醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 117号  聖海

2015-03-12 11:15:02 | 随筆・小説

 良い仲間だ、スポーツだ、 カルタ競技は!

 小倉百人一首の競技カルタは記憶力、精神の集中力、全身の力で行うスポーツである。競技カルタをする者たちは良い仲間・グッド・フェロー、スポーツマン・スポーツウィーメンである。カルタはスポーツであると同時に良い仲間をつくる。知的な遊びだから老化を防ぐ。このように述べるのは全日本カルタ教会元K支部長のTさんである。
 百人一首に「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」という歌があるでしょ。詠み人が「ひさかたの……」というのを聞くのと同時に取札の「しづこころ……」が「ひさかたの……」と一瞬見えるんです。「ひ」で始まる取札は三枚あります。カルタには「決まり字」というのがあります。「ひさ」でこの取札は「しつ」と決まります。競技カルタはスポーツですからね。神経を集中し、体全体で勝負する競技なんです。
 鎌倉時代の初め頃に活躍した歌人に藤原定家がおりましょ。その方の山荘が京都小倉山にあったそうです。嵯峨野の方です。そこで定家が編んだ和歌百首がカルタの起源になっているんです。だから小倉百人一首と言われているわけです。「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」。この歌は定家の有名な歌の一つでしよう。自分が編んだ百人一首に自分の歌の代表作として選んでいるわけですから自信作だったのでしよう。新古今和歌集というものがあるでしょ。その歌集を編んだ人の一人が藤原定家です。新古今和歌集を代表する歌人のようです。「余情妖艶の体」と言われている歌を詠んだ人です。「しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とか、「なまめかしくあでやかなこと」。このような歌を詠んだ人です。
 その定家がいつごろ百人一首を編んだのかを巡っていろいろな説があります。私は1236年という説を信じています。なぜかといいますとね。私は1936年に生まれているんです。私が生まれれるちょうど700年前に小倉百人一首は編まれた。そう信じたいわけです。なかなか面白い理由でしょ。
 現在あるような競技カルタが出来てくるのは明治になってからなんですよ。「熱海の海岸散歩する貫一・お宮の『金色夜叉』」という小説がありましょ。その小説の初めの方にカルタに夢中になる若い女性の話がでてきます。また別の著名な小説家の作家の小説の中では、次のような描写があったことを覚えていますよ。昔のことだから女性は今のような下穿きを身に着けていない。カルタを取るのに夢中になって着物がはだけ、下半身が露わになってもカルタを抱えていたというような話です。娯楽が今のようにあった訳じゃなかったのでカルタは若者の数少ない娯楽の一つだったのでしよう。明治の頃の若者の間でカルタは流行していたのでしよう。
 カルタの取り合いで揉め事になるようなこともあったそうです。そこで黒岩涙香がカルタのルールを作りましたね。それが現在の競技カルタの原型になっているんです。カルタにルールができ、遊びとしてのカルタが若者の間に定着しました。当時、カルタはお見合いの場でもあったそうですよ。今のように男女が自由に付き合う事が難しかった時代てすから。今でも男女が仲良く遊べる面白い競技がカルタだと思いますよ。
 二十歳の頃、私はカルタに興味を持ちましてね。やっていたわけですが、仕事が忙しくなると中々カルタをする機会が持てなくなりました。いつのまにか遠ざかってしまったんです。
 定年退職、近所にカルタをする方がいるのを知りましたね。また始めたようなわけなんです。カルタは老化防止に良いかなと思って楽しんできたんですがね。そのカルタもそろそろ卒業の時期が来ているように感じる年になりました。