高校の校門をくぐった。学校には優秀な生徒が数多くいた。勉強の好きな同窓には有名大学に進学した人がいた。
 定時制高校の授業が8時に終わると級友や先輩、時には先生と一緒に大衆食堂の暖簾をくぐった。夕食を兼ね、たまにはビールやお酒を飲むことがあった。今では考えられないことである。この夕食が楽しかった。ここで学んだことが本当の勉強だった。生きた学問だった。
 昭和37年、F村村長を経て、野田市市議会議員であったSさんがN市長に立候補した。それまで野田市の市長はK食品会社の関係者が市長をしていた。野田氏はK食品会社の企業城下町だった。SさんはK食品会社とは何の関係もない人であった。市民は誰もSさんが市長に当選するとは思わなかった。ところが投票開票が進むにしたがって市民の間に驚きが広がって行った。Sさんの票数がグングン伸び、市長に当選してしまったのだ。
 野田市助役経験者の対立候補を破り、社会党候補のSさんが市長に当選した。野田市民はこの選挙結果に驚嘆した。Fさんが定時制高校一年生の時の大きな出来事だった。革新市長誕生の熱気が校内に満ちていた。この熱気はまた1960年代の日本の熱気でもあった。Fさんは生徒会役員に立候補した。文化祭では定時制高校の在り方についての討論会を企画・運営した。勉強の在り方、学問の在り方について討論したかったのだ。食堂での夕飯は討論の場でもあった。遅くとも10時には終え、自転車で夜道を一時間かけて家路についた。木枯しが吹く向かい風を受けても心の中は寒くなかった。Fさんの未来は輝いていた。
 昭和41年の市長選が凄かった。Fさんは高校を卒業し、K食品会社労働組合青年部の役員になっていた。K食品会社はS市長の対立候補としてK食品会社重役経験者を立候補させた。会社を挙げて、打倒Sをめざした。K食品会社の労働組合は会社と対立してS候補支持を表明、応援した。FさんはS候補当選を目指し、奮闘した。会社と組合が全面対決した激しい戦いだった。野田市内の商店街、町内会が色分けされた。看板が立て替えられ、ポスターが剝され、張り替えられる。夜間にはそのため夜通し警備員が付いた。この活動を通じて政治活動としての選挙運動の洗礼を受けた。政治活動の面白さを実感した。
 Fさんは大衆食堂で学んだ社会学がその後の人生を決めたように感じている。10代の後半、実感として学んだこと、人々の生活向上のために働くことが自分の生きる目標になった。1960年代の時代の潮流が同時にFさんの背中を押した。Fさんは政治家への道を歩み始めた。K食品会社労働組合選出の市議会議員候補として立候補し、当選した。それから7期野田市市議会議員として活躍した。