醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 110号  聖海

2015-03-05 10:56:54 | 随筆・小説
 
 
 秋の風はなぜ白いの
       石山の石より白し秋の風 芭蕉(おくのほそ道・那谷寺)

 この句は取り合わせの句なの、それとも一物仕立ての句なのかな。ある人は一物仕立ての句だと述べるだろう。さる人は取り合わせの句じゃないのと述べるだろう。私はこの句を一物仕立ての句じゃないかなと思っている。これは私の主観だ。俳句の解釈に客観的な真実というものがあるのかな。
 古くから取り合わせの句だ。いや一物仕立てだと主張する意見があるようだ。問題は「石山」にある。この「石山」がどこの「石山」かが問題なのである。一方は近江の「石山寺」の石山だと主張する者がいる。他方は那谷寺にある石山だろうと主張する。
 石山を近江の石山寺だと解釈すると那谷寺の石は近江の石山の石より白い。そこを秋風が吹いている。このような意味になる。「石山の石より白し」と「秋の風」とを取り合わせた句だと解釈する。この解釈は「付きすぎ」だという批判が聞こえてきそうである。このような主張に対して「石山」は那谷寺の石山だと読むと那谷寺に吹く秋の風は石山の石より白いという意味になる。これは一物仕立てということになるだろう。
 芭蕉は那谷寺の石山を見て、詠んだ句なのだから一物仕立ての句だと読むのが自然だなと私は感じる。それとも芭蕉は那谷寺の石山を見て、こりゃ、本当に白いなぁー、透き通るような白さだ。近江、石山寺の石より白いじゃないかと曾良と話し合ったのかもしれない。事実はどうだったのか、今から三百年前のその場に行くことができない以上、永遠にわからない。現在の私たちにできることはこの句の意味を解釈し、どちらの解釈がより「秋風」の真実を表現しているかということに尽きるようだ。
 芭蕉が私淑した西行は秋風を次のように詠んでいる。
おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 『新古今集』
 秋風はどのような人にも物を思わせる不思議な力があるなぁー。人は秋風に吹かれるとどうして物思いにしずむのだろう。
夏目漱石が痔の手術で入院したときに次のような句を詠んでいる。
秋風や屠られに行く牛の尻
暗黒に世界に引っ張られていく自分の後ろ姿をもう一人の自分が見ているなぁー。錦と輝く紅葉は秋風に散る。真っ暗闇の冬に向かって輝きは透明な白い世界に変わり、やがて漆黒の世界に至る。秋の真実は透明な白い世界なのだ。「屠られに行く牛の尻」に白い世界を漱石は感じた。「秋風」の白さを漱石は表現している。
 内田百は秋風を次のように詠んでいる。
欠伸して鳴る頬骨や秋の風
 齢を重ね、欠伸をしても頬骨がなるようになってしまった。老いとは色気が無くなっていくね。秋の風に吹かれ暗闇の向こうには透明な白い世界が待っているような気がするなぁー。
内田百は「欠伸して鳴る頬骨や秋の風」と秋風の白さを詠んでいる。
秋風に吹かれると今まであったものがなくなっていく。その無常を人は感じる。今まで常にあったものが失われていく、その哀しみの気配に気づくのが秋の風なのかもしれない。
 石山の石より白し秋の風
取り合わせの句だと解釈すると「石」の白と「秋風」の白とが近づきすぎて、表現された世界が小さくなってしまう。那谷寺に吹く秋風は石山の石より白い透明な風だと宇宙へと広がっていく世界が表現される。きっと芭蕉は大きな宇宙を表現したのではないだろうか。

  ここまで読んでいただきありがとうございました。明日も書きたいと思っています。私は書くことが今日という日を慈しむと思っています。私の文を読んでくれたあなたにとっても今日という日が慈しまれるよう祈っています。