「や」は切字じゃないの
今日よりや書付消さん傘の露 芭蕉(おくのほそ道・山中)
句郎 これは俳句だというためには三つの条件があると山本健吉は言っている。華女さん、知っている?
華女 私に知っているとは、失礼じゃないの。
句郎 そうだったね。まず第一には季語だよね。
華女 俳句は季語ね。俳句を楽しむには季語の知識が必要だと思うわ。
句郎 二つ目は「切れ」だね。「切れ」があると韻文としての余韻が出て来るように感じるからね。
華女 そうね。「古池や蛙飛込む水のをと」を「古池に蛙飛こむ水のをと」じゃ、俳句にならないわね。
句郎 三つ目は何だったったけ。
華女 何なの。私、知らないわ。
句郎 うん。思い出したよ。「諧謔」じゃなかったかな。
華女 「笑い」ということなの。
句郎 そうなんじゃないかな。俳句は江戸庶民の文芸として生まれてきたものだからね。庶民の生活には「笑い」がないとやってられないなと、生きる辛さみたいなものが庶民にはあるからそれらのことを笑いたいということなんじゃないかと思うんだけれど。
華女 句郎君が今日、問題にしているのは「切れ」でしよう。「今日よりや書付消さん傘の露」。この句の「切れ」について句郎君は何か、問題でもあると思うの。
句郎 「や・かな・けり」という言葉は代表的な切字だよね。「や」の字のところで「切れ」ていると鑑賞するのが普通だよね。「今日よりや /書付消さん傘の露」と解釈していいと思う。
華女 そうよね。それでいいじゃないの。そう解釈したら問題なの。
句郎 長谷川櫂氏がね、『「奥の細道」をよむ』という本の中で「今日よりや」の「や」より「書付消さん」と「笠の露」の間の「切れ」が深いと述べている。
華女 じゃぁー、この句は「今日よりや書付消さん」と「笠の露」との間で切れていると主張しているのかしら。
句郎 その通り。でも「今日よりや」と「書付消さん傘の露」との間でも浅い「切れ」があるとも言っている。
華女 この句は三句「切れ」の句なの。
句郎 そうではなく、「今日よりや書付消さん」と「笠の露」との取り合わせの句だと主張している。
華女 そうなのかしら。今日より「笠の露」が笠に書付た文字を消してしまうだろうという句じゃないの。
句郎 華女さんは芭蕉が「金を打延たる如く」と言った一物仕立ての句ではないかということかな。
華女 違うのかしら。
句郎 俳句は読者のものだよ。読者が自由に読んでいいのだから。それが俳句の良さだと思うから華女さんの解釈が間違っているということはないと思う。
華女 そうでしょ。私はそれでいいのじゃないかしら。
句郎 問題は笠に書付た文字が何だったかということだよ。
華女 何も書いてないじゃないの。それはどうしたら分かるの。
句郎 岩波文庫の『おくのほそ道』の注には「同行二人」という言葉だと注釈している。
華女 どうして、そんなことが分かるのかしらね。
句郎 「同行二人」(どうぎょうににん)と読む。この言葉はお遍路さんが笠に書いた。四国八十八か所の霊場を巡って弘法大師は修行した。弘法大師様、と慕う信者たちは大師様と一緒、同行二人と笠に書付け、四国八十八か所の霊場を巡った。これが「同行二人」と笠に書きつける始まりのようだよ。
華女 芭蕉と曾良は陸奥の旅を一種の霊場巡りにあやかった旅だと自覚していたのかしらね。
句郎 芭蕉たちは白装束ではなかったようだけれども、死を懸けた旅であったのは間違いない。
華女 確かにね。
句郎 山中温泉で体を壊した曾良と芭蕉は別れることになった。だから今まで半年近く一緒だった曾良との別れの哀しみを詠んだ句がこの句じゃないかと思う。
華女 分かるわ。曾良との別れ、「同行二人」が「笠の露」、雨だれで消えていくと表現したのね。
句郎 「今日よりや書付消さん」というのは具台的なことではなく、芭蕉の気持ちを表現している。「笠の露」を見た芭蕉はそこに曾良との別れを見たのじゃないかと思う。
読んでいただきあのがとうございました。